となく次から次へと一〇〇万年にわたって溢れ続け たから、気候への影響は不可避だった。科学者は、 こういった噴火現象に「巨大火成岩岩石区」という 小難しい名前をふって、ふつうの火山とは区別する 一」し」にーし 4 」 0 現在、オントン・ジャワ海台以外にも、巨大火成 岩岩石区は地球上のあちこちに存在することが知ら れている。インド半島を広範囲に覆うデカン高原を つくる「デカン洪水玄武岩」や、アメリカのワシン トン州を広く覆う「コロンビア川洪水玄武岩」など はそのよい例たシベリアにも、日本の国土の五倍 以上にもおよぶ巨大火成岩岩石区が知られている。 地中からマグマが噴き出すとき、同時に多量の火 山ガスが放出される。火山ガスには、一一酸化硫黄、 一一酸化炭素、窒素酸化物、ハロゲンなどがしこたま 含まれている。ビナッポ火山やタンボラ火山の噴火 を軽くしのぐ火山活動は、とてつもなく多量の火山 ガスも放出したのである。それが、気候を大きく変 える役割を果たしたと想像するのは難くない 火山ガスにたつぶり含まれる一一酸化硫黄は、大気 中で酸素ガスと反応して硫酸に変わる。その硫酸は、 周囲の水分子を集める性質を発揮して、エアロゾル と呼ばれる大気中を浮遊する小さな粒子になる。そ のまま大気中を浮遊するエアロゾルは、日射を遮る 日傘のような役割を演じ、気候を寒冷化させる。硫 酸ェアロゾルの対流圏における寿命は一週間程度た が、成層圏に紛れ込んだェアロゾルの寿命は数年に 及ぶ。これが一時的な寒冷化を引き起こす原因とな ることは、前回の連載で紹介したタンボラやビナッ ボの例からも明らかだ。 オントン・ジャワ海台を生んだ火山活動は、長期 間にわたる寒冷化を引き起こしたに違いない。さら 、海水の蒸発量を減らしたり、降水量の分布も大 きく変化させ、やがては海の流れを止めてしまった。 おかげで海が淀んで、海水中に溶けている酸素ガス がなくなり、石油の元となる黒色頁岩が形成された ・コンビューターを のである。最近では、ス 1 パー 用いた気候シミュレ 1 ションが、事の顛末を見事に 再現している 、、日イした世界 白亜紀という時代は、私たちの生活感覚からする と「はるか太古の昔」でしかない。しかし地球史と いう視点に立てば、かなり最近の時代であることが わかる。地球史を一年に見立ててみよう。白亜紀が 始まるのは一一一月一一〇日で、この時代が終わるのは 年の瀬の一一六日となる。忘年会やクリスマスも終わ り、新年の足音が聞こえてくる頃た。 地球の長い歴史において過去亠ハ億年とは、生き物 が一〇〇〇万種とも三〇〇〇万種とも言われるほど にまで多様化した時期た。白亜紀とはそんな六億年 の中でも、特異な時代である。地球史最大の爬虫類 である班黽が陸地を闊歩し、海の中には首長竜のよ うな現黽の親戚や、矢石と呼ばれる炭酸カルシウム でできた弾丸のような形の硬い殻をもつイカが海洋 中を泳ぎまわっていた海底には直径が最大数メー トルにまで成長する巨大なアンモナイトが暮らして いたこの時代の生き物は現代に比べ一般にサイズ が大きいのである。 6 それに対して、私たち哺乳類の祖先は当時、まだ 2 2 ひ弱で小さな生き物でしかなかった。陸上の植物界 においては、白亜紀の中ごろを境に、イチョウやメ タセコイヤといった裸子植物が衰退し、美しい花を 咲かせる被子植物がとって代わるようになる。 白亜紀は、大気中のいわゆる「温室効果ガス」で ある一一酸化炭素の濃度が現在より一市局く、およそ 一一〇〇〇 ppm もあった。おかげで、温室効果によ って地球が極端に温暖化していたのである この「温室地球」では、サンゴ礁が赤道をはさん で南北緯四〇度近くまで分布していたまた、現在 は熱帯から亜熱帯域にしか生息しないワニの化石が、 北極海沿岸に分布する白亜紀の地層からも見出され ている。森林が極域にまで広がっていた証拠も残さ れている。硅化木と呼ばれる、木質部がケイ酸塩で 置き換わった化石が極域で数多く見いだされるのだ。 世界各地から報告される化石の断片的な証拠からは、 極端に温暖化した地球の姿をうかがい知ることがで きる そんな白亜の時代にも、やがて終焉を迎える時が 2 、る 白亜の終焉 今からおよそ六六〇〇万年前、インド洋の深海で 突然溶岩が溢れ出してきた。現在デカン高原と呼ば れるインド半島に広がる巨大火成岩岩石区が生まれ たのである。再び地球を大混乱に陥れかねない巨大 火成岩岩石区の形成が始まった。しかし、今度はサ イズが少々小さかったため、気候を大きく変えるよ
働くことと生きること ドイツの学校で使われる英語の教科書にこんな例 文が載っている。 "I don't live to work-l work to live." 「人間は本来、働くために生きているのではなく、 生きるために働いているのだ」という意味である。 私からすれば、ごく当たり前の話たし かし、その感覚にも実は大きな問題があ る。ドイツ人の労働観はややもすると、 とんでもない錯覚を呼び起こしかねない。 つまり「働いている時間は、生きている 時間ではない」と、労働がマイナスの意 味しか持ち得ないことだ。 現代において、「働き方」っまり「ワ 1 ク・ライフ・バランス」が頻繁に言わ れるようになったのも、「働くこと」と 「生きること」をそもそも別物のよ , フに 考えているからではないだろうかしか し「ワーク」と「ライフ」を天秤にかけ た時点で、すでにそのバランスが狂って しまっている。働いているときも、人間 は生きている。一日二四時間という生命の時間から、 「私の時間」だけをメスで切り取ろうとすれば、い ずれの時間も生命を失ってしまうだろう。 ーというドイツ出身の エルンスト・シューマッハ 経済学者がいる。彼は今から約六〇年前にビルマ ( 現在のミャンマ 1 ) に赴き、しばらく政府のアド 、ハイザ 1 を務めた。その経験を踏まえ、彼は主著で ある『スモ 1 ル・イズ・ビュ 1 ティフル』にも収録 これは、たとえばオ 1 トメーションを採り入れて、 理想的にはゼロにしたいところである。労働者の観 点からいえば、労働は『非効用』である。働くとい うことは、余暇と楽しみを犠牲にすることであり、 この犠牲を償うのが賃金ということになる。したが って、雇い主からすれば、理想は雇い人なしで生産 することであるし、雇い人の立場からいえば、働か ないで所得を得ることである」 ( 『スモール・イズ・ビ されている「仏教経済学」を唱えた。そこでシュ 1 マッハ 1 は、キリスト教圏の資本主義をビルマに押 し付けるのはとんでもない話であると、結論してい る 「現代の経済学者は『労働』や仕事を必要悪ぐらい にしか考えない教育を受けている。雇い主の観念か らすれば、労働はしよせん一つのコストにすぎず、 ュ 1 ティフル」講談社学術文庫 ) しかし、シューマツ、 ノーがビルマで目にした「仏 教経済学」は、こうした考え方と正反対のものだっ た。仏教経済学の根幹にあるのは、仏教の根本教義 の「八正道」である。その中でも「正命」という 「正しい働きによって営まれる生活」を重視してい る そうした観点から考えると、欧米では負の意味し か持たない労働にも、三つの意義が見えてくると、 シュ 1 マッハーは主張している す 流 ひとつは、働くことによって、人は自分に内在す を 汗 る能力を発達させ表現できること。次に、人々が一 共 つの目的に向かって共に働くことによって、自分の ・ま エゴを捨てることができること。最後は、社会生活 のために必要な物資を生産、またはサ 1 ビスを提供 者 できること ら の「正命」の観点に立てば、オートメーションによっ 創て労働量を減らすことが得策にはならない右の三 妬つの意義がいずれも無用にな「てしまうし、肝心な 「人間」を不必要なものにしてしまうからだ。 現代の経済学は、もつばら生産だけを問題にし、 人間と自然環境を見失っているというのがシューマ ッハ 1 の気づきだった。この国の政治家も盛んに消 費を促しているが、そもそも何のためにするの かを考えているのだろうか消費をすれば、お金が 回り、景気が良くなるという。そうすれば、やがて 日本のの世界ランクも再び向上するかもしれ しかしそれでは回し車の中で走り続けて の いるネズミでしかないそう思うのは、ネクタイを本 しめたこともない田舎坊主の私だけだろうか
二月一一十六日付 ) 。それゆえ、労組といっても草の根 の従業員の利益が顧みられることは期待薄で、彼ら にしてみれば、上意下達の関係が徹底している点で、 中国共産党とウォルマ 1 トの親和性は案外高いのか もしれない 二〇一三年現在、ウォルマ 1 トはアルゼンチン、 プラジル、チリ、カナダ、中国、コスタリカ、エル クアテマラ、ホンジュラス、日本、メ キシコ、ニカラグア、英国、インド、アフリカ ( 十 二ヶ国 ) の二十六ヶ国の六千百四十八店舗に七十八 万人以上の従業員を抱え、売り上げは千三百五十一一 億ドルに及ぶ。国別の店舗数ではメキシコ三千三 百五十一一一店舗 ) が断トツで、英国 ( 五百六十五店舗 ) 、ブ ラジル ( 五百五十八店舗 ) 、日本 ( 四百三十八店舗、若菜 六十六店舗を含む ) を大きく引き離している。 メキシコは海外一口歹店がオ 1 プンした国たが、現 地の小売大手シフラ (Cifra) との合弁会社設立 ( の ちに買収 ) を通して、地元の事情やニ 1 ズの把握に 努めた。北米自由貿易協定 (NAFTA) の締結によ って店舗拡大が後押しされたが、アメリカからの安 い農産物の流入によって地元の農業は大きな打撃を 受け、失業や人口流出が社会問題化した。かってト ウモロコシの名産地だったメキシコが、今となって は、アメリカからの輸入品に依存しているありさま た。こうした状況のなか、メキシコで最も貧しいナ とされるチアパス州を中心に先住民 ( インディオ ) の 権利擁護を訴えているゲリラ組織・サバティスタ民 族解放軍 (EZLN) などがウォルマ 1 トへの抗議活 動を繰り」広、けている ("Manufacturing a Food crisis," WaIden BeIIo. The Nation, May こ . 2008 ) 。 国 中 在 店 号 海 上 の ン オ盛 5 る 、し る 店 あ 舗の人気大手百貨店が存在したことに加え、大衆向 けの市場が遍在していることがネックとなった。ど ちらも現地企業の「買収」によって新規参入を図っ た国である。一方、インドネシアや香港では現地企 業との「合弁」が進められたものの、立地環境や販 売商品の選定ミス、経営文化の違いなどが障壁とな った。カナダのように「買収」によって、あるいは ブラジルのように「合弁」によって市場を拡大して また、ウォルマ 1 テイゼ 1 ションという一言葉とは 裏腹に、ドイツや韓国、インドネシア、香港などで は比較的早い段階に撤退を余儀なくされている。ド ィッではアルディ (Aldi) など現地の超格安ス 1 パ ーがすでに存在したことに加え、土地利用のゾーニ ングや地元企業保護に関する規制も厳しく、労組文 化も頑強だった。韓国でもロッテや新世界などの老 W 処☆期 A ・ SUPERCENTER 8 いる事例もあり、参入形態だけで成否を判断するの 2 は難しい。類型分析を試みた最近の研究でも、アメ リカ・モデルをそのまま国外に適用することはリス クが大きく、現地の市場や文化を正しく理解し、謙 虚に振る舞うことが大切だと結んでいるに過ぎない (WaImart. NataIie Berg 年 Bryan Roberts, Kogan page. 2012 ) 。ウォルマ 1 テイゼ 1 ションといっても一方 通行では立ち行かないようだ。ちなみにウォルマー トは日本では一一〇〇一一年に西友と資本・業務両面で 包括提携し、親会社となっている。 道徳的ポピュリズム 海外進出が進むにつれ、アメリカ国内での批判が、 よりクロ 1 、ハルな様相を呈するようにもなっている 一一〇〇七年、世界最大の靴下メ 1 カーである中国 の「ランシャ」 (Langsha) はウォルマ 1 トによる 買い値が低すぎるとして契約を断った。中国国内の 労働賃金の上昇が背景にあるが、当時、ウォルマー トの ( 最高経営責任者 ) だったリー・スコット 氏は、仮に中国から撤退することになれば、インド ネシアやベトナム、カンポジアなどへ生産拠点を移 すと明言している。実際、一一〇一〇年には衣料製品 の拠点の一部をバングラデシュに移転。その際、ウ ォルマ 1 トは同国の労働法が適用されず、労組の活 動も禁じられた経済特区の疉疋を政府側に要請して いる (Walmart in China) 。 バングラデシュでは最低 賃金の引き上げや労組活動の自由化を求めるデモや ストが頻発している インドは一一〇〇六年に外国の小売企業が「卸売
新連、 ぐる / つの断章 猪木武徳 text by lnoki Takenori 自由社会には様々な価値が存在する それぞれの価値は可能な限り最大限に 尊重されなければならないはずだ しかしいくつかの価値はときに強く衝突し、 同時に実現できないケースが多い 自由はもっとも大切な価値のひとつだが、 なぜ、どこまで守られるべきなのか 【第 1 回】 守るべき自由 とは何か いのきたけのり 一九四五年、滋賀県生まれ。経済学者。 京都大学経済学部卒業、マサチューセ ツツ工科大学大学院修了。大阪大学経 済学部教授、国際日本文化研究センタ ー所長、日本経済学会会長等を歴任し、 現在は青山学院大学特任教授。著書に 「経済思想』 ( サントリ 1 学芸賞 ) 、「自 由と秩序』 ( 読売・吉野作造賞 ) 、「文 芸にあらわれた日本の近代』 ( 桑原武 夫学芸賞 ) 、『戦後世界経済史』など チャップリンの映画「モダン・タイムス」より。写真 : Everett Collection/ アフロ
白亜の時代 イタリアや南仏、そしてキリシャなど南ヨーロッ パの街並みは、私たち日本人が生まれてこの方見慣 れたそれとは一味もふた味も異なるものだ。実際に 行ったことはなくても、風景画や【などで多くの 人にとってお馴染みのものだろう。私の家の居間に も、イギリス人の放浪画家ケリ 1 1 レムの手に よる一枚が掛かっている。異なる印象を生み出す一 因は、「白い町並み」や「白い風景」である。 このような景観は、地質学者に語らせるなら白亜 紀のおかげということになる。「白亜」とは今や古 の言葉だが、平たく一一一一口うとチョ 1 クのことである つまり固くなりきっていない石灰岩であり、私たち が学校の教室で長らく慣れ親しんだ、黒板に線を引 いたり字を書くのに適している例のものだ 何の変哲もないチョ 1 クの一片を電子顕微鏡で覗 いてみよう。そこには、その外観からは想像もっか ないような目眩めく世界が広がっている。直径わず か数マイクロメートルという小さな殻に精巧な細工 が施された、美しくも可憐な化石が無数に積み重な っているのだ。微小な化石は、一つ一つの原子の並 びに至るまで細かくコントロ 1 ルされた天然の工芸 品なのである ( 図 1 ) 。 チョ 1 クがさらに固くなれば、、 少々べージュがか った白色の石灰岩になる。パリ の凱旋門やロンドン 塔、それにインドのタージマハルなど、石灰岩を石 材として用いた歴史的建造物は、洋の東西を問わず 数え上げればきりがない。 わが国にも石灰岩は産する。しかし残念ながら、 は、サンゴ礁を周囲にまとった火山島をふりだしに、 南国の楽園である環礁を経て、最終的にギョーにな る。サンゴ礁島としての一生を終えて、深海に佇む 死の山と化しても、火山島の上を分厚く覆ったサン ゴ礁は化石として残る。深海には、こんな海山がご まんと分布しているのだ。 プレートに乗ってゆっくりと移動するギョーは、 プレ 1 ト上に数千メートルも突き出た出っ張りだ。 海溝でプレ 1 トが別のプレ 1 トの下に沈み込もうと 大規模な石灰岩地帯はない。とはいえ例外はっきも すると、引っかかってしまう。海溝では、プレート のだ例外のうちもっとも広く知られているのは、 は凄まじいカで地球内部へ引き込まれているので、 おそらく山口県の秋吉台だろう。遠目には羊の群れ 少々の引っかかりなどものともしない。プレートの にみえる石灰岩の岩体や、迷路のように入り組んだ 端で引っかかった海山は、まるでカンナをかけられ 鍾乳洞、あるいはセメントの産地などとして知られ るかのようにプレ 1 トからはぎ取られてしまう。は るところた。 ぎ取られた海山は平たく変形し、もうひとつのプレ 秋吉台は、もとはと言えば海底に分布するギョ 1 1 トの端に張り付くことになる。それが長い時間を ( 頂上の平たい海山 ) の頂上に乗った石灰岩である。 かけて陸化したものが秋吉台というわけである 前々回の連載で述べたように、海底で生まれる火山 秋吉台と同じ成因をもっ石灰岩は全国に点在して いる。太古の南国の楽園の数々は、悠久の時を経て ト、・乍 私たちの足元に広がる大地と一体化してしまったの クイがる ン直物あ である。岩手旧爾部の山中に分布する石灰岩に目を ラ、きで プは生の 个けたのは、名作童話を数多く残した宮沢賢治たっ 物亠なも 植〕小た きれ る た。農業技師でもあった賢治は、岩手旧至用部の山中 作やでル をクこて でとれる石灰岩を肥料にせ込んで、痩せた土地の 殻一うつ のヨい 4 は ムチと重改良を試みたのである。 ウルみ 8 シト饋 石灰岩は、そのままの形で利用されるだけではな 一か かのメ鉐 石灰岩を高温で熱して作られる石灰もまた様々 な用途に使われている。石灰を細かく砕いて水に混 円イす〃 図ン 5 ー ぜると、両者は重合してセメントになる。漆喰やモ ルタルなどとして広い用途をもっセメントは、古代 エジプトではすでに傑出した建築用の接着剤たった。 日本で最初の民間セメント工場は、秋吉台にほど近 、天然の良港に恵まれた山口県山陽小野田市 ( 当 時、厚狭郡須恵村 ) に建設された。 さらにそのセメントで砂や砂利を固めたものがコ ンクリートである。現在、地球上でもっとも多量に行 使われるこの建設資材も、その多くは白亜の時代の球 恩恵である。コンクリートの外面は漆喰で塗り固め新 られることも多いから、石灰岩は現代の建設現場に
需要と供給を通して市場価格に集約して反映される か、らた。 それほどに自由市場で成立する価格は、合理的な 経打動にとって必要不可欠な情報を提供している という認識のべ 1 スが築かれていた。言い換えれば、 功利主義的な視点から、「自由」が社会的な厚生の 極大化を実現するという考えが、理論的な体系とし て確立していたのである。 もちろんこのことは、「市場価格はつねに公正で ある」ことを必ずしも保証するものではない。 が真に「自由で公正」であれば、自由市場で成立す る価格は公正であると言いうるが、市場での取引が つねに「自由で公正」な環境で行われるとは限らな 現実のすべての取引 ( 例えば賃金交渉 ) が対等の 立場で「自発的に」なされているわけではないこと を示す例は沢山ある。生の魚を売る商人の交渉力が 時間とともに弱まるように、立場の違いによって、 あるいは外的条件の変化によって交渉力に差が生ま れるのが現実なのだ。この点は四世紀後半から自由 主義経済をめぐる公正の問題として激しく議論され たテ 1 マであった。自由経済における「公正さ」に 最も激しい疑義を呈したのが、一群の社会主義思想 皮らよ・目由と社 家であったことは一一一一口うまでもない彳 ( 会的正義という一一つの価値が多くの場合両立しえな いと主張したのである。 6 真理への扉を開いておく 国家による干渉と強制が望ましくないと考えられ る、もう一つの理由がある。それは、国家という単 、 0 こよって、人々が行動を選択 一理性が統合した知識 ( するのではなく、多くの人々が関わる「思想やアイ ディアの市場」をとおしたほうが、予測しがたい未 来に対して「真理」により近づきやすいという点に ある。この考えは古代キリシア人が発見した、真理 への、迂遠ではあるがもっとも確実な接近方法であ った。古代キリシア人はポリスを市場としてとらえ、 市場を「発見のための装置」と考えた。 ポリスが、真理だけではなく、美や善に関しても、 発見と洗練のための「装置」として働いたと哲学者 田島正樹氏 ( 千葉大 ) は指摘する ( 『古代ギリシアの精 神』 ) 。ポリスの社交生活は、洗練されたもの、良き ものを選別する力を持っていた例えば、ファッシ ョンは厳しい審美眼によって選別され、淘汰される。 見苦しい行動は誰にも真似をされなくなる。そして 悪徳も少なくとも表面には現れない。隠れて生きる ホリスという装 ことを望まない古代キリシア人は、。、 置によって、自然に徳の習慣へと導かれたのだと。 さまざまな思考実験や生活の多様性は、前人未踏 の、あるいは人それぞれの個性にあった「新しい方 法」をもたらす重要な契機になる。「自由な実験」 という行為を許さないで、単一理性の提供する知識 を強制すると、さまざまな可能性を現実のものとす るための扉を閉ぎ」してしまうことになるのだ。 一般に一元論者 (monist) が、社会の問題にも 「科学的に決定的な」回答を原理的に見出し得ると みなすのとは対照的に、この考えは人間行動におけ る非合理的で無意識的な要素の存在を強調するとい う点で、多元論 (pluralism) と名付けられよう。さ らに、自分はこう考える」とい - フことを過度に強 調すると、他の可能性を排除してしまうだけでなく、 過去の知恵への敬意を弱め、他人の考え方を軽視す ることになる。一人の人間の知恵など、社会全体に 蓄積された過去と現在の知恵の総量に比べれば、お 粗末なものなのだ。だからこそ、同時代の他者の考 えを抑圧せずに、ゆっくり耳を傾けなければならな さらに死者 ( 過去 ) の一一一口葉を振りかえらなけれ はならない理由もここにある。古きをたずわること が大切であり、「自分はこう考える」と軽々に、そ して頑固に主張したり、己の「独創性ーを強調する ことほど愚かな幻想はないのだ また、人間というものの存在目的が作為的に狭小 化され、大多数の人間がその単純な目的のために働 「勤勉な羊」からなる社会より、人間が趣味と意 見を異にし、議論し、攻撃し、拒否しうると同時に、 それでもなお「共存する」という知恵を失わない社 会の方を「よし」とする考えがここにはある。こう した姿勢のよって立っところは、人間の知識という ものは原則として不完全であること、たえず誤る可 能性があり、普遍的に通用するような唯一の真理を 現在手にしている人も国民も存在しないということ だ。それゆえにこそ、われわれの信念というものは 、こ虫くとも、新しい実験や議論によって常に修 正を受ける性質のものであることを肝に銘じなけれ ばならない知識の扉を閉ざすことは、長く「誤断 っ 謬」に留まることに等しいのである る 現実の世界は、一瞬一瞬に各自があれこれ選択で 、さることか、らはり - たっている。しかし、できることを ( 可能性 ) が全く制約されていないとすると、具体的自 5 な選択の可能性はなきにひとしくなり、「完全な非
文献には作られたことが記述されているものの、実物は存在しない黄色の薩摩切子も復元された佐 ) 。緑色の酒杯。これは復元ではなく創作 ( 右 ) 。 幕末の職人はまるで錬金術師のよ庶民に愛された江戸切子に対して、 、金属粉をブレンドし熔けたガ藩の威信をかけて作られた薩摩切子。 ラスにせて色彩を作り出していた 王の庇護を受けたので、当時手に しかし、金を使って赤を発色すると入る最高の材料をふんだんに使うこ 言われた金赤は、現物が存在しない とかできたという違いはあった。 以上、試行錯誤の中で色を創造して「一九世紀に西欧で流行っていたポ いくしかなかった。 ヘミアカラスやイキリス、アイルラ 「金赤は再加熱することにより、鮮ンドのカットカラスの技術と、清朝 やかな赤を発色します。そのため、の乾隆ガラスの色被せの技術が、西 事前にムク棒取りという玉蜀黍のよ欧や中国に目を向けていた斉彬の手 うな形状の塊を作る工程が必要となによって融合し、世界に類を見ない ります」 ばかしという加工方法が生まれたの 同じ切子でも、薩摩切子と江戸切でしよう」 ( 薩摩ガラス工芸の有馬 子との違いは「ばかし」にある。ば仁史さん ) かしとは、色のグラデーションのこ現在、名作・逸品の復兀だけでは と。薩摩切子特有の厚みがあり、カなく、カット・デザインを自ら創作 ットの角度が緩やかなので、色の濃する立場にもある松林さんは、甦っ 淡を出すことができるともいえる た薩摩切子の今についてこう語る。 江戸切子がカットされている箇所「当時は棒ャスリを使って手で削っ がくつきりしているのに対して、薩ていたのですから、どうしてもカッ 摩切子の場合は、色の濃淡が変化しトは直線にならざるをえませんでし て見えるので、江戸切子は涼しげな た。でも、今は機械で比較的容易に のに対して、薩摩切子はなんとなく曲線を作ることができる。復兀作業 ハイカラな印象を受ける。 が一段落した二〇〇一年には、透明 「切子の技術は四本亀次郎が江戸か なガラスに、異なる一一色のガラスを ら薩摩に技術を伝え、薩摩で生み出重ねる三色被せ〃が開発され、瑠 された色被せの技術が江戸・来只に璃金、瑠璃緑、蒼黄緑という組み合 カラスの 伝わって、色がついたガラスが作らわせが製品化されました。。 れるようになったという風に、ライ層が三重となり手間が一一倍になりま バル視される薩摩切子と江戸切子ですが、新しい技術的な挑戦ができる すが、実は、互いに補完しあって発のは、カット職人としてうれしい限 展してきたのです」 ( 前木場さん ) りです」 247
下の人間は一生縣大叩仕事していても、上立死「ゴミ屋敷、果ては家族間の殺人と申請のための診断書を書いてくださっ た主治医の先生の一言葉は、まさにその通 いった悲劇までも引き起こす。 の方は保身ばかり考えていて・ : : ・などと このあたりは、私自身が直面しているりだった。要介護 4 と認定された母は、 いうのは、ドラマの中の話。ドラマも小 説も最近はキャラ重規た。旦那の浮気か問題でもある。一見、そうとは見えない現在一切のサ 1 ビスを受けていない。 ら戦争の勃発まで、一律、登場人物のキ中度認知症の母が、他人の介在の一切をし一人であるなら、もし高齢の夫婦のみ ャラに起因させなければ気が済まない。 拒絶するのである。ディ・ケアなどとんであるなら、死後半年して発見されるか、 自宅敷地内に職人が入れない火事を出して近所の家まで焼くかこん だがワンマン社長の仕切る零細会社ならでもない。 いざしらず、個人の「キャラ」なんかでので、雨戸の修繕ができない室内や自な事情でも事が起きれば、行政の対応が 分の物に触られることを相手が家族でも取沙汰される。 仕事は回らない 非効率的で、コスト無視、形式主義的嫌がるため、荒れ放題。女大学的道徳観直接、行政が関われないなら、と代わ な「お役所仕事」も、そこで働く人間のの下で長年王婦をやってきた女性特有のりにコミュ一一テイや民間人に見守りとい キャラの問題ではなく、実情にそぐわぬ恥とプライドの感覚で、めずらしくもなう形で投けようとしても、ドアを閉ざす 、パターンだ。 相手には何もできない。以前、凄惨な児 政策と法制度「システムが生み出すもの 介護保険制度はあるが、申請した後、童虐待を目撃して、児相に通報したこと 虐待の事実を把握しながら、子供が殺まず調査員の訪問で躓いた。家の玄関先がある。このとき児相は、虐待問題につ されるまで児童相談所が窈な手段が取であれこれ尋ねる調査員に、なぜ人の家いては素人の民生委員と小学校の校長に れなかった、などはその典型だろう。 の事情を詮索するのかと怒り出し、結局、協力を求めた。一部始終は、短編集「レ 路上で私が答えることになった。三月のクイエム』の中の「コンクリ 1 トの巣」 職務怠慢との批判はまさに的外れだ した小説なので結末に偶然の救い たとえば不登校の児童について虐待が疑寒空の下、手をかじかませて、自転車の、に書、 われたとして、実母に門前払いを食わさサドルを机代わりにして、必要な書類をを置いたが、現実に救いなどない。 役所の対応を個別に批判しても始まら れたとき、実父に暴力で追い払われたと作成してくれた調査員の方には頭が下が き、児相の職員に何ができるだろう強る。その後も手続きの一つ一つをクリアない。物理的に閉ざされた家のドアの内 制的に踏み込める権限は与えられておらするのに難儀する。当たり前の話たが、側に踏み込み、窈な対策を取れるため ず、もし踏み込んだ結果、虐待の事実が権力行政ではなくサービス行政である以の権限強化を含む法改正、そして踏み込 証明できなかったらどうなるのか。裁判上、認知症や精神疾患で判断力を失ってんだ際のリスクと責任を現場の職員に背 いようが、餓死寸前まで経済的に追い込負わせないシステム、組織内でセクショ を起こされ敗訴すれば、以後、何が起き まれていようが、本人が拒めば、援助のンの壁を越えて情報が自由にやりとりで ても手は出せなくなる き、柔軟に対応できる仕組み作りといっ 子供の虐待やほどの深刻さはなさ手は差し伸べられない。 そうに見えるが、福祉分野でも、拒否さ「馬を水場にひつばっていくことはできたものが必要であろう。市民の人権とぶ つかり合う場面はあるが、高邁な理念を れたら自宅に踏み込めない、 本人が申請ても、水を飲ませることはできません。 ーもケア・マネも家に入掲けて抽象的な論争をするには、現実は という事態ーこれではヘルバ を嫌がれば手出しできない、 切迫しすぎている。 は、現場の職員の熱意とは無関係に、孤れませんよ」 しのだせつこ 東京・八王子市生東京学芸大学卒。 1990 年、『絹の変容』で小説すばる新人 賞を受賞し、デビュー。八王子市役所を 辞める。 1997 年『ゴサインタン』で山本 周五郎賞、『女たちのジハード』で直木賞 2009 年『仮想儀礼』で柴田錬三郎賞、 2011 年『スターパト・マーテノりで行 文吾学大臣賞を受賞する。他にも、 『『ロズウェルなんカ渕らない』『讃 歌』『沈黙の画布』『プラックポックス』な と書多数。、介護をテーマにした中 『長女たち』が 2 月、新土より府 予定。 89 日本の「はたらく」
必要な情報も共有しないと無理。こども最終的に画面に映る本番こそが僉な選はない。しかしこれが最も大事なステる。それは例えば、事件の名則からヒン トを得たりすることもあるんです。たと ニュ 1 スでは立ち上げに参茄できたから、のである。だから、 ップである ( 一例が右下の絵 ) 。 その土台がちゃんと作れた。そこが良か「カメラに映らない細部はどうでもい ( 「ラフを元にコンピューターで清書して、えば裏金だったら、何かの裏側に実際に ったんだと思います」 んです。終った模型をどこかに飾るとか 製作にとりかかるんですが、そこは僕で金があるような作りにするとか、インサ イダー取引なら、模型の構造を一一重にし その後、単畆立。現在も、局をまた眺めるとか、そんなことは全然しません。なくてもできます。素材も発泡スチロ 1 肝心なのは最て『インサイド』を拵えるとか、ちょっ ルや板。珍しい物はない。 いで独自のテレビ模型を作りつづけてい納品したらおしまい」 る 初の絵、ラフです」と笑いながらニュースを見るような距離 つまり、植松の感かっ俯瞰から生まれるものですよね」 模型作りの段取りは、なにより打ち合 模型がわかりやすそんな模型作りのために日々心がけて わせが肝心だ、と植松は一一一口う いのは、咀嚼の仕いることを問うとこう答えた。 「打ち合わせで、どんな出まなんです か ? と聞いて記者さんやディレクタ 1 」 ~ 一一一とのす足方にあるらしい 「勉強はやめられない、発注者よりもわ さんが即答できない場合はダメですね。 動テ 1 マを植松が大かってないと威張れないですから ( 笑 ) 。 ものわ 胆にシンプルに変どんな事件でも、ちょこちょこでも情報 現象を理解していないと立体化できな 〕 ( ・てマるク 換し、立体化してを気に留めておきます」 いるのだ 答えた植松が「ただ、」とつづけた そのために植松は、テレビ局に足を運 解テ見 理のと 後 「なにより、僕の「こういう模型作りをしている人がいな ぶ労を惜しまない。工房も各局から等距 はっ 模型は理解してもいんです。後進を育てないとどうしても 離の場所に構えた。 スな らうことが大事な業界は先細りする」 「会って話す。それが一番ちゃんとした んです。一つのテ人材が集まることも目的の一つとして、 モノを作れる打ち合わせの仕方だと思い ーレ 僕ん方 ーマの一つの解釈一一〇一三年、工房を神楽坂にもうけた。 ます。会うと全人が見える。テレビの なのと 「この仕事には『造形作家のオレが何故 よ事尺 世界は割と人間的な付き合いをするため ・米・・ラの方法をスパッと コ大解ガ 見せるわけです。ドン・キホ 1 テで買い出しなんかしなく の準備期間をネグることが多いけど、そ そのために模型をちゃいけないんだ』なんて思う人は向い こを端折らない」 くわえて、 映す流れを阻害すてないのかな。好奇心が旺盛で骨身を惜 るコメントとか数しまずなんでもやれる人の中から、次の 「この仕事の現場は工房じゃないんです。 以前、映画の撮影で地面に掘った穴の中たしかに工房はガランとしている。 値の提示なんかは後回しにしてもらいま世代が育ってくれそうな気がします」 から人形を操作したことがあります。人 取材帰りにスマホをいじりながら電柱 形は工房で作った。でも本番は撮影場所打ち合わせでディレクターから話を聞戯画化と言ってもいい作業である。 にぶつかる女性を見た。彼女は眠そうで 「カリカチュアする作業を立体でしてい であり、その穴こそが現場。工房が現場くと植松は、 はなかった。目を見開きロは真一文字。 と一言うのはプロレスで言ったら道場が現「そこらへんにある紙にシャープペンシるんですよね。でも、ことさら誰かを、ハ 力にしたり、ただの皮肉とかでは意味が植松なら、このタイプのスマホ依存をど 場と言っているようなもの。本番をやるルとかマジックで絵を描きます」 後楽園ホールを忘れている」 このラフスケッチ制作のための道具はない報道なんだから中立な戯画化をすう表現するだろうか 49 日本の「はたらく」
をとりまく人の魂を不安定で移ろうものにしてしまっていた物語の印象に 本各地で栽培されていた がもうの 京都周辺では、近江に蒲生野と一一一一口われたところがあった。万葉集にある 残るのはおもかげだけである ぬかたのおおきみおおあまのおうじ その移ろうおもかげに、紫という色が反映されている特に桐壺・藤壺・ 額田王と大海人皇子の相聞歌でも有名な、紫草の産地である 紫の上の三人は「紫のゆかり」と呼ばれ、紫が象徴的に表われている存在と 茜指す紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る ( 額田王 ) いえよう。女たちの紫に象徴された魂の縁が、さらなる魂を呼び物語が展開 紫の匂へる妹を憎くあらば人妻ゅゑに我恋ひめやも ( 大海人皇子 ) していく 絶えることなく紫の香が漂う文章、この紫の香は物語に格調高い イメージを与え、日本人の美意識の奧深くに、色と香りを、一一 = ロ葉で織り込ん 私は、昭和の一一一十年代後半、この滋賀県近江八幡に住んでいた でいったと思えてならない 電信柱のないここの風景が気に人り、自転車でよく周辺の野山に出かけた ものだった。大空の下、広い河原には微かに水が流れ、万葉の時代そのまま ちなみに『源氏物語』の舞台になる御所の後宮には、桐壺、藤壺、梅壺、 梨壺、雷鳴壺などの中庭があり、女主人公はそこの住人だったので桐壺・藤のような風情だった。秋には一面が芒ヶ原になり、やたらに赤トンポが飛び 交っていて、腕を振り回すと当たりそうなほどであった 壺と呼ばれたと言われている ただ残念ながら、現在はこの辺で紫草を栽培している農家は無くなってし ひとえ まったこのような現状で今日まで紫の色を絶やさずに仕事が来たのは、偏 紫の匂へる妹を憎くあらば・ : にあるお方のご厚意があったからである 平安時代は紫草の根から染める紫根染めが盛んであり、紫草は古代には日 季節になると、その方の住む山里から紫根が送られてくる独特の香り 1 平安期は紫草の根から染める染色が盛んであり、紫草は日 本各地で栽培されていた。しかし、今では希少なもの。渋 いワインのような香りがする。下は、白とのグラテーショ ンを生かした作品、冬の雷