4 日本政府は戦争に勝てると考えていたのか ・東条内閣の閣僚・ 東条内閣 ( 一九四一・十・十八 5 四四・七・ニ十一 I) 軍需東条英機 ( 兼 ) 農林井野碩哉 ( 翼政 ) 総理東条英機 ( 四三・十一・一ー 山崎達之輔 ( 翼政 ) 外務東郷茂徳 商工省を廃止、新設 ) ( 四一二・四・二十 5 十一・一廃止 ) 一 東条英機 ( 兼 ) - 運輸、田嘉明 商工岸信介 ( 翼政 ) 通信ノ ( 四一二・十一・一ー、逓信・ 谷正之 東条英機 ( 兼 ) 鉄道一一省を廃止、新設 ) ( 四三・十・八ー十一・一廃止 ) ( 四二・九・十七ー ) 五島慶太 逓信寺島健 ( 貴 ) 重光葵 ( 四四・二・十九、 ) ( 四三・四・一一十ー ) 八田嘉明 ( 兼 ) ( 四一・十二・一了四三・十一・一廃止 ) 】国務鈴木貞一 ( 貴 ) 内務東条英機 ( 兼 ) 安藤紀三郎 鉄道寺島健 ( 兼 ) 湯沢三千男 ( 貴 ) ( 四一一・六・九、四三・四・一一十 ) 務 ( 四一一・二・十七 5 ) 八田嘉明 ( 貴 ) 兼 青木一男 ( 貴 ) ( 四一・十一一・一了四三・十一・一廃止 ) - 安藤紀三郎 ( 貴 ) ( 四一一・九・十七ー十一・ l) ( 四三・四・一一十ー ) 兼 拓務東郷茂徳 ( 兼 ) 大麻唯男 ( 翼政 ) 大蔵賀屋興宣 ( 貴 ) 井野碩哉 ( 兼 ) ( 四三・四・二十、 ) 府 石渡荘太郎 ( 貴 ) 後藤文夫 ( 貴 ) ( 四四・二・十九 5 ) 厚生小泉親彦 ( 貴 ) A 」 ( 四三・五・一一十六ー ) 政 陸軍東条英機 ( 兼 ) 部 一大東亜青木一男 ( 貴 ) 大 岸信介 海軍嶋田繁太郎 ( 四三・十・八↓ の 拓務省を廃止、新設 ) 政 野村直邦 中 藤原銀次郎 ( 貴 ) ( 四四 , 七・十七↓ 農商山崎達之輔 ( 翼政 ) 時 ( 四三・十一・十七ー ) ( 四三・十一・一、 司法岩村通世 員 一書記星野直樹 ( 貴 ) 農林省を廃止、新設 ) 官長 文部橋田邦彦 章 院 内田信也 ( 翼政 ) 東条英機 ( 兼 ) 族第 】制森山鋭一 ( 貴 ) ( 四四・二・十九ー ) ( 四三・四・一一十 5 ) 岡部長景 ( 貴・翼政 ) 一 貴 3 ( 四三・四・一一十三ー )
4 日本政府は戦争に勝てると考えていたのか 東条英機内閣 東条内閣は開戦内閣となった。以後、同内閣のもとで太平洋戦争が 遂行されていく 第 3 章戦時中の軍部と政府 129
争準備を完整す。一「帝国は右に並行して、米英に ここにおいて近衛は、政局運営に自信を失い、内 対し外交の手段を尽くして帝国の要求貫徹に努む。閣を総辞職してしまうのである。十月十六日のこと なお 前号外交交渉に依り十月上旬頃に至るも尚我要である。 ひがしくにのみや 求を貫徹し得る目途なき場合においては、直ちに対 後継首班については、近衛も東条も、東久邇宮 なるひこ 米開戦を決意す」 稔彦王を推薦した。いきなりの皇族出現は唐突に感 というのがその内容だ。 じるかもしれないが、すでに御前会議で決定された ここにはじめて、日米戦争の公式日程が明示され日米開戦の期限は、十月下旬に迫っている。軍部を たのである。 おさえてこの決定を白紙撤回できるのは、皇族しか いずれにしても和戦両様の構えでいこうとしたの いないと判断したのである。 たか、日米交渉でアメリカは、はっきり中国からの これに対して木戸幸一内大臣や天皇は、強く反対 撤兵問題を口にするようになった。 した。開戦の決定を下して、もし対米戦争に勝てな 近衛はそれでも交渉を継続しようとしたが、東条か 0 たら、その責任は皇室にのしかかり、戦後、国 英機陸相が「もしアメリカの言いなりに撤兵した民が離反して天皇制が崩壊する危険があったから ら、日中戦争の成果を壊滅させ、さらには満州国、だ。 朝鮮統治も危うくなる」と交渉の打ちきりを近衛に こうした状況のなか、後継首班を選定する重臣会 迫 0 たのである。東条の意見は、陸軍強硬派を代表議が開かれたが、最終的に木戸内大臣が、周囲の反 していた。 対を押し切って東条英機を次期首相に推薦すること 128
太平洋戦争の緒戦による連戦連勝で、東条英機内一九四三年十一月には、軍需生産の一元的統制の 閣の威信は大いに上がった。さらに翼賛選挙の結ため、商工省と企画院を合併して軍需省を創設、初 果、議会も東条の言うがままになった。ところが、 代大臣を東条自身が兼任した。 ミッドウェー海戦、ガダルカナル島撤退、アツツ島このころ、陸軍と海軍が飛行機などを中心とする の玉砕など、次第に戦局が悪化してくると、反東条軍需品や資材の配給をめぐって醜い争いをしてい しゅんどう 勢力が蠢動をはじめだした。 た。そうした対立を解消するとともに、自分が軍需 一方東条は、首相といえども統帥権 ( 軍事指揮品統制の権限を掌握して、陸海軍をコントロールし 権 ) には一切介入できず、ミッドウェーの大敗北もたいと考えたのだ。 正確に知らなかったといわれる。 翌年一一月、東条は大本営の参謀総長 ( 陸軍の戦争 それゆえ、内閣の国務権にくわえ統帥権をも掌握最高責任者 ) に就任し、腹心の嶋田繁太郎海相に軍 して、絶大な権力のもと戦争を完遂しようと動いて令部総長 ( 海軍の戦争最高責任者 ) を兼ねさせたの である。さらに翌月、戦時行政特例法の職権特例を 戦争中になぜ東条内閣は 総辞職してしまったのか し」、つす・い ◆小磯内閣の誕生 166
一九四一一年四月三十日、衆議院議員総選挙がおこのである。日中戦争の泥沼化で生活を圧迫されてい なわれた。太平洋戦争の真っ最中である。なんだか妙る国民が、選挙で政府に反発するのを恐れたからで な気がする。この頃のイメージは、軍部による独裁色がある 強く、議会などはすでに有名無実な存在に転落しきっ ところがその後、太平洋戦争初期の日本軍の攻勢に てしまっているような感じをうけていたからだ。 よって、東条内閣は絶大な人気を誇るようになった。 だが、意外にも総選挙を推進したのは、東条英機それゆえ東条は、この時期に総選挙を実施し、政 首相をはじめとする戦争指導者たちだったのであ府に好都合な議員を数多く当選させ、翼賛 ( 政府に る。彼らは、今以上に議会を政府の言いなりにして協力する ) 議会体制の構築を目指したのである。 しまお、つと意図したのだ。 ただ、権力に好都合な人物を政府自らが推薦候補 じつは、四年に一度おこなわれるはずの衆議院選にすることは、憲法や選挙法を侵害することにな 挙は、五年間おこなわれていなかった。戦時につる。かといって、自由選挙にしたら、議会を完全に 力しら き、近衛文麿首相が一年間、議員の任期を延長した傀化することは難しい。そこで東条は、各界の代 なぜ戦争中に 衆議院選挙がおこなわれたのか ◆戦時下の選挙 よくさん
輸出を全面的にストップした。同時に、イギリス・ と戦争をおこなうことが決定された。この時期、陸 中国・オランダに経済封鎖網 (<PQOQ 包囲陣 ) を軍は開戦に傾いていたが、海軍はこれに反対してい 構築させ、日本を押さえ込もうとしたのである。すた。そんななか、十月上旬が来てしまった。近衛首 でに日本政府では、アメリカとの開戦も念頭におい相は、先の御前会議の決議を撤回してでも、日米交 と、つじよ、つひで」 ていたが、 一方で近衛文麿首相は、三カ月前からは渉を継続すべきだと主張したが、東条英機陸相が いちる じまっていた戦争回避に向けた日米交渉にも、一縷即時開戦をとなえたため、内閣は総辞職した。 きどこ、ついち の望みをつないでいた。 このときにあって、木戸幸一内大臣は、九月の御 日米交渉は、はじめ民間で非公式におこなわれて前会議の決定を白紙に戻すことを条件に、東条英機 いたのを、近衛内閣が正式に引き継ぎ、野村吉三 郎に内閣を組織させた。だが、再検討したものの、東 駐米大使が窓口となって、ハル国務長官との間で展条は開戦は不可避との結論を出した。ただ、まだこ 開されていった。近衛個人は、対米戦に反対であれを回避すべきだという声も強かった。 り、強硬派の松岡外相を排除し、フランクリン・ルそれを沈黙させてしまったのが、「ハル・ノート」 ーズベルト大統領と首脳会談によって事態の打開をである。十一月末、日米交渉の席上で、コーデル・ はかろ、つとした。が、会談は実現しないまま、南部 ハル国務長官が出してきた日本側への要求である。 仏印進駐が断行されたのである。 「日本軍の南方・中国からの完全撤退。蒋介石政権 一九四一年九月はじめの御前会議において、十月の承認。日独伊三国同盟の死文化」がその主な内容 上旬まで日米交渉が妥結しないときには、アメリカだった。
足経済を確立して共存共栄をはかることを目指す」させ、新省設立を強行したのである。 ただ、日本政府は、東南アジア地域をすべて同様 と謳ったのだ。 たが、いま述べたように、それは建前のきれい事に支配しようと考えたのではなかった。たとえばフ ィリピンは、これまでアメリカの支配下にあった だった。さらに『南方占領地行政実施要項』では、 「現住土民 ( 現地住民 ) に対しては、皇軍 ( 日本軍 ) が、太平洋戦争勃発以前より、すでに一九四六年に に対して信倚観念を助長せしむるごとく指導し、そ国家として独立することが決まっていた。また、ビ の独立運動は過早に誘発せしむることを避くるものルマも非常に独立運動が盛んだった。これを無理矢 かとすーと決定している。なるべく原住民たちの独立理におさえることは、戦争遂行上得策ではなかった 運動を防ぎ、日本軍への依存体質を形成しようと考ため、東条首相はすでに一九四二年一月の議会演説 えたのである。 で、「住人が大東亜共栄圏確立に協力的なら、独立 一九四二年十一月、政府は満州国を含む占領地域させる方向で考えている」と述べている。ただ、実繖 の全体の政務を統括する機関として大東亜省を新設し際に両地域が独立したのは、ビルマが一九四三年八 をた。東郷茂徳外務大臣は、外交の一元化を乱すもの月、フィリピンが同年十月のことで、それから一年 嶬であり、占領地域の人々が他国とは違う外交上の扱半から一一年近くの歳月が過ぎている。一九四三年五勝 いを受けることで、彼らの反発心を増幅することに月末時点で、政府は両地域の国家独立の方針を決定章 オ、東条英機首相は、反したが、そのころにはすでに戦局が悪化してきてお 日なると大いに反対した。、、こか、 Ⅱ対する東郷外相に辞職を迫り、ついに彼を単独辞職り、両国民を日本に引き付けておくためのエサだっ その頃の日本
大政翼賛会の総裁は総理大臣が兼任し、支部長は長は世話人を兼ねることとしたのである。 各府県知事が兼ねることにな 0 た。各政党も大政翼隣組というのは、一九四〇年に国家の命令で組織 賛会に入 0 たが、やがて同会の主導権は軍部が握るされた近隣グループで、一〇戸程度を一単位として よ、つになっていった。 地域の消防活動、灯火管制、警報伝達などにあたる 、近衛に次いで内閣を組織した東条英機首相こととされていた。 は、太平洋戦争時、この大政翼賛会を巧みに利用し いずれにしても、こうした改変の結果、大政翼賛 て戦時体制を強化していった。 会は、官製の国民運動組織を包括的に傘下に置くと 一九四一一年五月、東条は大政翼賛会の刷新を閣議ともに、国民の下部組織全体を掌握し、速やかなる 決定し、さまざまな行政官庁の指導下にあ 0 た諸組上意下達により国民に戦争協力を強いることができ 織を大政翼賛会の傘下に統合することにした。これるようにな 0 たのである。実際、政府や軍部は、大 によ 0 て大日本産業報国会、農業報国会、商業報国政翼賛会にさまざまな命令をくだし、それは同会か 会、海運報国会、大日本青少年団、大日本婦人会のら町内会、隣組〈とスムーズに伝達されてい 0 た。 指導監督権、並びに人事予算権は、大政翼賛会が持具体的には、生活物資の配給、金属回収、政府の宣 っことになった。 伝普及、警察情報の伝達徹底、出征兵士の歓送、防 となりぐみ また、町内会、部落会、隣組 ( 隣保班 ) も直接大空活動、勤労動員、貯蓄・国債の割当などである。 政翼賛会の指揮下、組み込んだ。原則として、町内このように大政翼賛会は、戦争遂行のための完璧 会長と部落会長は大政翼賛会の世話役を兼ね、隣組な上意下達機関とな 0 たが、逆にいえば、権力の命 120
必死の抵抗をおこなっていたが、マリアナ海戦の敗視して、岬から投身自殺していった。万歳と叫びな ノから飛び降りたことから、現 ~ 仕はバンサイクリフと 北でそれが不可能となり、ついに大本営も、サイヾ ンを見捨てる方針をとった。六月一一十四日のことで呼ばれ、岬の上には無数の慰霊塔が立ち並んでい ある。それでも守備隊は、抵抗をやめなかった。別る 項で述べたように、捕虜となることは死ぬより恥だ かくして、日本は絶対防衛圏を難なくアメリカ軍 と教えられてきたからだ。組織的な抵抗は、驚くべに破られてしまったのである。東条英機内閣は、こ きことにそれから二週間以上も続いた。 の責任を負って総辞職した。 七月七日、日本守備軍は、玉砕攻撃 ( 敵の弾に当 たって自殺する ) を決意、アメリカ軍が占拠したガ の ラバンを目指して、三方面から数千人がいっせいし で ン突撃を敢行した。 日本守備隊のうち、捕虜となった二一〇〇名、ま サ た玉砕攻撃の後もゲリラとして山中で抵抗した者を 領 ムロ 除くと、すべてが戦死した。その数は、四万人を超 委えた。また、民間人も二万人のうち、半分以上が死 本んだ。とくに島北端のマッピ岬まで追いつめられた 多数の民間人は、アメリカ兵が投降を求めるのを その頃の日本 2 月第 5 章戦局の悪化と終戦
発して、首相の各国務大臣に対する権限を強化し石原完爾グループに属していた津野田知重少佐な どは、東条首相暗殺計画を練っている。また宮中派 いずれにせよ、総理大臣の参謀総長兼任により、の細川護貞なども、「東条内閣を倒して天皇制を残 統帥権と国務権がとうとう一体化し、東条一身に権すことのみを条件に連合国軍に降伏すべきだ」とし 力が集中するとともに、作戦や用兵など、戦争の指て、やはりテロによる政権打倒を企画した。 戦局の悪化とと 結局どれも実現化しなかったが、 導が自由にできるようになったのである。つまり、 もに、権力強化とは裏腹に、東条の立場は苦しくな かアメリカ大統領のごとき権限を獲得したわけだ。 だか、こうした東条のやり方を憲法違反だとか統っていった。 っ ただ、東条内閣を生んだ木戸幸一内大臣が内閣に し帥権侵害だとか非難する声も高くなっていった。と しくに一九四三年秋から東条打倒の動きが活発化して好意的で、なかなか反東条に傾かなかったことで、 職 府 政 東条打倒計画は現実化していかなかった。 それにかかわったのは、近衛文麿、米内光政、岡東条のほうでは、重臣や海軍重鎮らによる倒閣の部 かんじ の 条田啓介など国家の重臣、石原完爾グループや陸軍皇策動を察知し、特高警察に中野正剛や彼と密接な右 中 時 ぜ道派、海軍内反東条勢力、革新的右翼などで、こう翼グループを検挙させたり、重臣たちに憲兵をつけ 、つカキ」かずしげ 章 したさまざまな勢力が結びつき、一時は字垣一成やてその動静を監視させたりした。 中 こばやしせいぞう 第 だが、そんな東条の進退を決定的に窮まらせる出 戦小林躋造海軍大将を首班にしようという計画も持 来事が起きる。 ち上がった。 ュイ・・イー 、」 0 その頃の日本