ンは乾燥した砂と岩石の国という印象があるが、そ のスペインに ( イスラム、ハプスプルク、プルポンなど ) ヨーロッパのあらゆる歴史が詰め込まれていること も知った。 当時のスペインは、まだアンチ・デモクラシ 1 の フランコ将軍による独裁体制の下にあった。 193 6 年 2 月の総選挙で成立した人民戦線政府に対して、 フランコはモロッコ軍を率いて反乱を起こした。そ してマドリット 。、ヾルセロナ、カタル 1 ニヤの市民 の決起に対してナチス・ドイツとイタリアの援助を 恃んで共和国軍 ( 武装市民と国際義勇軍 ) の抵抗を封殺、 以後スペインは内戦状態に突入する。そして 193 9 年 4 月 1 日、フランコ将軍はスペイン全土を制圧 し勝利宣一言をするのだ。この内戦で、推定万人が 死亡し、ほば同数のスペイン人が国外への亡命を図 ったと言われる 以来年以上経過した 1970 年時点では、フラ ンコは王政復古の意向を明らかにしつつ公の場にも はや姿を見せることはなかった ( その後フランコは長 い闘病生活ののち 1975 年Ⅱ月に死去している ) 。しかし 当時のマドリッドには、カによる秩序維持が自由の 制限の上に成り立っていることを実感させるような 雰囲気がまだ十分にあった。それは冒頭に挙げナ 「書店の万引き対策」と似たところがある「監視」さ れる社会のそれだ。 スペイン広場から遠くないペンションでの夜の出 入りは、滞在者の自由に委ねられることはなく、ま たペンション管理者のコントロールの下にもなかっ 夜 9 時 ( と記憶するが ) を過ぎてペンションに戻 る場合は、そのペンション付近の街路で大きく手を 、、 0 という価値が両立せず、自由の大きな犠牲のもとに、 自由よりも価値序列の高い「社会秩序」を確かなも のにするという政治体制である 当時、わたしには・オ 1 ウエル『カタロニア賛 歌』に記されたスペイン内戦のイメージがまだ壓表 に焼き付いていた。そのスペインにわずか一週間足 オ 1 ウエルが内戦の らず滞在しただけであったが、 義勇軍に志願し、ソビエトの援助を得ている人民政 府 ( 共和国政府 ) 内部の権力闘争と、フランコ将軍率 叩くよう主人から言われていた。実際、強く手を叩 、近くを巡回している警容呂が大きなカギの東 をぶら下げて現れる。そしてその東の中から自分が 逗留しているべンションのカギを取り出し、おもむ ろに扉を開けるというシステムになっていたのた 安全と秩序の確保のために、人々 ( 旅行者も含めて ) が生活における自由の一部を譲り渡す。譲り渡した 相手が警察であるから、これを「警察国家」と呼ん でもおかしくない。安全と秩序という価値と、自由 2 いるファシスト軍によるスペイン統治の現実が、さ して違いがないことを実感するくだりを改めて思い たしたものだ。そもそも国民のための国民による権 力機構が、その国民を弾圧するという 「全体の全体 に対する圧政」という逆理である。一人の独裁者に よる専制は古代から存在したが、 「全体」 裁者が「全体」を抑圧するというのが幻世紀の全体 主義た そのオーウエルは、スペイン内戦に対して決して 「中立的立場」を装うことはなかった。彼は『なぜ 書くか』の中で、次のように語っている フ 反 「スペイン戦争をはじめ、 1936 年から 7 年にか けてのいろいろな事件によって局面が決定的になる し と、以後私の立場は揺らがなかった。 1936 年以 降のまともな作品は、どの一行をとっても直接間接 に全体主義を攻撃し、私が民主的社会主義と考える ものを擁護するために書いている。 ( 中略 ) そして自 莎ム分の政治的立場についての自覚が深まれば、それだ 、政治的に動いても美や知性にかかわる誠実さを 犠牲にしないですむようになるのである。」 ( 小野寺 健訳 ) 当時の筆者は今よりはるかに観念的であったのだ ろう。他国における自由の侵害に対して、その友邦 の外国人が、闘うために国際義勇軍兵士として身を 投じるということに大した違和感を持たなかった。 トクマとし むしろナイ 1 。フな敬意を抱いたものだ。。。 ての「自由」を守ることを当然のこととして、観念 的に受け入れていたのである。他面、オーウエルが 『スペイン戦争回顧』で、当時の欧米社会でファシ ズムを支持した文化人や政治家、宗教家もかなりい
「毎日プラジル人ホペイロに怒鳴りつけも毎年かわすわけで保証がないですよね。 一九九八年、山川はスペイン行を決行り老ホペイロと飲み明かした。 した。目的は「本場スペイン仕込みのホ晴れてスペイン帰りのホペイロ志願にられていました。僕がユニフォ 1 ムの洗転職は考えなかったですか ? ( し、刀宀な 「優勝に立ち会えたらやめても、 ペイローの肩書きを得ること。それをデなった山川。しかし、簡単には夢は実現濯をすると『お前は洗濯係じゃなくて、 ホペイロだ ! 』って。でも、それをしなと思っていたんです。そして、とうとう イプロマにして日本でホペイロになろうせず、一一年ほどアルバイトをつづけた。 昇格する いと僕の存在意義がなくなってしまうか一一〇〇四年にクラブがリ 1 グカップを と考えたのだ。行き先は、スペインのオビようやく二〇〇〇年にに 制覇して : : : 」 エドのクラブ、レアル・オビエドだった。 O 来只でプラジル人ホペイロの補佐役とら、って言い返してました」 ーー三十代目前だったんですよね。転職 それから約一年、プラジル人ホペイロ 外国帰りの肩書きを得るのは戦略的してのアルバイトに就くようやく叶っ ( タイミングだったのに、ムマもホ が家庭の事情で帰国し、にはい、 ですね。 山川は晴れてホペイロペイロをつづけているのは・ 「そう田 5 ったんですが、ちょうど一部リ として契約をする。そ「選手から『ありがとう』なんて言われ 1 グ残留がかかった大事な時期で門前払 っ の時一一十五歳。なんだているうちに、サッカーっていいな、も いされてしまったんです。まいりました き ) かんだとプレることなっとかかわっていたいな、って契約を更 ね」 レでの くホペイロになってい改してました : : : 気づいたらこの年です そこですごすご引き返したり、街でや のプい よ ( 笑 ) 。最近、息子が将来のためにホ 具でな け酒をあおらなかったのがよかった。と の 「昔は『俺の CO がなペイロの練習をすると言って、僕と一緒 りあえず練習場に足を運ぶと、突然クラ どだ抜 き いぞ』なんて言葉を耳に靴を磨くんですよ。やめておけ、と言 ブの老ホペイロがチ 1 ムのジャ 1 ジを投 にしただけで心臓が爆ってます ( 笑 ) 」 げつけたのだ 以来十年近い歳月が流れたクラブと 「『着ろ、来い』って言うんですよ。彼 ん、ヨすて発しそうでした」 レ」 まシま そう山川が述懐する選手から厚い信頼を集めていることは語 にくつついて夢中で球拾いしました」 デ純〕イ のも無理はない。ホべるまでもない 数日後には、クラブから宀佰企口を提供さ 皇示 ホ そんな山川が、たった一つ、日本のホ イロの仕事は繊細だ れ立派な押し掛けホペイロ研修生になっ コ て れ ペイロとして、いに決めたことかある 「たとえば本革のスパ ていた。なぜそう事が運んだのか、いま 晴 イクは型崩れもし易い「世界ではユニフォームを忘れて試合に だに理由は謎だという。当時はスペイン ので、ケア用品などを出かけてしまう事件が頻繁におこるんで 語もまだよくわからなかったので、 使って革を柔らかくして、なるべく選手すよ。それは完全にホペイロのミス。で 「わざわざ日本から無給で修業に来たんた事実上のホペイロデビュ 1 であった。 でも、帰国してから一一年もホペイロの足にあった本来の形に戻します。少しも日本ではまだ聞いたことがない。日本 だから使ってやってくれって、気の毒に もどしてはドライル 1 ムで乾燥それを初にだけはなりたくないです」 思った彼 ( 老ホペイロ ) や選手がかけあになれなくて焦りませんでしたか ? のんびりと語る山川。聞いていると、 繰り返して元に戻すんです。選手によっ 「まあ、なんとかなるかなあって」 ってくれた : ・・ : と解釈してます」 強運である。そして三ヶ月のビザ期限あくまでマイベースである。しかしそては、ほんのちょっと道具のコンディシこちらも日頃の憂さを忘れてしまいそう がやってきた。ちょ - フどクラ。フは一部リ んな山川でも本場のホペイロとのコンビョンが違うだけでプレ 1 に影響しますしになる。もしかすると、このホペイロかの 本 最も丁密にメンテナンスしているのは、 日 1 グ残留を決めたところだった。別れのワ 1 クは当初は、相当につらかったとい気は抜けないです」 繊細なうえに肉体労働、しかも契約選手の気持ちなのかもしれない。 日、メンバ 1 全員でグランドで写真を撮
1 価値のトリレンマ 寓意をふくんだ実話から始めたい。 人気の高いある大規模書店の経営者にとって最大 の悩みは「万引き」であるという。確かにその被害 総額は予想をはるかに超えるレベルだ。経営者とし ては当然「万引き」の撲滅に取り組まねばならない その場合、いくつかの選択肢があるものの、いずれ も単一では納得できる防止策とはなりえないことも わかってきたという 例えば直截な方法として、書店内に警備員を張り 付け、すべての客の一挙手一投足を監視するという 対策が考えられる。ただこの方法では、客は常に警 備員に見張られることになり、自由なブック・ハン ティングができなくなる。それに大きな書店に来る 多数の客を見張るためには、これまた多数の警備員 を雇い入れねばならず、その人件費は膨らみ、万引 きの被害総額を上回る大きさになりかねない。した がって、「多少の被害は致し方ない」という、ある 種のあきらめから生ずる妥協策に頼らざるを得なく なる。万引きという犯罪はゼロにできないと諦めて、 ある程度は目をつむるという女協である。 ひとつの妥協策として、監視カメラを設置すると いう方法が考えられる。監視カメラには死角がある から、万引きを完全にゼロにすることはできないが、 監視カメラの費用は擎擶員の人件費より少なくて済 む。こうして現実には、犯罪ゼロ、低費用、精神的 自由という三つの「価値」目標を「ほどほどに」満 たしてくれる対策が選はれるのであって、これら三 つを同時にすべて、かっ完全に満たしてくれる方法 このエビソ 1 ドで一小されている価値は、それぞれ が市民社会においてきわめて重要な意味を持ってい る。書店内で誰からも「監視されずに」本を見て回 るのは、われわれの持っ精神的欲求としての自由の 具体例のひとつだ。また、万引きは「ちつばけな犯 罪」ととられがちだが、リ 幵法 235 条の窃盗罪にあ たり、さらに重大な犯罪にもつながる危険生を持っ 安全で安心な社会という価値の実現にとって、犯罪 の撲滅は必要条件であろう。そのために可能な限り 経済的に負荷のかからない方法でこれら自由と安全 を実現したいと考える。そして有限な資源の浪費を 避けることは経済的な価値を守るためにも重要た われわれが守ろうとするいくつかの価値をすべて同 時に満たすことができないことを示すこのような例 は少なくない。 大書店店主の悩みは、自由をめぐるひとつのディ レンマ ( あるいはトリレンマ ) を具体的に教えてくれ る。と同時に、自由はわれわれにとって大切な価値 であるが、 ( 、くつかの価値の中のひとつにすぎない という事実も語ってくれる 自由社会 ()i ・ ee society) に生きるわれわれの生活 の中には様々な価値が存在する。そこに価値序列も 存在するであろう。そしてそれぞれの価値を尊重し、 可能な限り最大限に生かすことの大切さを、リべラ ル・デモクラシ 1 の下では誰しも否定しないはずだ しかしいくつかの価値はときに強く衝突し合い、す べての価値を同時に実現することはできないケ 1 ス が多い法や道徳はそうした価値の衝突をできる限 り納得できる形で解決するために案出された制度と みなすことができよう ワ朝フランコ政権下のマドリッド この点に関連して、年以上前のスペイン旅行が 思い出される。筆者は 1970 年夏、スイス・チュ ーリッヒの航空会社の研究所で 3 か月ほど実習生 (praktikant) として働いたことがあった。その間、 休暇日を利用して、以前から訪れてみたいと思って いたヨ 1 ロッパの 2 、 3 の国や町への小旅行を試み こ。代半ばで、特に歴史と政治に強い関心をもっ ていたわけではなかったが、 スペイン内戦を舞台に したヘミングウェイ原作『誰がために鐘は鳴る』の 映画をアメリカの大学町で観て、なんとなくスペイ ヘミング ンに「旅への誘い」を感じたのであった。 ウェイの作品が、単なるエンタ 1 テイメント以上の 何かを秘めていたからであろう 実際に訪れてみて、マドリッドのプラド美術館の エル・グレコ、べラスケス、ゴヤはもちろん、カス ティーリヤのアランフェスの王宮、エル・エスコリ アルの修道院など、その偉容に強く心を打たれた その折に観たものの細部の記憶は今ではほとんど失 われており、その他どこを訪れたのかについての記 憶も曖味だ。旅行中の見聞と会計をメモしていた手 帳を、闘牛を観に行った折に紛失したこともあって、断 っ このマドリッド滞在の年月日は 1970 年夏、とい る うこと以上に正確にはわからない。ただラテン・ヨ ーロッパの骨太な精神文化の醸し出す空気に文字通を 「度肝を抜かれた」ことだけははっきりと憶えて自 いる。緑の農地の多いフランスから入ると、スペイ
もしやイジメではないですか ? 0 壅只の山川幸則はホペイロで欠た。しかし手入れの時間があれば、そ ジルのホペイロの特集を見て、この世界 「天職」があることを知ってしまった。 ある。世界のプロサッカ 1 クラれを練習や休息にあてて、より高いパフ「『やった』と思って、磨きながら研究 プには、スパイク、ポ 1 ルの手オ 1 マンスをすべきなのである。そのたするうちに相手とも仲良くなってまし「僕がやってることで食べていけるんだ めにホペイロはいる。山川は、ただでさた : なりたい、 入れやウェアの手配 ( 洗濯などは別 ) 、 って田 5 いました」 運搬などをおこなう専門職がいて、彼らえ数少ない日本人ホペイロの中でも希有根っから性格がホペイロ向きなのだ。 いてもたってもいられず就職担当の教 はホペイロと呼ばれている。だが、 な「スペイン仕込みホペイロ」である。 その証拠に、史咼時代にはサッカ 1 部を師に相談すると、 「フロのホペイロは十人くらいじゃない 小学生時代から用具には興味があった。中途退部したが、そこでも自主的に球拾「なんだ ? そのホペイロって、という ですかあ」 所属するサッカ 1 クラブでは、巧い同級いなどをした。 返事でした」 と、山川が言うように、日本ではまだ生にかぎって高級スパイクを履いていた ーーー奇異の目で見られませんでしたか ? だが山川はめげなかった。短大卒業後、 , 刀 浸透していない。しかしサッカ 1 界にと 「好きだねえ、また来てるの、なんて言福祉職に内定していたがこれを辞退した。 ってその存在音は重い。選手が安心し「見せて欲しいと言フと『磨いとけよ』われてました」 進路はホペイロ一直線だった。 てプレーに臨むには道具の手入れは不可と言われて」 そして高校時代に偶然、テレビで。フラ ス ンの にる し カ 彼 ホペイロ・ 38 歳 山川幸則 interview with Yamakawa Yukinori 取材、文・加藤ジャンプ 0 0 「ホペイロ」は、用具係を意味するポルトガル語。 働く人々。⑩ text by KatO Jump photographs by Hirano Mitsuyoshi
ある。私が通った中害回校では、英語のテキストに サー・フランシス・ドレークが出てきた。エリザベ ス一世の時代に、スペインの海上覇権を打ち破った という人だが、要は海賊である。スペインの歴史教 科書を読んでみたい気もする。 「海賊の歌」というのもあって、よく英語で歌わさ れた。歌詞は海賊生活を謳歌する内容である。いま でもちゃんと歌える。なんでそんなことを教えたん だろうと思うが、校長、副校長、訓育主任という三 羽烏がドイツ人の神父さんで、野蛮を評価する点で、 イキリスとドイツが共鳴することを教えたかったの かもしれない。巡洋艦エムデンなんて、今の若者は 聞いたことがないだろうなあ。第一次大戦で、通商 破壊に活躍した軍艦である。ドイツ人がイギリスの 海賊の真似をしたわけだけどね。前に英語劇で「ヴ ェニスの商人」をやらされたことを書いたが、これ も同じである。要はユダヤ人差別たからである。敗 戦後にドイツ人が主宰する学校で「ヴェニスの商 人」をやれば、「お前たちだって同じじゃないか」 といっているようなものであろう。イキリスの王室 とドイツの王室は親戚で、これも野蛮という点で、 家柄の釣り合いがよかったのかもしれない ッヴァイクの『昨日の世界』では、ウィ 1 ンの 人々は当時のウィ 1 ンを欧州文化の中心と見なして いたと書いていたはずである。それを「昨日の世 界」にしてしまったのは、第一次世界大戦によるオ 1 ストリア・ハンガリ 1 一一重帝国の崩壊と、それに 引き続くナチズムの勃興である。イタリアもムッソ トイツとはむろ リーニのファッシズムを生んだが、。 ん違う。ッヴァイクが書いている挿話がある。ファ ッシスト政権下で、あるイタリア人医師が政治犯罪 に絡んで拘留されてしまう。その夫人がツヴァイク に無実たからカを貸して欲しいと頼む。ッヴァイク は当時の有名人であり、ムッソリ 1 ニを個人的にも 知っている。だから、ムッソリ 1 ニに私信を書く その結果、その医師は結局恩赦される。これはヒッ トラ 1 とその親衛隊ならありそうもない話である それは私でも感覚的にわかる。つまりヒットラーに 個人的に頼んでもダメだろうが、ムッソリ 1 ニなら、 なんとかなりそうな気がするのである。 ドイツがを牽引し、イキリスが少し脇によっ て立ち、ロシアが斜めに向かって、アメリカが一応 の覇権を握る。それが今の欧米世界だが、そこには 野蛮さの順序みたいなものが見える。アジアでは日 本が野蛮つまり腕力の筆頭だった。だから中国も朝 鮮も、いまでもそればかりいう。でも敗戦のおかげ で、「文化国家」に変わることになった。文化住宅、 文化鍋、文化包丁の時代を経て、やつばり文化なん てどうでもよくなり、なんたって経済たよなあと、 ホンネが出たかなり茫漠としているが、その文化 とはなんだというのも、中欧旅行の背景にある私の 疑問である。こういうものは一種の雰囲気で、文化 とはこういうものだと、言葉にして決め付けるよう なものではない。だからお墓で、だから旅行なので ある 森と身体 プラハではインセクト・フェアに行ってみた。日 本でもやっているが、世界では三ヶ所が有名で、ド ィッはフランクフルト、イタリアはモデナだという チェコやポ 1 ランドにはいまでも昆虫好きが多く、 とくにチェコ人は尋常ではない。シベリア鉄道に乗 って、途中下車をして虫を採りながら、ついに日本 まで来る。父親は虫採り中にラオスで死んで、性懲 りもなく息子がまた虫採りをやって、果ては日本ま で来た。そういう人までいる。こういうことも理屈 ではなく、一種の雰囲気であろう。東欧は欧州では 最後まで森が残った地域である。欧州の土着文化は おそらく森の住民のもので、中世に都市化が進むと 同時に森の喪失が進行する。森を切り開いて小麦畑 にするからである 欧州の都市住民から見た森の住民は、グリム童話 によく一小されている。森の住民は魔物であり、たか らへンゼルとグレーテルの魔女は森の住民であり、 さらに森には赤頭巾の狼が棲むことになる。この狼 し力いイキリスで は人語を解することにご留意願、 はこれは先住民に関する伝説となり、ドルイドにな る。ドルイドは森で儀式を行い、魔法を操る。ある いはファンタジ 1 によく登場するエルフ。人間によ く似ているが、耳が尖っているので区別できる。よ く似ているが、「人ではない」のである。ウィ 1 ン の森はそうしたもろもろの名残りであろう。 同じ森に相対しても、日本と中欧はずいぶん違う。 日本では森を神格化し、鎮守の森とした。どこの村 神社があって、鎮守の森がある。そこには別に 化けものが棲んでいるわけではない。 神様だって住 んでいないであろう。「依り代」とは、じつにうま いことを考えたものだと思う。隠岐では天然杉の巨 木に蔓を巻いて、それ自体をにしている。神様 198
本に来た最初の年は英語の先生 をして、呑みに行ったり遊んだ 嫌な生活をしていました。 でも一年の終わりに来只近郊の盆栽園を 回るツアーに参痂して、最後に江戸川区 の春花園に来て、感動したんです。日曜 日の盆栽教室に通ううちに興味が湧いて、 タイ旅行の最中に決めました。「盆栽を やろう」って。 ン イギリスのレスタ 1 大学で専攻したの は字宙物理学です。おもしろいけど、頭 レ の中の仕事で物足りなかった。手と体を の 使う仕事がしたかったんです。 オ 作 でも、盆栽に物理の知識は役立つんで ウ すよ。たとえば床の間に盆栽を飾るでし よ。すると、何もないところに空間の美 ~ ~ 一 ( ~ 一。 が生まれる。幽玄の世界です。何もない タ けれど、そこから美が生まれる。これは 西不 3 量子力学と一緒です。そう言うと笑われ るけど、ほんとにそうなんです。 春花園で親方 ( 小林國雄氏 ) の生き様 に学びながら、住み込み修業を四年間み っちりしました。盆栽の手入れからお客す。「猿山の大将」みたいに威張った人向きます。ヨーロッパでの盆栽人気は、 さんの相手、展示会やオ 1 クションの準間にならないように、という自分への戒かってイギリスで高かったけれど、最近 備や、夏は造園業もあります。そのあと、め。修業を始めた頃に決めたんです。独はイタリアやスペインの盆栽のレベルが 一「三年はアメリカやヨーロッパと行っ 立したら、これを名前にするって。 上がっています。 たり来たりしながら、親方を手伝って、 ロンドンの庭では二百本の盆栽を育て「ポンサイ」はいまは世界のどこでも通 一一〇一〇年にロンドンで自分の盆栽園サています。庭はあるけれど店はなくて、じる言葉ですが、知らない人には、「鉢 ルヤマポンサイをスタートしました。今仕事はもつばらお客さんのところへ出向に入ってる木」というところから説明を も年に一一回くらい親方を手伝いに日本に いて盆栽の手入れをするか、教えるか。始めます。では、鉢植えと盆栽は何が違 戻ってきます。 あるいは、アメリカやヨーロッパ各地でう力というと 、美意識。自分の美意識を 「サルヤマ」は、猿山からつけた名前で行われる展示会やワークショップにも出入れて、思うように作るのが盆栽。 日 interview with Peter Warren 良いか悪いかは、好み次第。ばくが好 。。きな盆栽はわかりにくいから売れないし、 売らない。商売にならない。。 カーツと大 人 きくてわかりやすい盆栽は品がない。本 く %å当に品格のある盆栽はわかりにく、 働 自然のままのようでいて、 が作ってない、 実は人が作っている「無作の作」。それ がばくの目標です 日本に来て最初の一年で学んだ日本語 は、「生ビール二つ」くらい。でも、盆 栽修業をするようになって、親方や弟子 仲間と話したり、お客さんに教えてもら って話せるようになりました。いまも 木と話すときは日本語ですよ。「なんで よー、おまえ。なんで、その枝、枯れち ゃうんだよー」とか。イギリスでも盆栽 のことを考えると日本語になって、つい お客さんに日本語で答えたりすることが ↓のるノ、、らい 好きな日本語は「青空」。前向きでし ヨーロッパ盆栽大会で最優秀賞受賞 ( ローズマリー )
つか思い起すと、自由という概念は、その微妙さ、 奥深さ、多面性だけでなく、他のもろもろの価値と のバランスと順序付けのなかで考慮されねばならな いことがわかる。言い換えると、自由そのものを独 立の概念として論じることは可能ではあるが、そこ には価値の多兀性と切り離せない問題が含まれてい るということだ。単一の明晰な概念と思われている 学術用語も、多くの論者が使用した結果、その意味 が曖昧になることは避けられない。 この点を反省し、 自由の問題に改めて取り組んだのは世紀最高の思 想家の一人、アイザイア・ 97 ) であった。 ロシア帝国領であったラトヴィアのリガで生まれ、 ベトログラ 1 ドを経てイギリスに移り住んだアイザ ィア・ 1 リンは、 1958 年、オックスフォ 1 ド 大学の社会・政治理論のチチリ講座の教授就任講演 で、「二つの自由概念」について論じている。この 講演は、その後の思想史にひとつの大きな飛躍を与 える視点を提供するほどに重要な意味を持ったと言 える。そのなかで、「 200 以上に及ぶ」と言われ るほど多種多様で錯綜した自由の定義の中から、自 1 リン 由の本質を一一つに区別することが重要た は述べ、人間にとって、 いくつも存在する価値は多 元的であり、複合性 (plurality) と不両立性 (incom ・ patibility) があることを明瞭に示したのである 1 リンの区別する自由と 政治体制的に見ると、 いう言葉の第一の意味は、次のような問いに対する 答えの中に含まれている。「主体が、いかなる他人 からの干渉も受けずに自分の欲することをなし、自 分のありたいものであることを放任されている、あ るいは放任されているべき範囲はどのようなもので あるか。」スペインのフランコ政権下における警察 権力の一般市民生活への浸潤に見られるように、 「干渉からの自由」、「権力の強制からの自由」であ り、これは「 5 からの自由」、あるいは「消極的自 由」と呼ばれる。この自由は、英国史における自由 への戦い、自由の伝統のなかで育まれたものである。 第一一の意味は、「積極的自由」と呼ばれる。それ は「ある人が、あれよりもこれをすること、あれよ りもこれであることを決定できる統制または干渉の 根拠は何であるか、また誰であるのか」という問い への答えの中に含まれていると考える。それは、独 立自尊 (self-mastery) としての自由であって、「 5 からの自由」ではなく、「何をすることが出来る か」を問うている。敢えて対照的にレッテルを貼れ 要、ルソー以来のフランスにおける社会思想の伝統 の中で育まれた自由と見ることもできよう。リべラ リズムの思想を探求する社会科学の分野では、。、 1 リンの意味での第一の自由、すなわち「消極的自 由」、より具体的には「国家権力からの自由」をめ ぐる問題を中、いに論じられて来た しかしこれら「二つの自由」は時に激しく衝突す 、ーリンカ る。両者の区別を表面的にとらえると、 意識していた自由の本質的な意味、言い換えると人 間にとっての自由の根源的な価値は何か、その価値 の源泉はどこにあるのか、単に人間の作り出したも のなのか、自然がその発見を待っているものなのか、 その価値をなぜ守らなければならないのかという問 題を見失いかねない 一 .0 制度としての自由 たしかにわれわれは、他人によって行動が干渉さ れない程度に応じて自分は自由であるか否かを判断 する。たとえば経済活動を例にとると、できる限り 政府の干渉と強制があってはならないと考える。規 制は緩和されなければならないという一般論が、正 論とみなされるようになったのはいかなる理由によ るのかそれは、国家が市場に介入することによっ て市場での取引が作為的にゆがめられれば、経済社 会全体が資源の大きなロスを被る、と社会科学的に 考えるからだ。市場システムに関するこの「大命 題」は、すでに絽世紀のヨ 1 ロッパ知識人の間では 認識されていた さらに世紀に入って、この命題に対して・ イエク等によって明晰な理論構造が与えられる。と くに、自由で公正 (free and fair) な市場で決定され 」「価格」は、政府の市場への干渉や強制が入ると 経済活動に関わる事情・事象の変化の情報を記録す る力を失い、消費者や企業の合理的な判断の信頼し うる指針の役割を果たせなくなる 市場価格は、市場で取引する人々がひとつひとっ 具体的には知る必要のない事件・事象を捨象して、 自分たちの選択にとって「必要にして最小限」の圧 縮された情報を収集・散布する役割を果たす。どこ で異常気象のために農作物被害が生じたのか、どの 企業が大幅な費用削減につながる技術革新に成功し たのか、何が消費 者の間での不易と流行なのかなど について、ひとつひとつの個別・具体的な事象を知 らなくても、自由な市場ではそうした変化はすべて 114
学ぶ。そのあとで、全体を貫く物語を 探し求めたわけですが、そこが最も難 しかった。でも、だからこそ、見つけ たときは深い充足感が得られました。 本書では、「経済成長という思想」を 主人公として、なぜそれが人々にとっ て重要かを物語として書くことができ たと思っています。 小難しくて屈だと思われがちな経 済学ですが、実は常に人を中心に据え てきた学問です。人々を豊かにし、カ を授けるための「思考のエンジン」が 経済学であり、それは戦争や荒とい った近代史における危機と絡みながら 発展してきました。危機をくぐり抜け るなかで、一貫して人々の生活水準を 向上させるための革新を続けてきた、 それか経済学なのです。 十八世紀後半から十九世紀はじめに かけて、小説家ジェーン・オースティ ンか錨いた時代のイギリスでは、戦争 でインフレが起きたり穀物が不作にな るたびに州動者の大半は飢餓に襲われ ていた。当時、人類は「物質的な環境 の奴隷」だと考えられていました。人 が自らの運命を制御できると考えるよ うになったのは、十九世紀後半になっ てからのこと。このような考え方は、 人類史上有数の「発見」のひとつでし た。運命は帋できると考えるからこ そ、経済学者たちは自らの生きる世界 に対して新しい問いを投げかけ、新し し、解決策を提案していった。それが人 類を前に進めてきたのです。 蚤の市には行きますか ? 私は大好 きなのですが、蚤の市には経済発展の 教材があります。たとえば、売られて いる戦前の本の中には「なぜ日本は近 代国家になれないか」といったような フリーマーケット ものがある。実際、一九四〇年代、五 〇年代の日本製品といったら、せいぜ いクリスマス飾りのようなオモチャで した。それがわずか一世代のうちに 日本もドイツも圧倒的貧困から近代国 家に急成長した。これはすべて「発想 ( アイディア ) 」によるものです。突如、 日本やドイツに天然資源が増えたわけ ではなく、急に頭の出来が良くなった わけでもない。「新たなものの考え 方」が導入されたことによって経済が 拡大し、生活の質が上がった。これが、 本書の伝える物語です。 そこに気付いたとき、本当にわくわ くしました。経済学を知らなくても生 活には困らない。橋の強度を知るのに 工ンジニアになるはない、健康で あるために医者になるもないよう に世の中を知るのに経済学博士であ るはない。だけど、少しでも経済 学を王できれば、社会を前進させる 助けとなる。社会の繁栄と公平さの拡 大のために経済学にできることは実は たくさんあるのです。 本書で最後に紹介されるのが、貧 困のメカニズムを分析し、その撲減の 道を探り、ノーベル経済学賞を受けた インド出身のハーバード大学教授アマ ルティア・センです。八十歳のセン氏 以降、名を挙げるに値する経済学者は いないのでしようか ? 私たちの時代 のケインズやハイエクは見当たらない のですか。 ナサーいえ、そんなことはありませ ん。経済学は現在もっとも活気ある学 術分野のひとつであり、優れた豆則畄が 次々と参入しています。ただ、生物学 や物理学と同じように経済学も細分化 が進み、あまりに専門的になりすぎて 広く一般の人の関心をひくかというと、 必ずしもそうではないという現状があ ります。たとえば、『ファスト & スロ を著したダニエル・カーネマン ( ノーベル経済学賞受賞者 ) をはじめ、 行動経済学やゲーム理論の分野で新し いアイティアを発表している人たちは います。そして、こうした新しい研究 は、意思決定プロセスを王牟したり依 存症の治療など生活にも恩恵をもたら しています。しかし、私がこの本で焦 点を当てたのは、総体としての人類の 生活水準の向上に寄与したマクロ経済 クリエイター 学理論と、その創造者たちです。 言い添えるならば、仮にい さらに ま「私たちの時代のケインズ」がいた としても、まだ見つかっていないだけ かもしれません。実際、第一次世界大 戦の間も世界荒に際しても、ケイン ズの主張は現実の政策レベルでは採用 されず、評価されるまでには三十年近 い時間がだったのですから。 ところで、ニ〇〇八年のリーマン ショックのあと、「いかに金融の暴走 を帋掏するのか」といった議論が高ま りましたが、危機が猴元を過ぎて忘れ 去られていないでしようか。 ナサー議論が減ったように見えるの は、多少の不安材料はあるとしても、 長い目で見れば過去よりも現在の方が 確実に、より豊かに、より自由になっ ているからです。ヨーロッパの危機に してもそうです。ギリシャやスペイン の財政悪イヒによる EU の危機はすでに 四年になるのに、欧州各国の統合維持 への意志は揺らいでいません。誰も後 戻りはしたくないのです。 98 りコロンビア大学大ジャーナリズム蝌ヨ受。 ズ文学賞 ( 科学技術部門 ) を受賞した。 2001 年よ なる探求」原著は 2012 年、ロサンゼルス・タイム ド」で全米批評家協会賞 ( 伝記部門 ) 受賞。伏い ズ」経済記者。 1998 年、「ビューティフル・マイン 人の母の間に生まれる。元「ニューヨーク・タイム 1947 年ドイツで、ウズベキスタン人の父とドイツ