一九三三年、ドイツで政権を握ったナチスのアドた。またドイツとは、ソ連や同国の奉じる共産主義 ルフ・ヒトラーは、日本に続いて国際連盟を脱退を危険視する点で一致しており、なおかっ、ドイツ し、一九三五年に徴兵制を復活して再武装を断行との提携は、日本の中国侵略を非難するアメリカや し、急速に軍国主義国家を形成していった。またヒイギリスへの牽制ともなり得た。こうして、日独関 トラーは、これより先にイタリアで一党独裁体制を係は急速に親密化していった。かくして一九三六 敷いていたファシスト党のべニート・ムッソリーニ年、日独防共協定が結ばれ、そのなかで秘密協定と と提携し、イギリスやフランスなど自由主義国家として、ソ連を仮想敵国とした。翌年には、イタリア 対立して、他国への侵略を進めた。一九三六年、イがこれに加わり、日独伊防共協定が締結された。 こ、つして、アメリカとイギリスを中心とする自由 タリアはエチオピアへ侵攻してこれを植民地とし、 主義陣営、ソ連という共産主義国家にくわえ、第三 一九三八年、ドイツはオーストリアを併合した。 こうした軍国主義国家の台頭は、国連を脱退して勢力として日独伊三国が台頭、枢軸陣営と呼ばれる 国際的に孤立していた日本にとっては大歓迎だつようになった。 第一一次世界大戦と 日独伊三国同盟の関係とは ? ◆攻守同盟と日米関係の悪化
1 太平洋戦争の原因は、日露戦争にあった ? ローは、不干渉・孤立主義を宣言した。「アメリカ は、ヨーロッパ諸国の帝国主義に干渉しないから、 あなたがたもアメリカの方針にロ出ししないでほし い」という主旨である。しかし、西部開拓が終わる とアメリカも、太平洋への進出を企図するようにな る。一八九八年、キュー ハをめぐる米西 ( アメリ カ・スペイン ) 戦争に勝利した同国は、フィリピン 島 やグアムをスペインから獲得する。さらに同じ年、 ハワイ諸島を併合した。 ちょうどその頃、日清戦争に大敗したことで王朝 の弱さを露呈した清国は、列強諸国の好餌となり、 そしやく 租借という名目で領土の大半を分割されてしまっての 争 一八九九年、国務長官ジョン・ヘイは、列国に対平 して中国の門戸開放を要求した。ヘイは「列国は中 章 国大陸で勝手に勢力範囲を設定しているが、広く門第 戸を開放し、中国における通商の自由をアメリカに ・日露戦争全図・ その頃の日本 、会戦 8 1 0 ) 0 ) 、海 塞立〉ぎ 一目、川 ワ」 8 ィー 清 奉 山 旅順 大 平壌◆ ・ 0 。 山 釜 本 日 古田 岡
の団結権・団体交渉権・ストライキ権が保証され、化 をさまたげていたと判断、日本政府に対して財閥 さらにその後、労働関係調整法・労働基準法がつく解体と農地改革を命令した。 られ、労働者の権利が保障されるようになった。 一九四五年十一月、三井・三菱・住友・安田など 教育に関しては、軍国主義的な表現・天皇制礼賛の一五財閥の資産が凍結され、持株会社整理委員会 とい 0 た部分を墨で消した教科書 ( 墨塗り教科書 ) が発足して財閥傘下の企業群を分割するとともに、 を使用させて教育を続行させるとともに、軍国主義財閥一族や重役で独占されていた株式が広く売り出 的な教員をすべて教育界から追放した。さらに、修された。一九四七年には独占禁止法が制定され、あ 身・日本歴史・地理の授業を停止し、これにかわるる業種において巨大企業の存在を許さない方針をと 教科として社会科が設置された。一九四七年には、 った。また、独占的寡占企業を分割するため、過度 教育の機会均等・男女共学の原則を盛り込んだ教育経済力集中排除法が制定された。こうして財閥解体 基本法や学校教育法が制定された。 は急速に進んでいくかに見えたが、 やがて米ソの冷 国民を縛り付けていた治安維持法や特高警察、そ戦が激化すると、アメリカは、日本を自由主義陣営 れを管轄していた内務省も解体され、思想犯はそのの防波堤にしようと、経済大国化をはか 0 たため、 ほとんどが解放された。国民には日本国憲法によ 0 解体は不十分に終わり、財閥系銀行を中心とした企 て言論の自由が保障され、天皇制の批判も許される業グループとして財閥は再生したのだ 0 た。 よ、つになったのである。 一九四六年、軍国主義の温床とされた寄生地主制 は、財閥の存在と寄生地主制が経済の民主を解体するため、幣原内閣は第一次農地改革をおこ 280
太平洋戦争は、これまで日本人が経験したことのない未曾有の大戦争で、日本の総力を結集 かんぶ して大国アメリカに立ち向かったものの、完膚無きまでにたたき伏せられ、無条件降伏で幕を 閉じた戦いである。 この戦争が、アジア地域に与えた影響は計り知れない。また、戦後日本は、戦勝国アメリカ に統治され、軍国主義国家から民主主義国家へと一気に変貌を遂げた。そういった意味では、 まさに歴史の大きな転機だったといえる。ゆえに、この戦争を知ることなくして、現代の日本 やアジアを理解することは、不可能といっても過言ではないのだ。 だが、果たしていまの日本人は、どれだけこの戦争について認識しているのだろうか ためしに、私が教えている高等学校で、生徒たちに開戦日を尋ねてみると、八割近くが知ら なかったのである。太平洋戦争が第一一次世界大戦の一部であることや、日中戦争と連続してい る事実も、多くが理解できていなかった。 それが日本の若者の、歴史認識の実態なのである。いまや太平洋戦争の記億は、体験者が急 はじめに みぞう
13 日本の教育制度は、フランスに範をとった一八七二三〇人の小学校教員が検挙された ( 長野県教員赤 二年の学制にはじまり、やがてアメリカの制度を参化事件 ) 。そのうち多くが、そうした主義とは無関 考にした教育令が発布される。しかし、明治一一十年係だったが、このように政府は教育における社会・ 代になると国家主義的傾向が強くなり、一八九〇年共産主義的影響を排除するため、いわゆる赤化教員 ちよくご には教育勅語が発布され、忠君愛国を幼少年期よに目を光らせるようになったのである。 り徹底されるよ、つになった。、、こか、 オ、大正時代になる同年には、小学校の国定教科書が改訂され、小学 と大正デモクラシーの影響で、自由な教育を求める校一年生の国語には「ススメススメヘイタイス ハンザイ ハンザ 大正新教育運動が大々的に展開され、児童中心主スメ」とか「ヒノマルノハタ 義、教育実践重視傾向が強まった。 イ」という言葉が現れるよ、つになった。こ、つした傾 ところが、昭和に入って軍国主義が台頭してくる向は、日中戦争が勃発するといっそう顕著になって と、教育界もそちらへ傾斜していった。一九三三 いった。一九三七年十二月、内閣総理大臣直轄の教 年、長野県で社会・共産主義に関係しているとして育審議会が設置され、同会が中心になって戦時下の 軍国色が強くなる 学校の教科編成 ◆戦時下の教育 220
12 徹底的に言論・ . じ、 ~ 、弾圧をおこなった特高と憲兵 義・軍国主義が台頭し、その結果、ますます思想弾 ・小林多喜ニ虐殺事件 ( 1933 年 ) 圧は激しくなり、多くの共産・社会主義者が逮捕拘 束された。そんななか、共産・社会主義者のなかに あかまっ ・滝川事件 ( 1933 年 ) 国家主義に同調する者が増え、無産政党出身の赤松 かつまろ 克麿は、国家社会主義をかかげ国家社会党を創設し なべやまさたちか ・天畠機関説問題 ( 1935 年 ) た。また、翌年には佐野学や鍋山貞親ら共産党リー ダーらが獄中から転向声明を発し、これによって多 ・矢内原事件 ( 1937 年 ) くの共産党員が転向、同党はほとんど壊滅状態に陥 った。 こうして社会・共産主義が弱体化すると、軍部や ・第一次人民戦線事件 ( 1937 年 ) 府 右翼は、自由主義や民主主義を攻撃していくように と 部 なった。 ・第ニ次人民戦線事件 ( 1938 年 ) の 一九三三年には、自由主義的刑法学者の京都帝国 中 ゅキ」とキ」 大学教授滝川幸辰が免職に追い込まれた。さらに天戦 ・河合栄治郎事件 ( 1938 年 ) みのべたっきち 皇機関説が反国体的だと、美濃部達吉東京帝国大学 第 名誉教授の著書も発禁となり、辞職させられた。一 ゃないはらたたお ・津田左右吉事件 ( 194 0 年 ) 九三七年には、東大教授矢内原忠雄が陸軍の大陸政 ・戦前の思想弾圧・ その頃の日本
ある。 る。互いに相手の伝統と民族性を尊重・伸長する。 一九四三年十一月五日、東条英機首相は、共栄圏各国は緊密に提携して経済発展をはかる。人種差別 内の列国代表者を招いて、東京で大東亜会議を開催を撤廃し、世界の発展に貢献する」 した。 だか、この頃すでに日本は太平洋戦争で劣勢に立 このとき日本は、ビルマ、フィリピンを形式的にたされており、こうした正義の主張は、内外 ~ のポ ・ラウレ 独立させており、フィリピンのホセ・ペー ー、スに過ぎなかった。 ル大統領、ビルマのバ ・モー総理が同会議に出席しかし、国民の多くは、この大東亜共栄圏という ちょ、つけいナ、 している。さらに満州国の張景恵国務総理、中国まやかしを信用し、自分たちは正義の聖戦を遂行し おうようめい ( 新国民政府 ) の汪兆銘行政院院長、タイのワンワているのだという自負をも 0 ていた。また、ちょ 0 イ・タヤコン総理大臣代理、自由インド仮政府主席と信じられないが、国民の圧倒的多数は、太平洋戦 チャンドラ・ボーズが出席した。 争は自衛戦争だと考えていたのである。アメリカが 翌日、会議は『大東亜共同宣一言』を発した。 石油をストップするなど、日本を「ジリ貧」に追い その内容は五項目であるが、いずれもすばらしい込んだことで、仕方なく立ち上が 0 たと思 0 ていた ものだった。 のだ。 しよ、っちよく 要約すると次のようになる。 開戦の詔勅にも、自存自衛のために決起するとい 「アジア各国は、協力して共存共栄のために大東亜う表現が用いられている。が、不思議なことに、戦 共栄圏をつくる。各国は互いの自主独立を尊重す前戦中にあれほど戦争目的だと叫ばれた大東亜共栄 124
10 GHQ による日本の非軍事化と民主化 ・戦後の民主化の進展・ 年 代 連合国軍最高司令官総司令部を横浜に設置 1945. 8.28 ( 9.15 東京へ移転 ) ミズーリ号上で降伏文書に調印 日本軍の武装解除を指令 9 マッカーサー、日本の統治方針を発表する 1 1 戦争犯罪容疑者の逮捕を指令 GHQ 、執務開始 10. 2 4 治安維持法・特高廃止と政治犯の釈放指令 1 1 マッカーサー、五大改革を指令 財閥資産の凍結・解体を指令 1 1 . 6 農地改革を指令 12. 9 1 / 新選挙法の公布 22 労働組合法公布 1 天皇の人間宣言 4 軍国主義者の公職追放を指令 2. 1 ~ 第一次農地改革 新選挙法による初の総選挙 4. 1 0 メーデー復活 3 極東国際軍事 ( 東京 ) 裁判所の開廷 第二次農地改革の諸法令公布 10.21 日本国憲法の公布 教育基本法の公布 1 94 /. 3.31 学校教育法の公布 独占禁止法の公布 4. 1 4 日本国憲法の施行 9. 2 1946. 1 . 第 5 章戦局の悪化と終戦 281
り、日本経済を強化するとともに、再軍備を断行さ せと大規模なデモをおこなった ( 食糧メーデー ) 。 政府としてはインフレを抑えるため、金融緊急措せ、早く国際復帰させ、自由主義 ( 西側 ) 陣営の一 置令を発し、傾斜生産方式を採用して、重要産業の員として活躍させようとしたのである。 かくして一九五一年九月、吉田茂内閣のとき、日 生産力向上を急ぎ、政府予算の均衡をはかって経済 を安定化させようと努力した。しかしながら、思う本は西側諸国四八カ国とサンフランシスコ平和条約 を締結、翌年、主権を回復して独立国家となった。 ように経済は好転せず、戦後数年間、国民は苦しい 生活を強いられることになった。 連合国軍に無条件降伏してから七年目のことであっ そんな日本経済を救ったのが、意外なことに戦争た。 であった。 主 日本の植民地だった朝鮮半島で、北朝鮮と韓国と 民 A 」 の間で本格的な戦争がはじまってしまったのであ 皹る。これにアメリカ軍が大々的に介入、同軍の軍需 の品の注文が日本に殺到したことで、特需景気が訪れ るたのだった。これをきっかけに、日本経済は急速に よ に好転したのである 先に述べたように、この頃になるとアメリカの対 川日方針は大きく変化している。米ソ冷戦の勃発によ その頃の日本 283 第 5 章戦局の悪化と終戦
ていく 各学校の修業年限は特例措置として短縮さに総動員」するためとして、国民学校初等科を除い れたが、 その短縮も三カ月程度だったものが、半て一年間、学校教育を停止することを決めたのであ 年、一年と延びていき、たとえば修業年限五年の中る。ここにおいて、まったく日本の教育制度は破綻 学校は、一九四三年入学の生徒からは四年となっした。さらに同年五月、戦時教育令が出され、学校 ごとに学徒隊が組織され、最後の奉公が求められ 勤労動員についても、臨時で数日間だったものた。 が、最後には通年化し、なおかっ勤労動員を教育実こうした軍国主義的教育は、戦後ただちに廃止さ 践の一環とし、これをもって授業の単位に換えるこれ、これに加担した教師は学校を追われ、一気に教 学校ごとに学校報国隊育は民主化していくことになる。 とか認められるよ、つになり、 成が結成され、軍需工場での長時間労働に駆り出され た。さらには、学校のなかに資財が運び込まれ、そ 教 校こで兵器が組み立てられるといったように、校舎の 学 る軍事工場化も進んでいった。 だが、本土空襲が本格化し、多くの校舎が被災す ると、教育の続行が困難になった。それゆえついに 色 軍一九四五年三月、「全学徒を食糧増産、軍需生産、 防空防衛、重要研究その他直接決戦に緊要なる業務 、」 0 その頃の日本・ = 一 : 225 第 4 章銃後の国民生活