シガッ工 チベット自治区 サ チベット・ラサのボタラ宀は標高は三七〇〇 E 。チョモランマへの旅はここから始まる。行贇はすべて二〇〇一年贇集『 Q 。 m 。一 an 四」より ) いまヒマラヤに 登ること一 ティンリー チョオユー ネ / ヾール チョモランマ ( 工べレスト ) マカルー カトマンズ プータン 力、エン 100 1 ティンプー 4 インド / ヾングラデシュ 一目一口 [ 新連載 チョモランマ田 Himalayan Experience 石川直樹 text and photographs by lshikawa Naoki 北極点から、赤道を越え、南極点へと人力で縦断するという 壮大な旅を終えた 23 歳の著者が次に向かったのは、 世界最高峰チョモランマ。水平の旅から垂直の旅へ。 そこは一体何を見せてくれる場所なのか 〇〇一年四月一日午後六時、ネパ 1 ルの カトマンズにある「ホテルチベット」前 のバ 1 で、チョモランマ遠征に参茄する メンバ 1 が一堂に会した。参茄メンバー九人と、 ガイド四人の総勢十三人。他に、サーダ 1 ( シェ ルバ頭 ) のロプサンをはじめとする十一人のシェ ノノ力いるのだが、 彼らとはべースキャンプ O) で合流することになっていた。 当時、ばくは一一十三歳だった。大学を休学して 参加した人力地球縦断プロジェクト「 」を終え、その帰り道に南極最高 峰のビンソンマシフと南米最高峰のアコンカグア に登頂して、帰国。それが一月末のことである それから來只中を奔走して様々な準備をし、三月 末にカトマンス入りしたのだった。 日本にいるわずか二ヶ月のあいたに、各所をま わって「 eo 」を終えた報告 をし、国際公募隊であるヒマラヤンエクスペリエ ンス ( 以下、隊に遠征参茄の意思を 伝え、装備や資金を調達し、鹿児島の鹿屋体育大 学にあった低酸素室で順応トレー ニングなどをしていたわけで、一 年がかりの地球縦断から帰ったば かりとは田 5 えないほど、ばくはせ わしなく動いていたことになる そして、カトマンズ入りしたの である。登山隊を組む人々とはま 118
複数の集団に属しな に属しているわけではない。 がら、自分のパーソナリティをそれに合わせてつ くり上げているのです。 そ , フい一フことができるよ , フになったのは、人間 が共同保育をしながら、親子の間で、あるいは保 育者と保育される側との間で、感情を共有するよ うなコミュニケ 1 ション手段をつくり上げながら、 それを大人の間で十一一分に活用するようになった からです。 例えば先ほど音楽と言いましたけれど、もとも と音楽というのは、親から離れてオンキャーオン ギャ】と泣いていた赤ん坊を、あたかも抱かれて いる気分にして安心させ、幸福な気持ちにさせて 眠りにつかせるための手段だったはずです。その とき、おそらく人間に言葉はありませんでした。 今でも生まれたての赤ん坊は言葉を理解すること ができません。だから人間は音楽的な声で赤ん坊 に一品りかけ、赤ん坊はその音楽的要素を聞いて幸 福感を覚え、泣きやむ。そのために使われた音楽 的なコミュニケ 1 ションが、おそらく大人の間で も使われるようになって、その機能を発揮して大 人の間の関係をさらにつくり上げた。 音楽は、人と人との間の境界を解いて一体化さ せる効果を今でも持っています。今は音楽と一一一口葉 が一体化して、一つのメッセージとなって人に語 りかけるわけですが、一一一一口葉を除いても音楽は人々 の心に作用し、何らかのイメージに向かって人々
い生念 (f) 冬判が生朝の のまん一任住 ー担設 宅ダみた語。 2 当販と瀏佑撮 見せない。ひたむきに非日常を生きてい 三を一 る。そんな彼らが、夢と自信をもって生 きていく力をつけるために、大人と触れ 合う様々な機会を与えたい。その意味で、 スタッフが自発的に楽しそうに働くュニ クロさんでの研修はとても良い機会たと 思っています」 神奈川県出身で、赴任先のラオスで農 んばっています」と目を細めていた 村開発に携わっていたときに東日本大震 災のニュースを聞いた会田さんは、「帰 非日常を生きる高校生 って役に立ちたい」と強く願った。帰国 後、福島で与えられた任務は人材教育。 ュニクロのパートナ 1 として、このプ大学院で教育学を学んだ会田さんにとっ ロジェクトを現場で進めるのは国際て願ってもない仕事だった。 O 、 (Adventist Development and Relief Agency) 。東 日本大震災・復興支援担当の会田有紀さ んは、生徒たちの表情がみるみる変わっ ていくプロセスを目の当たりにして、大 きな手応えを感じたという 「非日常が当たり前になってしまった被 災地の子供たちは、生活範囲が限られた り様々な不便があっても辛いと言わない し、かん、はっているところもことさ、らに 3 もう一人、教育学の知識をフル活用し ているのが生徒たちを受け入れた南沢又 店の箱崎店長だ。地元福島大学教育学部 で学び、教員免許も持っている。教育を 学んだのは、教師になるためというより 自分と周囲の人間教育に活かしたかった からたという。学生時代にユニクロでア ワロ QLO 气ツー ル、ハイトをはじめ、準社員、契約社員を 経て社員となった。 震災のあとしばらく、栃木旧歪于都宮市 の店に勤務した。福島県外に一歩出ると 原発関係の報道が減ることに驚いた。そ してまた、字都宮で被災した人々が復興 に向けて前進している姿に励まされた 「福島県民の私もがんばらなくちゃと思 った」という。その後、福島に戻り、店 長となって二年目のいま、「宇都宮でも らった『がんばって』を、こんどは旧爾 から発信したい」と語る 浪江の高校生が社会へ踏み出そうと努 力する姿は、ユニクロスタッフの心の教 育にも役立っているという。「私たちこ そ、高校生からいただくものがある。だ から、このプロジェクトにぜったい参加 したかった。やらせてくださいと立候補 したのです」 ュニクロと <QX<< は、この一年生十 四人が浪江高校を卒業するまで、その成 長を見届けるつもりでいる ユニクロでは、復興応援 プロジェクトの一環とし ーて、以下の目的のもとに 浪江高校生徒との共同プ ロジェクトを進めています。①ユニクロ 店舖での職本験を通して、高校生が希 望をもって将来やキャリア形成を考え る手助けをする。②地域の人々の役に立 ちたいという高校生の思いをかなえるサ ポートをする。③仮設住宅に暮らす人々 の心のケアと暖かい衣類を提供し、主 者の問題解決に貢献する。ユニクロはこ れからも被災地を応援していきます。
ヨルタンに服を届けました。 これからも続けていこう、 と思いました。 2014 年 11 月、ヨルタンの難民キャンプを ユニクロの社員が訪問。 お客様からお預かりした服を、そして あたたかい気持ちを、届けることができました 厳しい冬が来る前に、一枚でも多くの暖かい服を そんな思いのもと、 4 月末から 7 月末にかけて、 全国の店舗てこ協力をお願いしてまいりました お預かりした服は寒さから、怪我から、 人々を守っています。 皆様のこ支援に、心より感謝いたします。 ユニクロの服を待つ人がいるかきり、 私たちはこれからも活動を続けていきます UNIQ し 0 RECYCLE@ uniqlo.com/jp/csr/recycle
「うれしか 0 た。初めて会「たときは緊たとえ後輩がいなくても私たちが浪江高圏 ク 張のあまり、話しかけてもほとんど返事校を継いでいかないといけないと思った のなか 0 た子が、どんどん変化して、最後んです。家族も私の強い思いを理解して校ジ 学ロ の三日間は特に成長が見えた。大きな声くれました」 高同 程度の差こそあれ、同級生たちはみん を出して笑顔でお客様に接していました。 江共 浪援 なそれぞれに、ふるさとの復興を願う気 売場で見ていて泣きそうになりました」 目を潤ませながらそう語ったのは、ユ持ちを持っているという 県地 一一クロ福島南沢又店の箱崎一一一希店長。そ 福被 の目が追っていたのは、福島県立浪江高「モデルさんたち最高 ! 」 等学校の一年生十四人。ュニクロは、二 今回のプロジェクトが目指すのは、働 〇一一一年から続けている復興応フロジ ェクトの一環として、浪江高校生徒とのく体験や、普段の生活で接する機会のな い大人との交流を通して、生徒たちが自 コラボレ 1 ション企画を進めている 福島第一原発から一一十キロ圏内にある分の将来やキャリアについて前向きに考 浪江町は、震災翌日、町内全域に避難命えるきっかけを提供することだ。同時に 令が出され、そのまま原則立ち入り禁止生徒たちの復興への思いを汲み、被災し の警戒区域となった。現在も立ち入り制た人々の役に立ちたいという希望をかな 限は続いている。町役場も一一本松市に移えるため、ユニクロでの職場体験とあわ 転するなか、原発から九・五キロほどのせて、浪江町から避難した人々が暮らす ところにあった浪江高校は六十キロ近く仮設住宅を訪ねて聞き取り調査を実施。 内陸の基皿杢呂高校敷地内に建てられた買い物の不便など生活していく上での苦 プレハプ校舎へと学び舎を移した。震災労を知り、必要とされるサ 1 ビスを生徒 前は約三百六十人の生徒が学ぶ高校たつ自身が考えて実行する。 このため、十月はじめに仮設住宅に暮 たが、今では三年生五人、一一年生十四人、 一年生十四人の計一一一十三人。一年生が卒らす人々にアンケ 1 ト調査を行ない、十 業する一一年半後には休校となることが決月半ばに南沢又店スタッフと作戦会議。 まっており、新入生の募集はない。後輩寒い冬に向けて「軽くて暖かい洋服を提 を持たない現一年生は休校前最後の卒業供する」ことを決め、送迎バスつき買い 物ツア 1 を月末に実施することを計画し、 生となる なぜ、休校が決まっているプレハ。フ校告知チラシを作った。 そして、十月一一十二日、チラシを持っ 舎の高校をわざわざ選んで進学したのか、 て訪れたのが、浪江町から避難した五十 一年生の竹内美咲さんに聞いてみた 「復興に向けて取り組んでいくためには、世市百十人が暮らす旧平石小学校仮設住 働く体験を通して 未来を考える 文、取材・編集部 撮影・平野光良 photographs by Hirano Mitsuyoshi プレ / 、ブ校舎の福島県のエ高校 曇トロ 1 ■■ーー 次頁 : 介護福祉士を目指す竹内さん ( 右 上 ) 、働くお母さんの苦労が少しわかっ た高橋さん ( 左上 ) 、サービス業を目指す 佐川くん ( 左下 ) 、「めっちゃ緊張」しな がらお客様に話しかける中野さん佑下 ) 。 , 47 ・門
ことになるので、身体が順応していかないのだ いたとにかくどこに行っても目立っ男である 三浦さんが、会食に招待してくれたのだ 三浦さんや野口さんとの食事は、チベットへ向空港からバスに乗ってラサ市街へと向かう。高だから、余裕をもった日程で、少しずつ進んでい かう前の東の間の休息となった。翌日は荷物を再所のためか山や平原の色彩が薄い。人もまばらでかねばならない 身体を慣らすために、観光がてらラサのと 確認し、ヘッドランプなどを買い足した。カトマ閑散としており、ベル 1 の砂漠を思い出した。バ スに揺られていると雪が舞いはじめた。その年、もいえるボタラ宮などを歩いてまわる。みんなこ ンズには何でも売っているけれど、偽物も多い 三月末だというのに、只に雪が降った。ばくはれからチョモランマに行くとあって多少強がって 命に関わるので、いつも念入りにチェックする いるのかもしれないが、歩くべースが速い地元 こうしてカトマンズで数日間を過ごし、いよいよ日本で雪に見送られ、雪に迎えられて初めてのチ のチベット人の倍近い速さで歩くばくたちを見て、 チベットに向かうことになった。 べットに足を踏み入れることになった。 標高三六五〇メートルのラサではサンライトホ現地ガイドは苦笑していたこういうことに巻き テル ( 日光賓館 ) にまず三泊し、西のシガッ工へ込まれず、自分のペ 1 スを保つのが一番なのだが、 一一〇〇一年四月三日午前九時、カトマンズ発ラと向かうことになる。チベットで迎えた初めての一一十三歳の年若いばくは、息切れしながらみんな サ行きの中国西南航空の飛行機に乗った。窓から朝、ホテルに隣接するレストランで朝食を食べるに負けないよう曇きをするのだった。 ボタラ宮は一九五九年三月にダライ・ラマ十四 、、。、ールの盆地を囲むようにそびえるヒマラヤ山のたが、メンバーの半分以上は起きてこなかった。 脈を見た。すべてを見下ろす圧倒的な高さに目をョ 1 ロッパ人やアメリカ人はお粥などが並ぶ中国世がインドに亡命するまで約三百年にわたり、チ 奪われる。乗客が急にざわめきはじめたと思った風の質素なメニュ 1 がロに合わないらしい誰かべットにおける聖俗両界の中心地だった。その内 ら、チョモランマが視界に入った。「あれか : : : 」がパンとバターを注文すると、干からびて縮んだ部は迷宮のように入り組んだ廊下が続き、歩み続 パンが出てきた。みんな大人なのでさすがに公言ければ地の底まで辿り着きそうな感さえある カメラのシャッターを切りながら、ばんやり老プえ ボタラ宮の外観の大部分を占めるホワイトパレ 人はなぜ山に登るのか。登 りたいから登るのしないものの、食事に対するえもいわれぬ不満感 だ。たまたま地球上に出っ張った部分があり、そが漂う。西洋の人々にとってチベットの食生活はス ( 白宮 ) は歴代ダライ・ラマの住居であると同 耐え難いものがあるだろう。チベットの食事がロ時に政治を執り行う場所で、中心にそびえるレッ こがヒマラヤと名付けられ、ある人々にとっては にあい女しがっているのはばく一人のようた。 ドバレス ( 紅宮 ) は歴代ダライ・ラマの霊塔など 憧景となり、ある人々にとっては生活の場であり、 宗教に関わる部屋が多いばくらはいくつもの仏 まくはエベレストに向 ラサに三泊するのは、高所順応のためである 神の住む領域でもあった。い かって心の中で挨拶をした。「今からそちらに向ネハ 1 ル側からエベレストに登る際は、エベレス像や宝座などを見て回り、上へ上へと進んでいっ 内部に納められた仏像の類は絢爛そのものだ ト街道を歩いて徐々に標高を上けていくから身体 力います。どうぞよろしくお願いします」。 ばく自身はどの宗教にも属していないが、何を信 に負担が少なくていいのたが、チベット側はいき ラサのクンガ空港に着いたのはお昼頃だった。 空港でスノ 1 ポーダーのマルコがスケポ 1 を乗りなり標高三六五〇のラサに降り立ち、その後もじるようになるかは自分の意志とは関係なく、生 まれる環境が大いに影響する。自分がチベットに 回し、背広を着た中国人観光客らを唖然とさせて五二〇〇のべースキャンプまで車で進んで行く チベットへ 122
置するニオス湖は、今から一一〇〇〇年ほど前、火山 の噴火口に水が溜まってできた。差し渡し一キロメ ートルほどながら、最深部は一一〇〇メ 1 トルあまり もある、すり鉢状の湖である 電気すら通っていなかった西アフリカの片田舎に あるこの湖が、世界のトップニュ 1 スに躍り出た事 件は、一九八六年八月一一一日午後九時三〇分頃に起 きた。満月に照らされたニオス澗が突如として唸り 声を上げて泡立ち始めると、湖面から白い霧が立ち 上がって湖盆全体を覆った。しばらく付近を漂って いたその霧は、やがてゆっくりと谷筋を下って行っ 異変が明らかになったのは翌朝のことである。普 段は鳥の鳴き声が響き渡るニオス湖畔の朝たが、そ の朝はしんと静まり返っていた。そして、ニオス湖 畔やその谷筋に暮らす人々は皆、外傷もなく死んで いた。家で料理していた人、玄関で世間話に花を咲 かせていた人々、家の中でくつろいでいた人。まる で何事もなかったかのように、その場で息絶えてい 運よく生き延びた人もほんのわずかにいたが、 家族や親戚など、すべての身内の人々が突如理由も わからず息絶えてしまったのを目の当たりにし、狂 乱のあまり自殺した者もいた。 運よく生き残ったほんの一握りの人たちの証一一一一口が、 この時の恐ろしさをまざまざと思い知らせてくれる。 私はしゃべることができず、気を失いそうだった。な にやらひどい臭いか鼻をつき、ロを開くこともできな かった : : : 娘が尋常ではないひどい鼾をかいているの か聞こえた : ・ : ・私は娘のべッドにたどりついたが、そ ことにした。私は再び午後四時半まで眠った。それか らなんとか起き上がって近隣の家を訪ねてみた。しか し、彼らは皆死んでいた。 この事件の死者は一七〇〇人あまりを数え、それ に加えて八〇〇〇頭の家畜も命を落とした。その後、 事件を知って世界各地から駆けつけた科工負が行っ た調査によって、原因が少しずつ明らかになってく まれ る。犯人は、「湖水爆発」というきわめて希な現象 こで倒れて気を失ってしまった。翌朝の九時に、友人 か私を訪ねてきて扉をノックするまで、私はそこに転 かっていた。驚いたことに、私のズボンには真っ赤で 蜂蜜のようないくつかの筋がついておりには糊 のような汚物もついていた。腕にすこし傷もあった : とうしてそんな傷がついたのか知る由もなかった。 ドアを開け 話そうとしたが、私の肺からは空気が 出てこなかった : : : 娘はすでに息を引き取っており ・娘のべッドに行ってまだ眠っているのだと考える 国 ) を′載を、 0 第 N 響盟 ) 導 取物・第人秘 : 、、 : 、ス第第・ムマ人を新 . て、はれ 5 , 000 , 000 調査によると、ニオス湖には他の湖にみられない 大きな特徴がある。それは、湖底からぶくぶく噴出 している火山ガスの中に一一酸化炭素がしこたま含ま れていることだ。つまり湖水中に大量の一一酸化炭素 が供給され続けているのである 小学校の理科で習うように、一一酸化炭素は水によ く溶けるガスだ。一気圧下では、三〇℃の水一リッ トル中に〇・六リットルもの一一酸化炭素が溶ける。 しかし問題は、圧力が上がるとその量が れの どんどん増えていくことだ。このことを らも。 作 利用しているのが、サイダ 1 やビールと 際らた いった炭酸飲料である。炭酸飲料には、 行かじ それこそ水の数倍の体積をもつ一一酸化炭 を金ず 1 し賞 素が溶けている。圧力を高くすることに 探懸か スのつ 見 よってより多くの二酸化炭素を溶かして いるのである。おかげで炭酸飲料の栓を で 5 ー 開けると、プシ、ツという音とともに圧 ス田 / 一カが低下し、飲料水中に溶けきれなくな った一一酸化炭素が多数の泡となって現れ る ニオス湖は、さながら天然の炭酸飲料た。湖底に ある火口からは、一一酸化炭素が日々供給され続けて いる。湖水が淀んで成層しているニオス湖では、湖 水が上下混合されることはなく、一三気圧もある湖 底付近の水から徐々に一一酸化炭素が満ちてくる。大 きな水圧を受けている深い水にはより多くの一一酸化行 炭素が溶け込むとはいえ、それにも限度がある。湖球 底から絶えず供給される一一酸化炭素は、どんどん浅新 3 5 い部分へと進出してくるのだ 2
lshikawa Naoki Himalayan Experience 生まれていたらどうなっていただろう、と考える。朝食に懲りたのか、昼食は皆の総意で西洋風のも五体投地をしている人々がたくさん ( ナ は彼らの後ろ姿を見つめながら、祈る対象がある ボタラ宮の屋上からラサの市街を眺めた。整然メニュ 1 があるレストランに行った。チベットま と区画された道筋を少し外れると複雑に入り組んで来てまずいピザを食べるよりは、餃子でも食べということはもしかしたら幸せなことなのかもし ご、、 : 皮らの気持れないな、と思う た路地が続いている。市街の周りには茶褐色のた方がよっぱどましだと思うのナカ彳 人が少なくなったマーケット「バルコル」に向 山々が連なり、頭上には突き抜けるような青空がちもわからないではない。舌が肥えていないばく は、食べ物にそんなにこだわりがない食べられかった。屋台は軒並み店じまいで、昼間の喧噪と あった。この空は宇宙に続いている るだけで感謝したいくらいだ。だから、彼らに食はうって変わって閑散としていた小さな男の子 が買い物客や商売人の落としものを拾い集め、背 事を合わせてもまったくストレスにはならない ばくは焼きそばを注文し、他の人々はオムレツや中の段ボ 1 ル箱に入れている。ばくは道に迷って 、、、バルコルを外れて入り組んだ路地 フライドボテト、ビサなどを頼んでいた。フライみようと思 ( ドボテトは油でぎとぎとに濡れており、ビザは申を先へ先へと進んでいった。頭上には満月が浮か し訳程度に粉チ 1 ズみたいなものがふりかけられび、露店の明かりが届かないところでは、わずか にばくの足下を照らしてくれた。ほとんどの店は ている。こんな食べ物よりは現地の人が食べてい 閉まっていたが、一軒の店から炒め物のいい匂い るもののほうが確実に美味しいと田 5 うのだが・ こ。くは誘われるままに店に入った。 が漂ってきナ みんなと一緒にいないときは、一人で店に行き、 店の一番奥、厨一則のテしフルに親子三人が座っ 主文したというより、 よくラ 1 メンを【圧文した。、冫 言葉が通じないので、人が食べているものを指さてラ 1 メンと水餃子を食べていた「タシデレ す ( こんにちは ) 」。ばくはその親子の横に腰掛け すだけである。ばくが指を指したラ 1 メンはこと っ ごとく辛かった。チョモランマに行ったら汗が吹同じものを注文する。メニュ 1 がないので身振り ン き出すような辛いラーメンも食べられなくなるだ手振りで何があるか聞いたがだめだった。しかし、 そのおかげで店の人も親子もニコニコして「まあ ろうと思い、必死につゆまで飲む とにかく座っとれ」という成 ~ じでお茶をだしてく ラサには漢字が溢れていて、旅しやすい町だと れ感じた。い くら観光地化されてきたとはいえ当時れた。また激辛ラーメンか、と思いつつも、実は はまだまだ人もすれていなかった。チョモランマ好きになっている自分に気づく。汗まみれになりに の ながら大盛りラーメンと二十個くらいはある水餃 に一丁くとい , フ目的かなかったら、もっともっとこ 子を一気に食べ終えた。隣の親子は幸せそうな笑 の地を歩きたい テ ラサ滞在の最後の日、寺に行くと、日が暮れて顔を浮かべて帰っていった。 123
ひわだいろ 衣の色は檜皮色と一一 = ロわれているが、どのような染料で、どのような色に染め 永遠に生きて人々を見守る 上がっているのだろうか私の興味は尽きなかったかなり秘密の儀式らし く、参加するに当たってあらかじめ厳しい諸注意があった 高野山に来ると、日常の雑事に追われている私でも穏やかな気持ちになる いわれでは、弘法大師は入定の八十六年後、時の天皇、醍醐天皇の夢枕に 「虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば、我が願いも尽きん」 立たれ、「たかの山結ぶいおりに袖朽ちて苔の下にぞ有明の月」という歌 これは弘法大師・空海の願文である ( 『性霊集補闕抄』第八巻 ) 。この途方 を詠まれた もなく壮大な一一 = 暴は、弘法大師の宗教者としての究極の誓願である 「有明の月のように、今もなお衆生のために世を照らし続けているのに、弘 弘法大師が今も生きて入定しておられるという奥の院は、高野山の霊場で 法大師の衣の袖は朽ちてしまっている」。醍醐天皇はそのことに気が付き、 あり、最も神秘的な場所である息をのむような数の墓標や墓石が林立して 観第上人に命じて、岩屋を開いてみたところ、法衣は朽ち落ち弘法大師の髪おり、天皇や貴族、大名や武士、そして一般衆生まで、何もかも受け入れて やひげは伸び放題だったという。 包み込んでいるその混沌とした状况がこの世で そこで持参した法衣に着せ替え、伸びた髪やひ 時空を超えた空間を作り出している げを剃り、岩屋で目にした事すべてを天皇に報告 真夏でも凉しく、ひやりとする単に温度が低 したところ、それを聞いた天皇は勅令を出し、 いということではなく、温度のない世界、この世 「檜皮色の御衣一襲」を献上したのが「御衣加 の法則では推し量れない何ものかを感じるところ である 持」の始まりとされている どうぎようににん 宝亀院には冷水の湧く井戸があり、この水をく 「同行一一人」と書かれた襷をかけた一行に出くわ きはだすおう んで、黄肌、蘇芳、木蘭、紅花などを煎じて赤み の染液を抽出して染料にすると言われている残 「お大師様は今も生きて奧の院にいらっしやる だから、私たちはお大師様といつも一緒なので 念なことに染色の現場は見ることは叶わなかった が、染めあがった衣は、赤と茶と黄が微妙に混じり合った赤味の、茶色、 弓し , たす」と、引率の人が当たり前のように話している一行は深くうなずいて、 った。香りの良い薬草で染めているので、弘法大師のお体を虫や黴から守る その真偽のほどより弘法大師を身近に感じることに真実があると信じて疑い ようのない様子だった 役目も担っているのだと思 - っ 「御衣加持」の儀式そのものは、寒さにもかかわらず火の気のない本堂で、 荘重な祈りと共にとり行われた参加された高野山の長老の方々は、式が終 大日如来の変化した姿が、地水火風空なら、その働きで生まれる色彩も宇 わると一人ひとり、「御衣」にあいさつをされるお衣にお大師様の面影を宙の光の分身である即身成仏を密教の本義として伝える高野山。今私は、 見ているのか、慈しみと、愛おしさが溢れ出ていて、私は長老の方々の表情密教と染織の深い繋がりを感じている高野山との縁はまだまだ続きそうに 思 , んる にえもいわれぬ感動を覚えた 198
男と女 子供がいるという″ふつうの家族がら、自分たちらしい家族のあり方 くは′ふつう〃力いいんた とは違う。けれど、大人一一人が愛しを模索する ( レズビアン、 成長する生命を守ゲイ、バイセクシュアル、トランス 反抗期にあった中学生の合い、助け合い、 るという意味で、そこには紛うことジェンダーの総称 ) の声を聞いた。 息子に言われた小野春さんは、こう 聞き返した。 なき家庭がある。 世間の無知や偏見、無理解に対し 「気持ちはわかるけど、 " ふつう〃 「男だったら結婚できたのに」 て怒ったり呆れたり、歪女を覚えた って何よ ? 」 りしつつ、それでも自分に正直に生「今はとても幸せ」 一一児を連れて離婚した小野さんは、 同性のパ 1 トナ 1 と暮らし、息子 きようとする性的少数派がいる 九年前から、一児を連れて離婚した ノートナーと計三人の子を育時には男女間の結婚生活や子育てと一一人を育てるコウさんは微笑むが、 同性の。、 その心境に至るには、長い苦悶の時 てている。たしかに、父と母がいて変わらない摩擦やトラブルに躓きな illustration by Minegishi TO 「 u 家族の カタチ② 、ま 」すじゃない 「家族」の有り様を考えるとき、 伝統的枠組みとは別の形態を 選ぶ人々の存在を忘れたくない ママが二人、ママはパパ・ それぞれが模索する 子育ての場としての家庭のかたち。 編集部・取材、文 text by Kangae 「 uhitO セクシュアル・マイノリティ 8