松蔵は河井を物陰に運ぶと、手ぬぐいを裂いて膝をしばり、兵士たちが急造の担架を作って、 長岡藩の軍病院である昌福寺に移した。 どの顔も沈痛のあまり、声もない。長岡藩兵にとって、河井がすべてなのだ。河井がいなけれ ば戦いにならない。誰が指揮をとり、誰が長岡を考えるのか。越後の戦いは、河井継之助を欠い てはありえない。翌二十六日、長岡城に入った米沢の千坂太郎左衛門、会津の佐川官兵衛らも呆 然とした。 ( 敵兵は一両日中に総攻撃をかけてくるだろう。河井を欠いて長岡の防衛はできない。越後もこ れで終りだ ) 二人の胸に去来するものがあった。 米沢藩は、このときから早くも退却を始める。米沢藩軍事総督千坂太郎左衛門は、絶えず米沢 藩兵の温存を考えている。他国で藩兵を消耗すれば、自国の防衛が不可能になる。そのために攻 撃も消極的で、会津や長岡藩兵との間に不信感も芽生えていた。 「米沢は相手にならん ! 」 よ せ佐川官兵衛は、ときおり口ぎたなくののしった。寄せ集めの同盟軍の悲劇である。 死会津藩首席家老梶原平馬は、米沢の千坂を信じたが、千坂は政治家であり、政略で動く。 潟河井の重傷は、越後の同盟軍を崩壊させた。それを決定的にする西軍の新潟上陸作戦が行なわ れた。同盟首脳がもっとも怖れた新潟港の占領である。 151
長岡を奪回する」 鬼頭は、毅然といい放った。鬼頭の汗臭い体臭が戦場を感じさせた。 「ヘンリー殿の度胸のよさには、つくづく敬服する」 鬼頭は、そういって、ヘンリーとの出会いを梶原に説明した。 朝日山の死闘で、銃弾を撃ち尽した長岡藩は、鬼頭に弾薬の調達を命じた。 「金はない。なんとかせい ! 」 河井継之助の命令を受けた鬼頭は、水原の会津藩陣屋に疾った。会津藩も弾薬は底をついてい 「シュネルに頼め」 鬼頭を西堀勝栄寺に向かわせた。水原から新潟まで馬を飛ばした鬼頭は、寺の境内に馬を乗り 捨てるや、大声で怒鳴った。 「予は、長岡藩河井継之助の使者である。シュネル殿に面会したい」 これを聞いたヘンリーは「カワイ ? 」といって、扉を開けた。 「長岡藩苦戦。銃器弾薬を買いたい。ただし、金は一銭もない」 ヘンリーは、埃にまみれた長岡藩兵をしげしげと見つめた。戦いに敗れれば、シュネル兄弟の 未来もないのだ。マネーは欲しい。マネーがなければ小銃を手に入れることもできないし、汽船 もチャーターすることはできない。薩長政府の眼をごまかし、波濤を越えて、ここまで運んで来 る。 すいばら
お山の千本桜 花は千咲く、実は一つ 人々は、河井を囲んで踊り狂った。 長岡城はすでに焼失していたが、焼け残った武器庫には、西軍の大砲、小銃が充満しており、 弾薬二千五百箱も見つかった。衣類もある。軍用金もある。長岡兵は、いまさらのように西軍の 物資の豊富さに驚いた。 しかし、喜びは一瞬に過ぎなかった。正午ごろ西軍の先鋒が逆襲を試みた。本道攻撃の米沢藩 兵が一向に敵を破ることができず、長岡藩兵は長岡城に孤立する形となったのだ。 「米沢奴、何をしてる ! 」 河井は、敵兵に向って走ったそのとき、一発の銃弾が河井の左膝下を貫通した。鮮血がどっと 流れる。 「だんな様 ! 」 河井の従僕松蔵が血相変えて駆け寄った。 「松蔵、やられた」 河井は、苦痛に顔を歪めた。 ( ついていない。俺はついていない。これで長岡も終りだ。情けない。情けない ) 河井は自嘲した。 150
佐川官兵衛も今度ばかりは持久戦にでている。 ( 佐川も水は苦手らしい ) 河井は笑った。 小千谷の西軍本営も、じりじりとした気持ちで濁流の信濃川を眺めていた。 「朝日山にかかわっていたのでは、いっ長岡が取れるか判らん。誰か信濃川を渡って、長岡城を 奇襲する者はおらんか」 山県狂介は、戦線を駆け回っていた。長岡の対岸に布陣していた長州の三好軍太郎が名乗りで 五月十八日、雨が止み、川の流れがゆるやかになった。月夜である。三好の兵は川岸で仮眠 し、翌朝、長岡を目指して、渡河作戦にでた。川岸からは援護の大砲が、間断なく撃ちだされ、 長岡藩兵は飛び起きた。 「敵が来る ! 撃て ! 」 堤防を守る二個小隊が舟を目がけて一斉に撃ったが、舟は矢のような早さで、川岸に乗りあ る 陥「ワーツ」 岡 と、攻めて来た。 長 河井は大砲の音で飛びだした。 げ、 こ 0
「会津藩は、官賊をたやすく討てると、油断していた」 「長岡藩は、十年もかかって貯えた軍用金二十万両と、大砲、弾薬すべてを賊軍に奪われた」 敗惨の兵や難民たちは、口々に恨みごとをいった。 長岡城近くまで潜入した探索方が見たのは焦土と化した長岡の町だった。薩長の西軍は、電光 石火の早さで長岡城に攻め入り、瞬時にして全市は火の海となった。 弾丸雨飛のなか、市民は老人や子供を助けて逃げまどい、血まみれの長岡藩兵は悲憤慷慨し、 何人もが身を火薬庫に投じて憤死した。 また、米沢藩探索方は、村松藩や新発田藩の内部に不穏な動きがある、という情報をつかみ、 大隊長の中条をギクリとさせた。奥羽越列藩同盟には、複雑な内部事情があった。会津、米沢、 仙台、長岡、庄内等の大藩は、もはや後には退けない。だが、小藩の内部は、日和見である。勝 っ方につけば、傷が少ない。油断も隙もないのだ。 きよし ほくしん 越後には、居之隊、北辰隊、金革隊など地元民兵による西軍側のゲリラ部隊がいた。薩長は、 あらゆるルートを通じ、越後に間者を送り、後方攪乱にでていた。不平、不満、あるいは時代の 流れに乗って、一旗上げようとする輩は多い。官軍という錦の御旗を得れば、その日から正義の 月 五兵士になれる。経済力を持ち始めた名主層のエネルギーを十分に取り込まなかった同盟側の非も のあるが、自らの領土を敵に売り渡す恐るべき危険分子力 : いたるところにいたのだ。小藩のカで ほんろう は、これらのゲリラを取締ることもできない。むしろ、農民層を巻き込んだゲリラの作戦に翻弄 きんかく やから
両軍の兵士たちは一斉に外に出た。 西軍は、一日も早い会津攻撃を目指して、薩長が先陣を競い、同盟軍は、狂暴な薩長兵を一人 でも多く撃ち殺そうと、銃身を磨いた。侵略する側と、祖国を防衛する同盟側との決死の対決で ある。越後戦争は、いままさに火蓋を切ろうとしていた。 おじゃ 小千谷に本営をおいた西軍の狙は、長岡城である。長岡攻略には、信濃川を渡河し、敵前上陸 をしなければならない。だが、この増水では舟を出せない。 戦闘は信濃川を挟んでの砲撃戦となった。 河井継之助は、信濃川を見下す榎峠に砲台を築き、長岡を目指す西軍と対峙した。 なおはち 西軍参謀山県狂介は、親友の長州藩士時山直八に榎峠の攻撃を依頼した。榎峠の中心、朝日山 の古戦場は、いま車で頂上まで行ける。眼下に信濃川が雄大に流れ、対岸までは相当の距離があ る。この川を挟んで砲撃戦が繰り広げられた。 戊辰戦争は、火力による近代戦になっていた。 長岡藩は、同盟軍のなかではもっとも近代化が進んでいる。会津の梶原平馬とともに、横浜や 函館から大砲、小銃を運び、砲十四門、銃隊二大隊を持っていた。 る 陥しかし、その兵力は農兵も入れて千名強であり、会津、桑名、旧幕府を加えても五千に満たな 岡 い。二万を越える西軍の前に、はたして何日耐えられるか、決戦を前に河井の胸には悲壮なもの 長 があった。 ねらい えのき
りつぜん されている ~ 米沢藩兵は慄然とした。 このゲリラ部隊が、後に越後の戦いを大きく左右することを、同盟側はまだ知らない。見える 敵は、攻撃を掛けることができる。しかし、見えざる敵は、いつ、どこで、どこから奇襲をかけ てくるか予測がっかない。 長岡藩兵は、自らの領土を蹂躙された屈辱がある。死を決して西軍に立ち向う勇気がある。会 津藩兵も同じだ。長岡が敗れれば、西軍は会津を目指して、攻め上る。しかし、米沢藩兵には、 燃えるような闘志がない。軍事総督の千坂太郎左衛門や軍務参謀の廿糟継成が火の玉と燃えて も、一般の兵にはたじろぐ姿があった。 しようぎ 長岡落城に先だっ四日前、上野の彰義隊が潰滅した。 かっきょ 会津藩軍事局は、相次ぐ悲報に落胆した。このころ会津は、旧幕府首席老中板倉勝静、老中小 ながみち 笠原長行ら旧幕府首脳が駆けつけ、さながら江戸のような活況を呈していた。奥羽越列藩同盟が 成り、米沢も越後に出兵、「薩長、なにするものぞ ! 」の覇気に満ちている。この広い奥羽越を 短期間に攻め落すなど不可能だ、という安堵感にひたっている。仙台も白河を強化している。情 報も同盟軍に有利なものが多く、いずれ白河も一気に奪い返す、と豪語していた。 じゅうりん
戦争には、運、不運がっきまとう。 長岡城が一気に攻め込まれたとき、佐川官兵衛の率いる会津藩の精鋭は、朝日山を目指してい た。山頂にたどり着いたとき、長岡からモクモクと黒煙が上るのを見た。激しい砲声が聞える。 「あれはなんだ」 ーオ > とおもい込んでいた。 佐川官兵衛は、一瞬とまどった。濁流の信濃川を渡河するはずまよ、、 越後救援の米沢藩兵も重大なミスを犯していた。越後で戦闘が始まったというのに、米沢藩兵 は、越後国境近くで、足留めを食っていた。 雨がすべてを狂わせたのだ。 西軍は、雨を気力で突破し、同盟軍は、空を見上げて、陽光を待った。値か二、三日の違い 魔の五月
郎の一一人も捕えられ、無惨にも斬殺された。 「秋田のやり方は汚ない ! 」 但木は、烈火のごとく怒り、その非道を憎んだ。仙台藩兵が秋田報復を誓い、南部藩も秋田に 宣戦を布告するが、奥羽越同盟の一角は、こうして崩壊した。 秋田藩の同盟離脱は、単に過激派の浪士たちの殺人行為の結果ではない。その背景には秋田藩 首脳の優柔不断な態度があった。仙台藩使節の対応をめぐって、秋田城内では連夜の激論が交わ された。家老クラスに確固たる指導力が見当らないため結論はでない。しかし、長岡城が落ち、 白河城も西軍に占領され、同盟軍の旗色が悪い、というまぎれもない事実もある。このまま同盟 に加わっていて勝利はあるのか、という声には説得力がある。こうした混乱の中で、仙台藩使節 暗殺事件が起こったのだ。 政治結社としての奥羽越列藩同盟は、最初から問題を含んでいた。会津救済に端を発し、薩長 に対抗する政治、軍事結社を結成したが、一糸乱れぬ政治理念が全兵士に貫徹しているわけでは ない。会津、庄内、長岡は別として、仙台は、会津、庄内、長岡の武力に便乗して、あわよくば こんたん 漁夫の利を得ようとする魂胆もあった。だから戦いに敗れると、さっさと戦場を離れてしまう。 米沢も同じだ。多くの藩兵は、河井継之助を最後まで助けようという気はない。 事実、真剣に 戦うだけの兵備もない。薩長を主力とする西軍の兵士とは、志気も装備もあまりにも違いすぎ ちざか る。頭のいい米沢藩軍事総督千坂太郎左衛門は、戦場に来て、すぐそのことを知ってしまった。 132
会津藩燃ゆ関連年表 四月一一十九日、会津藩使者、仙台領関宿に入り、折衝を行なう。 閏四月十一日、仙台・米沢両藩主及び奥羽列藩の重臣白石に集まり、会津救済を協 議。 閏四月十七日、会津藩の恭順嘆願書が九条道隆総督により拒否される。 閏四月十九日、西軍下参謀世良修蔵、福島にて仙台・福島両藩士に捕らえられ、翌 日殺される。 閏四月十九日、仙台藩、総督府に解兵届を提出。 閏四月二十日、西軍、越後高田に集結、山・海両道より北上を開始。 閏四月二十二日、庄内藩征討を命ぜられていた奥羽各藩、解兵届を提出。 閏四月二十三日、奥羽列藩の重臣再び白石に集まり、列藩同盟を協議。 閏四月二十八日、佐賀・小倉両藩兵、九条道隆救出の為、仙台に上陸。 五月一日、白河城、西軍の手に陥る。 五月一一日、長岡藩家老河井継之助、小千谷の慈眼寺にて西軍軍監岩村精一郎に奐願 書を提出するが、拒絶される。 五月三日、奥羽越列藩同盟の成立。 五月四日、長岡・会津同盟の成立。 五月十五日、彰義隊壊滅。 五月十八日、奥羽鎮撫総督府、秋田に移される。 五月十九日、長岡城、西軍の手に陥る。 五月二十三日、新潟で米沢・会津・桑名・長岡・庄内などによる軍議が開かれる。 五月一一十四日、会津藩艦船順動丸、西軍軍艦の攻撃を受け座礁、自爆。 五月一一十六日、仙台・会津・二本松・棚倉・相馬の兵士約四千名、矢吹から白河に 261