、ヘ自由 めぐる 八つの断章 - 彡 3 を第ム ヴィルヘルム・フォン・カウルバッハ作「サラミスの海戦」 猪木武徳 text by 一コ Ok 一 Takenori 【第 2 回】 自由のために 闘った アテナイの人々 前回は手始めに、自由という価値とその価値の源 泉についてエピソードを交えながら大まかに述べた 今回から自由の歴史について時代を追ってその特質 をたどってみたい。 それは自由を獲得するために人 類はいかなる闘いを展開したのかを振り返ることで もある。自由を獲得することかいかに困難なことな のか、自由を失うこと力い力にた易いことなのか、 それを実感するためには歴史を知ることが欠かせな とい , フ側一囲 まずは自由の「私的な精神的欲求」 と「公的・社会的な効果」という一一つの側面に留意 しつつ話を進めたい。 いのきたけのり 一九四五年、滋賀県生まれ。経済学者。 京都大学経済学部卒業、マサチューセ ツツ工科大学大学院修了。大阪大学経 済学部教授、国際日本文化研究センタ ー所長、日本経済学会会長等を歴任し、 現在は青山学院大学特任教授。著書に 『経済思想』 ( サントリー学芸賞 ) 、『自 由と秩序』 ( 読売・吉野作造賞 ) 、「文 芸にあらわれた日本の近代』 ( 桑原武 夫学芸賞 ) 、『戦後世界経済史』など
もしくは直接彼らの手による、をしようとす る行為だった。 ( 傍点は引用者 ) 当然ながら、民衆の性善説に立つ「災害ュ 1 トピ ア」論では、朝鮮人虐殺の責任は現状維持のために 「噂を煽った」治安当局やメディアに求められてい る。だが、実際の新聞紙面では、虐殺事件よりも 「震災体験を『われわれ』の体験へとっくりかえて く装置としての『哀話』『美」がはるかに多く 掲載されていた ( 成田龍一「関東大震災のメタヒストリー のために」『近代都亠工間の文化経験』岩波書店、一一〇〇三年 ) 。 一一の東日本大震災でも見られたような、被災 者が助け合う人情美が横溢した共同体は当時も確か に現出していたそれを伝える紙面には、朝鮮人が 行った「美談」、あるいは朝鮮人を救った「美談」 さえも多数含まれている。それゆえに尚更、「災害 ュ 1 トビア」的思考において一般市民による朝鮮人 虐殺は「不都合な事実」となる。 そのため、多くの歴史研究者は朝鮮人虐殺事件を 「甘粕事件」と同様に警察や憲兵を利用した国家権 力の犯罪と見なし、自警団に参加した市民 ( 図 5 ) をプロバガンダに操られた「被生暑」として扱って きた。騙された「被宝暑」に問われる咎は、付和雷ー \ = ー、 同、つまり主筰や自主性の欠如である。こうした ステレオタイプ的記述の典型として、遠山茂樹・今 井清一・藤原彰『昭和史〔新版〕』 ( 岩波新書、一九五 九年 ) がある。この事件は「労働運動と社会主義 者」の一節で、次のように語られている 政府は戒厳令をしいたが、このもとで、三千人にの ぼる朝鮮人が一般市民の組織する自警団などの手で虐 殺された。これは警察から出たと見られる「不逞鮮 人」襲撃のデマにのせられて、公女におびえた市民が、 理性を失って、排外主義的な感情にかられたからであ った。 理性の喪失という見方は当時の新聞にもあったが、 それほど単純ではない。例えば、「鮮人殺害事件ー 理智喪失の病」 ( 一〇月一一一日付『大阪毎日新胆 ) 。 っ も を一 や 竹 人 軍 着 を一 民 市 レ」 警 ・目 の 面 方 布 麻 図 それは国民の一部に、動機さへ純であれば理智のカ を働かさずともよいとする簡粗単純なる思想を持って 居るものが少からすある生きた証拠である 同じことを徹底した皇室中心主義者として知られ た野依秀一 ( のち秀市 ) が「自警団青年団亡国論」 ( 『実業之世界』一九二三年一一月一五日号 ) で述べている ( 野依については拙著『天下無敵のメディア人間ー喧嘩ジャー ナリスト・野依秀市』新潮選書、一一〇一一一年を参照 ) 。普選 運動家でもある野依は、米騒動以来内務省が主導し てきた「官製青年団」は青年の自主性を認めず、む しろ青年を現実政治から隔離する組織たと批判する。 その帰結が震災後に理性を失った「醜態」だという。 ャレ鮮人が来た。ャレ社会主義者が来たと言って騒 ぎ出し、理由なしに、男女の別なく人間を取調べて見 たりするのである。人間を理解せずに、新思想を理解 せずに、兵隊や巡査の出来ソコないのような事をやっ て、殺人をやる事になったのである 事件の真相を分析するためには、歪女におびえた 市民を国家権力が操作したという先入観は一たび取 大衆が主体的に朝鮮人を虐殺した、と考え てみることも必要たろう。尾原宏之『大正大震災ー 忘却された断層』 ( 白水社、一一〇一一一年 ) は、朝鮮人を 保護しようとした巡査にも向けられた自警団の攻撃 性を、「自治精神の芽生え」から説明している 地方参政権すら持っていない下層民が、完全に誤認 とはいえ「敵」と戦い、日頃自分たちを抑圧しておき ながらこの期に及んで「敵」を保護する警察権力を粉 砕したのは、いかに愚かな行為であれ政茄の一種 だった。虐殺事件は、その意味で「自治精神の芽生 え」の持っ巨大な熱量の仕業でもある。だから、人情 や相互扶助と完全に無瞿なものではない。 男子普通選挙を認める選挙法改正はさらに一一年後 の一九一一五年である。参政権のない労働者や青年た ちが共同体への過剰な参茄意識から自擎動にのめ こうした大衆社会の り込んだ可能性は少なくない 表裏両面を見つめる複眼的思考を回避している点で 112
ャラクターの生活を丁寧に描くことを通 じて、子供は 1 年間をそのキャラクター とともに過ごしたような感覚を味わうこ とができる。 子供か翻訳小説を読むときの一つの壁 となるのは、聞き慣れないカタカナの人 名だったり、外国の土地や食べものなど かなかなか想像できないとい一つことだ。 アニメでは、こうした要素が、子供が感 情を寄り添わせるキャラクターの生活空 間の中に的確に描き出されるため、その 存在がどういうものなのか直感的に理解 出来るよ一つになる。 こうしてハードルが下かった結果、 『赤毛のアン』や『少女パレアナ』年 に『愛少女ポリアンナ物として放送 ) を手いうコラムを設け、「名作シリーズ」の文化の日本受容のある重要な局面を示し にとった人も少なくないだろう。 アニメ化にともなうアレンジについて検ているのかもしれない。〉 しかし年代に入ると「名作シリー もちろん資料不足を想像で埋めた部分、討した上で、次のように原稿をまとめて しる ス」の視聴率は次第に下がり始める 日本人の好みを考慮して原作を大きくア その理由の一つに、意識的にか無意識 レンジした部分がある作品も少なくない 〈日本に英米の少女小説が広まったのは、 だが、それも含めて、「名作シリーズ」ひとえに村岡花子の翻訳紹介の功績であ的にか多くの作品で踏襲されていた「四 は子供が海外の文学作品に触れる入り口ったが、昭和の終わりから平成にかけて世紀後半から世紀初頭が舞台」で「大 となったのだった。 の若い人々に、これらの物語を紹介し、自然の中で少女が活躍する物語」という 『少女小説から世界が見えるべリーヌ定着させたのはこのアニメ・シリースで枠組みのために、有力な原作が枯渇して はなぜ英語が話せたか』 ( 川端有子、河出あった。そうすると、ここに簡単に紹介きたことは挙げられるだろう。 書房新社 ) は「アニメになった物語」としたような翻案・改変・視覚化は、英米たとえば『南の虹のルーシー』 ) の 『赤毛のアン』は原作に中実に作られ、 視聴者を魅了した。根強いファンの多い作品。 を一 ONIPPON ANIMATION CO. , LTD. Anne of Græn Gable.s and 0 物 indicia of Anne are trademarks and Canadian officialmarks Of 廿 Anne Of G 「 e 日 1 GabIes Liænsing Authority ー . , Charlottetown, Prince Edward 回 ar , used under licence by NipK1)n Animation CO ” Ltd. 放映中から反響の大きかった「フランダースの本。 ラストシーンは涙なくしては観られない 2 ONIPPON ANIMATION CO. , LTD. http://www.nippon-animation.co.jp 7 0 5
方ができて、散文は詩に敵わないと思ってしまいます。 詩は、多義的な読み方を許すものだから。短いこ とが武器です。それに物語が歴史たとすると、詩は 完全に瞬間芸。震災後に「今、生きていること」と いうような詩が流行ったように、今、この瞬間に生 きているということが人間にとっていちばん基本的 なリアリティなんたと思う。そこで切ってしまうと 過去も未来もなくなってしまうから、それがあって なおかっ、過去と未来をくつつけなきゃいけよい。 そんな感覚ですね。 物語を受け入れ始めたことには、何冊か共著も出 された佐野洋子さんからの影響もあるのでしようか あの人は批評家です。佐野さんはエッセイ『神も 仏もありませぬ』で小林秀雄賞をもらいましたが、 審査員の慧眼ですよ。僕はお抱え批評家がいるって 威張っていました。佐野さんは一番大事なところを ついてきますから、おかげで僕はずいぶん、自分と いう人間がわかるようになりましたね ーー佐野さんの『 100 万回生きたねこ』は物語の決 定版ですね 普通だったらハッピ 1 エンドと言わない、不思議 なハッピ 1 エンドです。あの作品が二〇〇万部も売 れたのは、日本人の感性を信用する一つの源になる ように田 5 います。フランス語訳も英訳も出ているけ ど、そんなに外国で売れたという話は聞きません。 絵本と詩ーー自分に合う創作のかたち 少し時間を遡ります。谷川さんの絵本翻訳は一九 六九年の『スイミー』『フレデリッ 2 ( ともに作・レ オ " レオ一 l) からでした。レオ " レオニ作品は、六七 年のあおくんときいろちゃん』が最初の邦訳です。 童謡の研究家で編集者でもあった藤田圭雄さんの訳で すね。 そうです。僕は『あおくんときいろちゃん』を読 み、こういう形でいいのなら僕でもっくることがで きそうだと思って、自分に合った絵本の作につい て考え始めました。『あおくんときいろちゃん』で 一ニ「 - フレデリック レオレオ二第一スイ、、、ー 目を開かれたという絵本作家はとても多いんですよ 六九年後半には、「ピーナツツ」シリーズの翻訳 も始まりました。こちらは日常と形而上の問題をつな ぐ、哲学的解釈にも耐んる新闃没画です。当時、漫画 を訳すことに抵抗はありませんでしたか。 漫画という意識では訳していませんでしたね。僕 は、アメリカにいた時から「ピ 1 ナツツ」を読んで いて、吹き出しのなかが他の漫画と全く違う次元の 一一一一口葉だから、それがとても好きでした。チャ 1 リ ・、フラウンやル 1 シ 1 よりも、とにかくスヌーピ 1 という存在に惹かれていました シュルツさんにお会いになったことはありますか 一度たけあります。もの静かで哲学者のようでし た。会ってはじめに訊かれたのが「あなたは原爆が 落ちたときにどこにいましたか」という研貝問なの 初対面のアメリカ人にそんなことを聞かれたことは なかった。とても鋭い意識がある人でしたわ。たま に目 ( イカが作品中で独走しすぎて、エ 1 ジェントに 抑えられることもあったんだって。 ひらがなの可能性 『マサー・グースのうた』も七〇年代に手掛けら れた代表的な翻訳作品です。マサー・グースは、詩で 三ロ どものための詩の翻訳ほど難しいものはないと思いま 読 すか、ミリオンセ一フーになりましたね マザ 1 ・グ 1 スは、英語にしかない語表現、子 それに過去の殺人事件まで扱っている。それらをど井 うやって日本語としていきいきしたものにするかが 8 ? 谷川俊太郎 マザー・グースのうた 第一集 第 ( ( ト巨、ムソ一プ ) ラージ、 ツ」一」っつ谷川俊太郎 第等引太郎 川をた第 を日を第当を チャールズ第イルツ 第をス第
考える人 その時一文連が plain living & high thinking. 次号 [ 2014 年 7 月 4 日発売 ] 予告 生まれた いまからちょうど百年前の大正三年 ( 一九一四年 ) 九月十八日、新潮文庫が創刊されました。 第一次世界大戦が勃発したばかりの当時、 西洋の知識を吸収するために 「泰西名著の全譯」が 「未曾有の廉價」で買える「文庫本」は、 時代の要請でもありました。 そして昭和一一年に岩波文庫が登場。 中間知識層の拡大とともに、 大衆教養時代が本格的に幕を開けます。 さらに、文庫本の大元をたどると、 ルネッサンス後期のヴェネッィアにまでさかのばります。 活版印刷技術が生まれたばかりの頃に 貴族や富裕層のものだった「本」が 。そして なせ小さくなったのか ドイツにレクラム文庫、英国にペンギンブックス。 ハンディで安価な本の形が、読書界に放った 衝撃と影響を改めてたどってみたいと思います。 PhOtog 「 aphby 工「望 10 Mitsuyoshi 「考える人」 メールマガジンのご案内 小誌編集長が、雑誌には登場しない編集の舞台裏や こぼれ話を紹介します。また、編集長が個人的に疑 間に思っていること、出会った出来事など、日々の もお伝えするメールマガジンです。通常版のほ かに、お薦めの本を紹介する「考える本棚」や「考え る人」執筆者の新刊案内なども掲載した HTM 凵阪が ございます。「考える人」のホームページ ( http://www.shinchosha.co.jp/kangaeruhito/) でご登録ください。また、ツィッターも始めました。 アカウント名は @KangaeruS です。
一一〇一一年には、米政府の関係省庁に対し、外交政 策や対外援助を通じたの人権擁護の推進を 指小した。ヒラリ 1 ・クリントン国務長官は「同性 愛者の権利は人権であり、人権は同性愛者の権利 だ」として、の擁護こそは「今日残された 人権課題の一つ」と一一一一口明した。米国務省は一一〇一一 年度の人権活動家賞 (Human Rights Defenders Award) を反同性愛法案の撤廃に取り組んでいる ウガンダの Z (..D O 連合「 Civil Society Coalition on Human Rights and Constitutional Law 」 ( 一一 〇〇九年創設 ) に授与している。 もっとも、オバマ政権がを弾圧している 国への援助打ち切りを示唆している点に関しては、 人権活勲豕から「援助停止のしわ寄せを最も強く受 けるのはや貧困層だ」「同性愛が西洋から の『輸入品』であるという誤解を助長しかねない」 「ナショナリズムを刺激し、ムセべニ大統領による 裁政治の正当性を高めるだけ」といった批判も少 なくない また、アメリカにとってウカンダ軍はソ マリア駐留や国際テロ組織「神の抵抗軍」掃討作戦 1 トナ 1 であり、をめぐ における重要なパ る対応も抑制的にならざるを得ない。 さらに言えば、の権利はアメリカ国内で 例えば、一一 も完全に認められているわけではない。 〇一四年一月現在、同性婚を認めている州は十六に すぎない。同性婚を禁止している中西部インディア ナ州の場合、結婚許可証の申請欄には男女それぞれ の氏名を記載することになっているため、同性カッ プルの場合は虚偽申請と見なされ、重罪処罰の対象 となる。今日、キリスト教保守派はアメリカの人口 の四割を占め、絶頂期の労働組合に匹敵する政治カ を有しているとされる 全米の家庭から子どもたちを集め、原罪を懺悔さ せ、神への服従と悪魔への反抗を説くサマ 1 キャン プを追ったドキュメンタリー映画「ジ 1 ザス・キャ ンプ』 ( 原題 "Jesus Camp". 2006 ) は日本でも上 映され、その「カルト」のような光景が話題を呼ん だ。同キャンプを主催したのはノ 1 スダコタ州を拠 点とする聖霊派教会「キッズ・イン・ミニストリ ・インタ 1 ナショナル」だが、 同教会は、ウガン ダを含め、多くの発展途上国に活動を拡張している。 ウガンダのみを批判するわけにはいかない事情がこ こにもある 政治史家リチャ 1 ド・ホ 1 フスタッタ 1 は『アメ リカの反知性主義』 ( 田村哲夫訳、みすず書房、一一〇 〇三年 ) において、アメリカには知性や理性の特権 化を嫌い、大衆の情緒に直接訴える力や実用的な価 値を重んじる傾向が常に内在してきたと指摘する。 植民地時代から何度か繰り返しアメリカ全土に広ま っている、純粋な信仰体験への回帰を求める信仰復 興運動 ( リバイ、ハリズム ) がその典型だ。とりわけ 一九六〇年代以降、それまでの伝統的な世界観を支 えていた主たる制度、すなわち家族、宗教、学校、 国家がリべラル派に包囲されるなか、根本派は主流 派を凌駕しながら、保宀寸的なカウンタ 1 ・ディスコ 1 ス ( 対抗一一一一口説 ) を猛然と流布させていった ( 渡辺 靖『アメリカン・コミュニテイ』新潮選書、一一〇一三年 ) 。 根本派隆盛の背景や意味は、当然ながら、ウガンダ とアメリカとでは異なる シンガポールのメガチャーチ とはいえ、ワトト教会のセル制度やホームページ の作り 礼拝を動画やポッドキャストで再生でき る点も含めてーー・はアメリカのメガチャーチとそっ そして、似たような既視感はシンガポールでも覚 えた。例えば、観光客で賑わう市の中む部から地下 鉄で十五分ほどの場所にあるニュ 1 ・クリエ 1 ショ ン教会。一九八四年に創設された、約一一万五千人の 信者を擁するメガチャ 1 チだ。道教や仏教が主流だ った同国で、新中産階級の支持を背景に急成長を遂 げている。超近代的な巨大ショッピング・モールと の複合施設で、服装からは買い物客と信者の区別は まるでつかない。五千人を収容できる礼拝堂はコン サ 1 トホ 1 ルのようで、事実、デヴィッド・フォス タ 1 やアタム・ランバ 1 トなどのライ。フに貸し出さ れてきた。 創設者のひとりで主任牧師のジョセフ・プリンス は一九六三年生まれと若く、インド系と中華系の親 を持つ。細身のジーンズに革ジャンを纏って行なう 説教は、さながら美男俳優による独演ミュ 1 ジカル といった感じで、圧巻、いや完璧なパフォ 1 マンス だった。彼の説教はテレビやインターネット、 OQ 、一 を通じて北米や欧州、オ 1 ストラリアなどでガ ン も好評を博しており、アメリカ最大のメチャーチ カ であるレイクウッド教会 ( テキサス州、福音派 ) を 説教を生で聞くア 含め、海外からの招待も絶えない。 5 9 には入場券が必要た。信者からの歓声が飛び交う説
ていたたけるように、 マネ 1 ジャーの伊藤晃氏に伺った。 一年後を目途にさ 「通常の新規出店とは次元の違うプロジらに広い場所を見つけよう』と思ってい ェクトだという位置づけで、復興のためました。営業担当役員が『一年後には本 にやるんだという強い信念でした。一一月設店舗をやります』と対外的にも約東し 初旬に具体的にやろうという方針が決まてくれ、このことをきっかけに私は翌週 り、三月九日にオープン。わずか一カ月より、再び用地検討へと動き始めまし とう準備期間は、当社始まって以来最た」 速でのオープンとなりました。 諸条件を勘案して、気仙沼、そして釜お世話になった人たちのために 石に一一店舗を出そうという結論に至り、 ともに『一年限定 の仮設店とい う条件で、釜石は 市の公有施設内に 八十坪のスペース を、気仙沼は地権 者のご理解を得て 一一一十坪の店を確保 す・るこし」かで、さ土玉 印象的だったの は、やはりオープ ンの日です。朝か らお客様が寒空の中で開店をお待ちいた 本設店舗の候補地として選んだのが、 たく姿。お母さんと娘さんが楽しくご相気仙沼市果新城の現在の地である。高台 談されながらお買い物をしているごで津波の被害を受けていない新興住宅工 家族のサイズを悩んでいる姿。どれもが リア。地主の方も「二〇一三年春オ 1 プ 感動的で、いまでも目に焼きついていまンに向けてできることは全て協力する す。気仙沼は狭い店で、商品は絞り込んよ」とあたたかい言葉をかけてくれた だアイテムしか揃えられませんでしたが、 夏には畑で穫れたスイカを頬張りながら、 それでも両手いつばいになるほど、お買打ち合わせを進めていた矢先、大きな試 い物をしていたたいた後ろ姿を見ながら、練が訪れた 「大きなお店でもっと楽しくお買い物し「十一一月になって、ゼネコンさんから連 復興をつけた狼煙 ん さ一 気仙沼の杢店舗が完 晃 藤 成した時、「涙が溢れ 伊 の そうになった」と早野 ャ長氏は一言う。仮店舗にこ ジ店 ぎつける則から、いろ いろな人たちが大変な ム野 思いをしながら、努力 チと を積み重ねてきた。そ 上 開 店真れがこうして結品した のかと思うと、真っ白 な壁に浮き上がってい て頑張って下さい』と言ってくださったる「 >Z—C*-ÄO 十一月一一十九日オー ことです。仮設店舗のほうでも継続できプン」という 赤い文字が滲んで見えたと るギリギリの期間まで、地主さんにご協 力いただきました。比のお言葉がどれ「お蔭様で、オ 1 プンから現在まで売上 ほど後押しになったことか分かりません。は予想以上の推移を見せています。とは このプロジェクトは人では決してでき いえ、お客様の期待値に対して、まだ自 なかったことです。携わってくださった分たちにはそれを充分に受け止められる 全ての皆様に感謝しています」 たけのものが備わっていないと感じてい 伊藤氏は震災前から東北エリアの担当ます。たとえば、オープン直後の繁忙期 だった。大震災は仙台で遭遇した。途方 ( 、笑顔を忘れたり、対応に充分気がま 絡が入って、建築コストが急騰しているに暮れるような大混乱の中で、見す知ら ため、計画通りに進めることが困難、とずの人たちがお互いに助け合う場面を目 いう厳しい提案がなされました。オ 1 プの当たりにした。そして自分自身もまた、 ン日も迫っていたため、トップの判断の來只に戻ってくるまでに、どれほど多く もと、社内の各部署と建物の仕様を再検の地元の人たちの善意に支えられたこと 討したり、可能なかぎりの調整を図って、かそれか忘れかたい経験となっていた 半年遅れにはなってしまいましたが開店「お世話になった人たちのために何かし の目途をつけることができました。そのなければ」という思いが、その後の日々 際成蔽したのは、地主さんが嫌な顔一つの支えとなった。 見せずに 『いいよ。何とか十一月に向け
てからのほうが、余計なものが自分からもそぎ落 されて、素直に一人の女性の人生として見るよう にはり主した。 ーー恵理さんは村岡花子さんの評伝『アンのゆり かご』 ( 新潮文庫 ) をお書きになりましたが、彼女 の人生を振り返っていかがでしたか。 恵理私が生まれた時はすでに、子供向けの良書 もたくさん出版されていましたし、女の子だって 男の子と同じように進学したり就職したりするの 。。当たり前の環境でした。日本が質的に非常に恵 まれているのは当然で、むしろ『赤毛のアン』の ような祖母が手がけていたものは、読み捨てられ るような古典になりつつあったと思います。 しかし、祖母の足跡を追っていくうちに、子供 向けの本の存在、婦人参政権、教育の機会均等、 反戦という考えといったものが当時は全部なかっ たとい , フこと・目体にます驚叫万しました 私はずっと祖母が、道徳的にも倫理的にも健や かで良い物語をふわっと出し続けている人だと思 っていたのです。しかし、実はものすごい進取の 気性で開拓して、闘っていた。今の私たち女性が 豊かなもの、豊かな本、豊かな機会に囲まれてい ること自体、祖母を含めたあの時代の女性たちが 闘いを経て獲得してきたものだと知って、目から 一フろこが落ちました。 今私たちがむしろ保守的だと思っている「健全 で清らかなもの」を大事にしなければ、私たちの わけではない。 家族や村の周りの人たちとの平凡 な毎日を紡いでいる、たわいのないおしゃべりが とめどなく続いたり。でもそういうことか平不 行われている毎日のありがたみというのは、今で は当たり前過ぎて、つい忘れてしまいます。 生きている上での基礎を全て失うことになるかも しれない。そういった考えが、祖母が訳したもの の中にはある。私も作品の尊さを大人になってか ら改めて知りました。 美枝「アン」の物語って、大きな事件が起こる 抜 で 中 と ン ア の れ て め 年 モンゴメリも祖母も、当時は今ほど時代が耕さ れておらず、また戦争もあったので、「平凡なも のの尊さ」をよく知っていました。それは多分ど んな時代、どんな思想、どんな国においても、人 間にとって非常に大事なこと。そういうものを祖 母は届けたかったのかな。 祖母は「洗練された平凡」を大切にしていまし た。「アン」の物語には本当に洗練された平凡の 強みというか、全く古びたものにならないという 普遍のよさがあります。祖母は私たちがこうやっ て今安心して子供と一緒に家庭の生活を築いてい ける土壌を作ってくれたと思います。 書く人としての凄み 先ほど恵理さんが、おばあさまは健全な物語 をふわっと出してきたと思っていたとおっしゃい ました。しかし実は、花子さんは悲壮なまでの覚 悟をもって仕事に邁進していました。 まず最愛のひとり息子・道雄ちゃんを五歳で亡 くします。突然亡くなったその夜に、花子さんは 道雄ちゃん宛てにメッセージを書いています。普 通の母親なら自分の子供が亡くなった当日にその 子への手紙を書くなんて無理でしよう。しかしそ れでもペンを執ったというのは、書く人としての 凄みを感じさせます。 恵理 小さいとき、書斎に何となく祖母の体温や 3
仕上がった箔を穴や疵がない刎リしながら 「広物帳」という別の帳面に移す。 「大重」を仕上け、用のイヒ粧紙に挟み入れて、 艶消しし、「上澄」に仕上げる。 ここから箔屋の仕事。「上澄」を 1 2 枚程の小 間に切り、打ち紙に挟む「引き入れ」。 3 ~ ⑦の 3 段階の工程を経る際に、延金は 1 枚ずつ紙を移し替える。これは「荒金」の鄧皆 打ち紙の上下に保護用の紙を重ね、それを革 で固定して箔打ち機で叩き箔を延ばす。 上記「抜き仕事」の後、竹製の枠を当てて、 通常、 3 寸 6 分角の大きさに揃える。 約 20 センチ角に「仕上がり上登」を切ってから 三つ折りにする。 1 日に 3000 枚ほど生産する。 「打ち前」の工程を経て、箔は主紙に移され、 箔打ち機でさらに叩き延ばされる。 金箔なので切り揃えた時にはみ出した部分も 集めて、食用、美容、お酒などに使う。 を熔解炉で溶かし、銀や銅を微量配 れ渡ムロして合金を作ることから始まる 「純金の含有率が九八・九一バーセ ントの五毛色だけでなく、金地金か 金に らフォーナイン ( 九九・九九パーセ どよ ント ) の金箔も作ることは可能です が、日本で一般的に作られているの 近 は四号色、純金九四・四三、銀四・ 金扱 純が 1 セントこ己 九、銅〇・亠 / 亠 / ( 酉合す るものです」 ( 今井圭一会長 ) 一九九〇年代、高くても一グラム 一五〇〇円程度たった金は、今世紀 とる る - ん になってから価格が高騰し、一一〇一 て見 当て 四年一一月現在、四五〇〇円ほど。片 光透 手で持っとずっしり重い一キロの金 箔青 塊は、それひとつで四五〇万円とい ずみう なの , フことになる。そして、登打ちのエ くる 薄す 程で一ミクロン ( 一ミクロンは一〇 艮ば 〇〇分の一ミリ ) 、箔打ちの工程で 〇・一ミクロン厚まで薄くしていき、 最終的に一キロの金塊から、三寸六 分 ( 一〇九ミリ ) 角寸法で四万枚の 事金箔を製造していくのは、「ナノテ がもク伝統工芸」ともいえる た最 つか 「銀を入れると延びがよくなります をみ で込が、これ以上配分を高めると青味が る増し、日本人が金だと感じ色の限 る界を超えます。それが、四号色が一 カ - え 箔整 般的といわれる所以です」 ( 今井圭 金を 一会長 ) 213
とはいえ、この一一人の女性は、日本女子大を卒業後 も、折に触れ軌跡が重なり合うような人生を送る。 ともに「婦人解放運動」に深く関わり、「女子の覚 醒を促す」ために会合とを重ねる人生を送るこ とになる。記録によるならば、平塚は十数年の後、 婦人解放運動の方針をめぐって柳子と齟齬を来し、 解決を求めて柳子のいる大阪へと足を向ける。だが その話は、本連載の後の方ですることにしよう。今 、刀 回は 100 年後のわたしの眼に、らいてうと柳子、 どこかしら分身のように田 5 えてくるという咸想たけ を書き付けておきたい。彳たちは出自こそ違って いたが、女性の知的情熱が社会的に認知されようと していた、同じ時代に属していたのである。 柳子は家政学を専攻するため、お茶の水から目白 台へと学び舎を変えた。これで彼女は啝での勉学 期間を、さらに 3 年間延長できることになった。こ の決断が郷里香々美の矢野家を当惑させたことは、 充分に想像に足る。てつきり女高師に進んで教員資 格を得、地元の女学校に就職し、一家の名譽〕を高め てくれるはずと期待していた長女が、女たてらに大 いまだに誰も 学へと進み、「家政学」などという、 耳にしたことのない学問に邁進するという。 鉄道も 通っていない田舎の旧家にとって、この行動は醜聞 とまではいかなくとも、大きな落胆であったように 思われる。 この原稿を執筆する数日前、わたしは、柳子の三 男でわたしにとって伯父にあたる耕一二の妻、稲穂と 久しぶりに話をすることがあった。現在歳の彼女 は、四方田家の一族にあって最高齢の女性である。 改革がなければ実現がかなわない類のことであった。 稲穂伯母さんは柳子と直接に遭い見ることはなかっ たが、耕三を通して彼女のさまざまな逸話を聞かさ 柳子が入学したのは、正式な資格でいえば大学では れてきた。その一つに 、この女子大進学の経緯があ なく専門学校である。もっとも世間の大方にとって、 そのような制度的な資格などあすかり知らぬところ った。稲穂がわたしにいうには、やはり矢野家の内 側ではあの難関の官学に途中まで進んだのに、わざ であった。彳 皮らは目白の通りを自転車に乗り、颯爽 と駆け抜けていく女学生を、うっとりとした眼で眺 わざ新設の私学に向かうという柳子の選択が、最後 めていたのである。 までどうしても納得できなかったようである。戦前 の官学の権威と私学の地位の低さに由来する無理解 といってしまえばそれまでだが、やはりこの騒動か 女子大でのモダンな生活 ら了解できるのは、長男である序兵衛の挫折と鬱屈 日本女子大学校は 1901 年 ( 明治引年 ) 、東京 の目白台で開校された。『日本女子大学校四十年 育 教 史』 ( 日本女子大学校、 1942 年 ) によれば、運 子 女 の 動場に 200 坪あまりのテント張りの式場を作り、 本 日 生徒父兄保証人を合わせて 1300 人の来会者列席 を一 の上、開校式が行なわれた。その後に皇后より金 2 000 円の下賜があった。 こ 創設者の成瀬仁蔵 ( 1858 ー 1919 ) は長州 成に 藩に下級武士の長男として生まれ、地元の教員養成 所を出てしばらく小学校の訓導を務めていた彳 ( 大阪でキリスト教に入信すると、開校されたばかり を挽回すべく、才長けた柳子により過剰な期待が寄 の梅花女学校で主任教師となった。その後、牧師と せられていたという事実である して日本各地を転々とした後、アメリカの神学校に ちなみにいう。「日本女子大学校」という名称は 留学。彼の地での女子教育の進展ぶりに深い関心を それが來帝国大学のように正式に大 ) として認可 されていなかったことを意味しているその意味で 抱くようになった。 1894 年、帰国して梅花女学 戦前の日本に、国家から制度的に認可された女子大校に校長として赴任。だがわずか 2 年でその座を降方 、女子大学設立運動に情熱を傾けるようになる。の 学は、厳密には存在していなかった。われわれがこ れから論じようとする日本女子大学校は、 1948 彼はその甲斐あって、 1901 年にいよい日本女 子大学校を創立し、初代校長となった。キリスト教母 年、ようやく新制の「日本女子大学」として改組さ 9 れたものであり、それはによる積極的な学制 徒としての信念と使ムだ基づき、生涯の情熱のす