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検索対象: 考える人 2014年春号
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1. 考える人 2014年春号

」 / 開ぐ。 ( 簿唇組午を作ら農業にはる生活を ) 0 始める。 1947 年 ( 昭和 ) 歳 プ / ちゃん雲に乗る』 ( 大地書房 ) 一 1950 年 ( 昭和 ) 歳 岩波書店の吉野源一一一郎らに編集の仕事を勧 められ資金に困窮していたこともあり上 京。岩波書店に嘱託として入社月に ・「岩波少年文庫一が到行開始、「企画編集で 指揮を執る。 " 倉ラインナップは『宝島』 「あしながおじさん』「ク牙スマス」キャ・ロ ル』「ふたらのロカテ』『小さい牛追い』 ( 示さい牛追い』ば石畊訳 ) 。 1951 年 ( 昭和 ) 歳 『ノンちゃん雲に乗る』 - が、第 1 回芸術選 奨文部大臣賞受賞。 1953 年 ( 昭和囲 ) 歳 「ふしぎなたいこ』 ( 岩波書店 ) 到打。 1954 年 ( 昭和四ソ歳 第 2 回菊池寛賞受賞。岩波書店から「ちい さいおうち』 - 翻訳刊 ( 仔。 8 月より口ックフ ラー財団奨学金で 1 年間の米国留学 0 戦前より文通をしていたミラー夫人 ( 「ホ ー・、ブック」誌の創刊者 ) にポス一トンで 会う。一アメリカとカナグっ公共図圭や児 童図圭贔、出版社を訪れる 1956 年 ( 昭和引 ) 歳 瀬田真二、鈴木晋二松居直、。いぬいとみ こと「子どもの本研究会」一 会 ) をはじめる。後に渡辺茂男が参師。 1957 年 ( 昭和 ) 歳 ⅲのトムさん』 ( 光文社 ) 型村花子、 土屋滋らと「家庭文庫研究会」を立ち上 げゑ 1958 年 ( 昭和 ) 計歳 来只 ~ 荻絆の宅「部を開放し、「子どもの たの図書室「が ? あ文庫」を始める。軒 日新聞夕刊に一「迷子の天使』を連載。 ゴ 959 年 ( 昭和 ) 歳 1956 頃 イギリスの湖水地方にて 9 ~ 世界中で愛され 19 フ 2 るピーターラビットの作品舞台。 え住ム 「星の王子さま』の翻訳を託し第ピッツバーグではカーネギー た内藤濯 ( 前列右から 2 番目 ) と。三 - 図書館学校の講義を聴講。 1981 年 ( 昭和 ) 4 歳 効ものがた ! ( 福亠書店 ) 刊 1993 年 ( 平成 5 ) 歳 日本芸術院黨受賞 ( 子どの本の世界にお ける長年の貢献と業績に対して )9 1994 年 ( 平成 6 ) 訂歳 「幻の朱い ( 上・下、岩被書店 ) 刊 本作で年「読売文学賞を受賞する。 1996 年 ( 平成 8 ) 歳一 子どもの本に携わる人材育成に向けて、石 ナを = ) 井桃子翁子研修助成金が里只子ども図聿贔 シす で始まる でせ 1997 年 ( 平成 9 ) 叩歳 一文劬 ) 一来只子ども図圭贔の完石井は理事 らみ を引退、名含理事に ) 一一つ読 コかの 1998 年 ( 平成 ) 引歳 かつら文庫が周年を迎え、関係者が祝 盛だ いに集っ力。ニ石井桃子集』 ( 岩波書店 ) 全 大う 7 巻刊行開始》 2003 年 ( 平成 ) 歳 翻訳に 5 年を費やした、 < : 、、ルンり自 伝『今からでは遅すぎる』 ( 岩波書店 ) 翻 訳劉打。 2006 年 ( 平成 ) 歳 『百いのきもの』を浦年ぶりに改訳した いのドレス』 ( 岩波書店 ) を発表。 2007 年 ( 平成四 ) 100 歳 3 月 3 日に向けて、エッセイ「雛つう」 を書き上げる 3 月間日、満 100 歳を迎え - る。 一然一つ 2008 年 ( 平成 ) 101 歳 1 月には 2007 年度朝日重を受賞し「 - 贈 で一 呈式に出席。 3 月、東京子ども図書館が ー」十ノ = 一、かつら文庫の年」記念行事を開催。 4 山る 月 2 日逝去一。享年 101 歳。 ので 分中 追集 『石井桃子集 7 』 ( 岩波書店 ) 、「ユ一リイカ」 ( 2 住 07 年 7 月号 ) 、「石井桃子展」録 ( 世田谷 文学館 ) を参萼に作成。 1962

2. 考える人 2014年春号

1907 年 ( 明治 ) ;O 歳 3 月埼玉県北足立郡浦和町に生まれ る。兄 1 人姉 4 人の 6 人きよう発いの末っ 子として育つ。女は小学校教諭ののち、友 んと銀行を興し支配人となる。 1924 年 ( 大正紹 ) れ歳 日本女子大学校に入学。一在学中、一文藝 「社の菊池寛のもとで外国の雑誌や本の記事・ をまとめる广バイトをしていた。 1928 年 ( 昭和 3 ) ' 歳 日本女子大学校英文学部秦、文萩社 - に入社「同社では永井龍男のもとで . 「歸人 サロン J' などの編集者として活躍。 1933 年 ( 昭和 8 ) 歳 文藝 ~ 萩社を退社。親しぐしていた大養家 のクソスマスで「フョ横丁にたった家』の 原書に出会う。追っ 0 銀座 G 教文館で」『ク マのゾーさん』 , の原書も入手子どもカち や病床の友人のために翻訳手がけ始める 1934 年 ( 昭和 9 ) (. 歳 新潮社で山本有三のもとで」「日本少国民文 庫」の編集に携カる。 す 938 年 ( 昭和 ) 【歳 文藝 ~ 萩時代の友んから荻窪の家を譲ケ受 は翌年、転居近所には斗一一宅があ よく訪れていたこのころ、大養家の書 庫を借りて児童図圭を妤めたが時局亜花 などを理由に頓挫。 1940 年 ( 昭和簡 ) 歳 友人 2 人と白林少年館出版部をを立ち上げ、 . 『たのしい川邊一 ( 中野好夫訳 ) を出藝肥月頃 なは岩波書店ら『熊のプーさん一を行 1941 年 ( 昭和 ) 歳 、『ドッ下ル先生「アアッカ行き」』ズ庫伏鱒 「一一訳 ) を白林少年館から型有。石井は集 , : 1 。 と下訳に携わる 1945 年 ( 昭和 ) 歳 。終戦間際の時期に「・、友人ど共に宮誠県栗原 郡に移住。のちに「ノンちゃん牧場 J を 石子 6 の一 ; 1 チ耳 お祭りの日に姉・ - 祐子さんく左 ) - ~ とおそろいの桃割れ髪で。 1949 頃、 デ、 - ・ 190 フー 2008 、 家井 実巧 , 》っ端 あ右 三も吉〈 - - を , 第一沿写 ~ 道族 山家 中の 旧合 の集 和員 浦全一 : : ・汰学生時代こ神田の写 。 = 真館で。ョ 924 年乳 第せマ ー一宮城県栗原郡鶯沢村に移住しての生活 は、酪農と農業に勤しむ充実の日々。 ズギど王さま』ズ岩波書店 ) 翻訳鸞 ↑ 961 年 ( 昭和 ) 歳。 ( 家庭文庫研究会で翻訳もた T100 ん きのねこ』上ガ 0 五にんきはうだど一 か福立聶書店カら刊行一 9 月り約 3 カ月 の欧米訪問。マーシャ】フラウン、ズ屮ナ 1 、・みア 1 ジッあと親交を深め第 ↑ 963 年 ( 昭和 ) 」歳 『一→一月ひなつき (! ) 坦有。 1964 年 ( 昭和 ) 歳 、リ 1 ス「 ( 福音館書店 ) 「うさこちゃん」ゾ 翻訳行開始。 1965 年 ( 昭和 ) 歳 行 力と かつら文庫の 7 年間の活動をいにとめ た『子どもの図書館』 ( 岩波書店 ) 刊 本書の影響で全国で家庭文庫の数が劇的な 生鱒 増加する。ュ一一月ひなのづき』が国際アン。 先伏 」デルセン賞国内長又賞。 イ 968 年 ( 昭和 ) 引歳 ド年 「ーっな 、一長野県分に壮「山の家」一を建てる似 館垳一一一 ~ ~ 後一毎夏を過ごす 1971 年 ( 昭和 ) : 歳 「ど 1 ターラどツネ←ツリ 1 ズ ( 福音館書 白き 店 ) 翻訳到打開始 0 一こéころがら松岡早子 らに声をかけ 0 私立の児童図圭聶の開館華 備を始める 1972 年 ( 昭和 ) - 歳 訪英マーティン・ビ。ヒンの森や、」ピータ ーラビットの湖水地方ど 0 翻訳をがけ た作品の舞台に足を運ぶ。 1974 年 ( 昭和 ) 歳 : 財団法人東鉙子ど図圭贔が開填一理事と して運営に尽力する東子ども図聶は「 ー 0 年に公益財団法人となる ) 。 「 9 マ 6 年 ( 昭和引 ) 環太平洋児童文天ム議に出席するためカナ ダへ。家文庫活動について講演する。東 京子ども図圭聶っ招聘でアイツーン・コル ・ウ」 - ルが来日。 1943 第ニを一こ第 ) に一 1

3. 考える人 2014年春号

定かではない。 彼女はつねに控えめで、一歩退、 ところから現下に生起するすべてを眺めることを好 んだ。なるほど人生は疑に満ちている。たが柳子 丁寧にノートを取りながら毎日の は平塚とは違い、 講義に臨んだ気分次第で出席したり欠席したりと フ振舞いは、彼女にはとうてい考えられなかった。 女子大にはこの対照的な気質を持った二人がとも に、い酔し、深い影響を受けることになった教授が存 在していた。児童心理学者の高島平三郎である。彼 が担当する児童研究の講座は第 3 学年において開講 されていたが、平塚の回想によれば、皮女はどうや らそれを 1904 年、つまり第 2 学年のときに、早 くも勝手に聴講していたようである 高島平一一一郎は明治維新の直前、 1865 年 ( 慶応 元年 ) に、福山藩士の子弟として駒込に生を享けた。 福山の小学校を卒業すると、Ⅱ歳にして教授の側に 回り、幻歳にしてある小学校の校長となった。その 後、学習院中等科や星咼等師範学校で教鞭をとる その間も独学では に到り、多にな日々が続いたが、 あるが児童心理学について研鑽を怠ることはなかっ た 1898 年 ( 明治引年 ) には雑誌『児童研 を創刊する一方で、著書『心理漫筆』を、翌四年に は『日本教育史』を上梓している。 1903 年、成瀬仁蔵に乞われて創設時の日本女 子大に赴任したとき、彼はすでに一一十数年にわたっ て児童教育に従事したヴェテランであった。この年、 高島は『教育漫筆』『母のため』『家庭教育』と、 3 冊に及ぶ著書を世に問うている。その後も彼は『児 童を謳へる文学』 ( 1910 年 ) 、安の心』『教育に 応用したる児童研 ( ともに 1911 年 ) 『家庭及 「幼稚園の児童に、小学校や中学校の少年を扱ふ如 び家庭教育』『婦人と家庭』 ( ともに 1912 年 ) と くにして、何か一定の教科を教へて記憶させやうと いった著書を次々と到打しながら、児童心理学と児 するのは無理のことである。」 童教育の第一人者として生きた。第一一次大戦中には 「玩具は我邦の言葉で、『持て遊び』といふが、之 東洋大学の学長に就任し、ほどなくして長い生涯を は玩具の本質をよく現はして居る言葉である。即ち 閉じた 玩具は、兀来手に持って遊ぶ可きものであって、 児童心理学者として、また女性心理学者として、 若し ゞ見たり聴いたりするのみのものではない。 高島の業績は多岐にわたっている。ここでは主著の 此の年頃の子供に玩具を与へなかったなら、子供は 一冊である『教育に応用したる児童研究』 ( 洛陽堂、 父母が家庭で用ゐて居る必要品を随意に持って遊ぶ 1911 年、復刻は日本図書センタ 1 、 1985 であらう。若し又之を禁ずるなら、 ~ 早木土石などす 年 ) を取り上げて、内容を簡単に紹介しておきたい。 べて自然の物を持って遊ぶであらう。」 まず高島は、世間でいう、婦人には高等教育は不 「玩具は成る可く毀れ易いのがよい」 要という謬見を退ける。だがたとえ教育によって高 「色彩などは、幼な子には、成人の喜ぶやうな淡白 い品性と知識を養いえたとしても、「自己の本分、 な間色は刺激があまりに弱くして、殆んど其の美を 婦人は自分の学 自己の天職」を忘れてはならない。 感ぜぬのである。子供の眼は未開人のそれの如くに んだ精神的産物を、「自己の子供に依って、間接に 社会に発表して行くべきであ」り、「仮令高き教育濃厚なる色彩に適するのである。」 を受けても子供を嫌ひ、それを育てるのが面倒であ 高島が歳のとき、門人たちが編集した『高島先 るとか詰らぬ事であるとか云ふ様な考」をもって、 生教育報国亠ハ十年』 ( 紀元 2600 年高島先生教育 子供をないがしろにしたり、教育法を疎かにするこ とがあってはならないと、 報国六十年記念会、 1940 年、復刻は大空社、 1 警告を発している。 988 年 ) には、当時歳であった平塚らいてうが 幼稚園時代の子供は、触覚、視力、聴覚が知力と 学生時代を回顧した文章を寄せている。彼女はその 結合し、自発的行動を盛んに行なうようになる。高 なかで、「高慢な学生」であり、授業を軽視して図 島は教育学の祖ともいうべきフレーベルを引きつつ、 書館に釘付けになっていた自分が、こと高島の講義 「児童の本能として現はれて来る所の自発活動を選 ごけはけっして休ますに出席していたと書いている 択し、其の児童の天性に逆らはずして、天性をその いかに 4 も愉央さ、フ 「いつも平静で、ゆったりとし、 儘に発達させ」ることに賛意を一小している。ここで な笑顔で、慈父のやうに、親しみ深く、わたしたち もっとも重要なのは玩具であり童話である。こうし に接して下さるのでした」。とりわけ平塚を感動さ た確信に従って高島は、 200 頁の紙数を割いて、 せたのは、講義のさなかに『万葉集』巻五にある山 両者を細かく論じている。長い児童教育の体験に由 上憶良の歌、「瓜食めば子ども思ほゅ栗食めばまし いくつか引用してみよう 来するその発言を、

4. 考える人 2014年春号

庚皐玉は御縁年の絵札であって、富士山出現の 年にちなんでいる。記念の年であれば平年とちがう 特別の絵札をつくった。通常の富士山牛玉をもとに して、縁年の回数だけ猿の姿をする。共古のコ レクションにある「猿六十一一疋合掌せる図」がまさ にそれである 一兀和四年 ( 一六一八 ) 版、延宝八年 ( 一六八〇 ) 版、天明八年 ( 一七八八 ) 版 : : : 。「富士山」の三 文字と三尊スタイルは告げている。富士山は阿弥陀 の浄土であって、阿弥陀三尊のおわしますこの世の 極楽。来迎一一一尊仏の札が富士山と阿弥陀信仰を絵解 *IJ していた 富士吉田の歴史民俗博物館にコレクションが保存 されていて、よく見ると、絵柄に少しずつ変化があ り、村山浅間の「別当浄蓮院発行」をうたった ものは、阿弥陀三尊に代わって大日如来が描かれ、 「三国第一山」がそえられている。 寛政十一一年 ( 一八〇〇 ) の刻銘をもつ一つは、寛 政の御縁年に出された。そこには如来に代わって女 神が描かれている。明小されてはいないが木花開耶 姫と思われ、ほばこの時期に富士山の祭神を木花開 耶姫とする思想がひろがり始めていたらしい。とと もに女神と並んで、「三国第一山」のフレーズがあ らわれた。山頂に来迎するのは阿弥陀ではなく神の 尊像である。主尊が阿弥陀三尊から三神へ移行して 富士信仰の迫化を示すものだろう。背後に は仏に用いられる円光をそのまま援用している。、 わゆる古くからの三尊一光方式である。 べつの牛玉にしるされた縁起では、山頂の三神は アマッヒコネノミコト、オオヤマッミノミコト、そ れにコノハナサクャヒメノミコト。三神を囲む円は 三尊一光からさらに発展して日輪となり、合掌する 一一匹の猿に、見ざる言わざる聞かざるの三猿が加わ った。つぎには富士山頂に来臨する女神が正面をき って描かれ、さらに明治初年の廃仏毀釈のころには、 阿弥陀の首が版木ごと切り取られた 記念年には記念切手のように縁年絵札がいろいろ と出たようで、同じ万延元年のカラ 1 版庚申大神で は、上に富士山と日月が描かれ、中央に大きく「庚 ます 申大神」、下には三方にのせた穀盛り桝を三猿が支 えている。さらに左右に富士山出現縁起が簡略にま こくしゅうざん とめてある。穀盛り桝は、富士山の異称「穀聚山」 にちなむもので、「こくのあつまる」五穀成就の絵 解きにあたる。この種のものを称して「桝形牛玉」 し」、つ、 0 さらに庚申の祭神が猿田彦であるところから、万 延元年の絵札から新しい神サマとして猿田彦が現わ れた。「猿田彦大神」である。ここでは主尊が猿田 彦、脇に木花開耶叩が控え、それを囲んで三猿と 合掌する猿が六十七匹。万延元年は御縁年三十七度 であって、度数と猿の数が一致しないのは共古が示 している絵札と同様である。度数が一つくり上がる 寛政十一一年 ( 一八〇〇 ) の庚半玉でも、三十六度 の度数にもかかわらず六十一一匹の猿が描かれていて、 あるころまでは縁年の度数と猿の数は必ずしも一致 しなかったらしい。これに対して一度くり下がる大 正九年 ( 一九二〇 ) 版では、きっちり三十八匹がい る。昭和五十五年 ( 一九八〇 ) は御縁年一一一十九度。 しんじ 北ロ杢呂発行の「富士山神璽」にはたしかに三十九 匹がいる。版木の制作者はデザイン化した猿を刻み ながら、何度となく神のお使いの数をかぞえ直した のではなかろうか 神サマの変貌 現在でも富士講の流れをくむ信仰登山組に出くわ すと、先頭にきっと目をひく人物がいるものだ。グ ループでは「先達」さんとよばれ、何よりもいで立 ちが特異である。行者風の白い衣だが、あちこちに 文字や御影や宝印が張りついている。摺りつけたよ うでもあれば、縫いつけたようでもあり、ありがた い聖衣なのだろうが見た目には汚ならしい 「行衣」とよばれ、富士山信仰では尊い衣服とされ ている。登山をすると、御師から白衣に富士山を摺 ったお札が与えられた。これを「オュルシ」といっ て、行衣に縫いつける。中道廻りを終えると中道修 行成就、八海廻りを行うと八海修行成就のオュルシ が授けられる。摺りつけ、縫いつけの多いほど信仰 心が篤いとされた。 山中共古は明治半ばにそんな行衣姿を見たのだろ 。「富士登山の行者、 / 白衣の背に富士山の上に、 / 一一人の天女舞ひ居る図 / を押てもらふこと、す」 さっそく『本朝文粋』といった古書を開いて古い 時代の富士山記にあたってみた。「富岳の天女」 題した「雑記」によると、「貞観十七年十一月五日、 吏民仍旧致祭日加午天甚美晴仰観奢白衣美女一一人 の 双舞山嶺一一尺余土人共見」とあるからには「仏教の山 あ 天女にあらず」と述べている。 お札を戸口に貼ることについても調べたようで、富 ぶんりやく 7 6 『明月記』に文暦一一年 ( 一二三五 ) のこととして家

5. 考える人 2014年春号

東京子ども 図書館の年 小特集 石井桃子を 読む インタビュー 松岡享子 interview with Matsuoka Kyoko 苜野健児・撮影 photographs by Sugano Kenji 東京子ども図書館は、 石井桃子さんが設立に尽力した 私立の児童図書館です。 子どもたちが本を通して 豊かな世界を手に人れられるように、 創立以来、児童図書館の発展を けん引してきました。 四〇年にわたる活動とあわせて、 理事長の松岡享子さんに お話しいただきました。 石井桃子さんのかつら文庫をはじめ、示都内の 四つの家庭文庫が集まってできた束泉子とも図贔 石井さんは一九五七年、村岡花子さんたちと家庭文庫 10 0 研究会をつくり、全国の家庭文庫を支援し、 まんびきのねこ』など絵本の刊行も進める子ともの 本をめぐる状況の改善には、公共図圭贔の充実こそが 必要と考え、六五年に家庭文庫研究会は発展的に解散、 公共図書館員が集う児童図宝研究会に合流した。 一九七一年のある日、松岡享子さんに一本の電話が かかってきた。この一報からすべては始まった。 東京子ども図書館の始まり あの日、石井先生から四谷駅までいらっしゃいと お電話をいただいて、連れられていったのが駅近く の弁護士事務所。そこで、初めて財団法人を作ると いう話になって、驚きました。 文庫の仲間の間で「自分たちの図書館がほしい ね」という意見は出始めていました。石井先生ご自 身は、六〇年代から図書館を作りたいという構想を おもちだったようで、メモも残っています。六五年に 土つおか、さよ - フこ は、かつら文庫の最初の七年の記録を『子どもの図 一九三五年神戸市生まれ。神戸女学院 書館』 ( 岩波新書 ) という本にまとめて発表されます 大学、慶應義塾大学図書館学科卒業 六一年渡米、ウエスタンミシガン大学 か、この本をきっかけに、 全国に子ども文庫が飛躍 大学院で児童図書館学専攻ののち、ポ ルティモア市立公共図書館に勤務。帰的に増えました。その動きの陰に、自治体が児童図 国後、大阪市立中央図書館を経て、自 書館を作るべきだというご自分の主張が隠れてしま 宅で家庭文庫・松の実文庫を開く。七 四年財団法人東京子ども図書館を設立、ったことを先生は残念に田 5 っていらっしゃいました。 同館理事長。著書に「うれしいさん かなしいさん』『じゃんけんのすきな女手さぐりで法人化への準備が始まりました。財産 の子」『えほんのせかいこどものせかい』 目録を作れといわれて、「こたつ一万円、こたつがけ 翻訳に『しろいうさぎとくろいうさぎ』 「パディントン」シリ 1 ズなど多数。 一一一九〇〇円 : : : 」などと記す有様。不動産もなしに

6. 考える人 2014年春号

Back Numbers バックナンヾーと定期購読のお知らせ 考える人ー 考える人引、一 を 考える人ー No. 2013 年秋号 46 人を動かすスヒ。ーチ 考える人 考える人ム 第日第 - 響 ! に ! 。・数学ば美毛いカ 気第安局の書画 日本のはたらぐ をぃ《ー イをな ド可を戸トトノ はド計うにを 人を動かす スピーチ 曰、林秀雄 最後の日々 茂木健一田 向井巧リ ! ロンなⅱ本の年」 村上を樹三 ラ不なお長いれのり」 りのストラ第ィヴウん 自明「よっはら : リ 当第「な第の強」 み有蕊「生物の省と外 - 、を「内れ彦 : 新紀行 NO. 2014 年冬号 47 日本の「はたらく」 考える人 No. 2013 年夏号 45 数学は美しいか 考える人 No. 2013 年春号 小林秀雄 最後の日々 考える人引 物第、ロを号 物第に年み 集 疇歩 小宿能第村上・ 南坊 一考える本人」 第木お の達人 = ~ 物しをん 山ひ 当にと 気を眠りと 夢 ? 」占 ' バの費体件 上地の物き 坂太郎 未盛千校子 No. 2012 年秋号 42 歩く 時速 4 km の思考 考える人 No. 2013 年冬号 43 眠りと夢の謎 考える人 No. 2012 年夏号 笑いの達人 考える人引 No. 2012 年春号 40 東北 日本の「根っこ」 考える人引 季誌取り はい第号 は単県むのケアチーム 第建載佐倉 可当を 当やにするのですか ? 仏を達く敵れて 50 プ下 「文哩を探検したひと 梅棹忠夫 6 ト小、第第定発表 き先引様はどちら様」 の田田当今いず 1 」 - No. 2011 年秋号 38 考える料理 No. 加 11 年春号 36 考える仏教 「仏壇」を遠く離れて No. 2011 年夏号 37 梅棹忠夫 「文明」を探検したひと 考えるん定期購読のお申込み方法 1 年間購読 ( 4 冊 ) 5760 円 ( 税込・送料小社負担 ) 3 年間購読 ( 12 刪 16000 円 ( 税込・送料小社負担 ) ※ 14 年 4 月 1 日より消費税率の変更に伴い、 定期購読料金も変更となりました。ご了承ください。 3 中途解約はご容赦願います。やむを得ない事情で ご購読の手続きを終えられた後に中途解約される場合は、 送本済み冊数に定価を掛けた金額に 返金手数料を加えた金額を差し引いて精算させていただきます。 予めご了承ください。 No. 2012 年冬号 39 ひとは山に向かう ①郵送の場合巻末の専用ハガキに立要事項を ご己入の上ご投函ください。 ② F の場合巻末の専用ハガキに膨要事項を ご記入の上ご送信ください。 0120-988-959 ( フリーコール・年中無休 ) 3 お電話の場合 0120-323-900 ( フリーコール・平日のみ 9 : OO ~ 18 : OO ) ④インターネットの場合 http://www.shinchosha.co.jp/kangaeruhito/ ニ = ロ

7. 考える人 2014年春号

2 7 えているというので、「もっと簡単な 読み物を与えよう」という議論があり ますが、馬鹿げた主張です。子供は単 純なものより複雑なもの、未知のもの に惹かれるのです もうひとつの問題は、携帯端末です。 大人も子供も携帯なんか見ないで、も っと人を見なければいけない。 携帯や ネットの発達によって、多方面に同時 に注意を払わなければならないために、 ひとつのことに集中できなくなってい る。読書をしても、「沈み込み方」が かってとは違ってきています。 ともあれ、本を読む力をつけるには、 ルツ賞。』 か小さいときから読み聞かせてやる ホド受る ことがとても大切だと思います。子供 みア動が ルる窟運書 ニれけの著達はそこで「物語の文法」を体得する で舫受法の 章員を魔 のですから。 文ぼ賞の多 ところで、かって大人向けの小説 の対学一激 一文シ も書かれましたが、数冊でやめて子供 →童 J ガ作児レた 。の本に集中されています。なぜ子供に ヤのツ ジアイたて トれせ向けて書かれるのですか ナでみ スタルクひとつには、できあがって 本かロミ宇 絵スのノ・ しまった人のために書くよりは、五年 年たん島勣 後、ニ十年後ちがう者になっていく人 献ち賞パ に向けて書く方かおもしろい る貢いセ才 ま本 もうひとつの理由は、大人にとって 生の年ン レ子 ' 、際そ は百回見た景色であっても、好供の目 に賞国 学 レホ 線を使うことで新鮮な見方をること 年ンよ ) 文 ク かできるからです。自分のなの内な 児 外 る子供を大切にすると、良き人でい フ年ン外内ス 海 ルン少数 1 5 2 ウ四、外多ッ られると思っています。第 .

8. 考える人 2014年春号

東京の女子大へ 1898 年 ( 明治引年 ) 、矢野里宇は香々美から 上京し、女子高等師範学校の附属高等女学校に入学 する。女子高等師範学校、略して女高師は、今日で いうお茶の水女子大の前身であるが、その歴史はさ らに遡り、 1874 年 ( 明治 7 年 ) に新政府が創設 した早ズ子師範学校がそもそもの発端であった。 それが改称されてなった女高師は、 1908 年に奈 良女子高等師範学校が創設されるまで、女性が教師 となる資格を得る、ただ一つの教育機関であった。 その附属女学校への入学はエリートコ 1 スへの参入 にほかならず、将来に教職に就くことが保証されて いると考えてよい 官立の教師養成学校というためもあり、女高師へ の入学は容易ではなかった。本来であるならば、受 験者は各府県知事からの推薦を受けた上で履歴を審 査され、さらに筆記試験に合格しなければならない もっともそれで得られるのはたかだか仮入学の資格 であり、四か月にわたって品行方正が確認された時 点で、はじめて正式に入学が許可される。 幸いなことに、この厳格な制度は里宇が附属女学 校に入学する 2 年後、 1900 年に廃止された。と はいえ附属女学校にあっても、謹厳実直をもってよ しとするこの師範学校の雰囲気が支配的であったこ とはいうまでもない。 里宇は歳であった。彼女の名はそれ以後、学籍 簿において「柳」と記されることになる。当時、女 子に付ける「子」の一字は、接小辞のごとき記号で あって、どうやら正式名称に属するものと見なされ資料提供・日本女子大学成瀬記念館 母の母、 その彼方に 【第三回】 日本女子大での 幸福な日々 text by Yomota lnuhiko もう一人の祖母、四方田柳子の謎を追って 大阪へ向かったわたしは、祖父・保に縁のある 清風寺で彼女の凝縮された人生を知った。 さらに、生地を探りあてた従兄から、岡山の 朽ち果てた旧家についてのレポートを受けた。 大地主の娘・里宇は、富裕な家を飛び出して、 いま、ひとり学問を究めようとしている。 里宇が柳子となる少女の東京は、こうして始まった。 母、祖母、そして柳子。 明治・大正・昭和を生きた三人の女たちを、 時代の中に瑞々しく映し出す長篇ェッセイ。 四方田犬彦 よもたいぬひこ 一九五一一一年生れ。啝只大学文学部で 宗教学を、同大学院で比較文学を修 め、文学・映像・音楽・アジア論な ど多彩な領域で評論活動 を行フ。「月 島物語」で斎藤緑雨賞、「映画史へ の招待」でサントリ 1 学芸賞、「モ ロッコ流で伊藤整文学賞・講談 社ェッセイ賞、「日本のマラーノ文 学』『翻訳と雑神』で桑原武夫学芸 賞を受賞。『漫画原『ハイスクー ル 1968 』「先生とわたし」「わが 煉獄」ほか著書・訳書多数。一一〇一 四年「ルイス・プニュエル」で芸術 選奨文部科子大臣賞を受賞した。 116

9. 考える人 2014年春号

る。「明治廿一一年ノ春櫻町一丁目ョリ四丁目迄ノ両 △であらわすのは「一ヲ三ッ合セタル形」による。 側ノ商家」の記録などもあって、通りをはさみ向き 四は四つの角があるので x で示す。ナゾめいた符帳 合うかたちで、「草履ヤ、宿屋、印判水晶、スシャ、 を通して、古い時代の商いの現場が幻のように浮か んでくる 下駄ヤ」など一一百にあまる業種を書きとめている。 こんわじろう 今和次郎の「考現学」があらわれるのは一九二七年 「土俗談語」と分類した数百の記録の一つ。 ハマヲキ のことだから、その四十年以上も前に商都の風俗誌 「駿州沼津に浜置といふを為す日あり死人のあり のちのかりことばのき をつくっていた。柳田国男の『後狩詞起や『遠野 し家喪中を守り、四十九日経っと新仏の位牌を浜辺 物より一一十年あまりも早いのだ。日本の民俗学波打ぎわへ、砂石を積上げ其の上へすへ、菓子など 史上、すこぶる先駆的な仕事であるが、当人はヒマ 供へ、偖親属一同浜辺へ敷ものをなし、酒食肴を食 つぶしに「落葉」をひろい集めたぐらいにみなして いたようである。手稿本としてとじたものにメモを つけていた。 「コノ書ハ予ガ明治十九年ノ冬、へ移リ、住居 シタルョリ、数年間、見聞シタルヲ、手帳ノハシニ、 誌メ置ケルヲ、写シカへタルマデノモノニテ、順序、 部分ノ別モナク、落葉カキ集メタルバカリ也」 その民俗誌としての価値をいち早く認めたのは柳 田国男であって、明治四十三年 ( 一九一〇 ) 、静岡 に赴任中の山中共古を訪ね、人と書き物に親しんだ。 手稿本が世に出たのは共古の死の一一年前、柳田自身 が企画に加わった「炉辺叢書」に収録 ( 一九二六 ) 。 死の年に『共古随筆』が出た。ちなみに永らく幻の 書であった『共古随筆』が東洋文庫 ( 平凡社 ) に入 ったのは一九九五年のこと。六十七年ぶりに、あら ためて陽の目をみたわけだ。 まるで不思議の眼をもった子供のようだ。数百、 数千の項にわたり、見つけたものを書きとめ、それ を起点にして定点観測をするようにつづけてい 「下駄屋あらもの屋畳表など商ふ見世の符帳」 共古は丹念に符帳を写して、解説を加えた。三を し精進落を致し帰宅す。これをハマヲキといふ。位 牌を浜へ置き帰るゆへにかくいふことなり」 あるいは「只現今の神仏と食物」。 酉の市鷲大明神と芋頭並粟餅。 麻布長谷寺彼岸中の芋でんがく。 同金王の甘酒祭。 浅草天王の笹団子。 ズラッとつらねたあとに「少しく遠方へ行けば」 葉落の斐甲 古共中山 行發載究研土掲 か「ワ、 lJ っハ、 相州竜ロ日蓮御難の牡丹餅。 同鎌倉権五郎と権五郎餅。 同小田原道了の ( 以下原文欠字、編者 ) 武州比企郡上岡村馬頭観音の馬せんへし 静岡在のころに訪ねたようだが、 「駿河国富士郡 ヌマクポ 沼窪に、狂人塚と称するピラミッド形の石塚あり」。 共責が巻尺で計ったところ、高一一間半、周囲一一十七 間、富士塚と似ていて、頂上に小さな石塔形の自然 しんだい 石が据えてある。沼窪在の「身代格別貧し」といわ れた男が四十年かけて独立でつくった。その男、摩 4 ↑・ー、 究年 利支天を信仰していて、大石には大声で「南無摩利 土る支天様」と念じ、ウンと力を入れると大石も動き出 郷月い 」はてした。数丁の道をころがしてきて塔の敷き石にした。 6 執霆奇妙な情熱の所産をスケッチで示して、共古は書き そえている。「大宮町より遠くもあらぬゅへ見るべ 古い前きものなり」。 共年と 中ら この牧師は自分の職務でいうと邪宗門にあたる神 山正か 社や寺々のお守り札や護符に、とりわけ深い関心を もっていた。数千のお札を集め、コレクションとし て整理するかたがた「影守雑記」と題して書きとめ た三巻にわたり、 『共古随筆』の半分ちかくを占 めている お札、また絵札ともいう。守り札、卩札ともよば ごおうみえい 一三ロ 云 れた。発行兀によって牛玉、御影とも称していた の 「影守」のタイトルは、そんな言いまわしを踏まえ山 あ てのことたろう たいていは細い縦長で、和紙に木版刷り富士山富 5 6 では主として御師が信者に頒布していた粗末なも

10. 考える人 2014年春号

考える人 その時一文連が plain living & high thinking. 次号 [ 2014 年 7 月 4 日発売 ] 予告 生まれた いまからちょうど百年前の大正三年 ( 一九一四年 ) 九月十八日、新潮文庫が創刊されました。 第一次世界大戦が勃発したばかりの当時、 西洋の知識を吸収するために 「泰西名著の全譯」が 「未曾有の廉價」で買える「文庫本」は、 時代の要請でもありました。 そして昭和一一年に岩波文庫が登場。 中間知識層の拡大とともに、 大衆教養時代が本格的に幕を開けます。 さらに、文庫本の大元をたどると、 ルネッサンス後期のヴェネッィアにまでさかのばります。 活版印刷技術が生まれたばかりの頃に 貴族や富裕層のものだった「本」が 。そして なせ小さくなったのか ドイツにレクラム文庫、英国にペンギンブックス。 ハンディで安価な本の形が、読書界に放った 衝撃と影響を改めてたどってみたいと思います。 PhOtog 「 aphby 工「望 10 Mitsuyoshi 「考える人」 メールマガジンのご案内 小誌編集長が、雑誌には登場しない編集の舞台裏や こぼれ話を紹介します。また、編集長が個人的に疑 間に思っていること、出会った出来事など、日々の もお伝えするメールマガジンです。通常版のほ かに、お薦めの本を紹介する「考える本棚」や「考え る人」執筆者の新刊案内なども掲載した HTM 凵阪が ございます。「考える人」のホームページ ( http://www.shinchosha.co.jp/kangaeruhito/) でご登録ください。また、ツィッターも始めました。 アカウント名は @KangaeruS です。