チベット - みる会図書館


検索対象: 考える人 2015年冬号
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1. 考える人 2015年冬号

ており、中国の旗が翻っていた。 き物の息吹を感じる。胡椒色の荒野はどこまでも山容には、ほとんど雪がない頂は黒い岩肌を覗 かせている。頂上には猛烈な風が吹いていて、頂 一九五九年、ラサで起こった北京政府に対する広がり、その先は神が住む峰々へと続いてい にかかった雲が水平になびいていたあの山でば タライ・ラマ十四世はインドのダラムあの麓にあるべ 1 スキャンプには二十九もの隊、 大暴動で : くは体何を見ることになるのだろう サラに亡命しこ。 オこれ以後チベットは完全に中国総勢一一百人近い人が入ることになるという しばらくして丘を降りて、何もない通りを一人べ 1 スキャンプはロンプク寺院のさらに先にあ 政府の統治下に入り、一九六五年にはチベット自 ナシェルバたちの手によってすでに赤いテン 治区政府が成立して中国の一自治区となる。それで歩いた空にはいつのまにか満月が浮かんでおっこ。 げんぞく から寺院が破壊されたり、僧侶が還俗させられたり、道を歩くには十分な光を放っている。どこでトが張られており、一人すっテントがあてがわれ た。テント場の前にはキッチンや無線などを置く 、人民公社を作らされたりとチベット族の意に見ても月は同じはずなのに、チベットの月光はな 反する政策が実行されたりもした。 せこんなにも力強いのだろう。天は青白く染まり、大型のテントが張られ、立派なべースキャンプが できあがっていた それをとりまくように星々か輝いていた 遠征当時は、映画『セブン・イヤーズ・イン・ 標高は五一一〇〇。空気の薄さを実感するが、 ばくらが泊まった宿の部屋は土壁でできており、 チベット』などが公開されて、フリ 1 チベットの しよいよ人里を離れたテント生活が 運動が盛んになり、チベットは一時世界的なブ 1 夜はかなり冷える。今回の遠征に出かけてからは体調はいい。、 はじ土るこし」にもなる ムとなっていたビョ 1 クやビ 1 ステイボ 1 イズじめて寝袋を引っ張り出した。 が参加したチベタンフリ 1 ダム・コンサ 1 トやそ翌朝は八時に起きてオ 1 ルドティンリ 1 を発ち、 しにべ 1 スキャンプへと向かうことになった。 れを収録したはばくも日本で目にしていたし、つ、 0 優のプラッド・ビットが政治的な発一言をするの道はさらに悪路になっていく。というよりも、ほ を聞いたことがある。チベットが若者のファッシとんど道ではなくなり、ただ砂の上を走っている ョンとして流行し知名度は上がっていったが、今ような状態だ。車の天井に頭をぶつけながらも、 ( くランドクルーサ 1 と ではそれも沈静化し、中国政府の締め付けは強く車は奥へ奥へと進んで、 はいえ何度も川にはまり、それでも何とか前進し なる一方だこうした状況が変わる日はいっかく るのだろうか ていた。途中ヤクの群と数人の巡礼者に出会う。 丘の頂上に腰をおろし、遮るもののない太陽の砂の荒野と岩山が広がっているだけで、あたりに 光を真っ向から浴びた。もうすぐ日が暮れる。目は本当に何も無し の前で大きな野兎がガレ場を駆け下っていった。 世界で一番標高の高い場所にあるというロンブ ク寺院に着いたのはお昼頃だった。先にはチョモ 鳥のさえずりが、牛の鳴き声が、大の吠え声が、 ランマがそびえ立っている。飛行機から見たチョ 空に震えている。ロバの首にかけられた鈴の音が こだました。この沈黙した大地の四方八方から生モランマは雪で覆われていたが、こちらから見る 付記世界最高峰の一般的な呼び名は「エベレスト」だが、チベ ット名は「チョモランマ」である。本稿でも以後、エベレストとチ ョモランマという呼び名が混在するが、ネパール側の話をするとき はエベレスト、チベット側の話をするときは現地名を尊重してチョ モランマと呼んでいる。多少ややこしいが、エベレストとチョモラ ンマは同じ世界最高峰のことを指している いしかわなおき 一九七七年呆都生まれ。一一〇〇〇年、北極から南 極を人 4 破する「」プこ る ロジェクトに参痂。一一〇〇一年、七大陸局峰登頂 登 を達成。主著に写真集「 CORON と ( 土門拳賞 ) 、 『最後の冒険家」 ( 開高健ノンフィクション賞 ) 、ヤ 「 For Everest ちょっと世界のてつ。へんまで」などマ ヒ がある。最新の集はヒマラヤを彰したシリー ズ fLhotseJ fQomolangmaJ fManasluJ TMakaluJ 刊 )。 125

2. 考える人 2015年冬号

ことになるので、身体が順応していかないのだ いたとにかくどこに行っても目立っ男である 三浦さんが、会食に招待してくれたのだ 三浦さんや野口さんとの食事は、チベットへ向空港からバスに乗ってラサ市街へと向かう。高だから、余裕をもった日程で、少しずつ進んでい かう前の東の間の休息となった。翌日は荷物を再所のためか山や平原の色彩が薄い。人もまばらでかねばならない 身体を慣らすために、観光がてらラサのと 確認し、ヘッドランプなどを買い足した。カトマ閑散としており、ベル 1 の砂漠を思い出した。バ スに揺られていると雪が舞いはじめた。その年、もいえるボタラ宮などを歩いてまわる。みんなこ ンズには何でも売っているけれど、偽物も多い 三月末だというのに、只に雪が降った。ばくはれからチョモランマに行くとあって多少強がって 命に関わるので、いつも念入りにチェックする いるのかもしれないが、歩くべースが速い地元 こうしてカトマンズで数日間を過ごし、いよいよ日本で雪に見送られ、雪に迎えられて初めてのチ のチベット人の倍近い速さで歩くばくたちを見て、 チベットに向かうことになった。 べットに足を踏み入れることになった。 標高三六五〇メートルのラサではサンライトホ現地ガイドは苦笑していたこういうことに巻き テル ( 日光賓館 ) にまず三泊し、西のシガッ工へ込まれず、自分のペ 1 スを保つのが一番なのだが、 一一〇〇一年四月三日午前九時、カトマンズ発ラと向かうことになる。チベットで迎えた初めての一一十三歳の年若いばくは、息切れしながらみんな サ行きの中国西南航空の飛行機に乗った。窓から朝、ホテルに隣接するレストランで朝食を食べるに負けないよう曇きをするのだった。 ボタラ宮は一九五九年三月にダライ・ラマ十四 、、。、ールの盆地を囲むようにそびえるヒマラヤ山のたが、メンバーの半分以上は起きてこなかった。 脈を見た。すべてを見下ろす圧倒的な高さに目をョ 1 ロッパ人やアメリカ人はお粥などが並ぶ中国世がインドに亡命するまで約三百年にわたり、チ 奪われる。乗客が急にざわめきはじめたと思った風の質素なメニュ 1 がロに合わないらしい誰かべットにおける聖俗両界の中心地だった。その内 ら、チョモランマが視界に入った。「あれか : : : 」がパンとバターを注文すると、干からびて縮んだ部は迷宮のように入り組んだ廊下が続き、歩み続 パンが出てきた。みんな大人なのでさすがに公言ければ地の底まで辿り着きそうな感さえある カメラのシャッターを切りながら、ばんやり老プえ ボタラ宮の外観の大部分を占めるホワイトパレ 人はなぜ山に登るのか。登 りたいから登るのしないものの、食事に対するえもいわれぬ不満感 だ。たまたま地球上に出っ張った部分があり、そが漂う。西洋の人々にとってチベットの食生活はス ( 白宮 ) は歴代ダライ・ラマの住居であると同 耐え難いものがあるだろう。チベットの食事がロ時に政治を執り行う場所で、中心にそびえるレッ こがヒマラヤと名付けられ、ある人々にとっては にあい女しがっているのはばく一人のようた。 ドバレス ( 紅宮 ) は歴代ダライ・ラマの霊塔など 憧景となり、ある人々にとっては生活の場であり、 宗教に関わる部屋が多いばくらはいくつもの仏 まくはエベレストに向 ラサに三泊するのは、高所順応のためである 神の住む領域でもあった。い かって心の中で挨拶をした。「今からそちらに向ネハ 1 ル側からエベレストに登る際は、エベレス像や宝座などを見て回り、上へ上へと進んでいっ 内部に納められた仏像の類は絢爛そのものだ ト街道を歩いて徐々に標高を上けていくから身体 力います。どうぞよろしくお願いします」。 ばく自身はどの宗教にも属していないが、何を信 に負担が少なくていいのたが、チベット側はいき ラサのクンガ空港に着いたのはお昼頃だった。 空港でスノ 1 ポーダーのマルコがスケポ 1 を乗りなり標高三六五〇のラサに降り立ち、その後もじるようになるかは自分の意志とは関係なく、生 まれる環境が大いに影響する。自分がチベットに 回し、背広を着た中国人観光客らを唖然とさせて五二〇〇のべースキャンプまで車で進んで行く チベットへ 122

3. 考える人 2015年冬号

シガッ工 チベット自治区 サ チベット・ラサのボタラ宀は標高は三七〇〇 E 。チョモランマへの旅はここから始まる。行贇はすべて二〇〇一年贇集『 Q 。 m 。一 an 四」より ) いまヒマラヤに 登ること一 ティンリー チョオユー ネ / ヾール チョモランマ ( 工べレスト ) マカルー カトマンズ プータン 力、エン 100 1 ティンプー 4 インド / ヾングラデシュ 一目一口 [ 新連載 チョモランマ田 Himalayan Experience 石川直樹 text and photographs by lshikawa Naoki 北極点から、赤道を越え、南極点へと人力で縦断するという 壮大な旅を終えた 23 歳の著者が次に向かったのは、 世界最高峰チョモランマ。水平の旅から垂直の旅へ。 そこは一体何を見せてくれる場所なのか 〇〇一年四月一日午後六時、ネパ 1 ルの カトマンズにある「ホテルチベット」前 のバ 1 で、チョモランマ遠征に参茄する メンバ 1 が一堂に会した。参茄メンバー九人と、 ガイド四人の総勢十三人。他に、サーダ 1 ( シェ ルバ頭 ) のロプサンをはじめとする十一人のシェ ノノ力いるのだが、 彼らとはべースキャンプ O) で合流することになっていた。 当時、ばくは一一十三歳だった。大学を休学して 参加した人力地球縦断プロジェクト「 」を終え、その帰り道に南極最高 峰のビンソンマシフと南米最高峰のアコンカグア に登頂して、帰国。それが一月末のことである それから來只中を奔走して様々な準備をし、三月 末にカトマンス入りしたのだった。 日本にいるわずか二ヶ月のあいたに、各所をま わって「 eo 」を終えた報告 をし、国際公募隊であるヒマラヤンエクスペリエ ンス ( 以下、隊に遠征参茄の意思を 伝え、装備や資金を調達し、鹿児島の鹿屋体育大 学にあった低酸素室で順応トレー ニングなどをしていたわけで、一 年がかりの地球縦断から帰ったば かりとは田 5 えないほど、ばくはせ わしなく動いていたことになる そして、カトマンズ入りしたの である。登山隊を組む人々とはま 118

4. 考える人 2015年冬号

lshikawa Naoki Himalayan Experience 4 。。、当時は激しい凸凹道も多く、常にばくらの身最後の村、オ 1 ルドティンリ 1 で一一泊するあい 体は上下左右に揺れていた チョモランマ遠征に同行してくれるシェル シガッェではタシルンポ寺に立ち寄った。タシ パたちとはじめて顔を合わせたクライミング・ ルンポはラサのダライ・ラマ政権としばしは対立シェル。、が八人、台所をしきるキッチン・シェル したパンチェン・ラマが住持を務める寺院である パが三人で、みんな思った以上に若かった。精悍 この対立はチベット支配を狙ったイギリスと中国な顔つきをし、目からエネルギ 1 が溢れでている に政治的に利用され、結局チベット動乱でダラ シェルバを東ねるリ 1 ダ 1 はロプサンだ。日本人 イ・ラマ十四世がインドに亡命し、パンチェン・ と同じようにお辞儀をし、見るからに礼儀正しく ラマ十世は北京で中国政府の首脳となった ( その頼りになりそうな青年だった。年の頃は一一十代後 後ふたたび中国政府に批判的な立場に転じたが ) 。半から三十歳くらいだろうかロプサンは他のチ ームのシェレ。、 ) タシルンポ寺は今も千人近い僧侶が暮らし、チベ ノノカらも信頼されており、すでに数 ットで最も活発な寺院の一つだという 回のエベレスト登頂経験を持つ。 このシガッ工に一泊してから、チョモランマの 他にもエベレストに史上初めて十回の登頂を果 べ 1 スキャンプへの起点となる町、オ 1 ルドティ たした有名なシェルバであるアン・リタの息子、 ンリ 1 を目指した。砂埃をあげながら四台のランカサンもいた。眼鏡をかけ、人の良さそうな浪人 ドクルーサ 1 が西へと走ってい く。途中五〇〇〇生という風体だが、すでにエベレストに数回登頂 を越える峠を抜け、オ 1 ルドティンリーに到着。しており、父親の血を受け継ぐ優秀なシェル。、ご。 ここからチョモランマとチョオュ 1 が見える シェルバたちは皆熱心なチベット仏教徒である オールドティンリーは想像以上にさびれた町だ遠征に小さな経典のようなものを持ってきている った。泊まる宿には電源がないので夜にはカソリ者もいれば、ダライ・ラマの写直 ( を密かにもって ンで動く発電機を使って電気を作る。電話などは きている者もいる。目的は登山だが 、彼らはチベ もちろんない。しかし、ここから、不ハ 1 ル国境まットにやって来たとい一フことに多一少一なりとも嬉し での発展は予想以上に早く進んでいて、電話線やさを感じているようだった。 ランドクルーサー四台に分乗し、ばくたちはラ用水路など様々なインフラが整いつつある過渡期オ 1 ルドティンリ】に隣接した小高い丘から街 いくつか サを発ちシカツェへと向かった。途中、 だった。ばくは十三年後の一一〇一四年に同じオー並みを一望した。丘は古い城塞跡になっていて、 の村や関所を越え、新緑が美しい川沿いを車は走ルドティンリ 1 を訪ねることになるのだが、村はてつべんには赤い煉瓦の砦が残っている。オ 1 ル っていった。現在は舗装されて道路もよくなった拡張され、見違えるほどの活況を呈していた。 ドティンリ 1 の南には中国の人民解放軍が駐屯し 最後の村 亠 し オールドティンリーで出会った子どもたち。

5. 考える人 2015年冬号

lshikawa Naoki Himalayan Experience 生まれていたらどうなっていただろう、と考える。朝食に懲りたのか、昼食は皆の総意で西洋風のも五体投地をしている人々がたくさん ( ナ は彼らの後ろ姿を見つめながら、祈る対象がある ボタラ宮の屋上からラサの市街を眺めた。整然メニュ 1 があるレストランに行った。チベットま と区画された道筋を少し外れると複雑に入り組んで来てまずいピザを食べるよりは、餃子でも食べということはもしかしたら幸せなことなのかもし ご、、 : 皮らの気持れないな、と思う た路地が続いている。市街の周りには茶褐色のた方がよっぱどましだと思うのナカ彳 人が少なくなったマーケット「バルコル」に向 山々が連なり、頭上には突き抜けるような青空がちもわからないではない。舌が肥えていないばく は、食べ物にそんなにこだわりがない食べられかった。屋台は軒並み店じまいで、昼間の喧噪と あった。この空は宇宙に続いている るだけで感謝したいくらいだ。だから、彼らに食はうって変わって閑散としていた小さな男の子 が買い物客や商売人の落としものを拾い集め、背 事を合わせてもまったくストレスにはならない ばくは焼きそばを注文し、他の人々はオムレツや中の段ボ 1 ル箱に入れている。ばくは道に迷って 、、、バルコルを外れて入り組んだ路地 フライドボテト、ビサなどを頼んでいた。フライみようと思 ( ドボテトは油でぎとぎとに濡れており、ビザは申を先へ先へと進んでいった。頭上には満月が浮か し訳程度に粉チ 1 ズみたいなものがふりかけられび、露店の明かりが届かないところでは、わずか にばくの足下を照らしてくれた。ほとんどの店は ている。こんな食べ物よりは現地の人が食べてい 閉まっていたが、一軒の店から炒め物のいい匂い るもののほうが確実に美味しいと田 5 うのだが・ こ。くは誘われるままに店に入った。 が漂ってきナ みんなと一緒にいないときは、一人で店に行き、 店の一番奥、厨一則のテしフルに親子三人が座っ 主文したというより、 よくラ 1 メンを【圧文した。、冫 言葉が通じないので、人が食べているものを指さてラ 1 メンと水餃子を食べていた「タシデレ す ( こんにちは ) 」。ばくはその親子の横に腰掛け すだけである。ばくが指を指したラ 1 メンはこと っ ごとく辛かった。チョモランマに行ったら汗が吹同じものを注文する。メニュ 1 がないので身振り ン き出すような辛いラーメンも食べられなくなるだ手振りで何があるか聞いたがだめだった。しかし、 そのおかげで店の人も親子もニコニコして「まあ ろうと思い、必死につゆまで飲む とにかく座っとれ」という成 ~ じでお茶をだしてく ラサには漢字が溢れていて、旅しやすい町だと れ感じた。い くら観光地化されてきたとはいえ当時れた。また激辛ラーメンか、と思いつつも、実は はまだまだ人もすれていなかった。チョモランマ好きになっている自分に気づく。汗まみれになりに の ながら大盛りラーメンと二十個くらいはある水餃 に一丁くとい , フ目的かなかったら、もっともっとこ 子を一気に食べ終えた。隣の親子は幸せそうな笑 の地を歩きたい テ ラサ滞在の最後の日、寺に行くと、日が暮れて顔を浮かべて帰っていった。 123

6. 考える人 2015年冬号

納豆が発酵するのを待っ間、私たちはパオとい う民族の納豆作りを見に行った。 ハオ人はここタウンジーで最も人口が多い「土 た。パオ語はビルマ・チベット語族の 着の民族」、、 一一一口語だというから、民族的にはビルマ人と類縁関 係にあるはずだが、顔つきや生式はまったく 異なる。彼らは平地ではなく、主に山岳地帯に住 む。顔は丸みを帯びているし、女性は民族衣装を 身につけているのでどこにいてもすぐわかるノ ジャマのようにゆったりした濃紺の丸首のシャッ に同じ色の巻きスカ 1 ト、そして頭には布をタ 1 ハンのようにぐるぐる巻いている。奇妙なのはそ の布がたいていバスタオルであること。色は黄色 やオレンジが多いが、白や赤、あるいは二色以上 の組み合わせもある。 衣装がパジャマのようでもあるし、まるで日本 の女性が自宅で風呂上がりにバスタオルを髪に巻 いているようだ。この「常時風呂上がり」スタイ ルの人たちが市場の一大勢力として、野菜や果物 や納豆を売っていた ハオの納豆は風変わりで、碁石が大きくなった ような形状をしている。センファ 1 に前もって教 えてもらっていなかったら、納豆だと気づかなか っただろう。「カントリ 1 マアム」みたいなクッ キ 1 の一種と思ったかもしれない 納豆を売っている何人かのパオの女性に話を聞 いたところ、たいていは自分たちが郊外の村で作 った商品を売りに来ていることがわかった。碁石 納豆は炙って砕いて豚肉と一緒に炒めたり煮たり するとのことで、シャン人と同じように調味料と して使用しているらしい いちばん愛想のよいパオの納豆売りのおばさん に村の名前を教えてもらい、そこを訪ねてみるこ とにした。実はこのアイデアは周囲のシャン人に は受けがよくなかった。「パオの納豆はくさい」 と顔をしかめるのだ。同じ納豆好きの民族なのに、 この差別的な反応は不思議だった。納豆はそもそ もくさいものじゃないのか シャン人は納豆原理主義者であると同時に、納 豆ナショナリズムも強いようだ。 でも、シャンの人たちは情に篤く、ネットワ 1 クが強い。 英語の通訳をしてくれているナン・ノ ムは自分の知り合いの中からひと組の夫婦を探し タンナは車をもっており、奥さん て連れてきた。。 はたまたま子供のとき隣の家にパオの一家が住ん でいたためパオ語が話せるという。 ナン・ノムとパオ語通訳の奥さんは体にびった りフィットしたシャン・ドレスと頭には菅笠とい う、大晦日の祭りのときと同じスタイル。車を運 転するダンナさんも上はふつうのポロシャツだが、 、ヾこまっとし 下は「シャン・パンツ」と呼ばれるナ ~ た布のズボン。みなさん、シャンの民族意識が強 、、 0 実際にひじように美しく、格好 性 女 村は未舗装の悪路を三十分ほど走ったところに オ あった。 の 柱と梁は竹の棒、床と壁は竹の皮を張って作ら 趾れた「竹の家」が数軒ならんでいる。頭に緑のバ 風 時 スタオルを巻いた男性が一一人、出迎えてくれた。 ここでは男性も風呂上がりスタイルだ。一一人とも ビルマ語とシャン語を解さないらしい。私たちは 見 で英語↓シャン語↓パオ語の一一重通訳で、「納豆に 市 興味があるので見せてください」と頼んだ。風呂 上がりの男性はにこにことしてくれた。 「やってる、やってる ! 」と思わず声が出てしま った。家の脇の空き地で、まさに私たちがやって いたのと同じように、大昱を大鍋でぐっぐっ煮て いたさらに、少し高床気味の家の中に入ってみ カ . し たら、そこには毛布にくるまれた大きな物体 くつも転がっていた。毛布を開けるとプラスチッ ク袋が現れ、さらにそれを剥がすと大きな籠にぎ っしり詰まった黄色だったり茶色だったりする豆 146