藩兵 - みる会図書館


検索対象: 白虎隊―続会津藩燃ゆ
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1. 白虎隊―続会津藩燃ゆ

二本松落城は、同盟軍に重大な打撃を与えた。白河口の防衛に当った仙台藩が、なすところな く、逃げまどい、二本松を見殺しにしてしまったのだ。仙台藩を担い、同盟軍を指揮する坂英カ の決定的な敗北でもあった。 土湯峠から応援に駆けつけた会津藩士辰野源左衛門の一隊は、この姿に我を失なった。 ( いずれ会津が、阿修羅の戦場となる ) 辰野は、二本松の残兵を集めて二本松奪回を図った。しかし、二本松藩兵に戦意はない。ト 銃、弾薬もない。 敵を受け、糧食、弾薬を絶たれたため、再挙を図る必要があり、会津に退いて、米沢を経 こおり て、桑折にでて、仙台国境を固めることにした。 二本松藩は、玉砕した。 仙台藩、会津藩兵の一部も各地で死闘を繰り広げたが、武器、弾薬の補給もなく、一一本松城下 には累々と斃体が横たわり、薩摩兵は、商家に押し入って、掠奪した。そこには三春藩兵の姿も あった。 174

2. 白虎隊―続会津藩燃ゆ

二本松落城 嚀ミ第一ト , まミに , , トを。。 : を言を 戦いは、本宮に移った。阿武隈川を挟んで凄 まじい銃撃戦となった。仙台藩兵も防戦に当っ たが、西軍の砲撃に抗し切れず、二本松藩は一一 十名以上の戦死者を出して敗れた。敗惨の一一本 松藩兵は、血にまみれて城下に戻ってくる。 「三春奴が ! 」 藩兵たちは、口々にののしった。 三春藩の裏切りは巧妙だった。三春重臣の 秋田主税は、三春藩を列藩同盟に加入させなが ら、京都の岩倉具視に通じ、ひそかに同盟離脱 の機会を狙っていたのだ。三春藩の不審な動き に最初に気づいたのは仙台藩のゲリラ部隊鴉組 の細谷十太夫である。 仙台、二本松藩兵が三春に乗り込むと、 みじん 「微塵も同盟離脱の考えはない。援軍を送って ほしい」 と、懇願した。 ちから 167

3. 白虎隊―続会津藩燃ゆ

「あれはなんだ」 とうなばま 東名浜を守備していた仙台藩兵は、小銃をかかえて浜べに走った。旧幕府海軍かも知れない。 しかし違う。外国の旗が船尾に翻っている。 「敵の船だ ! 」 兵士たちは、銃口を向けて、身構えた。 沖合いにびたりと碇泊した汽船から短艇が下され、完全武装の兵士たちが乗り移るのが見え る。短艇を操るのはイギリスの水夫たちだ。仙台藩兵の銃口を見るや、水夫たちは驚いて漕ぐの をやめた。短艇に乗った佐賀藩の軍事係田村乾太左衛門が、抜刀して、水夫たちを怒鳴りつけ、 岸に漕ぎ寄せた。 「何者か ! 」 仙台藩の永沼織之允、山本重之進が兵士たちを取り囲んだ。 「我々は大総督府の命令によって、奥羽に派遣された佐賀藩兵、小倉藩兵である。奥羽鎮撫総督 ー旨たい」 向田村乾太左衛門は大声でいった。 宮佐賀藩、小倉藩というのが仙台藩の判断を狂わせた。薩摩、長州ならば、敵である。 王 ( 佐賀、小倉藩は、はたして敵なのか、味方なのか ) 急報を受けた但木土佐は、迷った。この迷いが、つまずきのもとになる。 , この一隊は、れつき

4. 白虎隊―続会津藩燃ゆ

松蔵は河井を物陰に運ぶと、手ぬぐいを裂いて膝をしばり、兵士たちが急造の担架を作って、 長岡藩の軍病院である昌福寺に移した。 どの顔も沈痛のあまり、声もない。長岡藩兵にとって、河井がすべてなのだ。河井がいなけれ ば戦いにならない。誰が指揮をとり、誰が長岡を考えるのか。越後の戦いは、河井継之助を欠い てはありえない。翌二十六日、長岡城に入った米沢の千坂太郎左衛門、会津の佐川官兵衛らも呆 然とした。 ( 敵兵は一両日中に総攻撃をかけてくるだろう。河井を欠いて長岡の防衛はできない。越後もこ れで終りだ ) 二人の胸に去来するものがあった。 米沢藩は、このときから早くも退却を始める。米沢藩軍事総督千坂太郎左衛門は、絶えず米沢 藩兵の温存を考えている。他国で藩兵を消耗すれば、自国の防衛が不可能になる。そのために攻 撃も消極的で、会津や長岡藩兵との間に不信感も芽生えていた。 「米沢は相手にならん ! 」 よ せ佐川官兵衛は、ときおり口ぎたなくののしった。寄せ集めの同盟軍の悲劇である。 死会津藩首席家老梶原平馬は、米沢の千坂を信じたが、千坂は政治家であり、政略で動く。 潟河井の重傷は、越後の同盟軍を崩壊させた。それを決定的にする西軍の新潟上陸作戦が行なわ れた。同盟首脳がもっとも怖れた新潟港の占領である。 151

5. 白虎隊―続会津藩燃ゆ

の防衛についた。相馬藩も援軍を送った。 六月二十九日、湯長谷、泉を攻めた西軍は、平城に迫った。 同盟軍は、仙台、相馬、米沢、平兵約一千名。米沢藩銃砲隊が目ざましい活躍を見せ、大小 砲を霰のごとく撃ち出して防戦、市街は猛火に包まれ、西軍に重大な打撃を与え、潰走させた。 平潟に防衛陣を張っておけば、西軍の上陸は不可能に近いとおもわれるほど、同盟軍の反撃はす さまじかった。 よっくら 戦いは七月十二日まで、平周辺の小名浜や四倉で行なわれたが、小名浜の戦いで仙台藩兵が敗 れ、中ノ作港から汽船で逃れようとしたが、あいにく干潮のため沖合いの汽船に向った小舟が進 めず、そこを西軍に狙撃された。仙台兵を満載した小舟は、浜べに引き寄せられ、そこへ霰のよ うに銃弾が飛んだ。一瞬にして五十数名が、小舟の上で、撃ち斃された。仙台兵の弱さがここで も露呈した。 七月十三日。朝から一寸先も見えない濃霧だった。霧が晴れたころには、平の市街は西軍で埋 め尽されていた。 こうさか 平藩家老上坂助太夫は、三百の平藩兵を率いて最後の決戦にでた。前藩主安藤信正は、幕府老 中を勤めた大物である。坂下門の変で失脚したが、今更おめおめと薩長の軍門に下ることはでき 仙台兵の姿はなく、米沢藩兵も弾薬が切れて城外に退いた。 120

6. 白虎隊―続会津藩燃ゆ

おお、 仙台藩兵は、いたるところで敗れた。白河の戦いで参謀坂本大炊ら八十名を失い、平の戦いで も実に七十名の戦死者をだした。近代戦の経験のない兵士たちは、耳をつんざく砲声に驚愕し、 銃を捨てて逃げまどい、そこを乱射された。 「無念、無念、盟主仙台の兵、何そ奮わざる」 せっしやくわん 平藩家老上坂助太夫は切歯扼腕したが、白河口でも同じように逃走する兵が続出した。矢吹に 出陣している伊達将監の軍は、命令を無視して戦線を離脱した。 惨 せら 無 「元来、本藩は本末を誤り、総督府参謀世良修蔵を殺害し、朝敵会津と連合して、国家を危うく ただき 台している。この際、官兵と接触し、会津を挟撃するのが第一の策である。但木殿が仙台藩の道を 3 誤ったのだ」 仙台藩無惨 ゃぶき

7. 白虎隊―続会津藩燃ゆ

「なんたることだ ! 」 会津藩兵は、悲憤慷慨し、罵声を浴びせた。奥羽越列藩同盟は瓦解し、仙台藩は盟主の座から すべり落ちたのだ。大鳥圭介もこれを目撃し、愕然とする。 本道より帰れば、道も近いのに、官軍が迫ったと聞いて恐怖し、四、五千の兵がありなが ら間道を潜行するとは、名にしおう仙台兵の所業と一同冷笑した。 大鳥は日記にこのように書いている。 仙台藩は混乱の極にあった。首席家老但木土佐、玉虫左太夫らの作戦はことごとく失敗したの だ。あまりの敗走ぶりに白石に滞在している輪王寺宮も落胆した。このままでは、仙台国境が破 られる日も近い。仙台藩主伊達慶邦直々の出陣しか、仙台藩を奮い立たせる方法はない。 「速やかに御出陣を」 輪王寺宮は仙台藩公に要請した。このため仙台藩兵はようやく福島に踏みとどまったが、とて も二本松奪回作戦を実行する勇気はない。まして、会津支援などできる状態ではない。 仙台藩は複雑に揺れた。帰順論の抬頭である。これに合わせて、西軍からの接渉も開始され た。西軍の狙いは、あくまで会津である。会津を徹底的に攻略するには、同盟を崩壊させ、会 津、仙台、米沢を切りくずし、離反させる必要があった。 176

8. 白虎隊―続会津藩燃ゆ

兵が側面から攻撃に移った。しかし、西軍は二千余の大軍である。会津、一一本松藩兵は、たちま ち凄まじい銃火を浴び、敗走、正面の伝習兵が気づいたときは、両翼を西軍に包まれ、背後にも 敵兵の姿が見えた。 「しまった ! 」 本多や大川は抜刀して、伝習歩兵を叱咜激励、血路を開いて母成峠にたどりついた。伝習歩兵 は死傷者三十名をだす損害を受けてしまったのだ。 会津軍の精鋭は、越後の津川、日光ロの藤原にいる。佐川官兵衛は、鶴ケ城で策を練ってい る。歴戦の士官がいないのだ。まして大鳥不在の最中に戦いが始まってしまった。この夜、大鳥 らは、手をとり合いながらお互いの無事を喜び、戦死した兵たちに涙した。 大鳥の手記『幕末実戦史』によれば、この夜、伝習歩兵は、会津軍の防衛体制の不備に憤怒 「直ちに引き揚げるべきだ」 と、悲憤慷慨したという。 峠会津藩首席家老梶原平馬の危惧が適中したのだ。本来、会津国境の戦いも仙台、米沢藩兵が支 母援し、同盟軍として布陣すべきはずだった。しかし、仙台の主力部隊は去り、米沢も撤兵した。 恨会津一藩で、西軍の破竹の進撃を阻止することは不可能に近い。士官も兵もないのだ。梶原に は、それが判っていた。 し、 199

9. 白虎隊―続会津藩燃ゆ

おのにいまち 二本松藩は三春を信じ、三春国境の小野新町まで精鋭の六番隊を出動させた。ところが三春藩 兵は背後から二本松藩兵に銃撃を浴びせたのだ。同盟列藩にとって、許しがたい醜い裏切りだっ 二本松藩の主力部隊は、三春藩に翻弄され、傷つき、苦悶の死を遂げるなかを、 仙台抜こうか会津をとろうか あすの朝飯二本松 と、気勢のあがる西軍が、三春藩兵の先導で、阿武隈川を渡河し、本宮を占領、一気に二本松 攻撃に向かった。 七月二十七日早朝、二本松城で評定が繰り返された。 降伏か、抗戦か、藩論は割れた。イ 山台藩の主力部隊は、すでに姿を消し、会津、米沢の援軍も 期待はできない。全員玉砕は、明らかだ。 「わが二本松藩は、三春のごとき醜い真似はできん。死して信義を守のだ」 カこの一つ、んは、 丹羽一学は怒鳴っこ。 いかに潔く戦い、官賊に二本松武士の魂を見せるかだ。 「全員の命は預かったそ ! 」 丹羽は、血走った眼であたりを見渡した。 「おおー ! 」 満座から戦いの鬨が上った。 こ 0 とき 8

10. 白虎隊―続会津藩燃ゆ

りつぜん されている ~ 米沢藩兵は慄然とした。 このゲリラ部隊が、後に越後の戦いを大きく左右することを、同盟側はまだ知らない。見える 敵は、攻撃を掛けることができる。しかし、見えざる敵は、いつ、どこで、どこから奇襲をかけ てくるか予測がっかない。 長岡藩兵は、自らの領土を蹂躙された屈辱がある。死を決して西軍に立ち向う勇気がある。会 津藩兵も同じだ。長岡が敗れれば、西軍は会津を目指して、攻め上る。しかし、米沢藩兵には、 燃えるような闘志がない。軍事総督の千坂太郎左衛門や軍務参謀の廿糟継成が火の玉と燃えて も、一般の兵にはたじろぐ姿があった。 しようぎ 長岡落城に先だっ四日前、上野の彰義隊が潰滅した。 かっきょ 会津藩軍事局は、相次ぐ悲報に落胆した。このころ会津は、旧幕府首席老中板倉勝静、老中小 ながみち 笠原長行ら旧幕府首脳が駆けつけ、さながら江戸のような活況を呈していた。奥羽越列藩同盟が 成り、米沢も越後に出兵、「薩長、なにするものぞ ! 」の覇気に満ちている。この広い奥羽越を 短期間に攻め落すなど不可能だ、という安堵感にひたっている。仙台も白河を強化している。情 報も同盟軍に有利なものが多く、いずれ白河も一気に奪い返す、と豪語していた。 じゅうりん