隊に再編され、このおり本土の日系人兵士も加わっ 日系人部隊の活躍として有名なのは、ドイツ軍勢 カ内に取り残されてしまったテキサス大隊約二〇〇 第一〇〇大隊は、イタリアや北アフリカに派遣さ名の救出であろう。彼らを救い出すため、日系人兵 れ、すさまじい活躍をみせた。 士は一八四人が戦死し、その数倍が負傷したのであ 彼らは「 GoFo 「 Broke ( あたって砕けろ ) 」を合一 = 〕る。テキサス大隊の救出のために、その人数と同じ 葉に、命がけの突撃を敢行していった。 くらいの犠牲を出したのだ。彼らの戦場での行動 ただ、それがゆえに戦死者も膨大で負傷者も数知は、すさまじいの一言に尽きた。 れす、 ープル・、 ート部隊という異名を得てい ここまで死に物狂いで戦ったのは、自分たちがア る。戦争で負傷した兵士には、、 ート形の勲章が授メリカ人であることを証明したかったからだ。ちな 与されることから、そうした名がついたのである。みに日系人部隊は、アメリカ史上、も 0 とも多く動 とくに信じがたいのは、兵隊の人数より負傷者が多章を受けた部隊とな 0 た。しかし、この戦争でおよ いことである。これは一人で何度も負傷したことをそ七〇〇人の日系人兵士の命が散 0 た。これは、他 意味している。また、日系人兵士の病院からの脱走のアメリカ人アジア人種にくらべて、飛び抜けて高 が数多く報告されているが、これは戦争が嫌になつい数字だったといえる。 て病院から逃げたのではなく、なんと、再び戦場へ 一九四六年、日系人部隊 ( 四四二連隊 ) は、ハ丿 舞い戻るために病院を抜け出したのである。こうし ・トルーマン大統領から七回目の感謝状を受け取 た事例は、前代未聞だったようだ。 った。そのさい大統領は、 、」 0 106
っての、悲劇のはじまりだった。 出し、精神が病んでしまう兵も続出したと伝えられ 日本軍は、アメリカ軍を上陸させておいて、南部る。 ざんごう に構築した大規模な陣地や塹壕を利用し、徹底的な上陸部隊もこのように苦しんでいたが、アメリカ 持久戦をとるつもりでいたのだ。 艦隊も日本軍の肉弾攻撃に苦しめられた。九州の基 しゆり 日本軍は、首里城付近に強固な主陣地を設置して地から盛んに特攻隊が出撃し、次々と敵艦船に体当 おり、アメリカ軍は四月下旬からここに総攻撃をくたりしていったのである。航空機による突撃攻撃は わえたが、 日本軍は頑強な抵抗をみせ、一月以上、執拗に繰り返され、その数なんと、二五〇〇を数え 0 一進一退の攻防を繰り返した。一日一〇〇メートル 宀に A 」い、つ かいてん 0 しか、進めない日も珍しくなかったとい、つ 人間魚雷の回天も沖縄戦に使用された。さらに、 てつけつきんのうたい おうか とくにアメリカ軍を恐怖させたのは、鉄血勤王隊人間ロケット桜花も登場した。こうした特攻攻撃で ( 十代の少年兵 ) だった。彼らは、アメリカ軍の戦撃沈された船は、わずかに駆逐艦九隻。戦艦や空母 車隊に向かって走り、戦車の裏に滑り込むやいななどには、かすり傷しか与えることができなかっ や、背負っていた爆弾を爆発させ、戦車を大破させた。だが、アメリカ兵に対する精神的動揺は、相当 るのである。車体の裏側は戦車の弱点であり、これなものがあったと思われる。 を狙っての肉弾攻撃だった。さらにアメリカ軍陣地連合艦隊の象徴たる超弩級戦艦大和もこのとき、 への深夜の斬り込みもたびたび展開された。 、冫上特攻攻撃に使用されている。これに関してはか このため、アメリカ軍は、二万人以上の死傷者をなり反対も多かったが、最終的に片道燃料だけを積 260
日本兵は、極限のところで己をコントロールしてとを知る。 いるのである。もし現代人が同じ状况に放り込まれただ、アツツ島玉砕以後、マキン島、タラワ島、 おう たなら、おそらく自分だけ戦線離脱してアメリカ軍サイバン島、グアム島、テニアン島、硫黄島と、ア に投降するか、本当に気がおかしくなって現実逃避メリカ軍はたびたび日本軍の果てしのない抵抗と玉 するか、絶望のあまりみずから命を絶っかするだろ砕戦法を経験することになる。こうした日本軍の行 動を目の当たりにして、戦場で精神を病んでしまう う。当時の兵士も、そうした衝動に襲われながら、 それを制御して、敵陣への玉砕突撃を敢行したのでアメリカ兵が続出したといわれている。 さて、アツツ島攻略から本格的な反攻を開始した ある。 攻 アメリカ兵は、日本兵が全員が死ぬまで戦いをやアメリカ軍は、マッカーサー率いる大軍がニューギ 反 めないことを身をもって知り、その戦法に戦慄を覚ニアを、ハルゼー中将率いる大軍がソロモン諸島 のえた。同年八月十五日、アメリカ軍はキスカ島へのを、攻略を競争するようなかたちで北上していっ戦 カ上陸を計画するが、それに先だって二週間以上も、 キスカ島への空爆と艦砲射撃をおこなっているのが の ア 局 砕その証拠である。が、すでにキスカ島の日本軍は、 島アメリカ艦隊の隙をみて全員が撤収しており、その 第 ッ攻撃は全くの無駄であった。アメリカ軍は上陸して 3 二日後、はじめてキスカ島がもぬけのからだったこ その頃の日本 、」 0
ながら散在する自然洞穴 ( ガマ ) を利用しつつ、組織別に虐殺するようにな 0 てい 0 た。アメリカ兵は、 的抗戦を続けていった。 防空壕やガマにガソリンを流し込んで火をつけた 南部し ( こよ、戦いをさけて避難していた民間人が十り、 手榴弾を投げ込んだり、毒ガス兵器を使用する そば 数万人いたといい彳 皮らは日本軍の側にいることがなどして、多数の命を抹消していった。 安全だと思い、軍に付き従 0 てい 0 た。というのそんななかでも、ひめゆり部隊の悲劇は有名であ は、アメリカ人は鬼畜だという教育をうけ、捕まれろう りよ、つじよく ば拷問されたり陵辱されたりした後、むごい殺され沖縄の女子学生たちは、野戦病院の看護婦として 方をすると信じていたからである。なおかっ、捕虜従軍させられていた。ひめゆり部隊は、そうした学 になることは、死ぬより恥ずかしいという考え方も生看護婦隊だった。彼女たちは、第三外科壕にいた あった。 が、そこにアメリカ軍がガス弾を投げ込んで、数十 そのため、民間人は常に砲弾にさらされることに名の若い命を奪ったのである。 なり、多数の死傷者を出した。また、アメリカ軍に だが、付け加えるなら、沖縄県民の命を奪ったの しゆりゅうだん 包囲されたさししー 、こよ、手榴弾などでの集団自決もは、アメリカ軍だけではなかった。じつは、日本軍 後を絶たなかった。 も多くの民間人を殺害しているのだ。 はじめアメリカ軍は、民間人が抵抗しなければ捕足手まといになることから、集団自決を強要した 虜として丁重に対応したが、 司令官バックナー中将り、スパイ容疑をかけて射殺したりということが、 か日本兵に暗殺されたことに激怒し、民間人を無差いたるところで起こっている。アメリカ軍に投降し 0 262
のである。 売け、アメリカ軍の死傷者数はうなぎ登りに増え、 そしてこれが、アメリカ軍の本格的な反攻作戦の三〇〇〇人を超えたと伝えられる。すでに日本軍は スタートとなった。 アツツ守備隊を見捨てる方針を立て、山崎大佐に全 きよくさい アリューシャン列島における日本軍の拠点は、ア員玉砕を命じていた。 ツツ島とキスカ島だったが、 アツツ島には駐屯軍は 二十九日、ついに守備隊の戦闘能力は失せた。山 約二五〇〇、キスカ島には約五六〇〇人がいた。ア崎は歩けない重傷者には因果を含んでとどめをさ メリカ軍は空母、戦艦、巡洋艦などあわせて四〇隻し、最後の一五〇名を引き連れ、アメリカの大軍に 近くを護衛につけ、兵一万二〇〇〇人を五月十二日向かって突撃を敢行したのである。 に上陸させた。 これは、戦闘が目的ではない。敵弾による集団自 兵力は日本軍の五倍であり、所有する武器も日本殺である。 軍とは比較にならないほどの重装備であった。なお日本の兵士は「捕虜になることは最大の恥辱であ かっ、上陸にあたってアメリカ軍は、徹底的な空爆る。捕虜になるくらいなら潔く死ね」と徹底的に教 と艦砲射撃をおこなっている。ここにおいてアツツ育されて前線に出てきている。 島基地は甚大な痛手を受けた。にもかかわず、山崎死ぬくらいなら投降して捕虜になれと教えている やすよ 保代大佐率いるアツツ守備隊は降伏せず、徹底抗戦アメリカ兵とは対照的な教育であった。それゆえ、 を十八日間続けたのである。信じがたいことに、ほアメリカ兵にとっては、日本軍の行為は狂気としか とんど食糧も尽きたなか守備隊は戦闘を絶え間なく移らなかったはずだ。が、決して狂気ではない。 246
認めるべきだ」と主張した。すなわち、遅まきながである。もちろんそうした労も、極言してしまえ ば、中国進出というアメリカの野心が裏に潜んでい らアメリカも、中国分割に加わろうという魂胆だ。 たからだといえよう。 じつは日本も、アメリカと同じ立場にあった。 リヤオトン 日本は、戦時中から日露戦争後の満州共同統治に 日本は、日清戦争で遼東半島 ( 満州の一部 ) を清 国から割譲されながら、ロシアの強い要求で返還せついて、アメリカ側に確約を与えていた。 一九〇五年八月には、鉄道王と呼ばれたエドワー ざるを得なくなり ( 三国干渉 ) 、その後同半島は、 ロシアが植民地のようにしてしまっていた。 リマン ( アメリカ人 ) が来日し、日本政府に それゆえ日本も、ロシアのやり方に強い不満を抱対し南満州鉄道の共同管理を提案している。まだ、 き、中国の領土保全と機会均等を主張していたので講和条約は締結されていないときだ。 ある。 ただ、同地は事実上、ロシア軍を駆逐して日本軍 こうした利害関係の一致が、アメリカの親日感情が制圧下に置いており、南満州の権益がロシアから を増幅させ、日露戦争勝利の暁には、日米共同で満日本へ委譲されることは確実視されていた。ハ 州を統治できるという気持ちから、アメリカ国民はンは、世界一周鉄道を計画しており、その一部とし て南満州鉄道に着目したのである。日本政府はこの 日露戦争で日本に協力したのである。 日露戦争の講和条約は、アメリカの軍港ポーツマ提案を了承し、十月には桂太郎首相とハリマンとの スで結ばれたが、 この講和は、アメリカのセオド間で、日米共同経営組織の創設のための、予備協定 ア・ルーズベルト大統領の積極的仲介で実現したのの覚書が取り交わされた。
てきがいしん オーストラリアについたマッカーサーは、「アする敵愾心をあおった。だが、あえて日本軍を弁護 イ・シャル・リターン ( 私は必ず戻ってくる ) 」と名させてもらえば、半島沖に浮いているコレヒドール 言を吐いたが、これによってバターン島のアメリカ要塞はまだ陥落しておらす、防諜面から、また捕虜 兵の戦意は萎え、ついに四月九日、半島のアメリカを要塞からの攻撃より守るためにも、別の場所に移 軍は降伏した。日本軍は、この作戦で四〇〇〇名以動させるしかなかったのだ。さらに付け加えるな 上の将兵を失い、七〇〇〇名近い負傷者を出していら、日本軍の食糧や宿泊施設も不足しており、八万 , 」 0 人という自軍に倍する人数を養う余裕など、とても 降伏したアメリカ軍の捕虜は五万、フィリピン人なかった。つまりは、ある面仕方のない措置だとい をあわせると八万を超えていた。日本軍は、彼らをえた。 戦 六〇キロ離れたサンフェルナンドの捕虜収容所へ移コレヒドール島は五月七日にようやく陥落し、こ 生送することに決めた。移送といっても、トラックやこにフィリピンは日本軍の占領下に入った。 言列車などなく、徒歩であった。日本兵にとってこれちなみに本間中将は、フィリピン攻略の不手際で のはさしたる距離ではないが、車両による行軍が常識予備役に編入されたうえ、戦後はバターン死の行進ん ち 一だったアメリカ兵にとっては、まさに死の苦しみだの責任をなすりつけられ、銃殺刑に処せられた。 サ った。そのため、マラリアにかかっていたアメリカ 章 カ 第 兵はバタバタと倒れていった。アメリカ政府は、こ マ れを「バターン死の行進」として、国民の日本に対 その頃の日本
太平洋戦争は、真珠湾攻撃によってはじまったと確保にあった。それゆえ、東南アジアにおけるアメ 考える人が多いと思うが、これは正確ではない。じ リカ・イギリスの拠点を一気に叩き、その勢力を駆 つは、それより二時間近く前に、日本軍はマレー半逐して制海権を掌握し、可及的速やかに中国・朝 島で戦闘を開始しているのである。 鮮・台湾・樺太にくわえ、東南アジア全域を支配下 たいと、つあきよ、つ、えいけん ただしそれは、アメリカ軍とではない。当時マレにおき、自給自足経済圏 ( 大東亜共栄圏 ) を構築す ー半島を支配していたのは、イギリスであった。いることにあった。だから一九四一年十二月八日に ずれにしても、太平洋戦争は、マレー半島上陸戦には、真珠湾だけでなく、日本軍は総数一三万人とい よって、火蓋が切られたというのが正しい。 う大兵力で、東南アジアにおけるアメリカ・イギリ ところでこの戦争は、アメリカから強烈な経済制裁スの根拠地に次々襲いかかったのだった。 を受けた日本が、ジリ貧になってアメリカに屈するの この南方攻略作戦のリーダー ( 南方軍総司令官 ) てらうちひさいち を嫌い、一か八かの賭けに出てはじまったものだ。 には、寺内寿一大将が任命された。作戦の中心は、 その第一目的は、石油をはじめとする南方資源のアメリカの最大拠点であるフィリピンとイギリスの 実は真珠湾より早かった、 マレー半島での戦い ◆マレー半島上陸
3 アツツ島玉砕とアメリカ軍の本格的反攻 した不安を感じさせた。アツツ島玉砕の記事が新聞 の見出しをデカデカと飾ったのは、それからわずか 十日後のことだった。国民が感じていた不安ーーーす なわちアメリカ軍の大々的反攻がいよいよはじまっ たのである。 アツツ島とい、つ島は、アリューシャン列島の西端 に位置する アリューシャン列島は、アラスカ半島 ( アメリカ 合衆国領 ) から転々とカムチャッカ半島方面へ連な る島々で、日本軍はミッドウェー攻略戦の一環とし 撃たはがま て、米ソの連絡を絶っためにこの群島を占領した。 3 攻つで回し レ」 湾だ戦挽て アリューシャン列島は、アメリカ領である。だ 1 珠本作のし 4 真山一そ死 が、戦略上にはさして重要でないため、アメリカ軍 の たたエ、戦 . れせウし はソロモン諸島やニューギニアに全兵力を傾けよう戦 六ささド喫ま とした。ところが、国民が同諸島の奪還を強く願っ章 十と功ツをま 五能成ミ北ぬ 第 本可大、敗きた たため、そうした世論し こ押されるかたちで、日本軍 山不をが大でつ -4 ・ が航空基地をつくっていたアツツ島の奪回を企てた その頃の日本 - 浦
であった。日本側は空母一隻を失ったが、敵の空母まったはずだから、日本軍が急いでガダルカナル島 二隻にかなりのダメージを与えた。そのため、アメを奪回する必要性は失せ、多大な犠牲者を出さない リカ側の無傷空母はホーネットただ一隻となった。で済んだと思われる。それをしなかったのは、もは 戦艦や巡洋艦の数も日本がアメリカの倍以上だつや司令部の無能以外の何ものでもない。 十月十二日、陸軍は丸山政男中将率いる第一一師団 もしこの時期、海軍が総力を結集してアメリカ艦一万を島の裏手ジャングルから潜入させ、ここから 隊を叩いていれば、敵にしばらく立ち上がることのアメリカ軍基地への総攻撃をおこなわせた。 できない打撃を与えることができただろ、つ。ところ が、敵の重装備の前に愚かな白兵突撃を繰り返し が山本長官は、将来訪れるアメリカ艦隊との一大決たことで、壊滅的打撃をこうむってしまった。日本 ちょ、つど 戦に備えるとして、戦艦大和や武蔵といった超弩軍は食糧を数日分しか持たすに上陸したため、その きゅう 級戦艦を出撃させなかったのだ。なんとも歯がゆ後もひどい飢えに苦しんだ。 いかぎりである 海軍も補給のための輸送船を何度も島へ送ろうと はるな さらにいえば、十月十一日、戦艦金剛と榛名によしたが、上陸前にことごとくアメリカ海軍に撃沈さ るヘンダーソン基地への艦砲射撃作戦が実施されたれてしまった。 が、このとき基地は甚大な被害をうけ、数日間使用そのため、夜に紛れて密かに輸送する「ネズミ輸 ができなくなっている。もし大和や武蔵がこの作戦送」で細々と味方に食糧・弾薬を補給する状態とな に参加していれば、航空基地は完全に破壊されてしったが、やがてそれも、アメリカ軍のレーダー性能 242