満州国 - みる会図書館


検索対象: 目からウロコの太平洋戦争 : 複雑な戦史がスッキリわかる!
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1. 目からウロコの太平洋戦争 : 複雑な戦史がスッキリわかる!

きしのぶすけ 次に組閣したのは、海軍大将斎藤実であった。斎立したのは、戦後、総理大臣になった岸信介だ。 た / 、しよく 藤は、政党・官僚・財界・軍部から閣僚を集め、挙また政府は、満州拓殖公社という国策会社を創 国一致内閣をつくったが、世論や議会・軍部の要請設し、満州の中国人農民たちから非常に安い価格で によって、簡単に満州国を独立国家と認定したう田畑を強制的に買い上げ、これを日本人移民に無償 え、同年九月、日満議定書を取り交わして国交を樹配布するという移民政策を推進していった。五族共 立したのだった。 和とは、ほど遠い政策であろう。 議定書には、日本軍の無条件駐留、日本権益の保 こうした一連の満州事変の進行を、主権の侵害で 障、関東軍への交通機関の管理委託、日本人官吏のあると中国政府は国際連盟に提訴した。そこで国連 登用といった、日本側にとってまことに都合の良いは、イギリスのリットン卿をリーダーとする調査団 内容が盛り込まれていた。 を日本や満州国に派遣して、詳しく満州事変を調査 たとえば、満州国の閣僚や官僚トップには、長官し、それを報告書にまとめ上げた。報告書には、 として満州人が就任したが、次官には必す日本人を「満州の主権は中国にあり、満州国は国家として認 置く制度になっており、長官は何ら権力を持たず、められない」と書かれてあった。 実権を握ったのは日本人次官だった。次官には、日 ただし、日本に対する満州地域の権益に関して 本本土から優秀な官僚が派遣され、政台ト、 、冫・タ交・経は、従前通りこれを容認しており、決して日本が受 済など、そのすべてをつかさどった。ちなみに、経け入れられない内容ではなかった。 済官僚として派遣され、満州国の経済システムを確一九三三年二月、この報告書をもとに国連は臨時 さいと、つまこと 0

2. 目からウロコの太平洋戦争 : 複雑な戦史がスッキリわかる!

~ 將介石の国民政府 ( 中国政府 ) は、満州国を不当関東軍は侵入しないという取り決めを結んだのであ タンクー だと国際連盟に提訴し、国連は満州の主権は中国にる。これを塘沽停戦協定と呼ぶ。この日中停戦協定 あるという結論を日本に突きつけたが、 これに対しによって、国民政府は、日本の満州支配を事実上容 て日本は国連脱退を通告し、軍事行動を継続して北認したのである。 てんしん 京や天津に迫る勢いをみせた。国連の圧力で関東軍満州国は、広大である。人口は三四〇〇万人に過 の暴走をおさえようとした ~ 將介石だが、そのもくろぎないが、その面積は日本本土の約三倍もあった。 みは辛くも崩れ去った。 別項で述べたように、当時は昭和恐慌の真っ最中 ・も、った / 、と、つ しれつ 当時国民政府は、毛沢東率いる中国共産党と熾烈で、日本の農村は悲惨な状況にあった。これを救、つ たくしょ / 、 な争いを展開していた。それゆえ、関東軍に徹底抗ため政府は、満州拓殖公社を設立して満州人 ( 中 戦する余力はなかった。そこで日本との講和を模索国人 ) から強制的に田畑を安く買い上げ、移民を希 し、一九三三年五月、満州国と中国の間 ( 万里の長望する日本人に無料で一〇町を配布した。これによ 城以南 ) に非武装中立地帯をもうけ、それを越えてり、 東北地方を中心に小作層や貧農層が満州に殺 満州開発と 華北分離作戦 ◆抗日統一戦線の誕生

3. 目からウロコの太平洋戦争 : 複雑な戦史がスッキリわかる!

関東軍は、満州を日本に併合し、朝鮮半島のようして掲げた。 な植民地にしてしまおうと企んでいたが、上海事変五族とは、日本人、中国人 ( 漢民族 ) 、満州人、 で国際世論が厳しくなったため、奉天・吉林・黒竜モンゴル人、朝鮮人をさし、こうした異人種が共和 江省を制圧した段階で、国家として中国から独立さして仲良く暮らせる極楽のような国家を目指すとし せるという奇想天外な手法をとったのである。 たのである。 こうして建国された満州国の元首 ( 執政 ) には、 その実態は、理想とは全く異なるものだっ ふぎ 溥儀が就任した。この溥儀という人は、清国最後のた。 せんとう てんしん 皇帝 ( 宣統帝 ) であり、廃位後は天津で静かに暮らそもそも満州国は、軍事力を持たなかった。一切 していたが、 関東軍がそれを引っ張り出してきて、 の国家防衛を日本軍 ( 関東軍 ) に委託したのであ 一九三一一年三月、執政にすえて新国家 ( 満州国 ) をる。独立国家が、外国の軍隊に国防を託すなどとい 立ち上げたのだ。 うことは、当時としてはあり得ない話である。これ 力いらい 満州国は、「五族共和・王道楽土」を建国の精神と一つとっても、満州国が日本の傀儡国家であること 国際的孤立を選んだ 大日本帝国 しっせい ◆国際連盟脱退

4. 目からウロコの太平洋戦争 : 複雑な戦史がスッキリわかる!

ところが、ポーツマス条約を成立させて帰国したうとうアメリカは、満州から閉め出されることにな 全権小村寿太郎は、南満州鉄道の共同統治に大反対ったのである。 し、軍部も日本の単独経営を支持したことから、急中国に対する二十一カ条の要求、シベリア出兵、 遽この案は日本側の通告で白紙撤回された。この裏満州事変、日中戦争と、日本が大陸への侵略を強め 切り行為に、アメリカ国民の対日感情は急速に悪化ていくたびに、どこの国よりも激しくアメリカが我 していった。 が国を非難したのは、じつは、こうした日露戦争時 怒ったアメリカ政府は、清国に資金援助して満州の確執があったからなのである。 鉄道を日本から買い戻させ、それを列国間で共同統 治しようと企図し、各国にもそれを盛んに働きかけ っ いわゆる、満州鉄道中立化案である。列強諸国 争の圧力で、日本の満州進出を阻止してしまおうとい - 足 、つものだ。 日 これに対して日本は、中立化案を断固拒絶すると 因 のともに、一九一〇年、ロシアに接近して第二次日露 戦協約を締結し、両国の中国における権益が侵害され 平た場合、共同防衛をおこなう確約をとりつけた。こ 1 うした日本の巧みな満州権益の防衛外交により、と 5- ゞ、 その頃の日本 = こむらじゅたろう 0 15 第 1 章太平洋戦争への道

5. 目からウロコの太平洋戦争 : 複雑な戦史がスッキリわかる!

する関東軍は、満州国大部分の放棄を決め、朝鮮の ソ連軍は、満州国だけではなく、南樺太や千島列 国境に近い満州東南部で徹底抗戦を想定して、陣地島にまで乱入してきた。日本が無条件降伏した八月 つくりをおこなっていた。だが、 こうした方針は、十四日を過ぎても軍事行動をやめず、朝鮮半島へも いっさい日本人居留民や開拓団には知らされること侵攻していったのである。そして、軍人・民間人を かなかった。 含めて、およそ六〇万人を捕虜とした。捕虜は、国 関東軍は精鋭をうたわれ、当時は八五万人の兵数際軍事規定により、その生命は尊重されなければな を抱えていた。だが、精強だったのは過去の話で、らなかったし、ポッダム宣言にも武装解除された軍 八五万と数だけは多くても、中味はひどいものだつ人は、各家庭に復帰して平和な生活に戻る機会を与 た。精鋭部隊の多くは、沖縄戦のために転出してしえられることになっていた。 まっており、さらに本土決戦に備えて本土へ引き抜 だが、これを無視してソ連は、日本人の捕虜を抑 かれる師団も多く、そのかわりに満州の在郷軍人を留し、シベリアのバム鉄道の建設工事をはじめとす 無理やり徴発したのだ。本土から到着した兵も未熟る強制労働に駆り立てたのである。極寒地域での重 な者が多かった。くわえて重火器は太平洋戦線へま労働だったうえ、満足な食糧も与えられなかったか わされ、関東軍には三人に一人しか小銃が行き渡らら、日本人捕虜は、次々と死んでいった。すさまじ ないほど兵備は貧弱なものになっていたのである。 い捕虜虐待行為だといえた。 それがために、満州国の守備は、放棄せざるを得な こうした状況を憂いた日本政府は、アメリカにそ かったのだ。 の不当を訴えた。そこでアメリカが日本人捕虜の送 、つれ 272

6. 目からウロコの太平洋戦争 : 複雑な戦史がスッキリわかる!

4 満州事変は太平洋戦争に備えて計画された ? ゞ・、リ切ーノ ・満州事変の拡大・ 1931.7 万宝山事件 その頃の日本 : ←日本軍の進路 ソ連 1932.3 満州国建国 1932.9 日満議定書 1934.3 満州帝国成立 1932.9 平頂山事件 1931.6 中村大尉事件 1931.9.18 柳条湖事件 1932.4 ~ 9 リットン調査団派遣 1933.5 塘沽停戦協定 興安 黒竜江 ・。チチハル ・・ 4 ノ、丿レビン ラ兆南、方宝山 長春・ 柳条湖 X ・押順 奉天 北京山海関 、塘沽を旅順 天津 ノモンハン / 吉林 を歩鼓峰 地にされても、列強諸国のデメリットは少なかった きんしゅう のた。だが、 イギリスの利権が強い錦州を関東軍が 爆撃したことで事態は急変した。国際世論がにわか に厳しくなり、アメリカもいっそ、つ、「日本に経済 制裁や外交的圧迫を加えるべきだ」と声高に唱える ようになった。さらに、第一次上海事変がそれに追 、リ強諸国の い打ちをかけた。周知のように上海は さくそ、つ 資本と利権が錯綜する国際都市。そんな場所で大規 模な軍事行動を起こしたことで、日本は激しい国際 的非難を浴びる結果になり、満州事変における列国 の姿勢は、ますます硬化してしまったのだった。 27 第 1 章太平洋戦争への道

7. 目からウロコの太平洋戦争 : 複雑な戦史がスッキリわかる!

認めるべきだ」と主張した。すなわち、遅まきながである。もちろんそうした労も、極言してしまえ ば、中国進出というアメリカの野心が裏に潜んでい らアメリカも、中国分割に加わろうという魂胆だ。 たからだといえよう。 じつは日本も、アメリカと同じ立場にあった。 リヤオトン 日本は、戦時中から日露戦争後の満州共同統治に 日本は、日清戦争で遼東半島 ( 満州の一部 ) を清 国から割譲されながら、ロシアの強い要求で返還せついて、アメリカ側に確約を与えていた。 一九〇五年八月には、鉄道王と呼ばれたエドワー ざるを得なくなり ( 三国干渉 ) 、その後同半島は、 ロシアが植民地のようにしてしまっていた。 リマン ( アメリカ人 ) が来日し、日本政府に それゆえ日本も、ロシアのやり方に強い不満を抱対し南満州鉄道の共同管理を提案している。まだ、 き、中国の領土保全と機会均等を主張していたので講和条約は締結されていないときだ。 ある。 ただ、同地は事実上、ロシア軍を駆逐して日本軍 こうした利害関係の一致が、アメリカの親日感情が制圧下に置いており、南満州の権益がロシアから を増幅させ、日露戦争勝利の暁には、日米共同で満日本へ委譲されることは確実視されていた。ハ 州を統治できるという気持ちから、アメリカ国民はンは、世界一周鉄道を計画しており、その一部とし て南満州鉄道に着目したのである。日本政府はこの 日露戦争で日本に協力したのである。 日露戦争の講和条約は、アメリカの軍港ポーツマ提案を了承し、十月には桂太郎首相とハリマンとの スで結ばれたが、 この講和は、アメリカのセオド間で、日米共同経営組織の創設のための、予備協定 ア・ルーズベルト大統領の積極的仲介で実現したのの覚書が取り交わされた。

8. 目からウロコの太平洋戦争 : 複雑な戦史がスッキリわかる!

5 国際的孤立を選んだ大日本帝国 は明らかだろ、つ。 満州国が建国されてからも、関東軍は軍事行動を やめす、興安省や熱河省へも進撃し、さらに万里の 長城を越えて、北京や天津にまで迫る勢いを見せ ところで、こうした関東軍の動きに、大養毅内閣 は、どう対処したのだろうか 大養首相は、満州国を政府として承認しない方針 を固めていた。満州地域の主権は中国政府にあると 認め、同地域を日中共同統治下に置くことを考えて たで国年の いたのである。一説によれば、暴走し続ける関東軍 れ連中由 さソて四自 これの に対しては、昭和天皇に勅語を発してもらい、 ・刀 0 、 首後やるれ 争 にストップをかけようと計画していたといわれる 元争、れさ の戦りさ許 だが、その大養が、一九三一一年五月十五日、首相 国洋送渡を ~ 州平をき罪 満太活引くた 官邸に乗り込んできた海軍青年将校らによって射殺章 り、生をやっ やは所柄一つな されてしまったのである ( 五・一五事件 ) 。これに第 儀理儀容身よと 溥無溥収にに身 よって、大養構想は瓦解した。 その頃の日本

9. 目からウロコの太平洋戦争 : 複雑な戦史がスッキリわかる!

しよ、つかいせき ~ 將介石の北伐から日本人居留民を保護するという件 ) 。 ちょ、つさくりん 名目のもとに、強行された軍事行動であった。 当時、満州を支配していたのは、軍閥の張作霖だ 少し中国情勢について捕足すれば、一九一九年、った。田中内閣は、張作霖を援助して蒋介石の勢力 そんぶん 孫文は中国国民党を創設するが、これを引き継いだを防 ) 」うと考えていた。 ~ 將介石が、中国統一を目指して一九二六年から大規これに対して、現地の関東軍首脳部は、張作霖の 模な軍事行動を開始していた。山東出兵当時、中国力では国民革命軍 ( 蒋介石軍 ) から満州を守ること は統一国家とは呼べず、各地域に軍閥と呼ばれる、 ができないと判断、とんでもない謀略を実行するの 日本でいう戦国大名のような地方政権が群雄割拠しである。 きひん ていた。こうした状況を打開すべく、 ~ 將介石は国民一九二八年六月四日、北京から一台の特別貴賓列 革命軍を率いて、軍閥平定のための北上をはじめた車が満州へ向かっていた。乗っているのは、張作霖 のである。これを北伐と呼んだのだ。 この列車 だった。関東軍は、奉天を通過するさい、 一九二七年四月、上海を制圧した ~ 將介石は、南京を爆破したのである。張作霖は、ひどい怪我を負 い、まもなく死亡した。関東軍は、これを中国国民 を拠点とする国民政府を樹立した。こうした勢い に、満州における日本権益の喪失を危惧し、日本人党の仕業に見せかけ、満州が大混乱に陥ったところ 居留民の保護を名目として、田中首相は山東出兵をで、沈静化を名目にして満州全土を軍事制圧してし 断行したのだ。第二回の出兵のさしし ( ) こよ、日本軍はまおうと企んだのだ。そうすることで、日本軍の手 国民革命軍と大規模な衝突を起こしている ( 済南事で国民革命軍の来襲を防 ) 」うとしたのである。 ほくばっ さいなん ほうてん 2 2

10. 目からウロコの太平洋戦争 : 複雑な戦史がスッキリわかる!

リンは正式にこれを受長六人だけの最高戦争指導者会議を秘密に開いても 連に対日参戦を求め、スター ソ連対策をはかった。会議では「ソ連から好 諾した。このさいルーズベルトは、その代償としてらい からふと 満州における日本権益及び南樺太・千島列島のソ連意的中立を獲得するとともに、戦争終結の仲介をさ せる」という方針が決まり、これをもとに東郷は、 譲渡を約束したと伝えられる。 ソ連の対日参戦は、ドイツ降伏後二—三カ月後と日ソ交渉を開始していった。 まず広田弘毅元総理に依頼して、ソ連駐日大使ャ 決定された。 かくして同年四月、ソ連は日本に対して、日ソ中コプ・マリクを介しての仲介交渉をスタートさせ 立条約の不延期を通告してきた。また、満州国境付た。同時に近衛文麿元首相を外交特使として派遣し と近にいたソ連軍は、この頃急速に増強されていったいとソ連側に打診した。 た。調査によれば、一九四四年末に兵力七〇万、戦だが、ソ連はその依願をのらりくらりとかわすま め 決 うな態度をとった。すでにヤルタ会談で対日参戦方戦 闘機一五〇〇機、戦車一〇〇〇両であったものが、 ー刀 夂い、 レ」 米一九四五年五月には兵数は一〇五万に、戦闘機は四針が決定していたのだから当然だろう。 レ」 瑾五〇〇機、戦車は二〇〇〇両と激増していたのであ八月九日、ついにソ連軍が、満州国の国境を越え悪 で る。軍部では、ソ連が宣戦布告してくる日は近いとて領内へなだれ込んできた。中立条約の不延長を通戦 しげのり 会 考えた。そこで軍部は、鈴木貫太郎内閣の東郷茂徳告したとはいえ、まだ条約の期限は切れていなかっ タ レ 第 たのにもかかわらずである。 、外交力でこれを防止することを求めた。 ャタ・ . ネ・。 2 すでにこのときのことを想定して、満州国を守備 東郷は、首相、陸相、海相、参謀総長、軍令部総 0 その頃の日本