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検索対象: 目からウロコの太平洋戦争 : 複雑な戦史がスッキリわかる!
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1. 目からウロコの太平洋戦争 : 複雑な戦史がスッキリわかる!

8 破竹の進撃を続ける日本軍の次の目的 ・ミッドウェー海戦以前の太平洋戦争の流れ・ 第 1 次近衛声明「国民政府ヲ相手トセス」 1 93 8. 1 張鼓峰事件 ( 昭和 13 年 ) / 1 0 広東占領 第 2 次近衛声明「東亜新秩序建設」 ノモンハン事件 1939. 5 米、日米通商航海条約の破棄を通告 ( 昭和 14 年 ) / 第二次世界大戦開始 9 汪兆銘、南京政府樹立 1940. 3 日本軍、北部仏印に進駐 ( 昭和 15 年 ) 9 日独伊三国同盟調印 日ソ中立条約調印 日米交渉、公式ルートで開始 日本軍、南部仏印に進駐 ハル・ノート 日本軍、マレー半島上陸 1 2 .8 ハワイ真珠湾奇襲攻撃 太平洋戦争開始 日本、対米英宣戦布告 中国国民政府、対日宣戦布告 1 2 .9 日本軍、マニラ占領 日本軍、シンガポール占領 ジャワの蘭印軍降伏 B25 爆撃機、日本本土初空襲 コレヒドール島の米軍降伏 1 941 . 4 ( 昭和 16 年 ) 1942. 1 ( 昭和 17 年 ) 2 3 4 5 99 第 2 章勝ち進んでいた緒戦

2. 目からウロコの太平洋戦争 : 複雑な戦史がスッキリわかる!

ハラオ諸島を占領されたことによって、いよいよ日、 いよいよ七万一〇〇〇の大軍で上陸を開始し 2 サイバン、テニアンなどを含むマリアナ諸島が、アた。サイバン島は、ドイツの植民地だったものを第 メリカ軍の射程距離内に入ってしまった。マリアナ一次世界大戦で日本軍が奪って以来、国連から日本 諸島は絶対防衛権のなかでも、とくに重要視されての委任統治領とされ、実質的に植民地支配をおこな いた場所である。もし同地域の飛行場をアメリカ軍っていた。 に占拠されたら、日本本土は直接空襲を受け、国内そのため、サトウキビ栽培などに従事する日本の は危機にさらされるからだ。 民間人が約一一万人がおり、中心都市ガラバンには日 すでに一九四一一年九月、アメリカは四の試作機本人家屋が建ち並んでいた。島の大きさは、淡路島 を完成させており、この頃には量産体制に入っていとほば同じである。サイバンには当時、陸軍一一万八 た。四の航続距離は五一一三〇キロで、時速は五五〇〇〇、海軍陸戦隊一万五〇〇〇がおり、真珠湾攻 〇キロ。亜成層圏を飛ぶので、日本のどんな戦闘機撃の南雲忠一中将が指揮をとっていた。つまり、兵 もこれを撃墜することは困難だった。マリアナ諸力はおよそ日米一対一一だった。だが、アメリカ軍の 島、とくに日本の拠点であったサイバン島から東京火器は日本軍のそれと比較にならないほど優れてお までの距離は二二五〇キロ、四なら往復してもおり、実質的な兵力は、日本の一〇倍以上に匹敵した つりが返ってくる。 と思われる。それでも日本軍は、よくアメリカ軍を 一九四四年六月になると、アメリカ軍は大々的に防ぎ、上陸軍のおよそ一割を死傷させたと伝えられ サイバン島に空爆を加えはじめた。そして六月十五る。

3. 目からウロコの太平洋戦争 : 複雑な戦史がスッキリわかる!

こうなってしまっては、日本側も後へは引けす、じい抵抗をみせた。そのためさらに三個師団を増派戸 続々と日本陸軍を華北へおくり、全面的な軍事衝突し、この戦争での日本軍の死者は九〇〇〇人を超 え、負傷者も三万人を超えた。いかに激戦であった が始まってしまったのである。 一九三七年九月、 ~ 將介石と毛沢東は、第二次国共かがわかるだろう。けれども最終的に日本軍が、上 合作 ( 国民党と共産党の提携 ) に踏みきり、抗日統海の地を陥落させたのだった ( 第二次上海事変 ) 。 日本軍は、この勢いをかって三〇〇キロ離れた国 一戦線をつくり一体となって戦う体制を整えた。 ただ、華北における戦闘は、圧倒的な日本軍の優民政府の首都南京を目指した。 ~ 將介石はいち早く脱 勢のもとで推移し、北京や天津などの主要都市を陥出し、首都を漢ロ、さらに重慶へと遷したが、南京 に入城した日本軍は、同地で軍人・民間人を含めた 落させ、ほほ一帯を制圧した。 この戦争は、上海で日本軍人が射殺されたことを多数の中国人を殺害したといわれている ( 南京事 きっかけに、華中へも飛び火していった。事件が起件 ) 。 一九三七年十一一月、ドイツ駐中国大使トラウトマ こると、軍部はただちに二個師団を日本本土から上 海へ派遣し、中国軍と全面対決をはじめた。これまンが日中戦争の調停に乗り出した。 ~ 將介石はこの和 で政府は、盧溝橋事件からの一連の軍事衝突を北支平案に乗る気を見せたが、日本側では意見が割れて 事変と称していたが、戦線が中国全土に拡大していしまった。陸軍参謀本部は、 ~ 將介石が重慶へ移って ったことで、支那事変と名称を変えた。だが、上海も英米の協力を得て徹底抗戦すれば、ほとんど早期 での戦いは華北でのそれと異なり、中国軍はすさまの事態収拾は不可能になり、泥沼に足を取られて国

4. 目からウロコの太平洋戦争 : 複雑な戦史がスッキリわかる!

てきがいしん オーストラリアについたマッカーサーは、「アする敵愾心をあおった。だが、あえて日本軍を弁護 イ・シャル・リターン ( 私は必ず戻ってくる ) 」と名させてもらえば、半島沖に浮いているコレヒドール 言を吐いたが、これによってバターン島のアメリカ要塞はまだ陥落しておらす、防諜面から、また捕虜 兵の戦意は萎え、ついに四月九日、半島のアメリカを要塞からの攻撃より守るためにも、別の場所に移 軍は降伏した。日本軍は、この作戦で四〇〇〇名以動させるしかなかったのだ。さらに付け加えるな 上の将兵を失い、七〇〇〇名近い負傷者を出していら、日本軍の食糧や宿泊施設も不足しており、八万 , 」 0 人という自軍に倍する人数を養う余裕など、とても 降伏したアメリカ軍の捕虜は五万、フィリピン人なかった。つまりは、ある面仕方のない措置だとい をあわせると八万を超えていた。日本軍は、彼らをえた。 戦 六〇キロ離れたサンフェルナンドの捕虜収容所へ移コレヒドール島は五月七日にようやく陥落し、こ 生送することに決めた。移送といっても、トラックやこにフィリピンは日本軍の占領下に入った。 言列車などなく、徒歩であった。日本兵にとってこれちなみに本間中将は、フィリピン攻略の不手際で のはさしたる距離ではないが、車両による行軍が常識予備役に編入されたうえ、戦後はバターン死の行進ん ち 一だったアメリカ兵にとっては、まさに死の苦しみだの責任をなすりつけられ、銃殺刑に処せられた。 サ った。そのため、マラリアにかかっていたアメリカ 章 カ 第 兵はバタバタと倒れていった。アメリカ政府は、こ マ れを「バターン死の行進」として、国民の日本に対 その頃の日本

5. 目からウロコの太平洋戦争 : 複雑な戦史がスッキリわかる!

ガポール島は、そこからわずか一キロ海 ( ジョホー万人いたといわれている。そんなところへ敵前上陸 ル水道 ) をへだてたところにあった。 を強行しようというのだから、いかに無謀な作戦か 日本軍は、たった五十五日で一一〇〇キロを走破がわかるだろう。ところが、イギリス側の作戦の齟 したことになる。平均すると一日二〇キロ進撃した齬から、日本軍は難なく上陸することができたのだ わけだ。いかに不眠不休の行軍だったかがわかるだった。 ろう。ちなみに道路は舗装されたところが多く、日 だが、やがてイギリス側も戦闘態勢の立て直しを 本軍は移動に自転車を利用する場合が多かった。こはかり、ジリジリ後退しながらもねばり強い抵抗を れがやがてマスコミに発表され、国内で『銀輪部みせ、予定の紀一兀節までに日本軍は、シンガポール 隊』として有名になった。 を陥落させることかできなかった。 ところで、これほど猛スピードで日本軍がマレー プキテマ高地での激戦のすえ、日本軍がイギリス 半島を南下していったのにはワケがある。二月十一軍を降伏させたのは二月十五日のことであった。 日の紀元節にあわせて、シンガポールを陥落させた同日、降伏を申し出たパー 、、ノル総司令官と山下 かったのである。なんとも無茶な理由だが、そのた奉文中将との会見が、フォード自動車工場を会場に め日本軍は、二月七日、ジョホール水道からシンガしておこなわれた。 / ヾレ一 ~ リ ポールへ敵前上陸していった。日本軍はおよそ六 このとき優柔不断な態度を見せるパ 万、対してイギリス守備軍は、オーストラリア軍やし、山下が激怒して机を叩き、「降伏するのかしな 華僑 ( シンガポール在住中国人 ) 軍をあわせて一三 しのカ / イエスかノーか / 」そう叱責したという

6. 目からウロコの太平洋戦争 : 複雑な戦史がスッキリわかる!

太平洋戦争の勃発から半年間で日本は東南アジアのため、民生 ( 民政 ) に及ばさざるを得ざる重圧は せんぶ ほば全域を制圧した。これに日中戦争での支配地域これを忍ばしめ、宣撫上の要求は右目的に反せざる をあわせると、総面積は六〇〇万平方キロを超え、限度に止むるものとす」と記されている。 同地域の人口は四億人 ( 当時の世界人口の六分の一 つまり政府は、占領地には軍政をしき、資源の獲 程度 ) になると推定される。これだけでも、い力に 得と日本軍の自活を最優先させ、そのためには、現 広大な地域かが想像できるだろう。 地の住民たちが犠牲になるのも仕方ないと考えてい 日本は、太平洋戦争に突入する直前の十一月二十たのである。 日に、『南方占領地行政実施要項』を決定している。 周知のように、日本政府は公式には太平洋戦争の それによれば「占領地に対してはさし当たり軍政を目的を『大東亜共栄圏の確立』に置いていた。すな 実施し、治安の恢復 ( 回復 ) 、重要国防資源の急速わち、「東南アジアを列強諸国の植民地から解放し 獲得、および作戦軍の自活確保に資すーとあり、さて独立させ、日本を中心とする東アジアから東南ア らに「国防資源取得と占領軍 ( 日本軍 ) の現地自活ジア全域を含む大経済・大文化圏を創設し、自給自 日本軍は、占領地をどのように 支配したのか ◆占領の功罪 108

7. 目からウロコの太平洋戦争 : 複雑な戦史がスッキリわかる!

0 日本は、一九四五年八月十四日、連合国軍のポツ国民を統治するという手法である。 ダム宣言を受け入れて無条件降伏したが、この結 日本が無条件降伏すると、各地に散在していた日 果、すぐに我が国には連合国軍 ( 合計約四〇万人 ) 本兵は、ただちに武装解除され、日本の陸・海軍は が進駐してきた。ただ、連合国軍といっても、その地上から消滅した。 実態は、ほとんどすべてがアメリカ軍だった。 日本の主権は、四島 ( 北海道・本州・四国・九 日本を実質的に統治した機関は、連合国軍最高司州 ) とそれに付属する諸島に限定され、朝鮮や満 令官総司令部 ((.-EO) である。最高司令官には、 、台湾などの植民地は中国に返還され、日露戦争 ダグラス・マッカーサー元帥が就任した。 でとった南樺太、それに千島列島 ( 北方領土を含 連合国軍は、ドイツのような直接軍政をしかず、む ) は、ソ連軍が占領してしまった。また、沖縄や 間接統治という珍しい方法によって日本国を占領し小笠原諸島については、アメリカの直接軍政下にお た。これは、アメリカ政府の意向をうけた O かれた。 が、日本政府に指令・勧告をおこない、日本政府が占領政策の一一大方針は、日本の非軍事化と民主化 Ⅱによる日本の 非軍事化と民主化 ◆日本の戦後 278

8. 目からウロコの太平洋戦争 : 複雑な戦史がスッキリわかる!

2 日本軍の真珠湾攻撃で、アメリカ太平洋艦隊は壊いまだ発見されておらず、大統領は日本の軍事行動 滅的打撃をうけた。真珠湾基地では、まったく日本を察知していたものの、まさか真珠湾に来襲すると 軍の来襲を予期していなかったからである。 は思ってもいなかったとするのか、いまのところ妥 これに関して、「ルーズベルト大統領は、事前 」に当な見解のようだ。また、アメリカの軍部も、戦争 真珠湾攻撃を察知していながら、あえて現地に伝えの火蓋は日本の南進 ( 東南アジア侵攻 ) で切って落 ずに黙殺していた」という説が、昔からとても根強とされると想定していたといわれる い。数年前に出版された『真珠湾の真実ーーールーズ では、この奇想天外な真珠湾攻撃は、なぜ実行さ ベルト欺瞞の日々』 ( ロバート・スティネット著れたのだろう。 文藝春秋 ) も、軍事機密資料を駆使してこの説を論それは、この場所にアメリカ太平洋艦隊が集結し 証し、大きな話題を呼んだ。 ており、ここを一気に叩くことで、当分の間、制海 ただ、日本外務省の暗号は筒抜けだったが、 日本権を確保できると読んだからであり、なおかっ、う 海軍の暗号が解読されていたという決定的な証拠はまくいけば、この果敢な攻撃によって、アメリカ国 どうして日本軍は、 ハワイの真珠湾を攻撃したのか ◆真珠湾攻撃・

9. 目からウロコの太平洋戦争 : 複雑な戦史がスッキリわかる!

太平洋戦争がはじまったからといって、日本軍がったので、中国民衆の抵抗も次第に強まっていった。 中国大陸から撤退したわけではなかった。常時一〇そんなことで各戦線では、共産党軍が日本の支配 〇万から一五〇万人の兵士たちが駐留し、一九四五地域に侵入せぬよう、農村の住人たちを強制的に立 年八月の終戦まで戦い続けていたのである。 ち退かせて、広大な無人地帯を設置したり、鉄道の周 太平洋戦争勃発時、すでに日中戦争から四年以上辺に長大な防御壕や防御壁をつくったりするにとど こ、っちゃく か経過して戦線は膠着してしまっていた。とくに日まった。ちなみにこれにより、難民となってしまった じゅ、つけい 本軍は、重慶に逃れた ~ 將介石の国民政府ではな中国人は、一〇〇万人を超えたともいわれている。 ・も、ったくと、つ く、毛沢東率いる中国共産党軍のゲリラ的抵抗に手だが、こうした状況を打開しなくてはならない出 を焼いていた。広大な領土ゆえ、日本軍は点と線の占来事が発生した。リ 男項で述べた一九四一一年四月十八 領で、ときにそれは共産党軍によって分断されるこ日に実施されたアメリカ軍の日本本土初空襲 ( ドウ とも少なくなかった。また、アメリカに経済封鎖されリットル空襲 ) である。日本にとってはまさかの空 てから、日本軍が食糧などを現地調達するようにな襲だったが、空母から出撃した爆撃機が、その後中 太平洋戦争中の日中戦争と ヨーロッパ大戦の推移 ◆大陸打通作戦 254

10. 目からウロコの太平洋戦争 : 複雑な戦史がスッキリわかる!

日本兵は、極限のところで己をコントロールしてとを知る。 いるのである。もし現代人が同じ状况に放り込まれただ、アツツ島玉砕以後、マキン島、タラワ島、 おう たなら、おそらく自分だけ戦線離脱してアメリカ軍サイバン島、グアム島、テニアン島、硫黄島と、ア に投降するか、本当に気がおかしくなって現実逃避メリカ軍はたびたび日本軍の果てしのない抵抗と玉 するか、絶望のあまりみずから命を絶っかするだろ砕戦法を経験することになる。こうした日本軍の行 動を目の当たりにして、戦場で精神を病んでしまう う。当時の兵士も、そうした衝動に襲われながら、 それを制御して、敵陣への玉砕突撃を敢行したのでアメリカ兵が続出したといわれている。 さて、アツツ島攻略から本格的な反攻を開始した ある。 攻 アメリカ兵は、日本兵が全員が死ぬまで戦いをやアメリカ軍は、マッカーサー率いる大軍がニューギ 反 めないことを身をもって知り、その戦法に戦慄を覚ニアを、ハルゼー中将率いる大軍がソロモン諸島 のえた。同年八月十五日、アメリカ軍はキスカ島へのを、攻略を競争するようなかたちで北上していっ戦 カ上陸を計画するが、それに先だって二週間以上も、 キスカ島への空爆と艦砲射撃をおこなっているのが の ア 局 砕その証拠である。が、すでにキスカ島の日本軍は、 島アメリカ艦隊の隙をみて全員が撤収しており、その 第 ッ攻撃は全くの無駄であった。アメリカ軍は上陸して 3 二日後、はじめてキスカ島がもぬけのからだったこ その頃の日本 、」 0