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検索対象: 考える人 2015年冬号
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1. 考える人 2015年冬号

説も出されていたのだが、それをプルシナーが初め て同定し、精製したのである。このタンパク質はプ ルシナーによってプリオン (prion) と名づけられ た。タンパク質のプロティン (protein) と感染 (infection) の合成語である。ウイルス粒子をビリ オン (virion) と一言うが、それからの類推もある造 語である タンパク質のみで感染が成立するという概念は、 それまでの生物学の常識では考えられないものであ る。これはタンパク質単独仮説と呼ばれることにな った。現在では「仮説」ではなく「フリオン説」と 呼ばれている。 プリオンタンパク質 (prp) は 200 個ほどのア ミノ酸からなる膜タンパク質である。正常型のプリ オンを prpc と表記するが、これは細胞型 つま , フ、 (cellular) の C を用いたものである。、 感染性をもったプリオンは、正常型。フリオンとまっ たく同じアミノ酸配列を持つにもかかわらず、正常 型プリオンとは異なった構造を持つのである。正常 型は夜ヘリックスが多いが、感染型 ( 伝播型 ) プリ オンはむしろシ 1 ト構造が多く見られるようにな る。伝播型プリオンを prpsc と表記する。 Sc はス クレイピーを表わしている 通常、タンパク質のフォ 1 ルディングは、もっと も安定した、すなわちエネルギ 1 準位の低い構造を とるよ - フになるまでフォール、ティンクを受ける。。こ から多くのタンパク質で構造は 1 種類ということが 多いが、プリオンの場合は、もう 1 つの構造、すな わち″シ 1 トが比較的多い感染型 ( あるいは伝播 型 ) の構造をも取り得るのであった。 たとえばにかかった牛の肉を食べるとする。 云番型プリオンが取り込まれるわけである。この伝 播型。フリオンはそれ自体が増幅あるいは増殖するわ けではない。実は、この不思議なタンパク質は、 我々の細胞が持っている正常型。フリオンを伝播型に 変えるのである。これを″転移と一言う ( 図 4 ) 。直接 維 イ ロ ア 接触することによって PrPC が PrPS 。に変わるの か、そのあいたにか別のタンパク質が介在するの かはまだわかっていないしかし、いったん PrPSc が体内に入ることにより、我々がもともと持ってい た正常型。フリオンがどんどん伝播型に変えられてい く。云番型はシ 1 トが多いので、凝集体あるいは 伝播型プリオン 正常型 0 合 重 正常型プリオン 切断・重合 伝播型 図 4 プリオンタンパク質の伝播・増幅機構 アミロイド線維を形成しやすく、さらにそれが物理 2 的な力などによって分断されると、それを核にして また新しいアミロイド線維が作られる。このように して蓄積したアミロイド線維は、我々の神経細胞を 傷害し、その結果、細胞集団がいたるところで死滅 して、脳は海綿状になるのである このような病理像は、他の神経変性疾患、アルツ ハイマー病やパ 1 キンソン病などでも共通して見ら れる組織像である。このような他の神経変性疾患に おいても、同様にアミロイド線維形成が神経細胞死 を引き起こすことが知られている さて、プリオン病とは感染症ではあるが、 QZ< も XZ< も関係せず、タンパク質たけが感染を引き 起こす、これまでの常識を越えた感染症であること が明らかとなった。しかし、この病気にはまだ謎の 部分がきわめて多い。まずプリオンタンパク質自体 の機能がまったくわかっていないと言ってもいいの である。いくつかの機能が示唆されているが、どれ とい , フところか・らは程 ~ い。 さらに不田 5 議なのは、感染経路である。食すとい うのが最初であることははっきりしている。空気感 染でも、接触咸でもなく、食べ物としての経ロ摂 取が感染の最初である。食されたタンパク質は胃で 部分分解され、やがて小腸でアミノ酸にまで分解さ れて、小腸上皮細胞によって取り込まれると説明し てきたはずだ。プリオンはなぜ分解されないのか 伝播型プリオンとしてシ 1 ト型を保持していなけ れば、正常型を転移させることはできない。胃や 小腸でどのように分解を免れ、 ( 正しい ) 伝播型と しての分子構造を保持したまま、どのように吸収さ

2. 考える人 2015年冬号

暦の二月 ) なんだ」とブックおじさんは一一一一口う。っ まり、一ヶ月後、日本では一月である。 日本でも納豆は本来、冬のものだ。意外と知ら れていないが、俳句では納豆が冬の季語となって いる。理由はいろいろある。まず大豆の収穫が秋 であること。冬は農閑期なので納豆を作る時間が たつぶりあること。冬は気温が低いため、他の雑 が繁殖しにくいこと。さらに水温の関係大昱 は煮る前に晩水につけておくのが普通たが、そ のとき水温が高いと乳酸が活性化してしまい 納豆菌の繁殖が妨げられるという。 シャンでも条件はほとんど同じだと思うが、も う一つ冬に作る理由は「地面や薪が乾ききってい るから」。こちらでは十月か十一月までが雨季だ から、今のこの時期はまだところどころ地面や薪 が湿っているということらしい。もう一つ、意外 だったのは、ここでは煮る前に豆を水に浸さない こと。大豆は水に浸すことにより、やわらかくな る。水に浸さないと、煮る時間が増えて大変不経 4 もしか 済た。浸さない理由はよくわからないが、 すると、納豆闖が繁殖しやすくなるようにという ことかもしれもはい ブックおじさんは乾燥した大昱を袋から取り出 すと、水ですすぎ、茶釜に似た大きな鍋に入れた そして、ちょうど豆にかぶるほど水を注いだ。 「これでよし。このまま夕方まで煮る」ブックお じさんはパンパンと手をはたきながら微笑んだ 「あとは煮えた大豆を籠に入れるだけだ」 「そのとき葉っぱを入れるでしよう ? 何を使う んです ? 」と私は訊いた。納豆菌のついている葉 つ。よ、、こ。 「よし、取りに行こう ! 」私の質問には答えず、 おじさんは元気よく言った。キンメ 1 さんの車に 乗り込んで出かけた。 十分ほど走ると乗鞍高原みたいな丘陵地に出た。 柵で仕切られ、牛が放牧されているところもある こんなところに森なんかないじゃないか、どう するんだろうと思っていたら、中腹で停まった。 キンヌーさんとブックおじさんが土地を指さす。 おお、シダがいつばい生えているー シャン州ではシダで納豆を作る地域があると資 料で読んでいたか、ここもそうだったのだ 鉄条網をくぐって中に入る。実はここはキンヌ 1 さんの土地だった。日当たりが良く、ひじよう に乾燥している。こんなところにシダが生えてい るとは意外カ 鉈でシダをばっさばっさ刈り、籠にどんどん詰 める。籠はすぐ にいつまいによっこ。日藁で苞を 作ることを田 5 えば、全然手間がかからない。 シダをブックおじさん宅に持ち帰り、その後、 町に出てビデオ撮影などを行い、夕方の四時半頃 またおじさん宅に戻った。豆を見るともう煮えて 早速味見。おいしい。でもおばさんはロには入 っと れず、手でつぶして首を振る。この辺の加減は私 にはわからないあと一一一十分して、再び味見なら ぬ「触味」。 「サー」「サ 1 」という単語が飛び交っている 「よく煮えている」という意味だろうかともか くらしい。あとで日本で調べると、「親指と 薬指ではさんでつぶれる程度」とあったが、ちょ うどそのくらいだった。 いよいよ発酵の仕込みだ。シダを水で洗う。と いっても、たらいの水にザ。フンとつけるだけで、 至って大ざっぱ。そして、葉のが内側に向くよ に籠に敷き詰める。葉表の毛羽だったところは 「温度が高くなる」という説明。おそらく、毛羽 だった部分に納豆がたくさんいるのだろう。大 豆の真ん中にはシダの小さな束をつつこんだ。日 本でも同様に真ん中にワラの小さな東を入れるこ とがある。中い部は納豆菌が浸透しにくいからだ。 豆をシダでびっしりと覆うと、プラスチック袋 で一一重にくるみロープで縛って、まだ燻っている ( たこのあと、夕食の時間にな 焚き火の横に置、 ったら台所脇に移し、夜はそこに置き、明日から 昼間は日向に置いておくとのこと これで三日間。「決して開けてはいけない」 のこと。もし途中で開けてしまうと、再び蓋をし豆 ア てもうまく発酵してくれないそうだ。うーん、納 の 豆作りは難しい。一発勝負なのである 謎

3. 考える人 2015年冬号

てしま 香川県の豊島に九十万トンを超える有わってきた。 害産業廃棄物が不法投棄された、いわゆ は′、ー」やせいしょ - フ かって白砂青松の「豊かな島」の復活へ る「豊島事件」 景観を誇った瀬戸内海の美しい島を巻き 一一〇一四年は瀬戸内海が日本初の国立 込んだこの事件が、一一十五年に及ぶ激し い戦いの末、ようやく香川県との公害調公園に指定されて八十年という記念すべ 停の最終合意に漕きつけたのは一一〇〇〇き年にあたった。瀬戸内オリープ基金で 年 ~ ハ月のことだった。一一〇一五年は、そは、地元住民らと協力し、この一帯を れからちょうど十五年の節目を迎える 「国立公園に指定された当時」のありの 大量に残された産業廃棄物や汚染土壌ままの姿に戻し、次世代に豊かなふるさ を島から運び出し、隣の直島の処理施設とを残していこうという「豊島・ゆたか で無圭花する作業は、約八割の処理が終なふるさとプロジェクト」を開始。その わったところだ。当初相疋されていた一一一環として、島の再生と希望のシンポル 〇一三年三月までの撤去完了から大幅に として植樹されたオリ 1 プの収穫祭を、 遅れ、現在、最新の試算に基づき「二〇初めてユニクロとの協力で実施した。十 月二、九、十六日の三回に分けて行わ 一七年三月までの完全撤去」に向けて、 まさに大詰めのスパートにかかろうといれた収穫祭は、「ゴミの島」という「負 の遺産」を克服して、文字通り島名のよ う正念場た。 一方、事件をきっかけに瀬戸内の美しうに「豊かな島」への復興に向けた新た よ一歩となるはずである い自然を取り戻そうという願いをこめ、オ 建筑枩豕の安藤忠雄氏と産廃闘争を指揮し た弁護士の故・中坊公平氏が呼びかけ人初日の十一月一一日午前九時三十分、ユ となり、一一〇〇〇年十一月に創設されたニクロの店頭や新聞で公募した香川県と のが「瀬戸内オリープ基金」である。寄岡山県からの一般参茄者と、基金の関係 付で集めた資金をもとに、豊島をはじめ者、ユニクロ社員がオリープ園の前の とする瀬戸内海エリアに豊かな緑を蘇ら「柚の浜」に集合した。前日までの雨は せようという活動だ。その趣旨に賛同し上がったものの、曇り空。オリエンテ 1 たユニクロは、翌年四月から全国の店頭ションを受け、正しい実の摘み方を教わ った後、長靴に履き替え、瀬戸内オリー で募金を開始。お客様からお預かりした 募金で基金のさまざまな活動を支援してプ基金マークの入った軍手をはめて、 きた。また、社員のボランティア活動とざ収穫に取りかかる。総面積は約九百平 して、全国の店舗からこれまでに延べ約方メートルの畑というが、手分けして 千名が現地での植樹や環境整備活動に携斉に作業を始めると、この日の担当区域 BACKSTAGE REPORT 田囲 オリープは正直だ 手をかければ応えてくれる 文、取材・編集部 撮影・菅野健児 photographs by Sugano Kenji 豊島でオリーブの収穫祭 「瀬戸内オリープ基金」の軍手をはめて。 次頁 . 11 月 2 、 9 、 16 日の 3 回に分けて行われ た収穫祭には、ユニクロの店頭や新聞で募集 した島外からの参加者計 70 名が集まった。 この日のメンバーは、全員がオリーブの実を 摘むのはネ川。青はみな楽しそう。

4. 考える人 2015年冬号

企 0 タリ 1 での私のホストはポストン近郊で小さな会社 奉仕のク一フブ を経営する、当時五十歳くらいの白人男性だった。 ィリノイ州エバンストン。シカゴ郊外に位置する 幾度か例会にも招かれたが、会員は地元に根をおろ この町の名を初めて目にしたのは大学四年の頃。当 した医師や弁護士、会社社長など「フロフェッショ 時、国際ロ 1 タリ 1 の奨学生に選はれ、事務的な手 ナルー ( 専門職業人 ) か中心だった。会場に大きく 続きのため、何度も手紙やらファックスを送った先掲けられたロータリ 1 のエン。フレム ( シンポルマー がエ、ハンストンにあるロータリ 1 クラブの本部だった。それまで米 国を訪れたことがなく、インタ 1 ネットも無かった時代の話である もっともロータリークラブその ものは日本全国にもあり、地元の 名士が名を連ねていることは学生 の私でも知っていたたた、クラ プの入会には会員 ( ロ 1 タリア ン ) の推薦および会員全員の賛同 が必要で、週に一度、食卓を囲ん での定例会 ( 一時間程度 ) に出席豸′。 する義務があること、欠席した場 合は国内外の他クラ。フに出向き埋 め合わせをしなくてはならないこ と、一業種につき会員は一人を原 則とすることなど、細かな決まり があることは奨学生になって初め て知った。公園の清掃や車椅子の寄付といった地域 での社会奉仕活動からポリオ撲滅などへ向けた国際 奉仕活動、海外からの奨学生への支援に至るまで、 時間的にも経済的にも相応のコミットメントが必要 のようで、実に奇特な集まりだと感、いした。 その点は留学先の米国でも全く同じだった。ロ 1 ク ) 、ロータリー・ソングの斉唱など、例会の光景 は日本でも見覚えのあるものだった。「クラブ」と しっても、ロ 1 タリーは、ライオンズやキワニス同 様、「奉仕クラブ (service club) 」であり、「社交 クラブ (social club) 」とは異なる。自前のダイニ ングやホ 1 ル、ましてや宿泊ル 1 ムを有しているわ ら一ド 物 A 丁ー 0 物 AL 義 500 ー AT ー 0 物 0 ( 上 ) シカゴ郊外にあるロータリークラブの本部ビル。 ( 下 ) 工ンブレムのデ ザインの変遷。右下か現在のもの ()A CENTURY OF SERV ℃ E"0t り ) けではない。とはいえ、社会的に成功を収めたミド ルクラスが集っている点で、社交クラブ的な側面も あることは否めない。 私の場合、奨学生としての期間が終わると、次第 にロータリーとの関係も薄れていったが、 日本や米 国のみならず、オ 1 ストラリアからプラジル、ウガ ンダ、インド、マレーシア、フラ ンス、トルコと、これまでに訪れ た多くの国々でロータリーのエン プレムを見かけては、そのグロー ヾルな広がりを実感するようにな った。とりわけ、ロータリーか米 国発の、そしてミドルクラス主体 の奉仕活動であることを考えると、 大国としてのアメリカン・レガシ ーをしているかのよ , フにも田 5 えた。 日本人も会長に シカゴのダウンタウンから電車 で小一時間。ロータリ 1 は駅から 至近距離にある十八階建てのオフ イスを所有しており、十一階以上 を本部が占めている。ミシカン湖を見渡すことが出一 シ 来、眼下には名門ノ 1 スウエスタン大学のキャンパ レ スが広がる ン 案内してくれたのはソウル出身のハワード・チャ励 ン氏。一九八〇年代末、一一十一一歳のときに家族で米ア 4 国に移住し、シカゴのテレビ局勤務などを経て、十 2

5. 考える人 2015年冬号

いなかったこの支部をなんとか興隆させ、会員の規 いたろうからいてうとの面談の直後に執筆された 対し、『婦人画報』の場を借りて批判を発表すると、 模を拡大させるため、彼女はそれまで個人的に交流 と思しき「時勢の変動に対する所感とは、その違 後はもはや振り返ろうとはしなかった。 のあった大阪在住の知人友人と改めて顔合わせして 和感の表明ではなかったかと、わたしには思われる おく必要があったのである。Ⅱ月 3 日には高安やす 少し意地悪な見方になるかもしれないが、皮女には 仏教にもとづく婦人運動 子、関口冬子、四方田柳子に会うエ疋であると、東 関口や高安の騒がしくも派手な言行が、時代の思潮 京の本部宛てにらいてうが記した手紙が残されてい に左右された付和雷同に思われて仕方がなかったの 1921 年 2 月、保の叔父、山根金亠ハ郎の神戸市 る ではないかと、わたしは想像している 北長狭通の自宅で、本門佛立講の日淳上人ご親修の おそらくこの面会時の説得を受けて、 3 人のうち 新婦人協会大阪支部は、結局のところ、巨大な徒御講が行われた。そのとき佛立講のなかに婦人会を 2 人がらいてうに賛同した。関口は 1921 年 2 月労として幕を閉じた。関口は 1921 年にわずか 4 設立してはどうかという提案がなされた。山根の教 には大阪支部の総籘事に就任している。またすで か月ほど運動に関わった後で、子供と過ごす時間を 化子である柳子はただちにこの提案に賛成し、同席 に愛国婦人会大阪支部の主事として、児童衛生と婦多くしたいと告白し、同時に加盟していたいくつか していた日淳夫人西村里乃もそれに共鳴した。こう 人衛生の普及など、社会福祉的な行動にそれなりに の他の会とともに、新婦人協会からあっさり退会し して 2 人の夫人が音頭取りとなり、 4 月には婦人会 関わっていた高安は、 1921 年からは、月に一度 た。残された高安はしばらく孤軍奮闘していたが、 発起趣意書が配布されることになった。会の正式名 開催される新婦人協会大阪支部の茶話会担当者とし 1922 年初頭にはやはり協会を脱退した。彼女も は「本門佛立婦人会」、広く会員を募り、会服は銘 て活動を始めている。らいてうの努力の甲斐あって、 またすべての社会活動から引退し、以後は短歌の道 仙と定められた。趣意書の冒頭には祖師日扇上人の 大阪支部の会員はその年の 4 月の時点で名にまで 一筋に生きた。どの時代にもこの手のプチプルのお 『法華題目抄』から女人成仏の段が、続いて菘野 膨れ上がった。関口は開館されたばかりの大阪の市 先棒担ぎはいるものである。当のらいてうはといえ 女』から「心なき女人の身には仏住み給はず。 民館を例会の会場として借り受ける許可を取り付け、 ば、疲労のため健康を害し、すでにその前年の夏か 法華経を持っ女人は澄める水の如し」の一節が引か ピアニスト湯本豊子とともに清天ムを、高安やす子 ら一家で転地療養をしていた。結局、大阪支部は れている。「法華経の功徳により、更に信仰を固く とともに短歌の勉強会を始めた。月には支部主催 年 2 月に髏となった。 し婦徳を磨き、入りては家庭を整へ、出ては異体同 によって、「恋愛問題批判講演会」が行われたりも 熱しやすいか冷めやすくもあるこうした一連の運 心社会奉仕の実を挙げむ」というのが、婦人会設立 した。これは財政困難な協会の資金獲得のための催 勲豕の退潮のなかに柳子を置いてみると、その行動 の趣旨であった。 しであり、大成功を収めた。 の手堅さと持続力が独自のものであることが判明す 5 月日、清風寺にて行われた発会式には、 15 柳子は何をしていたのだろうか。安性同盟』 る。流行思想に警戒を隠さず、衆人と群騒ぐことを 0 名に達する会員が集結した。他にも参詣人を含め 号の頁を捲ると、なるほど彼女の名が大阪支部正会 央しとしなかった彼女は、たとえ運動を起こすとし ると、それは 800 人を数えるほどの盛大なる挙式 員として記されている。だが活動については記載が てもそれは必ずや自分の根拠地を基盤とし、地に足 となった。師の唱導のもと、経典が読み上げら方 残されていない。 これは私見であるが、彼女はらい を付けたものでなければならないと信じていた。複 れると、次に柳子が発起人を代表して講演を行なつの てうの精力的な扇動と入会の勧誘に対しある違和感 数の会に名則を連ねることは無意味であったし、会 続く選挙で彼女は西村里乃とともに、常任幹事 を感じ、ただちに大阪支部に参茄して「婦人解放」 合から会合へと経廻って不用意に知己を増やすこと に選出された。『事妙婦人会一一十年の足跡』 ( 194 母 9 を叫ぶといった行為に、躊躇を感じていたのではな 皮女よらいてうとその一派に も愚かしく思われた。彳 ( 1 年 ) の報告するところによると、続いて余興とし 2 じっ

6. 考える人 2015年冬号

た。流れの真上で、流れに対して垂澄ませた。私に言われて聞いたせい 秋は、空気も水も澄み、流れの音のだ 川を目で見れば、一瞬にして川は もあるだろうが、意識して聞くとた 直方向で音を聞いたことになる。 が鮮やかに引き立つので正解率が高 しかに音が変わると、彼らも確かめ い気がする。俳句の季語にある「水長細い空間という「答え」が見える 、水が私の胸に飛び込んでくる られたという ことだろう。その空間を流れの音か 澄む」が、音でも聞けるのだ。 かのような錯覚に襲われた。川幅い ら聞き取るには、時間がかかる。そ つばいの流れの音が、ドウドウと鳴 しばらくして、コイン投けよりは 後日、別の橋の真ん中辺りで上流 うして時間をかけて聞いていると りながら重みを伴って、攻め込むよ に向かって立ってみた。すると、右かなり正解率の高い聞き取りができ うにこちらに向かって来るのである 岸の辺りにチョロチョロと高い音のる場所を見つけた。ゆっくりした流「川時間」という特有の座標が現れ 水面は数メ 1 トル下にあるのに、足流れがあり、その内側にトロトロとれで、かっ音が聞こえる川の岸、水る が掬われそうな気がした。 やや太い音の流れがあることに気が 辺に近づけるところだ。 「川のマリンバ」を聞いていると、 したさらに、内仰、つまり川の ーの営みを「定点 「もしかして、前の方向が上流 ? 左右の水音に注意すると、上流で定まることのない月 一緒にいた友達はびつくり仰天。 中心に近い位置になるほど水の音がひとつの石に当たってポチャンと鳴の時間」として味わうことができる 「うん、そうだよ。どうして分かっ太くなり、中心辺りで無音になって った水が、下流に下ってきて別の石「川の長さ」を聞いていると、一滴 に当たり、パチャンと鳴る。先にポ たの ? 」 しることも分かった。無音になる場 の水が無数の石や水と触れ合いなが ら、黙々と地上を走っていく「動き 私はその声を聞いていなかった。 所のすぐ右側では、ドロンドロンとチャンと鳴った方が上流である。ポ では、下流に向かって立ったら音は チャンとパチャンの音の時差が、流の時間」を味わえる。 太鼓のように低い水音がしている。 上流と下流を音で楽しむようにな 変わるのだろうか 深みに落ち込んでいるのだろう。同れの速さだ。速い流れのところだと、 上流と中流ってから、私には川を音楽の空間と 時左が聞き取りにく、。 「ねえ、橋の反対側につれてって」 じように左岸に向かって水音は高く して味わう楽しみが増えたばかりか、 の間の、ゆったりした流れの辺りが やはり、水の音は違っていた。下なっていく。 「川時間というもうひとつの時間 流に向かって立っと、水音はサラサ まるで、水でできたマリンバの演良いかもしれない ラ、サワサワと、足元から滑り落ち奏を聴いているかのようだ。その音 こうして聞くと、「川のマリン軸まで増えたようである。第・ 、弓く、高 るように遠ざかっていく。音だけ聞 は不規則に変化し、強く とともに「川の長さ」も楽しめ る。聞き方を変えたことによって、 いていると、自分の足元が浚われて 、低く、橋の下へと流れ込んでい るのだった。 ホワイトノイズだった瀬音が、大い いくかのようだ。頑丈な橋に足元を いまでは、川に来ると上流と下流なる自然の音楽に変わったのである。 支えられているにもかかわらず、足 がフワリと浮かび上がるような気が を聞き取るゲ 1 ムに興じている。立上流と下流がどちらにあるかを意識 っ位置や地形による音の反射の関係していなければ、この音楽を楽しむ して恐くなった。 ことはできないそれに気づくまで、 この発見を話してみると、自然観で、一〇〇 % 正解とはいかないそ 察が大好きな友達は興味津々で次々れがまた面白い。コイン投けとどち 私は景色が見えないから流れの方向 は分からないと諦めてしまっていた と橋のあちらとこちらに立って耳を らが高確率で当たるだろうか さんのみやまゆこ ェッセイスト。來生まれ。四歳で病 気のため光を失う。上智大暈火学院博 士前期課程修 ' 」 ( フランス文学専攻 ) 一」 処女ェッセイ集『鳥が教えてくれた 空」で第一一回学園「自分史文学 賞」大賞、一 - そっと耳を澄ませば』で 第四十九回Ⅱ本エッセイスト・クラブ 賞を受賞 ) 「空が香る」、「ルポエッセ 社勤務。 227 暮らしのサウンドスケイプ

7. 考える人 2015年冬号

ことになるので、身体が順応していかないのだ いたとにかくどこに行っても目立っ男である 三浦さんが、会食に招待してくれたのだ 三浦さんや野口さんとの食事は、チベットへ向空港からバスに乗ってラサ市街へと向かう。高だから、余裕をもった日程で、少しずつ進んでい かう前の東の間の休息となった。翌日は荷物を再所のためか山や平原の色彩が薄い。人もまばらでかねばならない 身体を慣らすために、観光がてらラサのと 確認し、ヘッドランプなどを買い足した。カトマ閑散としており、ベル 1 の砂漠を思い出した。バ スに揺られていると雪が舞いはじめた。その年、もいえるボタラ宮などを歩いてまわる。みんなこ ンズには何でも売っているけれど、偽物も多い 三月末だというのに、只に雪が降った。ばくはれからチョモランマに行くとあって多少強がって 命に関わるので、いつも念入りにチェックする いるのかもしれないが、歩くべースが速い地元 こうしてカトマンズで数日間を過ごし、いよいよ日本で雪に見送られ、雪に迎えられて初めてのチ のチベット人の倍近い速さで歩くばくたちを見て、 チベットに向かうことになった。 べットに足を踏み入れることになった。 標高三六五〇メートルのラサではサンライトホ現地ガイドは苦笑していたこういうことに巻き テル ( 日光賓館 ) にまず三泊し、西のシガッ工へ込まれず、自分のペ 1 スを保つのが一番なのだが、 一一〇〇一年四月三日午前九時、カトマンズ発ラと向かうことになる。チベットで迎えた初めての一一十三歳の年若いばくは、息切れしながらみんな サ行きの中国西南航空の飛行機に乗った。窓から朝、ホテルに隣接するレストランで朝食を食べるに負けないよう曇きをするのだった。 ボタラ宮は一九五九年三月にダライ・ラマ十四 、、。、ールの盆地を囲むようにそびえるヒマラヤ山のたが、メンバーの半分以上は起きてこなかった。 脈を見た。すべてを見下ろす圧倒的な高さに目をョ 1 ロッパ人やアメリカ人はお粥などが並ぶ中国世がインドに亡命するまで約三百年にわたり、チ 奪われる。乗客が急にざわめきはじめたと思った風の質素なメニュ 1 がロに合わないらしい誰かべットにおける聖俗両界の中心地だった。その内 ら、チョモランマが視界に入った。「あれか : : : 」がパンとバターを注文すると、干からびて縮んだ部は迷宮のように入り組んだ廊下が続き、歩み続 パンが出てきた。みんな大人なのでさすがに公言ければ地の底まで辿り着きそうな感さえある カメラのシャッターを切りながら、ばんやり老プえ ボタラ宮の外観の大部分を占めるホワイトパレ 人はなぜ山に登るのか。登 りたいから登るのしないものの、食事に対するえもいわれぬ不満感 だ。たまたま地球上に出っ張った部分があり、そが漂う。西洋の人々にとってチベットの食生活はス ( 白宮 ) は歴代ダライ・ラマの住居であると同 耐え難いものがあるだろう。チベットの食事がロ時に政治を執り行う場所で、中心にそびえるレッ こがヒマラヤと名付けられ、ある人々にとっては にあい女しがっているのはばく一人のようた。 ドバレス ( 紅宮 ) は歴代ダライ・ラマの霊塔など 憧景となり、ある人々にとっては生活の場であり、 宗教に関わる部屋が多いばくらはいくつもの仏 まくはエベレストに向 ラサに三泊するのは、高所順応のためである 神の住む領域でもあった。い かって心の中で挨拶をした。「今からそちらに向ネハ 1 ル側からエベレストに登る際は、エベレス像や宝座などを見て回り、上へ上へと進んでいっ 内部に納められた仏像の類は絢爛そのものだ ト街道を歩いて徐々に標高を上けていくから身体 力います。どうぞよろしくお願いします」。 ばく自身はどの宗教にも属していないが、何を信 に負担が少なくていいのたが、チベット側はいき ラサのクンガ空港に着いたのはお昼頃だった。 空港でスノ 1 ポーダーのマルコがスケポ 1 を乗りなり標高三六五〇のラサに降り立ち、その後もじるようになるかは自分の意志とは関係なく、生 まれる環境が大いに影響する。自分がチベットに 回し、背広を着た中国人観光客らを唖然とさせて五二〇〇のべースキャンプまで車で進んで行く チベットへ 122

8. 考える人 2015年冬号

の目を盗んで密会を重ねる物語である。元妻との たどることである。猛母の物語は世代間闘争の物 間の息子にも、今妻との間の養女にも愛着があり、 語であり、時代とともに家制度が崩れていく過程 一一つの家庭の間でおろおろする男。 を描いた小説ともいえるのだ。 近松門左衛門『心中天網島』 ( 一七二〇年ご 登場する紙屋治兵衛のともいえるこの手の男 困った父と浮気な夫 は、新民法下における戦後の日本でもけっして珍 では、ダメ父、ダメ夫とはどんな連中か しい存在ではなかった。 五人の子どもがいる作家が、一一〇歳も下の舞台 彼らがダメな理由はしごく簡単。第一に生活力 がなく金銭感覚に欠けること、第一一に女にだらし 女優に入れあげ、両方の家を行き来したあげく、 ないことだ。 最終的には居場所をなくして自虐的な快感にふけ る檀一雄『火宅の人』 ( 一九七五年 ) 。浮気がバレ 私小説にはこのタイプが多いたとえば葛西善 たのをキッカケに妻が精神に失調をきたし、夫が 蔵『子をつれて』 ( 一九二四年 ) は、家賃を滞納 延々と責め立てられる島尾敏雄『死の棘』 ( 一九 して家を追い出された貧乏作家が、幼い子ども一一 七七年 ) 。いずれも私小説である。 人を連れて夜道をさまよう姿を自虐的に描いてい こんな身勝手な夫たちだから、反対に妻が不倫 る。妻を金の工面に実家に帰らせている間のでき なんかした日には、自我が崩壊しちゃって目も当 ごと。自虐芸、たわけ自慢こそ、私小説の私小説 てられない。妻が従兄弟と関係を持ったと知って たる所以なのである。 パニックに陥る志賀直哉『暗夜行路』 ( 一九二二、 とはいえ『子をつれて』は「女の影」がないだ けまだマシかもしれない。織田作之助『夫婦善 三七年 ) しかり。妻が米兵と寝たことから夫婦の 不和がはじまり、ついには家族崩壊に至る小島信 哉』 ( 一九四〇年 ) は貧しい一銭天ぶら屋の娘が、 夫『抱擁家族』 ( 一九六五年 ) しかり。戦前も戦 老舗の化粧品問屋の息子と駆け落ちして所帯を持 後も妻の否はそりやもう大事件だったのだ っ話たが、この男は妻子もいるうえ、甘ったれで 実家を勘当されており、内妻が芸妓のバイトで得 た稼ぎも食いつぶしてしまう。典型的な坊っちゃ 等身大の家族の姿 んタイプのダメ男である。 現代の文学はどうだろう。 宇野千代『おはん』 ( 一九五七年 ) は芸妓とデ 夫婦と子ども一 5 三人を一単位とし、夫は仕 キて妻と別れた男が後に元妻と縒りを戻し、今妻 事・妻は家庭という性別役割分業を基本とした家 族の形態を「近代家族」と呼ぶ。また、愛と性と 結婚を三位一体とする考え方を「ロマンチック・ ラブ・イデオロギー」という。恋愛結婚が一般化 し、近代家族が家族の主流となったのは戦後、特 に六〇年代の高度成長期たった。 近代家族の典型例は山口瞳『江分利満氏の優雅 な生活』 ( 一九六三年 ) だろう。家電メーカーの 宀日伝部に勤める夫、一歳下の妻、一〇歳の息子と いう三人家族が住むのは東横線沿線のテラスハウ ス。サラリーマン一家の日常を描いたこの作品は 風俗資料としても優れている。 もっとも江分利満氏のように平穏無事な家族は 稀。七〇年代以降になると、家族の崩壊や離婚が 大きなテーマとして浮上してくる。浮気な夫にキ レた妻たちは、我慢しなくなったのだ 冪すべきは、児童文学でも離婚が描かれるよ うになったことだろう。松谷みよ子『モモちゃん とアカネちゃん』 ( 一九七四年 ) はその嚆矢。幼 い子から見た両親の離婚は「死に神がやってき た」という恐怖の体験として描かれる。児童文学 ではないけれど、干刈あがた『ウホッホ倭隊』 ( 一九八四年 ) には小学生の兄弟が重要なファク タ 1 として登場するし、ひこ・田中『お引越し』 ( 一九九〇年 ) は両親の離婚を小学生の娘が乗り 越えて成長する物語である。女性の自立や解放が しきりに唱えられた七〇 5 八〇年代。母たちは猛

9. 考える人 2015年冬号

ズミが、地震の直前に全て進け出した。この倉庫は、 地震によって倒壊してしまった。もっと科学的な前 兆現象も、有馬温泉を囲む六甲山周辺で見出されて 花一團石からなる六甲山系は、豊かな水源としても 知られてきた。その足元に位置する灘は、ミネラル に富んだ豊富な水に恵まれ、昔から日本酒の産地と して栄えた。近年では、湧水そのものがミネラル・ ウォ 1 タ 1 として市販され大ヒットした。大地震の 後、倉庫に積み残っていたペットボトル中のミネラ ル・ウォ 1 タ 1 から、地震の前兆と思しきシグナル が見出されている。地震の半年近く前から、徐々に 塩素や硫酸の濃度が上昇していたのである。 一方ほば同じ頃、西宮市の地下水ではラドンの濃 度に異常が出始めていた。少しずつ上昇し始めたラ ドンの濃度は、地震一〇旦則には突然一桁跳ね上が った。地下深くに長らく溜まっていた水が噴き出し てきたらしい 地下水の化学成分に見られるこういった現象は、 巨大地震が起きるしばらく前から地下の応力場が少 しずつ変化する証拠だろう。応力場が移り変わって くのにともなって、地下水脈のネットワ 1 クが変 化するのである。 地面の下で密かに進行する変化は、他にもさまざ まな現象を引き起こす。その一つが地下を流れる 「地電流」に現れる。電気器具のア 1 スをすること からもわかるように、地面は電気を通す導電体であ る。地面に達した稲妻は大量の電流をもたらすとは え、地中に拡散することによって間もなく消えて 。土壌に含まれる水分や地下水脈は、地中でこ 際も、地震にともなって無数の稲妻が夜空を切り裂 く様子が、地震学者らによって観察された。兵庫県 南部地震の直前には、テレビやラジオの電波障害も 多数報告されている。地中の電場に変化が起きて、 それが大気の電場を擾乱するのであろう。地下の電 場が変化すると、帳尻を合わせるように大気中で放 電現象が起きるのである。とにかく、地震は自然界 を流れる電流と深い関係にある。 このことを逆手にとって地下を流れる電流を観測 ういった電気を通す役割を担っている。ただし、雷 が落ちたり電気器具が放電しなくても、地中には常 にわずかな電流が流れている。たとえば、太陽活動 の変化にともなって高層大気で電流が流れると、地 球の磁場がわずかに変動し、それによって地中に弱 い電気が引き起こされることも知られている 地震の際には、妻が空中を駆け巡ることもある。 実際、目撃談は多い。一九六五年八月から五年あま りにわたって長野県の松代付近で起きた群発地震の 有馬温泉の水源は 六甲の南側に広がる 瀬戸内海ではなく、 はるか南方の太平洋 ではないかと考えられている。 して、地震予知を行おうという試みもある。ギリシ ヤの地震学者たちが一九八〇年代初頭に編み出した 方法である。驚くべきことに、一九九三年三月五日 と二六日にギリシャのビルゴスを襲った地震につい て、震源地や規模をかなりの精度で的中させ、人々 に知られるところとなった。しかし科学者の間では、 その成否について今なお激しい議論が続いている この地震予知法は、わが国でも試されてきた。しか しわが国の地下はノイズが大きく、微小な電流の変 化を精度よく捉 - んることか難しいとい - フ 規則性を見出すことは容易ではない。しかし、地 震には何らかの前兆現象が伴うのは間違いないだろ う。この手の話には真偽を疑うべきものも多数ある ものの、科学的に理解しうるものも中に含まれてい る。問題は、いずれの方法も地震の場所と時間を正 確に特定するのは難しいことにある。不正確な情報 は高度に情報化された現代社会になじまず、曖味な 情報は社会を混乱に巻き込む可能性すらある。試算 によると、予知が外れた場合の経済的損失も甚大だ。 そうなった時、いったい誰がその責任を負うという のだろう ? だからといって、大地震が起こるのを たた指をくわえて待っているたけというわけにも、 かず : 社会的な影響が半端ではないだけに、ジレンマも 大きいのが地震予知である。予知の技術そのものは もちろんのこと、情報の出し方、情報の受け手のリ テラシ 1 、そういったものも併せて求められる難し行 紀 球 い命題なのである 地 新 5 2

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静養に専念してもらいたいという気遣いの現われで ある。 婦人会と幼稚園の雑事から解放されたとき、柳子 の心に浮かぶのは、幼くして旅立ってしまった拓一一 のことだった。あれから川年になると、彼女は指折 り数えてみた。だが自分の心の悲嘆はいささかも軽 減されることなく、それどころか日に日に強く、抗 いかたいものとなろうとしている 柳子が乳癌を患っていると診断されたのは、 19 29 年の初夏のことだった。すでに病状は進行して おり、阪大病院で彼女を診察した岩永教授は、たご 自然物手技 ( 春の部 ) 箕面自然幼稚園保姆 森垣操子設明 、木の葉の籠 【方法】葉を縦に一一つに切り、先づ 高用紙に貼りつける、葉のむかふに葉 を入れる松葉の先をひろげて籠の手の ゃうにしてはさむ 2 、木の葉とタンポポの電車 【方法】なるべく大きな葉を選び、先きと元 とを切りおとす、縱に一一つに折り出入口をくり ぬく、又上の方を一一つに折って窓をくりぬく、 その上の方を又一一つに折って細く條のやうに切 る 以上で高用紙に貼りつける、ポ 1 ルはタンポポの軸でも葉のすじ でよいから屋根にはさむ、ポ 1 ルをひつばる紐はクレョンで書 く、車輪はタンポポの花をひつつける ののの 第 木名とタ / イク 0 4 、芦の葉の弓と矢 【方法】芦の葉の元の堅いとこ ろを切り、糸で結んで弓をつくる 矢は芦の葉を矢の形に切って使ふ 5 、木の葉の蝶々 【方法】木の葉は櫻を用ふ、大きい葉 一一枚と小さい葉二枚とをとる、艶紙で蝶 の頭と胴體を切り高用紙の中央に貼わっ ける。この貼りつける時に羽をはさみ込 氏亨よむ、大きい羽を上に小さい羽を下に丁度ル 胴から羽が生えて居るやうにはさむ、ひ げは小さいサクランポをはさみこむか葉の軸でもよい、の上に は美しい色の艶紙を切って紋のや 5 に貼る。 ちに摘出手術を決行した。手術は成功した。だがそ の後の治療で放射線を過剰に使用したのが、袞弱の 極みにあった柳子には致命的となった。 今日では抗癌剤が人体に与える損傷の大きさに対 し、医師の立場からも批判的な意見が登場している。 大正が昭和に改元されてまもない頃には、おそらく かかる発想は微塵もなく、放射線治療による副作用 が縣岑されることはまずありえなかったのではない か。直接の死因は心臓麻痺であるが、真の原因は消 耗しきった体力をもってしては、重い術後治療に耐 えられなかったためである。息を引取ったのは 7 月 3 櫻の葉と松葉の籠 【方法】一一枚の葉 ( 少し堅いも のを選ぶ ) を葉でつないでゆく タ玉のぎ 7 、木の葉と紙の自動車 〇【方法】葉の上に中央を丸く切りこみ、高 用紙に貼りつける、艶紙で運轉する人を切 り、葉のむかうから貼りつける・車の輪は 艶紙で丸く切って前と後にはりつける。 号 月 年 レ」 8 、タンポポの輪つなぎ 【方法】タン・ホボの花をとってしまつ物 然 て先づ一つ丸く輪をつくり、その輪に 軸を通しては又輪をつくりして長く積た けてゆく。 案 考 - か ち 9 、レンゲ草の眼鏡 レ第 罩り 園 で 、【方法】一一本の」一ゲ草の花 0 すぐ下に穴をあ 園 けて他のレンゲ草の軸を通す、この軸の長さは稚 自分の頭に合はせて切る。 自 片日、保と子供たちが見守るなかである。保が柳子 のために設けた離れの間が完成する直前のことだっ 0 。享年盟。あまりに短い人生である 翌日、ただちに阿倍野新斎場で葬儀が執り行われ た。佛立講は彼女の信仰と功績を讃えて、「本法院 功勲妙柳日縁大姉」という法号を贈った。葬儀には 婦人会の会員たちを含め、多くの教団関係者が列席 、」 0 柳子が生涯を終えたとき、長男の欽一は跚歳だっ 慶應義塾大学でラグビ 1 とゴルフに夢中になっ ていた。やがて彼は日本で 3 台目のミリ・カメラ 223 母の母、その彼方に