⑩ " 人 く 歳 っと 書 を , 、 一月某日、児玉はのぞみ 120 号に乗って、広島県福山市から ためだ。駅からまずは丸善丸の内本郊、、「 ' 、、、、、 ~ 店に向かう。待ち合わせた知人と情報交 換しているうちに、最近書店内によく出 店している携帯電話修理サ 1 ビス店の話ーー、ー を聞くと、児玉は「うわあ、なにそれお もしろい この店にも入ってるの ? 見こ一丁 , ソフー・ 」と目をキラキラさせた。 「本の置き場を削ってまで携帯電話屋を 入れるなんて」といったネガティ。フな反「 児玉憲宗 interview with Kodama Kenso 撮影・吉田亮人 0 0 啓文社コア福山西店にて。インターネットカフェも併設する複合店で、新しい書店のあり方を常に模索している。 応ではない。 純粋に、新しいこととの出 8 会いに興奮していた その後、一階のビジネス書売り場に降 りる。上京するたびに訪れる宀疋点観測ス ポットだ。 「前と陳列が変わったね ? 」 「どうしてここにこの本を置くのかな」 棚の合間をすいすいと車椅子ですり抜け ながら、同行している部下と、書店側の ″意図〃を推察している。店を出たと思 うと、どこかに電話をかけ始める。「う けたほうかししかあったか ちでも仕掛 ら、早速百冊発注した」といたずらつば しいところはすぐ真似するフッ トワークの軽さを誇るようでもある 児玉は中学・高校とサッカーに明け暮 れた。大学に進学し、暇つぶしで本を読 み始めてから読書の愉しみを知った。就 職活動に本腰を入れるのは遅く、ばんや りしている - フちに周りは内宀疋をもらって 何の仕事をしたいか決めかねてい るうちに、そうだ、好きな本に囲まれて いたら楽しいかもしれないな、と小さい 頃から通っていた地元の本屋のことを思 い出した。昭和六年創業の、広島県果部 にチェーン展開する啓文社からすぐに内 定をもらい、そこで就職活動はやめた。 就職してから、とにかく「誰にも負け 絶対に負けない」と田 5 ってひたす ら働いた。誰よりも早く出社し、誰より も遅く退勤した。誰よりもたくさん本を 読んで、誰よりも頑張っているという自 負があった。これからは大型書店の時代
イ洋 0 ミ . ーいラ ス当、て 龜第日 で有機栽培に取り組んでいるが、乾さんは熱心な 有機認定農家十一人の一人。有機で認めら れる農薬は限られているが、黒点病や幹グサレか ら木や実を守るために消毒も行う 「今年の夏は水が足りなくてみんな万しました 葉もしおれてきてね。僕は水道水をかけて手当し ましたが、この畑は昼から陽が当たるので、意外 に土に保湿性があって助かりました」 畑の地形によって工夫を凝らし、おたがい切磋 の琢磨しながらの柚子づくり 「自分の思うた実がなってくれる、それが楽しい 夏は三時半ごろ起きて草刈りして、朝から川へ行 って一日中鮎を釣ってます。柚子を育てて、鮎を かけたり、ウナギを押さえたりしているのが一番。 と人に使われるのが大嫌いやき ( 笑 ) 」 馬路村の柚子は、村人の人生に寄り添う木でも おだに ある。九年前に夫を亡くした尾谷直子さんは、六十 八歳の今も一一反、数百本の柚子の面倒をみている 「剪定はもうようせんのでね、頼みゆうが家族 がたくさんおって、剪定や収穫を家族でやれば出 ッ第を′い 179 日本のすごい味
堀場さんは、検閲文書にあったゲラと読み比べた。 そして、一文字の重要な違いを発見した。 〈ドイツをも含めて、欧米のクリスト教国の敬虔な る民は、口々に神をた、ヘ平和を祈りながら、しか もかくの如き惨禍を彼等の手によってつくり出し この文章の〈クリスト教国〉が、本では〈クリス ト教団〉に変えられていた 〈ドイツをも含めて、欧米のクリスト教団の敬虔な る民は口々に神をたゝへ平和を祈りながらしかもか くの如き惨禍を彼等の手によってつくり出した〉 教団では意味が通らない。 私も読み比べてみたが、読点などの細かい異同が ほとんど。言葉を変えたのは、ほかに、アジャ↓ア ジア、〈ベルリン、ロ 1 マの文化は絨氈爆撃によっ て破壊せられ〉の〈ロ 1 マ〉を削除、〈石ぶみに刻 発禁になった「中央公論」 1938 年 3 月号。「生きてゐる兵隊」 が目玉として表紙にも刷られていた。 ( 石川旺氏所蔵 ) は、原則として表現の自由を認めながら、 んで子孫に伝へるのだ〉の石ぶみを〈金石〉に変更。 作者の意志を反映した直しと推察される。 裏面で検閲を進めた。当時の新聞を注意深く読めば、 それでは〈クリスト教国〉は ? 言論統制法を停止させながらが限定的に検閲 をすると言っていることがわかる。しかし実際の出 誤植の可能性はゼロではないが、こんな重要なと ころを誤植のまま、作品集まで通すだろうか 版検閲は広範で、検閲を受けていること自体を公に そしてもし、これが作者の意志の反映であるなら してはならず、事前検閲で削除を命じられた文章は ば、達三はなぜ書き換えたのだろう。 「 x x 」などの痕跡を残すことを許されなかった。占 関係者はすでにこの世になく、真相はわからない。 領中は、検閲を公に批判することは難しかった。 達三も日記には検閲批判らしき文を書いている ただ、この一文字の書き換えが、が検閲で何 また、元軍人の戦後の生活を描いた一九四七年の を問題視したかという核、いを突いたものたというこ とは一言える。 読売新聞連載「望みなきに非ず」は、検閲でたびた いまでは來只の国立国会図書館で閲覧できるこの び削除を命じられ、検閲側とけんかしたと、家族に 検閲文書の写しによると、公表林企の理由は三つ。 語り、一九七一年に読売新聞にも書いている。 安寧を乱す、連合国への恨みを引きおこす、将来の しかしそこで削除された記述とは、『読売新聞百 戦争を予言している。 一一十年史』によれば、例えば次のような文たった。 OOQ の第一次検閲者・タケトミは、まさにこ 〈わたしアメリカの進駐軍を見るたびに考えるんで うらや すよ。羨ましいほどっやつやして若々しく大股にど の〈クリスト教国〉のところを英訳し、「彼の論評 は連合国を名指ししてはいないがとにかく連合国批 しどし歩いているでしよう。やつばり食べ物が良い 判である」と報告していた のよ〉 検閲文書は一一部つくられ、一部は出版社に渡され た。達三は、編集者か高見からその内容を伝えられ 風にそよぐ葦 たことだろう。そして公表林歪を避ける方策を探り、 国を団に書き換えることを考え、ゲラか原稿に書き 安寧秩序とは、何だろう。 込んだのではないか。そしてそれをもとに後に『思 取材するうち私は「秩序」という一言葉に迷い、辞 ひ出の人』がつくられた これが私の推測た一 書で調べた。「物事の正しい順序」 という説明が多 書 九五四年に国を団に書き換えるメリットはない。 かったが、正しいとは ? 白川静『常用字解』 ( 平 凡社 ) にたどりついて、やっと腑に落ちた。 き換えたとしたら、早い時期ではなかろうか それにしても : 央心の作が検閲で没にされた 秩とは、〈つむ、順序よくつみあげる、ついず ら、この人は怒るはずだ。「戦ひの権化」のことを ( 順序をつける )) の意味で、〈順序をつけてつみあ ほとんど語らなかったとは、私には解せない。 げることから、秩序 ( 物事の正しい順序。きまり ) 142
( いかに自分が恵まれた境遇にいるかをだって、ちゃんと並び順は決まっている が来ると予測し、週末は同じ会社で働く僕は立ったり歩いたりできないだけで、 の大きさだって本の邪魔にならな 思い知る 妻と子連れで、広島旧爾のみならず、山他は何でもできる」 ( ようにしなければならない。社員 とはいえ、書店員はレジに立ち、荷物「働けるということがどれほどありかた 陰や四国まで足を延はし、徹底的にライ いことか。車椅子でも家族を養えるなんがにしくてつい教えそびれてしまうよう バル店を研究した。社内の誰よりも大型を開け、本を運んで陳列しなければなら 職場は到底無理だろうとさすて、もうバラ色ですよ。それと同時にそなことを教えるのが楽しい。なんとなく 書店に詳しくなった。 れまでの自分の努力があってこその期待本屋になったけど、結果的に天職だった。 一九九九年、啓文社は満を持して福山がの児玉も腹をくくった。しかし、リハ 市中心部に当時としてはチェ 1 ン最大級ビリセンタ 1 に見舞いに来た手塚社長はの表れだとも思いました。やれないことこんなに楽しい仕事なんだよ、と伝えた そういえば、就職活動する前は教員 の五百坪のポ 1 トプラザ店出店を決 ( 丐「本社に車椅子用トイレもスロ 1 プもつは仕方ないけど、やれることを全力でや 免許を取ろうと田 5 っていた 自信をみなぎらせた児玉は店長に立候補 photog 「 aph by SatO Shi コ go のだった。教えることかも した。この店を俺が動かさなくて、誰が な ともと好きだったのかもし やる。実績とやる気を認められた児玉は 多 す れ て れない 初代店長に就任。三十八歳、まさに働き 盛りきっと誰よりもずんずん出世して よるやを慕児玉は本を読むのが好き いくんだろうなあと思っていた矢先、開 本壥いて 彼たが、売るのはもっと好き 店一週間で児玉は入院してしまう。脊髄 し環矼ル砡日々を駆使して「こ か版んなにおもしろい本があっ に悪性リンパ腫が見つかったのだ 生な出 がり ' ・し た」「こんなにすごい売り それまで病気とは無縁だった。わけも 下取厳に 式場があった」と盛んに情報 わからぬまま、とにかく手術をして腫瘍 肩をん対 授っ収集・発信をする。そして 難しい手 を取り除かなければならない。 右店ど絶 賞ま よ書流そ 也集そのたびに、負けられない 術だと念を押された。術後、執刀医は 暫が 界 人と強く強く思 - フ。週 ~ 木にラ 「すべて腫瘍は取り除けたと思います」 業 イバル書店めぐりをすると、 と会心の笑みを見せた。しかし、それ以 周 版 月曜日にはメラメラとやる 出 来児玉はみぞおちから下が動かなくなっ 気が湧いてくる 相疋もしていなかった車椅子生活が 「出版業界は右肩下がりだし、本は売れ けた。みんな君とまた働けるのを楽しみって恩返ししなくてはならない」 始まった。 書店を取り巻く環境はどんどん厳 児玉は職場後、チェ 1 ン本部で出ない。 はたから見たら、まさに天国から地獄にしている」と言ったのだ ともにリハビリに励んでいた車椅子仲版社との窓口を担当した。何度か現場復しくなっている。だからこそ絶対に生き のような展開である。しかし、児玉はけ 残ってやります。尾道・福山に啓文社とく 間はそれを聞いて信じられないという顔帰を試みたが、諦めざるを得なかった。 ろっと話す。 フ魅力的な本屋があってよかったと一言址 「眼鏡をかけている人はレンズが汚れたをした。退院しても元の職場に戻れる人残念だが、仕方ない。その代わり、それ の ら拭かなきゃいけないし、外したら見えなんて皆無、通常は「車椅子に座ったままで自分が蓄えてきたノウハウや知識を、われたいどうやって生き残るか、考え 本 、ごナるだけでものすごくワクワクします」 若い社員に教える。本の書名や内容ナ ( 日 ない。視力却だった僕からすれば大変でまできる範囲の仕事」が与えられるだけ すが、眼鏡も慣れるでしよ。それと同じ。だ。そこに職業選択の余地はない。児玉ではない。一見似たように見える週刊誌
この出力そのものが入力に影響を与えるような仕組 みをフィードバックと呼ぶ。出力の増加が入力の上 昇を引き起こす場合を「正のフィ 1 ドバック」、逆 に出力の増加が、入力の抑制を引き起こす場合を 「負のフィードバック」と呼んでいる ( 図 1 ) 。 商品の価格上昇が、最終的に生産の減少に緊がる ような貨幣経済における生産調整は、「負のフィー ドバック」、すなわち「ネガテイプフィ 1 ドバッ ク」の例である。このような負のフィ 1 ドバックは、 経済たけでなく、さまざまの分野において普通に見 られる制御機構である。 我々は、動物細胞や大腸菌などの培養を行うとき、 恒温槽、あるいはインキュべ 1 タ ( 培養器 ) のなか で細胞や菌の増殖を行う。このとき温度管理はとて も大切であり、通常は℃で培養を行う。インキュ べータの温度を℃に設定しておくと、外気温に関 係なく、その温度が維持される。いまや何の不思議 もなく、当たり前のように使っている仕組みであり、 インキュべータだけでなく、冷蔵庫やエアコンディ ショナーなどの家電製品でも当然のように、温度コ ントロ 1 ルの機構を備えている 温度が設定温度を越えると、その出力としての温 度を感知して、入力のスイッチがオフになる。逆に 温度が低くなりすぎると、入力がオンになり加熱さ れることで、インキュべ 1 タ内の温度が上昇する まさに負のフィ 1 ドバックである 負のフィード、ハックは結果としての出力の暴走、 行き過ぎを抑えるための自己管理、あるいは保護機 構であるが、我々の社会でもときおり、このような コントロールが効かなくなる場合がある 少し古い話になるが、昭和絽年、トイレットペー パ 1 か無くなるという事件があった。田中角栄内閣 の時代である。産油国が原油価格を上げると発表し たため、世界的に石油価格上昇を危惧したいわゆる 「オイルショック」が引き起こされた政府は紙の 節約を発表したが、そこから紙が無くなるという噂 が拡がり、まず大阪の千里ニュ 1 タウンのス 1 パー ( だったか ) で、紙が無くなると宣伝したところ、 ハ 1 がたちまち ~ く 主婦が殺到し、トイレットペ 1 なるという騒ぎとなった。それを新聞社が紙面で報 道したため、あっという間に全国に広がり、値段も 高騰した。値段の高騰は普通なら購買意欲を減少さ カ 出 カ 入 正のフィードバック 制御部 負のフィードバック カ 出 カ 入 図 1 正と負のフィードバック制御 せるはずなのに、その時はそれが逆に作用し、たち 1 で在庫切れが続出した。それが まち全国のス 1 パ また不安を煽って騒ぎを大きくするという連鎖反応 を起こし、大パニックに発展したのである。私たち いくら補充してもすぐに無く の大学のトイレでも、 なるとい , フ 、大いに愉快な経験をしたものだ。世に 一一一一口う「トイレットペーパ 1 騒動」である 多かれ少なかれ、このような流言飛語によるパニ ックは往々にしてみられる。「無くなるかもしれな という不安を持ったところに、無くなったとい うニュースが流れる。噂が噂を呼んで、どんどん騒 動は拡大する 行き過ぎを抑制して、元の状態へ戻そうとするの か負のフィ 1 ドバックであるが、この場合は逆で 「正のフィ 1 ドバック」の例と言っても、 負のフィードバックは行き過ぎてしまわないよう 出力を監視しながら、入力の調節を行うものであり、 生命活動を考えるとき、必須の調節メカニズムであ る。生体反応のもっとも重要な制御装置と言っても 過言ではない。 つばうの正のフィードバックのほうは、先のト イレットペ 1 パー騒動たけでなく、自然界にもよく 見られるものであり、たとえば雪崩なども典型的な 正のフィードバックの例である。小さな雪塊が斜面 を転がる。止まればいいのだが、それが転がる過程 である臨を越えてしまうと、自身のまわりにど 外 んどん雪をくつつけながら、成長しつつ転がり続け ることになる。やかてコントロ 1 ルできない一面のの 命 生 雪崩に 3 0 2 厳密には正のフィードバックすべてが同じ過程を
「戦ひの権化」は、戦争が終わって一年の一九四六 年という時期にしか生まれなかった作品ではないか。 達三らしいまっすぐな怒りが、達三らしからぬやや 入り組んだ文章に織り込まれている。 水の底を見ていた筆者がふと目を上げるかのよう に、最後にかすかな希望を感じさせる。 この時期の達三は、沈思黙考の日々をすごしてい た。もの思うこと多かったのか、一九四五年十月か ら一九四六年末までは、わりとまめに日記をつけて いる。それを旺さんに見せてもらった。 Ⅱの指令により新聞紙法や治安維持法が停止 され、発禁だった「生きてゐる兵隊」が、達三が秘 匿してきたゲラをもとに河出書房から出版される 「とてもうれしかった、と父は話していました」と 達一一一の長女、竹内希衣子さんが一一一口う。 自分の文学も変わらなければと思いながら、達三 は書きあぐむ。一九四六年春の衆院選に出て、落選。 ゆっくりと自分の思藻を育てるべく、原稿依頼を極 カ断り、書斎にこもる。〈心の空虚が次第にふかま るやうに思はれて吾ながら心もとない〉。漱石を読 みふける。数年ぶりに妻と銀座へ出る。ようやく六 月末、しきりに小説を書きたい思いが湧き上がる そして七月に高見順から『社会』創刊号にと依頼 されて、書いたのが、「戦ひの権化」だ。『社会』を 出すのは鎌倉文庫。高見を番頭格に、川端康成ら鎌 倉の作家が始めた貸本屋から発展した出版社だ。 達三は、八月四日の日記にこうつづっている 〈 ( 戦ひの権化 ) は不完全なものではあるが、しか し歪兀全ながら快心の作である〉 新しい文学への手がかりをつかんだのだ 編集長はこの一号限りで辞めている。 クリスト教国か、クリスト教団か 一九五四年の短編集『思ひ出の人』 ( 北辰堂 ) 一 「戦ひの権化」は、ひっそりと収録された。達三が ところが。「戦ひの権化」は一行も載らなかった。 『社会』編集後記にお断りがある 〈なほ、本号には石川達三氏の小説を掲載するエ疋 でありましたが、 都合により見合はせ、坂口安五民 のカ作「我鬼」を掲載しました。御諒承下さい〉 『社会』創刊号の発刊は遅れ、事情はわからないが 1942 年 3 月マレーシアで。「デング ( 熱 ) になる前日」とメモがある。達三 ( 右 ) は 徴用され海軍報道班員に。 ( 石川旺氏所蔵 ) ーこあしらった本だが、前書き 描いた絵を表紙カバ ( も後書きも解説もない さらに一九七一一 5 七四年に新潮社が出した『石川 達三作品集』に、かな遣いを改め収められた。この 解題に〈進駐軍検閲により差止め〉とある。解題を 書いた久保田正文は『思ひ出の人』の編集者だった。 しかしそれ以上の言及はなく、旺さんも希衣子さ んも、父親から「戦ひの権化」の話を聞いたことは ないと一一一口う 「戦ひの権化」は埋もれた作品たった。その検閲文 書を見つけて光をあてたのは、詩人で女性史研究者 の堀場清子さんである。ただしそれは、達三没後の ことだった。 堀場さんは原爆が投下されたとき十四歳で、広島 市郊外に疎開していた研究者の夫と渡ったアメリ 力で、原爆表現が占領下でどう検閲されたのか「ぎ ろぎろ見てやるつもり」だったという。に提 出された出版物のゲラや検閲で削除などを命じた書 類は、歴史家ゴードン・プランゲの提一言でアメリカ に送られ保管されていた。その一大コレクション 「プランゲ文庫」を、堀場さんは片端から調べた。 一九九〇年、スタンフォ 1 ド大学の図書館で「プ ランゲ文庫」の複写マイクロフィルムを見た。で 始まる雑誌のマイクロフィルムを回しているとき 字 「ページいつばいの罰点が目に飛び込んできて」。 文 それが「戦ひの権化」。つまり公表禁止 と書いてあった ( 一 = 一七頁資料 ) 。れ 顛末を、堀場さんは個人誌『いしゆたる』の十三替 号 ( 一九九一一年 ) と十四号 ( 一九九三年 ) に書いた。差 「戦ひの権化」が本に収められていることを知った
ポン酢を売り始めた。村の家庭では、柚子果汁を 大根おろしと醤油に入れてつくりよったポン酢が 市販されるようになって、市場が拡大し始めた 冬場に売るものがなくて仕事がなかったから、こ れや ! と。ノウハウも設備もないところから少し ずつ始めて、昭和六十三年、來只の西武百貨店の 「日本の 101 村展」で「ばん酢しようゆ」が最 優秀賞。その年に売り上げが一億円を超えた。 まあ、あのころ本物がなかったがよ。日本中が だんだんおいしいものを追求する時代になった。 ほかはちよびっと柚子果汁を入れる程度やが、う ちは柚子果汁一一〇 % 以上。味は、適当ゃ。あっは つは。おいしいもの大事やけど、イメ 1 ジも大事 やった。ラベルのデサインは、今では超有名なデ ザイナ 1 がやった。梅原真よ目の前でさささ 1 と描いて、「こんながでどうせ」。もうちょっと都 会向けのデザインをイメ 1 ジしてたのに ( 笑 ) 。で も、都会ではあったかみとローカル色が目立った。 「ごっくん」 ( 蜂蜜入り柚子ジュ 1 ス ) を売り出 したのは六十三年。僕は当初、りんごジュ 1 スや みかんジュ 1 スには絶対敵わないと思ってた。と ころが、あのころから日本人の甘さに対する嗜好 ホカリスエットが出てきて、だ か変わりたした。。、 んだん水やお茶が売れ始めて。夏に「ごっくん」、 冬に「ばん酢」が売れるようになり、しかも「ば ん酢」は年中商品に育っていった。 農協で扱っているのは柚子だけ。国の政策とし て米が安くなったのも大きいが、この村で米をつ くると機械代が何百万もかかってしまうき。だか ら農家も、米はやりとうなかった。その点、柚子 立は 。風釦対 ツり叫ー 183 日本のすごい味
バーチャル・リアリティの日常世界 「メディア文化論」の講義が終わった教室内で、学 生たちの会聶が耳に入ってきた。 ・一一でもパニックなんて起きなかったでしよ。 なんだかんだと言っても、日本社会は安全だよね」 「そうだね。アメリカじゃ、ラジオドラマを実況ニ ュ 1 スと勘違いして、火星人の攻撃に怯えて大パニ ックが起こったぐらいだもん。火星人だよ、笑っち ゃうよね。民度が低いったら・ : ・ : 」 その屈託のない会話を聞きながら、彼らが手にす るスマートフォンに目が向かった。私たちは「あい まいな真実」と「魅力あるデマ」が絶えず流れ込む 情報空間に生活している。日本で「インタ 1 ネット 元年」と呼ばれる一九九五年、このデジタル美叩を 「リアリティ侵略戦争」として告発した著作がアメ リカで出版されている。マ 1 ク・スロウカ『それは 火星人の襲来から始まったーーー現実を侵略するヴァ 1 チャル・リアリティの脅威』 ( 金子浩訳、早川書房、 一九九八年、原題は「宀工由戦争 ( The war of the WorIds) 」 ) である。到打から一一〇年近く経過した同書をいまヴ アーチャル・リアリティ論として読む人はまれだろ う。メディアが伝える出まの描写の方が実際にお こった出まよりも本物らしく田 5 える、そうした感 覚はすでに日常化している。とはいえ、この感覚に も個人差があり、アベノミクスの経済指標などはと 、社会全体が仮想現実で動いているわけでも ない。それでも「火星人襲来」から″いま〃が始ま ったという指摘は、メディア論として重要である。 スロウ力は電子文明の創世記の冒頭に、一九三八年 。、ニック 一〇月一二〇日にアメリカで起こったマス・ノ を書き込んでいる。 それは CO< ( 筆者注 . アメリカラジオ会社 ) の技術 者にとっての劇的勝利であり、新時代の到来を告げる 決定的瞬間だった。ウエルズの電子的幻影は、来襲し た火星人から逃れるために北へ逃けた大勢の人々の常 識および現実を、あっさりと打ち負かしたのだ。火星 人 ( すなわち電子的幻影の軍勢 ) は、それ以来進撃を つづけている。世界と世界の戦争ー物理的現実対 クほかのどこかの軍勢ーはつづき、現実は痛撃を くらいつづけている ここで興味深いのは、仮想現実を批判するスロウ 力が火星人襲来パニックという「事実」をまるで疑 っていないことである。結論から言ってしまおう。 いま〃が始まったのではない。 「火星人の襲来」から〃 新聞による「火星人襲来パニック」虚報、それに 依拠したラジオ調査から " いま〃が始まったのであ る。そう告発する後述のプーリ 1 とソコロウの論文 を含む新刊、 E. Hayes. K. Battles and W. Hilton- Morrow ed. War of the Worlds to SociaI Media: Mediated Communication in Times Of CriSiS. Peter Lang, 2013 ( 『宀工由戦争からソーシャルメディアへ の時代のメディア・コミュニケーション』 ) を手に して、私はちょっとした衝撃を覚えている。 災害パニック神話 流言とパニックに私が改めて関心をもったきっか けは、やはり東日本大震災である。三・一一以後、 メディア研究者として流言現象に関心を寄せてきた。 東日本大震災でも「コスモ石油の黒い雨」、「外国人 窃盗団多発」、「放射能にはヨウ素入りうがい薬が効 : など多様な流一言蜚語、デマ情報が広まった。 そうしたニセ情報はツィッターやフェイスブックな どによって瞬時に拡散される。このテ 1 マでは荻上 チキ『検証東日本大震災の流言・デマ』 ( 光文社新 書、一一〇一一年 ) がスマートだ。その第四章「流言・ デマの悪影響を最小化するために」で参照されるの が、アメリカの社会心理学者ハードレイ・キャント リルの古典的名著『火星からの侵ム ( 斎藤耕一一・菊池 拿大訳、川島書店、一九七一年、原著は一九四〇年 ) である 1938 年月日に起きた、アメリカのコロンビ アラジオか放送した、・ ()5 ・ウエルズの (DLL 宇宙 戦争を原作にしたラジオドラマを放送したことから 生じた。ハニックが分析されています。ラジオドラ マ「宇宙戦争」の内容は、「火星人がアメリカを襲っ ている」というものでした。そしてそのドラマの前半 部分は、ラジオアナウンサーか火星人の襲来を実況し なから、聴取者に注意を訴えかけるというものでした。 そのため、このドラマを実際のニュースだと誤解した 人びとが。ハニックを起こしてしまったのです 流一言が引き起こすパニックをどう回避するか、荻 上の関心もそこにある。社会心理学では、一般に流 言の拡がりは「流言Ⅱ重要性 x 曖味さ」の定式で説 明される (z ・・オルポート & »-a ・ポストマン「テマの時 の 心理学」南博訳、岩波書店、一九五一一年 ) 。すなわち、受 言 け手における当該情報の重要性と裏付ける情況の曖流 味さの積に比例して流言は拡散する。生死に関わる デ メ 情報の裏付けが取れない場合に、流言の拡散は極大 0 化するわけだ。東日本大震災の被害は甚大、情況は
文献には作られたことが記述されているものの、実物は存在しない黄色の薩摩切子も復元された佐 ) 。緑色の酒杯。これは復元ではなく創作 ( 右 ) 。 幕末の職人はまるで錬金術師のよ庶民に愛された江戸切子に対して、 、金属粉をブレンドし熔けたガ藩の威信をかけて作られた薩摩切子。 ラスにせて色彩を作り出していた 王の庇護を受けたので、当時手に しかし、金を使って赤を発色すると入る最高の材料をふんだんに使うこ 言われた金赤は、現物が存在しない とかできたという違いはあった。 以上、試行錯誤の中で色を創造して「一九世紀に西欧で流行っていたポ いくしかなかった。 ヘミアカラスやイキリス、アイルラ 「金赤は再加熱することにより、鮮ンドのカットカラスの技術と、清朝 やかな赤を発色します。そのため、の乾隆ガラスの色被せの技術が、西 事前にムク棒取りという玉蜀黍のよ欧や中国に目を向けていた斉彬の手 うな形状の塊を作る工程が必要となによって融合し、世界に類を見ない ります」 ばかしという加工方法が生まれたの 同じ切子でも、薩摩切子と江戸切でしよう」 ( 薩摩ガラス工芸の有馬 子との違いは「ばかし」にある。ば仁史さん ) かしとは、色のグラデーションのこ現在、名作・逸品の復兀だけでは と。薩摩切子特有の厚みがあり、カなく、カット・デザインを自ら創作 ットの角度が緩やかなので、色の濃する立場にもある松林さんは、甦っ 淡を出すことができるともいえる た薩摩切子の今についてこう語る。 江戸切子がカットされている箇所「当時は棒ャスリを使って手で削っ がくつきりしているのに対して、薩ていたのですから、どうしてもカッ 摩切子の場合は、色の濃淡が変化しトは直線にならざるをえませんでし て見えるので、江戸切子は涼しげな た。でも、今は機械で比較的容易に のに対して、薩摩切子はなんとなく曲線を作ることができる。復兀作業 ハイカラな印象を受ける。 が一段落した二〇〇一年には、透明 「切子の技術は四本亀次郎が江戸か なガラスに、異なる一一色のガラスを ら薩摩に技術を伝え、薩摩で生み出重ねる三色被せ〃が開発され、瑠 された色被せの技術が江戸・来只に璃金、瑠璃緑、蒼黄緑という組み合 カラスの 伝わって、色がついたガラスが作らわせが製品化されました。。 れるようになったという風に、ライ層が三重となり手間が一一倍になりま バル視される薩摩切子と江戸切子ですが、新しい技術的な挑戦ができる すが、実は、互いに補完しあって発のは、カット職人としてうれしい限 展してきたのです」 ( 前木場さん ) りです」 247
です。それくらいお茶の香りを外へ放 出して売っていたようで、当時はそれ で当たり前と思っていましたが、今で は考えられないことです。現在は密封 性能の高い袋に脱酸素剤や窒素を封入 してお茶の劣化がすすまないように商 品を製造しておりますが、時間の経過 による酸化の影響から遮断してしまう ことはできません。 抹茶と玉露は新芽が芽吹いてから茶 摘みまでのあいだ、茶畑全体に覆いを 掛けて日光を遮って新芽を育てます。 おいしたちゃえん これら覆下茶園で栽培される一一種類の お茶については、夏を越して秋になっ てから飲むと旨味がいちたんと引き立 つようになります。茶の湯の世界では 十一月に入ってからその年の五月にで てん きた葉茶 ( 抹茶を石臼で挽く前の碾 ちゃ 茶 ) を茶壺から初めて取り出し、石臼 く↓っ医一り で挽いて楽しむ「ロ切の茶事」があり ます。ちょうどお茶が美味しくなる時 季に当たりこれはまことに理にかなっ たものだと言えます。五月の風物詩で ある「新茶」、新茶として楽しむお茶 は煎茶ですが、これをそのまま保存し て旨味が増すわけではありません。や はり覆下茶園で栽培された抹茶や玉露 たけが時間の経過のなかで、うまく 「酸素」と協同作業をすることで旨味 が引き立つようになるのです。しかし 熟成がすすんで旨味が増すことと空気 中の酸素の影響を受けて劣化がすすむ ことは別のものです。上手にコントロ ールできれは素晴らしいのですがそれ はます無理なこと、私たちにできるこ とは低温で貯蔵して劣化の進行を遅く することだけです。 いま世の中に出回っているお茶は昔 に比べると格段に高く品質保持をされ るようになりました。お宅でも、いっ たん封を切ったお茶は日当たりや暖房 などの温度の変化が少ない冷暗所で、 常温に置いていただくことをお勧めし ております。長期のご旅行などでお出 かけの時はその間だけビ一一 1 ル袋など にも、開 しオ冷凍庫か ら出されたものは、出来るたけ早くに お飲みくたさい。何度も冷凍庫との往 茶復があると、湿気の影響を受けて品質 る が落ちやすくなります。 異 袋入りのお茶も現在は包材の品質が よくなりましたので、くるくると口を まいて何かクリップのようなもので封 れ れをしていただく保存で大丈夫です。し そ つかり口を閉じたものを缶や密閉容器 ま ま に入れて頂くのが、なお結構かと思い 古 ます。 も 紐 び 密閉度からいえは昔から錫の缶が一 番と言われていますが最近は銅や銀、 覆プリキで茶筒専門のお店で作られた、 しつかりした缶もごさいます。密閉度 がしつかりしていれは直に茶葉をいれ て頂く方が扱いやすいように思います。 とはいえ、どんなお茶でも、お客さ み まの手元でお茶の旨味を増すことは無 理です。お茶を手に入れられたらなる - お べく早くお召し上がりになることこそ - 寺 京 が、美味しくお茶を楽しんでいただけ 8 る秘訣です。 蔵庫より、冷凍庫に 入れていただミ ます。 ま外ニオイの宝 しカらです。