カノンちゃんの一家が住む「菖蒲 後の啝それも郊外住宅地でつこ。 ある杉並区の阿佐谷の町で育っ町」は、ちょうど郊外住宅地になろうと た人間にとって、小学生の時にしている頃たが、また、田舎の雰囲気を 読んだ石井桃子の『ノンちゃん雲に乗残している。 いく」と一一一口って る』は、とても身近かに感じられる小説ノンちゃんは「啝只へ いる。まだ市中の外だからである。それ で親しみを覚えた。 でも「おとうさん」が電車で会社に通っ 読者である自分がノンちゃんや「に ( ちゃん」とほとんど同年齢だったし、何ているように、極端な田舎ではない。 石井桃子は、昭和十四年 ( 一九三九 ) に よりも、ノンちゃんの一家が住む町が、 荻窪に住むようになった。中央線沿線の 自分の住む町と似ていたから。 一家の住む町は「來只府のずっとずつ町が開けていっている頃である。 ノンちゃんの一家が住む「菖蒲町」一 と片すみにあたる菖蒲町という小さい 町」とされている。「菖蒲町」は架空のは、この荻窪の町と、石井桃子が生まれ 町だか、只の郊外に相疋されている。育った埼玉県の浦和の町の両方のイメー 東京の中心から二十七、八キロとあるジが溶け合っていると思う。開けてゆく から中央線でいえば国分寺あたりになる住宅地と昔ながらの田舎が共存している。 だろうか。昭和十年前後のことと思われノンちゃんの家の近くには畑があるし、 るから、「東京府のずっとずっと片す鎮守の森がある。「門を出て、麦畑のあ いたの一廻をち一よっといくと、そこはも一フ み」である。 「おとうさん」は、ここから電車で壅只氷川様の境内でした」。 麦畑は、 駅に近い会社に通っている。昭和のはじ「麦畑」とあるのに注目したい。 めに台頭してきた、郊外に住み、都心の雑木林と並んで武蔵野の風景を特徴づけ 会社に通うサラリ 1 マン、小市民である。た。私が育った阿佐谷の町にも、少しは 東京の郊外住宅地は、大正十一一年 ( 一ずれると当時まだ麦畑や雑木林が残って督 ) 。五年生の時になる。 寺も神社もあった。ノンちゃんは学校の授業で見に行った。ノンちゃん 九二三 ) の関東大震災によって市中が大 きな打撃を受けた結果、壅只の西に生ま池におちてしまうが、阿佐谷の町にも池を演じる鰐淵晴子の可愛さにみんなが驚 があった。 いた。鰐淵晴子は一九四五年生まれだか れていった。 中央線の高円寺や阿佐谷、荻窪などの『ノンちゃん雲に乗る』は昭和三十年ら、一九四四年生まれの私と一歳しか違 町は震災後に郊外住宅地として開けてい ( 一九五五 ) に映画になった ( 倉田文人監わない。 石井挑子の この一冊 郊外住宅地から 生まれた文学 『ノンちゃん雲に乗る』 川本三郎 text by Kawamoto Saburo 『ノンちゃん雲に乗る」初版は也書房、 1947 年 ( 写真 ) 。その後も光文社、福音館、 角川文庫などから刊行され、版を重ねている。 0 9
森村さんが「ヨコハマトリエンナ レ 14 」のアーティスティック・ティレ ター ( 芸術監督 ) に就任されると伺っ ときには意外な印象を受けました。 森村一昨年の夏に最初の打診があ てから僕も迷いました。まずそんな本 じゃない。アーティスティック・デ レクターとは組織を束ねるリーダー いう立場ですが、そもそもリーダー ( あまり魅力を感じない。 でも逆に、今まで学校や会社とい た組織か苦手で仕方なかったという 分がこの役割を引き受けることで、 しいオーガナイスの仕方や新しいリ ダーのタイプを示せるのではないか 思いました。 どんな展覧会にしようかと考えた時 芸術とは基本的に世の中であまり役に 立つものではないのに、どうしてこん なにハマってしまい、表現への衝動み たいなものが生まれるのかという根本 的なネ見点に立っことにしました。 「理想的なリーダー」というと役立つ 人材を活用し、不要なものはすべてリ ストラしてしまうような、今どきのあ り方を思い浮かべます。 役立たないものに目が行く。そういう 人間がリーダーらしからぬリーダーに なることで、自分にしかできないョコ ハマトリエンナーレか構想できるので はないかと思い、引き受けました。 ー今回のタイトル「華氏 1 の芸術・ 界の中心には忘却の海がある」はティレ クター就任当初からあったのてしようか。 森村最初の段階からほやっとしたも 港町ョコハマから 忘却の海気旅に出る 森村泰昌 interview With MO 「ⅱれ u 「 a Yasumasa ミ第ー 1951 年大阪市生まれ。京都市立芸術大学美術学部 卒業、専攻科修了。 1985 年、ゴッホの自画像に したセルフポートレイトを発表。以後、一貫して 「自画象的作品」をテーマに、美術史上の名画や往 年の映画女優、 20 世紀の偉人たちなどに扮した写 真や映像作品を制作。 2007 年度芸術選奨文部科学 大臣賞受賞、 201 1 年に秋の紫綬褒章受章。 189 しつもん、考える人
、ン一ョみ のことである。他人が犯すことの出来た」と相づちを打つのだった。 相づちを打っことでスナフキンはも ない神聖な「私」である。 とのスナフキンにもどり、「春のしら はい虫が要求した「私」という名ま えをスナフキンはその形姿として「テ べ」の歌は完成へと向かう。 その歌の終曲のテーマは、〈たった ィーティ日ゥー」と名づけた。はい虫 はその名を夜空にむかって叫び、そのひとりでいることの、大きな大きなよ 穴 ろこび〉だった。この大きなよろこび き響きの中にかくれ住むかのように姿を くらましてしまう。残されたスナフキを知るものこそ「よし、わかった」と 相づちを打っことかできるのだ。 ンは、はい虫のことか気がかりになり 私はこの物語を読み進んでいくうち 始め、また自分の思索中の歌もどこか に、大きな存在と小さな存在の出逢い 遠くへいってしまってつかまえること の中で、大きかったものが小さく、小 も出来なくなっていた。 あくる朝、ムーミン谷へ向かう途中さかったものが大きくなっていくのを も同じ気持ちだった。この時のスナフ見た。そしてスナフキンの「よし、わ キンはもはやみんなのあこがれの存在かった」のひとことで、一一つの存在は 一つになって抱き合った。 ではなく、他人のことか気がかりな小 こうしてニつの酒トックリの一つを さな存在になっている 意を决して、はい虫が居た場所へと逆さにしてニつを抱き合わせるという 戻ってしまう。やっと見つけたはい虫発想が生まれ、一階で大きな円と小さ な円が、一一階では逆転して融合する塔 に、スナフキンはこう一盲つのだった。 「ティーティゥー、ばく、おしゃべ状の建物ができあがった。 これは、丸木の橋のかかる小川の向 りをしたくてもどってきたよ」と。 家づくりに夢中でそんな暇はない様 こうの「私とあなた、あなたと私で私 子のはい虫は、自分の名まえを書いた達」という遊戯の象徴するものが、私 こ を通じて形姿となって現れた建物とい しらかはの皮をスナフキンに示しなが ら自分の家をもっことを告ける。自分えるだろう。 のまわりでおきることが自分にとって むらやまたけかず 何か意味をもっていることをティーテ 一九四五年北京生まれ。佐賀県出身早稲田大学 イゥーは確一信するようになっていた。 で建築を学ぶと同時にシュタイナー思想に出会う 一九七七年から八四年までドイツ・シュトウット 「私」に目覚め、そのために時を無駄 ガルト、オーストリア・ウィーンに留学、建築事 にせず、人生を努力する。そんなはい 務所で仕事する傍ら、各地をスケッチ旅行。八四 年に帰国して村山建築設計事務所を設立。 佑虫にスナフキンは、「よし、わかっ
の腕に点滴の針を刺そうとしてい る看護婦さんは、どうも見習いの ようだ。息を詰めて見つめる私と、 不安けな笑顔の先輩の看護婦さんが見守る なか、妻の腕を針刺しのように何度も突っ ついている。 「ごめんなさいね。血管が見つけにくくて、 なかなか : : : 」 と針の看護婦さんがロにしたとたん、血 が糸のようにひゆっと噴き上けた。 一瞬、赤い血が空中で弧を描いただけで もひやりと首筋が寒くなった。妻の出産に 付き添うつもりで病院に来たが、いさとい う時に流血を目にして気でも失ってしまっ たら、面目がない。心配して看護婦さんに 尋ねてみたところ、幸い私の役目は枕元で 妻を元気づけることくらいのようだった。 しかし十七時間の陣痛を経て、ようやく 息子が生まれる運ひになったとき、なんと 分娩室にはべテランの看護婦さんと私だけ が妻と残されていた。 妻の目を覗き込み、愛なんか囁いたりし ている場合ではない。指導されるまま、妻 の足を支え、モニタ 1 に映る陣痛の波を捉 え「そろそろ次のが来るよ。カんで」とか け声をかけている。看護婦さんは私の仕事 ぶりを確認すると、部屋の隅に設置された 新生児用の台のところへ移動し、なにやら 準備にいそしみはじめた。 、ムヾ ま、 生まれたて マイケル・エメリック れ財 / c ん“ / わ〃〃肥ん 杉田比呂美・イラスル→ョン illustration by Sugita Hiromi き留とのがしだい れるリ し る分大キいⅱて妻百なめし先頭よ、夜っ と娩事ムキいキ、も本りすて生がう泊中たと 、語質、駆は見やまのよい は室なルムえム 、ル人私で問すり、えくりううう 。で息しル 先こ子てねカ ? 同もプした出私る顔でちだの 生んがく ? む時、ツてすさがまを病に 。は シきたれ看で出院お逃 のな生た マイケル・エメリック 瞬ュたとて護にすに産け 質滑まさオリ 力つ。分い婦な頃残が出 問稽れい 1 1975 年、ニューヨーク州生まれ。 にな落。ケキむえて娩るのつにつ進さ プリンストン大学を経て、 ? 何台こピてはてむな 、やちリ 1 コロンビア大学大学院で 妻りよキ、ムとてにとンい、く可い 日本文学の博士号取得。 答とい近なチたすれ能 はとうムレ た 現在、カリフォルニア大学上級准教授。 えなう寄どヒ。でた性め こりとルッ 著書に ea イ / / ゆの尾“ F な〃 0 〃ほか。 に主をの のがし ! ツ たりのり気ッ 松浦理英子、高橋源一郎、川上弘美、 、にタ息治懸方 状なてゴ 0 、ワ いも一子医念便 況さい よしもとばななの英訳も手がける。 そ 206
考える人から生まれた本 和食には、レシピより大事なものがある。 羊どんぼの未 いま教わりたい和食 銀座「馳走埣啄」の仕事 平松洋子 器の上に季節そのものがある 平松洋子さんがほれこんだ名店「馳走埣啄」。 もっとも信頼する料理人と取り組み、 未来に伝える「和食」のレッスンです。 24 の旬の素材とその活かしかた、 家庭で作ってみたい 118 の料理を収録。 【料理・西塚茂光撮影・日置武晴】 978-4-10-602252-4 ・定価 ( 本体 1800 円十税 ) その種類 400 以上、創業 1560 年。 庖丁こそ、和食である。 有次と庖丁 江弘毅 桶狭間の合戦と同年の創業以来、自己革新を続けてきた 老舗、有次。京都と共に歩み、 " 和食 " をつくる 世界の A R ー T S U G U 全面協力のもと、ものづくりの精髄と その類まれな存在、軌跡をたどる。 写真とイラスト満載 ! 978-4-10-33541 1 -6 ・定価 ( 本体 1600 円十税 ) 斤潮ネ土 http://www.shinchosha ・ co ・ jp
「みわたせば柳さくらをこきまぜて宮こぞ春の錦なりける」一一横山大観筆『夜桜』 ( 部分 ) 1929 年 ( 大倉集古館蔵 ) しむ、らよ、フこ 染織作家。一九四九年生まれ 「藍建て」に強く心を惹かれて 染織の世界に入る。京都市嵯峨葉 野で「都機 ( つき ) 工房」を主 宰する。母親は、人間国宝であ色 り、名随筆家であるふくみさん。の 著書に『たまゆらの道』 ( 母と の共著 ) 、『染と織の匠オペ ラ』などがある
0134 スゴイスマホ 3 ビ 1 フォア們 チキン ? チキン ティー ! み ティ 1 オア コ 1 フィー ? あ食事の時間だわ オア チキン ? イク亠 1 年東京生まれ。国際基督教大学教養学部生物科卒業後、渡米。 Art Center College of Design 卒。絵本に「氷河わずみし きうちたつろう 毛皮」 ( 宮沢賢治・作 / 偕成社 ) 、「のっていこう」 ( 作・絵とも / 福音館書店 ) 、本連載をまとめた「チキュウズイン」 ( 新人物往メ 203
暠朝を、一 当ー Eth iopia カンバラの旧市街。奥のモスクはリビアのカダフ ィの支援によって完成したもので、昨年まではカ ダフィ・ナショナル・モスクと呼ばれていた ( 現 在はウガンダ・ナショナル・モスク ) 。ちなみに ウガンダのイスラム人口は約 12 % ( 著者撮影 ) 、 50E0 ー 0 ・モガティシュ Kenya ・ナイロビ Ame riC an アメリカン・レガシー 04 ウガンタ 越境するキリスト教保守主義 渡辺靖 text by Watanabe Yasushi Ta れ za れ一 0 わたなべやすし 一九六七年生まれ。慶應義塾 大学教授。専攻は、文 化人類学、文化政策論、アメ リカ研究。九七年ハー 大学大学院修了、 Ph. D. ( 社 会人類学 ) 取得。〇四年、 『アフター・アメリカ』でサ ントリー学芸賞を受賞。著書 に「アメリカン・コミュニテ イ」「アメリカン・デモクラ シーの逆など。 190 Legacy
子弟関係を結はず、一緒に本を読みましようと言 っていたそうです。自分も若い人と同じ感性で一 つの物語を読んで、思いを語り合ったりする関係 がすごく好きだったみたいですね。 アンを必要とするとき 恵理私はどちらかというと、 祖母の孫に生まれ てなかったらこんなに『赤毛のアン』を読まなか ったと思います。もちろん祖母の本は読んだけれ ど、離れる時間もあった。しかし、その後の人生 で何度も何度もアンに″再会〃するんです。 1 たとえば東日本大震災があった後に、私は何だ かすごく「アン」シリ 1 ズを読みたくなった。自 分が丕女になったり、あるいは孤独を感じたとき こ、当たり前の日常生活の尊さーーその景色がも のすごく美しくみえてくることがあるような気が して、あ、こういうことなのか、と また、どんな子供にもトム・ソ 1 ャ 1 やハック ヘリ 1 ・フィンやアンが心の中にいる。たけど、 それを持ち続けて大人になれる人は少ない。みん な子供のころは、アンみたいなバイタリテイやク リエイティブなものを持っていたはずなのに、た 。でも、むしろ んだんそういうものを失っていく 当たり前 その景色 婦アメ冫 1 し′、く の日常生活の尊さ / ものすごく美しく こレ」がある。 むらおかえり 1967 年東京都生まれ。成城大学文芸学部卒業。 祖母の評伝である著書「アンのゆりかご』が N HK 朝の連続テレビ小説「花子とアン」の原案 となる。編著に「花子とアンへの道一本が好き、 仕事が好き、ひとが好き一』 ( 新朝社 ) がある。 大人になってからこそアンみたいな発想が必安た なと。私は自力では持ち続けられなかった大人な ので、何度も何度もアンに再会することによって、 その度に新鮮にアンの言葉が自分の中に入ってく る よく考えてみると、確かにアンの物語って、ア ンにも育ててくれる家やマシュウ、マリラが必要 だったけれども、もしかしたら本当に必要たった のは、マシュウやマリラにとってのアンだったの かもしれない。日常にときめきを失ったり、発想 がもう生まれ変わらないようになっている人たち にこそ、アンのような精神、新しい息吹を与えて くれる存在が必要。年を重ねていって、あ、私は 実はだんだんマシュウとマリラ化してたんだなと 感じるときにこそアンに触れたくなる。子供のと きにアンに出会って何度も再会できるのは、私に とって必要たったから与えられたのだと思います。 花子さんはその『赤毛のアン』をカナダ人宣 教師から贈られることで出会いました。当時は戦 局が悪化の一途をたどり、敵性語である英語の本 を読むことすらはばかられる時代でした。自宅に も焼夷弾が落ちたりする中、花子さんは風呂敷に 『赤毛のアン』の原書と翻訳原稿を包み、抱えなが ら防空壕に逃げ込みます。文字通り、命がけで翻 訳をしました。そこまでして、花子さんが『アン』 を通して日本の子供たちに伝えたかったことって 何だったのでしようか
原作『南の虹』は、当時まだオーストラ ) も制作されている。み名作劇場のまたスタシオジプリの作品に「名作シ リアの雑誌で連載中だった。『アルプスコンセプトからするとオリジナルストー リーズ」の香りを感じているファンも多 物語わたしのアンネット』 ) の原リーというアプローチは非常に変則的でいだろう。 たとえば年に公開された『魔女の宅 作も英語圏では子供向け宗教小説『雪のあるのは言っまでもない。 たから』として有名だったが、国内では そして『名犬ラッシー』 ( ) は当初急便』は、若い女性の人気を集め、配給 知られていなかった。『世界名作劇場大 1 年の予定で始まりながら、半年で放送収入・ 5 億円とジプリ作品初の大ヒッ 全』 ( 松本正司、同文書院 ) によると年の終了。続く半年は『家なき子レミ』が放トとなった。 牧場の少女カトリ』の時には人気があ送され、ここで「名作シリース」は幕と『宮崎アニメは、なぜ当たる』 ( 斉藤守彦、 朝日新書 ) によると、同映画の観客をサ がらず、放送打ち切りの話も出たという。なった。 その影響か、年には、大自然の要素が「名作シリーズ」の人気が次第に下火にンプリング調査したところ、平均年齢幻 ない有名原作『小公女』を選び、『小公なっていったのは、時代の変化も大きか歳の女性が中むだったという。これは 5 った。 56 歳で『ハイジ』に触れ、「名作シリ 女セーラ』として放送している。 そうした内容面での苦闘に加え、放送『フランダースの犬』など「名作シリー ーズ」とともに子供時代を過ごした層と いうことができる。『魔女の宅急便』は、 環境の変化もあった。 ズ」 3 本を監督した黒田昌郎は〈当時と 「名作シリーズ」は『ペリーヌ物語』ま比べて、今はも 2 軽に海外旅行もでき原作こそ国内だが、映画の舞台のモデル はスウェーデンのストックホルムとゴッ る。海外の生活などもドキュメンタリー でかカルピスの 1 社提供。 - 「名作シリー ス」を初期の「カルピスこども劇場」な番組で知り尽くしている人たちに、欧米トランド島など。外国の少しレトロな雰 どのスポンサー名が入った名前で覚えての生活をきめ細かく見せても、色あせて囲気の町並や小道具は「名作シリーズ」 いる人も多いだろう。スポンサーの意向しか映らないでしよう。名作シリーズのに通じる雰囲気が濃厚だ。 スタジオジプリはその後も海外児童文 後半、視聴率が下がったことはそのこと やそもそも視聴玄一が一咼かったこともあり ナイターや特番で放送がつぶれることがを物語っていると一言えますね。〉 ( 『世界名学の『床下の小人たち』を原作に『借り なかった。 作劇場シリースメモリアルブックヨーロッパ ぐらしのアリエッテイ』 ( 四を映画化 しているし、同作を手がけた米林宏昌監 それが年の『小公子セデイ』から頻編』ちばかおり、新紀元社 ) と語っている。 繁にナイターや特番が入るようになり、 では今は「名作シリース」的なものは督の次回作はジョーン・ O ・ロビンソン 原作の『思い出のマーニー』だ。さらに、 1 年間 ( 週 ) のうち、実際に放送されもう存在していないのだろうか るのは話程度になってくる。放送がつまず「名作シリース」を作り続けてきジプリ出身の宮崎吾朗監督が次に手がけ る作品はリンドグレーンの『山賊の娘ロ ぶれることか多いと、視聴者に視聴習慣た日本アニメーションは、年に『レ・ ーニヤ』だという ミゼラブル少女コゼット』、年に か根付か。す、さらに視聴率が上がらない という負のスパイラルが生まれてしまう。『ポルフィの長い旅』、 8 年に『こんにち「名作シリース」は、大きな足跡を残し てアニメ史の中から消えたが、その az 原作の不在と視聴率対策の一環であろはアン』を制作しフジで放送した。 う、年代に入ってからは完全オリジナ地上波放送ではないが、それぞれ「名作 < はまださまざまな場所で息づいている のだ。 ルトーリ . ーの『七つの海のティコ』 シリース」の後継作品である。 ふじつりようた 1968 年静岡県生まれ。アニメ評論家。 単著に「「アニメ評論家」宣言』 ( 扶桑 社 ) 、『チャンネルはいつもアニメゼロ 年代アニメ時評』 ( N 出版 ) 。朝日新聞 夕刊コラム「茶話」でアニメ部門を担当。 WEB で『四代目アニメの門」「恋するア ニメ』を連載中。朝日カルチャーセンタ ーほかカルチャーセンターでの講義など も手がける。 51 海外児童文学ふたたび