てくるはずだという、私の予断と偏見による。 はたしてこれが大当たりである。それまではガ ランとしていたホッチェリアにこのあとつぎつぎ と学生がやってくるようになって、十五分ほどの あいたにほば全テーブルが埋った。 もっとも、埋ったといっても、これはこのエリ アのポッチ席 ( 四十席 ) すべてが埋ったという意 味ではない。ポッチ席ュ 1 サ 1 たちは、まるで入 学試験の会場のように、テ 1 プルの端と端に座っ てまんなかの三席は空けておくので、実際にはま だ席の半数が遊んでいる。だが、こう使うのがこ こでは暗黙のル 1 ルになっているらしく、あとか らきた学生は「あ、いつばいだ」という表情で一 般席へ回れ右していくのである ところで、一般席の学生とポッチ席の学生は見 た目にどこが違うのだろうか。当然違いかあるは ずだという思い込みのもとに、私も両者をあれこ れ見くらべてみた。だが、ファッションにも顔や 体型にもこれといった差異はみいだせない。学食 のあっちとこっちに、 いま風に平凡で特徴のない 男女の学生がいるばかりなのである なあんだという話たが、私にはなるほどと思え た。まずポッチ指向の持ち主は「見えない」とい うこと。見えないが、 学生のなかには従来の大テ 1 プルと相席制にストレスを感じる人間が確実に 一宀疋数いるということ。おそらくこの認識からポ ッチ席導入計画は始まっているのだろう。 いまどき同じ大学の学生同士だからといって、 べつに学食で同じ釜の飯を食い、同じテ 1 ブルで 語り合う必要などないそういう古臭い共食幻想 を排して、学食を自由な共生の場にというのなら、 ポッチ席大いにけっこうではないか。 話をさっきの違いの話に戻そう。個人のレベル では差異がなくても、集団としてみると、一般席 の学生たち (<) とポッチ席の面々 (n) のあい を 想を昜 幻食 6 い 食学生な大 哄匸共席 チう しない 臭排由とやっ 古自 ごには微妙な違いもある。たとえばスマホ。は ほば全員がテしフルに出していて、その半数は食 べながらいじっているが、ではその比率がずつ と低い。これには誰もが、やつばりね ( 友だちが すくないんだ ) とうなずくのではあるまいか もう一つは食べているもの。 < はほとんどがト レイにのった宀籌メニュ 1 ( 三百七十円のカッカ レーとか三百八十円のチャーシュ 1 麺とか ) だが、 はそうではない。 こちらはサンドイッチや菓子 ハン、おにぎりなど外からの持ち込みが中心にな る。このあたりも、なんとなく反・共食の匂いが して、そうだろうなあという感じがする CQ には一人だけだが弁当組もいた。いちばん奥 まったテー。フルに宮藤宀呂九郎を気弱にしたような 男のポッチがいて、家からもってきたとおばしき 弁当をひろげている。その昔の教室には、中身を 覗かれないように弁当箱のふたでついたてを作り、 両手で隠すようにして食べる子かよくいたか、ど うやらそれとは違うらしい近寄ってみると、弁 当箱はアニメのキャラつき。ごはんのうえにはス クランブルエッグが敷きつめてある。 「それはお母さんか誰かが ? ー 声をかけると優しい笑顔が返ってきた。 「いえ、ばくが自分で作ったンすよ」 いわゆる弁当男子というやつだろうかこうい う自分のライフスタイルをもった「変わり者」も ポッチ席の常連になっている。 共食のストレスを最小化して学食を共生の場に という大学の試みは、家族の食卓の再生にもむろ ん応用可能だろう。とりあえず、わが家のダイニ ングテープルについたてを設けてみるのも一案だ ついたて が、身内殺人過半数超えの時代たけに、 にはやはり防弾力ラスかいし 87 家族ってなんだ ?
定家と山藍 七月の終わりに高野山を訪れた際、出会うことができた日本古来の幻の藍、 「山藍」。今は、母と私で指導する染織の学校「アルスシムラ」の嵯峨校の庭 で元気に育ち、青々としている その嵯峨校の隣に平安時代の歌人、藤原定家ゆかりの「厭離庵」がある しぐれてい 定家は、小倉山の麓の厭離庵内にある時雨亭で小倉百人一首の編纂をし、ま たこの地で晩年を過ごしたと一言われている 人通りの多い中院通りから、厭離庵の寺門までは細い石畳の道が続き、そ の両側は古い竹藪が広がっている昼間でも薄暗く人気のないこの道に入る と、まるで異次一兀に彷徨いこんだ感じがしてしまう。 ある日のこと、その小路を通っていると、竹藪の足もとに艷々した葉っぱを 見つけた。目が暗さに馴れ、葉っぱの正体が分かると、思わずわが目を疑った 「これは、ひょっとして、ヤマアイ ? 」 竹の根元の緑の草は、間違いなく高野山で見つけたあの山藍と同じものだ った。竹藪の其処此処に自生しているのに、灯台下暗し、これまで全く気が 付かなかったのである 厭離庵と嵯峨校は細い路を挟んで地続き嵯峨校の庭に植えた高野山の山 藍と厭離庵の山藍は、空海と嵯峨天皇の深いつながりを思えば、我々人間の 思いも及ばぬ縁が、すでにあったのかもしれない藪の山藍は平安時代から ここに育ち、何世代も植生を保って生き永らえてきたのだろう。千年の時を さかのばり、古人が嵯峨の地で山藍を育て、藍の汁を絞って筆を濡らし、和 歌を詠みあった様子が想像されて、胸が熱くなってきた 色はかけ橋 思うに、古来、日本の染織とは、日本を包み込む、光と地水火風空と、そ こに生する植物と動物の、かけがえのない共同作業だったといえるだろう いにしえびと えんりあん 日本の色と 言葉 密教と色 〔第六回〕 ゲーテ曰く「赤は天上の色、緑はこの世の色」 古い曼荼羅の色を見ると、ほとんどが 白と赤と緑で構成されているのが分るはず。 一目見て宇宙の根本原理を理解で ) るよう、 弘法大師が唐よら持ち帰ったとする両界曼荼羅 その前に立ち、地水火風空、自然との一体感を 覚えながら、密教と染織の深い繋がらを感じる 志村洋子 ミミを Shh ミ、 ra ま守 広瀬達郎・撮影 photographs by 工 iroseTatsuro みつきょ - っといろ しむ。らよ - フこ 染織作家。一九四九年生まれ 「藍建て」に強く心を惹かれて染 織の世界に入る。京都市嵯峨野で 「都機 ( つき ) 工房」を主宰する。 母親は、人間国宝であり、名随筆 家であるふくみさん。著書に「た まゆらの道」 ( 母との共著 ) 、「染 と織の意匠オペラ』などがある 松葉色 白 色 朱 194
イタリアでダンテを学ぶように、なぜ日本では子どものときに源氏を学ばないのか。 ってる作品だけ翻訳したわけじゃないですから。 と、はじめてその翻訳を読んだとき、ナタリア・ アミトラーノ中島敦は例外ですけど。 イタリア人、あるいはヨ 1 ロッパ人にとってわか 松山石川淳の「紫苑物語」も例外といえば例外ギンズブルグに似た印象があったそうです。 りやすいイロ ( 佃力ということをすっと考えなが 松山谷崎とギンズ。フルグは、どう似ているので ですけれど、これも戦いの話です。そういうこと ら選んでいったのだろうと思うんです。 はあまりお感じになりませんでしたか ? アミトラーノきっと、そうですね。その短篇を アミトラーノギンズブルグは『細雪』の谷崎の アミトラーノそのときは気がっかなかったけれ 選んだ理由についてはあまり話さなかったけれど、 ように、日常生活の流れを描くのが得意でした。 いま田 5 い返せばそうですね。そう思います。 川の流れ 中島敦と石川淳の作品のことは、私たちの会話一 大した事件もなしに日々が続いてい 松山イタリアの王国樹立と日本の明治維新は十 何回も出ました。 のような動きを、谷崎もギンズブルグもうまく描 九世紀半ばと同時期ですし、共に第一一次世界大戦 リ 1 セとい - フィタ そのあと、ゴッフレ 1 ド・ きました。そして、ふと気がつくと、このふたり の敗戦国で、イタリア人にもわかるような選択を ノリ 1 ゼは、この リアの作家が日本にきました。。、 の小説のなかで、日常生活がいつのまにか人生そ したんだろうと、目次を見たときに感じたんです 本で「紫苑物語」を読んで非常に気に入り、石川 のものに変貌しているのに気づきます。つまり、 よ。谷崎が二つ入っているのかな。 淳に会いたいと言って、須賀さんの紹介で実現し つまらない現実がなにかもっと大規模なものにな アミトラーノ「刺青」と「夢の浮橋」。谷崎だけ っているんです。 たのですが、この二人の対話はあまりうまくいカ 一一つ。どうしてでしようね。 なかったみたい 松山須賀さんがあれほどナタリア・ギンズ。フル 松山やつばり好きだったんでしよう。須賀さん、 松山それ、僕も聞いたことがあります。須賀さ グが好きだったというのもわかるような気がしま 『瘋癲老人日起まで訳している。 んとどじよう鍋を食べにいく車のなかで、石川淳 す。やつばり影響されたんでしようね アミトラーノたぶん、須賀さんの谷崎翻訳のな なら、どれが好きか訊いた。訳してる「紫苑物 アミトラーノそう思います。『武州公秘話』に かでいちばん素晴らしいのは『武州公秘話』。こ 一 = 巴かと思ったら、それではなくへンな話、なん はすこしアンテイミスト ( 親密 ) なところがあっ れはほんと , フに聿糸主卩らし、 ていったかなあ。革ム叩とか明日起こることが言事 て、ギンズブルグの『ある家族の会話』とか『マ 松山それはど一フい - フところが ? にはる新とカ、そ , フい - フ ンゾ 1 ニ家の人々』とかの、ああいう雰囲気が漂 アミトラーノ原作の素晴らしさは一言うまでもあ アミトラーノおばえていません。 っていたみたい。 それはガルポリさんの意見です りませんが、須賀さんの翻訳はイタリア語の細や 松山ちょっと不思議な話で、最後に主人公が抜 けど、私も賛成。 かなニュアンスを実にうまく使っています。批評 き手をきって運河を渡ってゆくんですけどね。あ 松山よく選んだものだと咸皎します。これを選 家のチェ 1 ザレ・ガルポリさんは、須賀さんの翻 あ、「鷹」だった。革命伝説という評がありました。 ぶためには、そうとう読まなければならない。知 訳の素晴らしさについて書いています。彼による 8 9
ごはんがある、ほっとする感じ」、 年目、 3 児の子育て中という西村多の明かりがついていると『誰かいる 江さん ( 犯 ) 日く かな』ってつい寄っちゃうんです」 にぎやかな食事の風景の好ましさ ち こうした共生型の暮らしを選ぶ人 「住み方のイメ 1 ジって、自分の親 「コモンミールがここに住む理由」 がして、たよ一フに、、、 しすれは一戸建て たちは、もともと人付き合いが苦に と語る居住者は少なくない。 を路まる ならないタイプなんだろう、 " 自立 でも買って : : : というのしかなかっ たとえ、親が仕事の都合で参痂で たでもここを知って、『親しいけ した個人がチ 1 ムに貢献するⅡコ 遊きなくても、子供は他の居住者たち 」クテイプのような思想にな」む社 ど気を遣わない、ご近所づきあい』 緒と食事ができる。豊島区の「スガモ ( いなあと初めて思 会的な意識が高い人なんだろう、と フラット」に住むシングルマザ 1 の風なつながりも、 ま いました」 思われがち。だが、聞けば宮前優子 集野々村ひろみさん ( ) は一一一口う。 然 コモンスペースでインタビューし 「仕事で『子供の食事、どうしょ さん ( 犯 ) のように、もっと軽い気 自 ていると、後からふらり入ってきた 持ちできた人がほとんどだ。 う』というときも、『うちの子たち 「面白そうが半分、賃貸たからイヤ のは、シングルで入居している新垣 を〕終と一緒に食べさせとくよ 1 』と言っ 8 、、、、 0 事てもらえたり。そのときどきで、 だったらやめればいいが半分。でも 早穂さん ( 3 ) オ 「仕事から帰って、コモンスペ 1 ス居心地がよくて夫婦で住み続け、こ ろんな人たちの手を借りられる。働 こで子供も生まれました」 く母親としてはとても助かります」 の新しい住まい方だ 毎日必ず一家揃って食卓を囲める ワンルームからまで個人 優子さんの夫である健一さん ( ) も 話 は、もともとコレクティブな生活に の住戸は首都圏ではごく平均的な大家族の方が少ない昨今、ここには、 れ積極的たっこ。 1 エリア家族ではないが、いつもの顔が揃い、 きさだが、共有のランドリ 性「僕は、昔の大家族のような、血縁 や庭、あるいは多目的室のような部同じ釜の飯を食う″同志の結東〃の と ようなものが漂う。 でくくる集合体つて窮凪たと思う。 屋も備え、空間的な余裕は十分。 こ べけれど、いま人が一近くにいるメリッ 同時に、この家はとても開かれて 圧巻は、「コモンスペ 1 ス」と呼 をトは享受しています。同じ家の中、 いる。あらかじめ連絡ポ 1 ドやメ 1 ばれる居住者のためのだ。こ リングリストで告知しておけば、ゲ こでは月に回程度、「コモンミ 1 いごく近くにいるからこそ、意図せず ストも呼べるし、泊めることもでき 盛り上がった何かに一緒にノッて楽 ル」と呼ばれる共同の食事運営が行 1 のしむようなこともあるわけだから。 る。元居住者が遊びに来たりもする われる。居住者が当番制で希望者の 作 それは例えば、似たような家族構成 ために料理をし、同じメニュ 1 を食すっぴんやホ 1 ムウェア姿を見せる て やの友達の家が徒歩圏にあってよく行 ことにも , て , フ抵抗がな′、 . なる、独特 べるのだ。一緒に食卓を囲んでもよ ど、さ来はす・る、とい - フ 〃事前に約東し の距離感。 し、自分の都合に合わせてでもよし。 に合って…の関係とも違うんですよ」 「スガモフラット」に住み続けて 8 経済的なお得感や、「帰ってきたら こ 顰 2 8
させる。先生は、一方の意見にかたま「子どものころ、ヒロシマへの原爆投 る車でブル 1 ミントンから約三 らないように配慮していた。でも、ひ下は戦争を終わらせるために正しいこ 時間、オハイオ廾テイトンに到 とりの生徒が、日本人が悪いのだからとだったと教えられました。石内さん 着した。石内のたっての要望で 投下は正しいと強い調子でいいだした。のひろしまは、原爆の事実をとてもエ 「国立米空軍博物館」 ( 一九七一 私をにらみながら。先生がすぐに止めモ 1 ショナル ( 情緒的・感動的 ) に伝 年開館 ) を訪れた。その概要は させました」 えている。他人事ではないと思った。 公式ガイド。フックが説明してい る 翌朝、石内はインディアナ大学に向戦争の苦しみは、戦後もずっとつづい かった。一八二〇年設立、名門大学とていたことがよくわかる」という女子 〈世界最古最大の空軍博物館で して知られ、芸術分野の人材育成でも学生。 す。歴史あるライト・パターソ 名高い。日本とのかかわりでは、イン広島に家族で行ったことがある、と ン空軍基地に置かれたこの壮大 ディアナ生まれで、第一一次世界大戦の う女子学生がいた祖父母はフラン な施設は、家族の誰もが何時間 従軍ジャ 1 ナリスト、アーニ 1 でも楽しめるエンタ 1 テイメン ・。ハイス人で、ドイツとの過酷な戦争体験が ルがブル 1 ミントン校で学んだ戦場ある広島で出会った被爆老人の話を トと教育の機会を提供していま の無名兵士の姿を活写して国民的人気聞き、「彼の苦しみが祖父の体験とも す。 ( 略 ) 博物館には三百五十 を得たが、 一九四五年四月、沖縄伊江重なった」という。 機を超える航空機やミサイルが 島で戦死。戦後、が接収した 石内は「すべてはパ 1 ソナルな体験 展示されています〉 ( 五五年まで ) 東京宝塚劇場を「ア 1 博物館がオ 1 プンする朝九時、 から始まるそれをどう広げていくの竃、を ) を ・パイル劇場」と改称したことでかそして自分の頭で考えることが大 空軍のテ 1 マ曲が流れ、平日に 日本人の記憶にとどまる 事ですね。私も、ひろしまを撮りなが もかかわらず大勢の来場者が吸 石内の学生たちへのレクチャ 1 は、 ら学んでいきました」。 い込まれてゆく。大半はリタイ く感じます。ヒロシマだけではなく、 一一日間にわたった。写真、テキスタイ男子学生が手を挙げた。「ヒロシマ アした白人のツア 1 客だ中です ルを専攻する学部生、院生が対象であはアメリカの歴史にとって遠い出来事世界で起きた事実、起きていることを。るのは、そろいの赤いネクタイをしめ る。写真家としての足跡とともに、 だと田 5 っていました。僕たちは一一次的ヒロシマへの物理的距離、時が隔てたる退役軍人である 「ひろしま」シリ 1 ズの写真集三冊を情報しか知らない ヒロシマの悲劇を距離は、日本人もアメリカ人も同じな巨大な三つの格納庫を利用した展示 見せ、「ひろしま、という日本の文字知っている日本の若者は、どう考えてのです。未来をどう考えていくのか、室。飛行機開発の草創期からの歴史を 私たちは同じ地点に立っています」 を覚えてほしい」と語りはじめ、撮影いるのでしようか」。 たどっていくこの空軍基地の名称は、 のいきさつを述べていった。熱心に聞石内は日本で若者たちに話す機会も ライト兄弟に由来するのたが、木材を き、メモをとる学生たちから意見と質多い どこまでも平原がつづくなか、幹線使った初期の飛行機が、鉄のかたまり 「日本人もヒロシマを知らないと、よ道路を走っていく 中川夫妻が運転すへと大きく変貌したのがわかるのは第 問が相次い 学部生・院生へのレクチャー。中央はジェームス・中川 7 photog 「 aph by Zach FeIts ッ 114
互貢 : 甲央公論新社 ゃなかった、悪魔でした。だから許してください 松山ずいぶん都合のいい悪魔が ( 笑 ) 。 アミトラーノ私がさっき「厳しい」と言ったの はそういう意味ではなく、彼女は自分に対して厳 しかった。人にも厳しかったけど、むしろ自分に 厳しかったのです。いろんなことを完璧にできな い自分に怒っていた。 松山それはわかりますね。 アミトラーノ自分に期待していたから、いちば ん親しい人にも期待しすぎたかな。 松山うん、うん。そういうところあるかもしれ アミトラーノだから、私は役立たずだという気 持ちになることが、正直いってよくありました。 よく褒められたし、よく叱られたけれど、叱り方 は家族みたいな感じでした。そのときはガッカリ あとに艮みな したり、落ち込んだりしましたが、 んか全然のこらなかった。ほんとに、母に叱られ るみたいに叱られた。 松山ダンテの講読会をやっていた人も、エマウ スでいっしょに活動した人も、須賀さんのことを、 お母さんと言うんですね。僕はそんなふうに思っ た記意がないから、びつくりしたんだけど。アミ トラーノさんたちの世代には、接し方がちょっと 違っていたんだなあと思ったことがあります。で も、怒られたときは、ひじように布かったと。 須賀敦子 1929 年兵庫県生まれ。随筆家、イタリア文学者。聖心女子大学卒業。 慶應義塾大学大学院を中退し、パリ大学へ留学。 29 歳からの 13 年を イタリアで過ごす。現代日本文学のイタリア語訳を多数出版。 61 年 にジュゼッペ・リッカと結婚するが 6 年後夫が急逝。 71 年帰国。慶 應の外国語学校、上智、聖心、東大ほかで講師を経たのち、上智大 学比較文化学部教授。 56 歳で文筆活動を開始。 91 年「ミラノ霧の 風景」で女流文学賞、講談社ェッセイ賞を受賞。 98 年心不全で帰天。 主な著書に「コルシア書店の仲間たち」「ヴェネッィアの宿」「トリ 工ステの坂道」ほか。主な訳書にナタリア・ギンズプルグ「ある家 族の会話』、アントニオ・タブッキ「インド夜想曲』など。 アミトラーノ須賀さんとの関係もすこしずつ変 わっていきました。初めて会ったときは、私は一一 十歳かそこらで、ほんとに若かったですね。私が 大人になり、大学教師になって関係も変わりまし た。最後は、そんなに叱られなかった。 須賀さんの愛した作家たち 松山僕はミラノに行ったとき、サバの詩集を、 んめないくせに買ったんです。トリエステのサバ の書店も見に行きましたが、 坂道の多いところだ なあと思いました。 須賀さんは多くのイタリアの作家、詩人の作品 を翻訳されました。イタリア人であるアミトラ 1 ノさんから見て、彼女の愛した作家はどのような 存在ですか ? アミトラーノ須賀さんが愛した作家はそれぞれ 違っていますが、一つの共通点があります。少な くとも、私からすると、みんな、とても文学的な 作家です。もちろん、どんな作家でも文学という 々 人 枠組みに属しますが、ある作家にとっては、文学 っ は現実よりも大事です。そういう作家はどんな経会 験があっても、それを文学というフィルターを通本 して感じとります。 愛 たとえば、アルベルト・モラ 1 ウィアはとても子 有名なイタリアの作家でしたが、彼にとって現実賀 は明らかに文学より優先されるべきものでした。談 工 1 コもそうです。なせタ。フッキが ウンベルト・ 0
私の 舟 ( ママ ) ハラ」問題 クハラ、ハワハラ、マタハ ラ : ・ : 。他者への発言や行 動が本人の意図には関係な 相手を傷つけたりすることを、 ハラスメントと呼ぶ 私はここに、母と娘の抑圧問題を 総称する一一一一口葉として、「母ハラ」を 加えたい。 大人になった娘の言動にダメ出し をしたり、家を出て暮らす娘の身の 回りを世話する。仕事や結婚相手の 選択にロ出しする。娘の自己決定権 を奪う行為だが、当事者にも抑圧で あることが分かりづらいものが、私 の考える母ハラだ。言葉を与えるこ とで当事者が苦しみを客観視できる ようになれば、と願う これまでこの問題は、「母と娘の といった言葉 確執」、「母が重たい」 で表現されてきたが、生ぬるい。母 ハラは母親が無自覚に娘を苦しめ、 プライドを奪い、深刻なケースでは 命をも脅かすのである 献身的な愛情を注ぐ母親を加生暑 と呼ぶなんて、と憤る人や、親を批 判するのは娘の甘え、と不快感を持 つ人もいるたろ - フ。しかし、そうい う周囲の無理解も、母ハラ被圭暑を 追い詰めてきた。 セ のなのだから。 いる親子を否定するつもりはない。 致し方ない側面もある。家庭内の 何を隠そう、私自身が母ハラ被害 問題は外に見えにくく、自分の家族多様な親子関係の中に、難しい問題 者である。 を抱えているケ 1 スがある、という のあり方が普遍的と信じている人は 家族は 子どもの頃から、母と折り合いが ことを認めて欲しいだけだ。 多い。人が物心つくころ、家族は世 しろいろあ 悪く家族に何か問題があるとは感じ それぞれ固有の文化を持っていて、 界たったからだ。別に、、 てきたが、 それをはっきりと理解し そこでのル 1 ルや関係性も固有のも っても基本的には信頼関係を築いて たのは、夫の家族と出会ってからだ。 特集 メぎ g ミミ、ミ 0 ミ、 十五年前、夫の実家で初めてその 山極寿一さんと考える 家族って家族全員と対面した。ダイニングで なんだ ? 団欒する義父母、義兄夫婦と甥っ子 たちを観たとき、現実 ティを感じられず「まるでホ 1 ムド ラマみたい」と田 5 った。 誰もが新しい家族の私を受け入れ てくれる。歓迎して気にかけてくれ る。その暖かさがつらい という感 覚を理解してもらえるだろうか今 は違うが最初の数年、私は自分に居 場所が用意されている状態が耐えが ここ数年、母と娘の関係が かってないほどこじれている 「毒母」「母娘問題」など、 さまざまに呼称されてきたが これからは「母ハラ」と呼ばう それだけ根深い問題なのだ。 阿古真理 text by AkO Mari 亠の , 」土まり . 作家・生活史研究家。 庫旧笙まれ。神戸女宀 を卒業後、広告制作へ ーに。食を中、いに、 性の生き方などをテ , 書に「昭和育ちのお、 和の洋食平成のカ一 理の年』「うちの「 母・母・娘の食卓」貪 ポ「まる子世代」』 ( 生 4 7
ており、中国の旗が翻っていた。 き物の息吹を感じる。胡椒色の荒野はどこまでも山容には、ほとんど雪がない頂は黒い岩肌を覗 かせている。頂上には猛烈な風が吹いていて、頂 一九五九年、ラサで起こった北京政府に対する広がり、その先は神が住む峰々へと続いてい にかかった雲が水平になびいていたあの山でば タライ・ラマ十四世はインドのダラムあの麓にあるべ 1 スキャンプには二十九もの隊、 大暴動で : くは体何を見ることになるのだろう サラに亡命しこ。 オこれ以後チベットは完全に中国総勢一一百人近い人が入ることになるという しばらくして丘を降りて、何もない通りを一人べ 1 スキャンプはロンプク寺院のさらに先にあ 政府の統治下に入り、一九六五年にはチベット自 ナシェルバたちの手によってすでに赤いテン 治区政府が成立して中国の一自治区となる。それで歩いた空にはいつのまにか満月が浮かんでおっこ。 げんぞく から寺院が破壊されたり、僧侶が還俗させられたり、道を歩くには十分な光を放っている。どこでトが張られており、一人すっテントがあてがわれ た。テント場の前にはキッチンや無線などを置く 、人民公社を作らされたりとチベット族の意に見ても月は同じはずなのに、チベットの月光はな 反する政策が実行されたりもした。 せこんなにも力強いのだろう。天は青白く染まり、大型のテントが張られ、立派なべースキャンプが できあがっていた それをとりまくように星々か輝いていた 遠征当時は、映画『セブン・イヤーズ・イン・ 標高は五一一〇〇。空気の薄さを実感するが、 ばくらが泊まった宿の部屋は土壁でできており、 チベット』などが公開されて、フリ 1 チベットの しよいよ人里を離れたテント生活が 運動が盛んになり、チベットは一時世界的なブ 1 夜はかなり冷える。今回の遠征に出かけてからは体調はいい。、 はじ土るこし」にもなる ムとなっていたビョ 1 クやビ 1 ステイボ 1 イズじめて寝袋を引っ張り出した。 が参加したチベタンフリ 1 ダム・コンサ 1 トやそ翌朝は八時に起きてオ 1 ルドティンリ 1 を発ち、 しにべ 1 スキャンプへと向かうことになった。 れを収録したはばくも日本で目にしていたし、つ、 0 優のプラッド・ビットが政治的な発一言をするの道はさらに悪路になっていく。というよりも、ほ を聞いたことがある。チベットが若者のファッシとんど道ではなくなり、ただ砂の上を走っている ョンとして流行し知名度は上がっていったが、今ような状態だ。車の天井に頭をぶつけながらも、 ( くランドクルーサ 1 と ではそれも沈静化し、中国政府の締め付けは強く車は奥へ奥へと進んで、 はいえ何度も川にはまり、それでも何とか前進し なる一方だこうした状況が変わる日はいっかく るのだろうか ていた。途中ヤクの群と数人の巡礼者に出会う。 丘の頂上に腰をおろし、遮るもののない太陽の砂の荒野と岩山が広がっているだけで、あたりに 光を真っ向から浴びた。もうすぐ日が暮れる。目は本当に何も無し の前で大きな野兎がガレ場を駆け下っていった。 世界で一番標高の高い場所にあるというロンブ ク寺院に着いたのはお昼頃だった。先にはチョモ 鳥のさえずりが、牛の鳴き声が、大の吠え声が、 ランマがそびえ立っている。飛行機から見たチョ 空に震えている。ロバの首にかけられた鈴の音が こだました。この沈黙した大地の四方八方から生モランマは雪で覆われていたが、こちらから見る 付記世界最高峰の一般的な呼び名は「エベレスト」だが、チベ ット名は「チョモランマ」である。本稿でも以後、エベレストとチ ョモランマという呼び名が混在するが、ネパール側の話をするとき はエベレスト、チベット側の話をするときは現地名を尊重してチョ モランマと呼んでいる。多少ややこしいが、エベレストとチョモラ ンマは同じ世界最高峰のことを指している いしかわなおき 一九七七年呆都生まれ。一一〇〇〇年、北極から南 極を人 4 破する「」プこ る ロジェクトに参痂。一一〇〇一年、七大陸局峰登頂 登 を達成。主著に写真集「 CORON と ( 土門拳賞 ) 、 『最後の冒険家」 ( 開高健ノンフィクション賞 ) 、ヤ 「 For Everest ちょっと世界のてつ。へんまで」などマ ヒ がある。最新の集はヒマラヤを彰したシリー ズ fLhotseJ fQomolangmaJ fManasluJ TMakaluJ 刊 )。 125
物の肉が 3 体ばかり吊るしてある。フルカツツさん に頼んで車を停めてもらう。 そこは、青空天井の肉屋さんなのだった。 地べたに置かれた洗面器には、薄目を開けた羊の 頭と蹄がちんまりと収まっていたから、ぶら下がっ ているのも羊肉なのだなと分かった。足首の腱の隙 かぎ 間に鉤を引っかけて逆さに吊るし、ナイフで削ぎな がら切り売りしている。木を伐るような手斧は、大 きな塊を骨ごとさばくときに振り下ろして使う 地面にも洗面器にも、切り株 ( たぶんまな板代わ り ) にさえ血のシミが見当たらない。前にモンゴル の映画で見たことがあるのだけど、この国の男たち もまた、血を一滴も地面に流さず、羊を苦しませな いやり方で静かに首をひねるのかもしれない。きっ 新鮮な血は別の容れ物に取り分け、何かの料理 に大切に使うんだろう。 羊はウズベク語で「キュイ」。 1 頭でキロから 4 キロ分あり、値段よご、こ、 0 ( オ ( ナ ( 3 万スム ( 約 1 万 5 千円 ) だそう。肉屋の男にサリマさんが尋ねて通訳 をしてくれた。それをメモしていると、どこからか わらわらと男たちが集まってきて、とり囲まれた。 みな日記帳を覗き込んでいる。 使い終わったナイフ ( パン切り包丁のように刃が ギザギザ ) を、羊のお尻の穴らしきところに引っ掛 けておくのがおもしろくて、近寄って【を撮った。 隣で見ていた男が、お腹をたたきながら笑った。ウ ケたらしい 男たちに並んでもらい、記念撮影をした。横一列 に並んだ 8 人の男たちは、若者も白髪まじりのおじ高山なおみの さんも、体を寄せ合って肩を組んだり、手をつないロシア日記 ュこー〕 し ( だり。いちばん端っこの男は、ぶら下がった羊肉の 足と手をつないでいた。 サ「オッテライ ( お手洗い ) 行きますか ? 」 道路を渡ってみる。向こう側は野外食堂になって いる・らしい 食堂のはずれのトイレ小屋には、ちゃんとドアが つあった。高台の茂みから、ふたりの男が嬉しそうに サ見ている。この村の男たちは小学生の男子のよう。 引欲望にあけっぴろげな感じが、すかすかしいくらい 木陰にはチャプタク ( 縁台の食卓 ) が並んでいた。 川人は座れそうなべッドのよう。細かな模様の絨毯 の上に、赤、紫、オレンジ、緑の花柄の長い座布団。 真ん中にはオレンジ色の長方形の布が敷かれ、食べ ちらかした皿や茶碗、ティ 1 ポットが並んでいた ちぎったパンも直に置いてある 飲みかけのお茶、皿に残ったサムサのくず、肉片 がほとんど残っていない羊の骨、唐辛子の赤い粉、 粗塩、いろんな方向に散らばったフォ 1 ク。そのす べてに木漏れ日が当たって、とてもきれいだった。 縁台に乗って真上からを撮っていたら、エプロ ンを巻いた愛想のいいおやじさんが慌てた様子でや ってきて、器を片づけはじめてしまう。 食堂の裏山からは、清い水が流れていた。あちら こちらにサムサを焼いている泥の窯があって、香ば旅 る しい煙を上げていた気の弱そうな痩せた男の店で、 め サムサをひとっ買ってかぶりつく。焼きたてのサムを サは虞がカリカリで、揚げたてのコロッケのよう 見 星 具は玉ねぎと羊のひき肉。汕っこくちょっと塩けが 強いけど、とてもおいしい。私が食べるのをじっと見 5 7 ていた男は、急に安、いしたような顔になり、金歯を見
ているので納豆が籠にしつかり住み着いている が出現した。 のだろう 「おお、納豆だ ! 」 シャンはせんべいのように薄くするのに、パオ 何度見ても、新しい場所で納豆を見ると、声を あげずにいられない。案の定、糸はほとんど引い の人たちは碁石のように分厚くする。なぜかと訊 てなかったが、 斑点とも皺ともっかない白い模様わると、「厚い方が匂いが長持ちする」。 納豆央が強いほうが好みなのだ。 が見え、よく発酵が進んでいるのがわかる。匂い はシャンの納豆より強く、日本の納豆に近い気が 「シャンの納豆は味も匂いも薄くておいしくない。 する。 パオ人はパオの納豆しか食べないですね」とサ ヤ・ウ・ミョウさんは愛想良く答えた。 また外に出て、別の場所に行くと、これを臼と 杵で搗いて作った「碁石納豆」が燦々と照る日差 しを浴びていた。なせか蠅が大量にたかっている。 こちらもシャンのせんべい納豆より匂いが強い サヤ・ウ・ミョウさんという若い方のパオ男性 ( 市場で私たちが会った女性のダンナさん ) が、 パオの納豆について私たちの質問に答えてくれた 意外だったのは「パオ人は昔、納豆を知らなか った」ということ。彼らは元来、隣のモン州に住 んでおり、およそ百年前に戦乱を逃れてシャン州 に移り住んだ。納豆に出会ったのはそれが最初だ ったという。「初めはシャン人から買って食べて 私たちはひとしきり写真を撮影したり、メモを したが、四十年くらい前から自分たちで作るよう とったりしながら、村の中を歩き回った。村の雰 になった」とのことである 囲気は私にはとても懐かしい感じがした。以前よ 作り方はシャンに比べると大ざっぱだ。仕込み く訪れていたシャン州やカチン州の山の村と似て には葉っぱを使わず、ただ籠に入れて三日間、家 いるのだ。家の中は暗く、土足であがり、乾物や の中においておくだけ。籠を温めることもしない 穀物など保存用食品の匂いで満ちている。住人も よくそんな方法でちゃんと作れると思うが、毛体臭が強いこの人たちはほとんど水浴びをして いないにちがいない。私も二ヶ月以上水浴びをし 布で厳重にくるんでいるし、間断なく大量に作っ ないで暮らしたことがあるからよくわかる。二週 間以上、風呂に入らないと、たまに入ったとき表 皮が一気に剥がれて風邪を引きやすくなる。だか らなおさら風呂を敬遠するようになる なんと、パオ人は「常時風呂上がり」のスタイ ルながら、実は風呂に入らない人たちだった。 匂いというのは相対的なものだ。衛生的な暮ら しをすればするほど、強い匂いを好まなくなる シャン人は「里の民」であり、川や田んばのある ところにしか住まない。山には住まない。、 て も水浴びのできる環境に暮らし、家の中も清潔だ れ強い匂いはいらないのだ いつばう、パオの人たちは「山の民」だ。本冾 る とびをしない。自分たちの体臭が強いので、他のも っ のの匂いも気にならないむしろ、食べ物の匂い っ が強くないと物足りなく思う。匂いか強いという を一 大のは、「風味がしつかりしている」ということな で のだろう。 日本でも似たような現象が見られる。納豆やく さやは昔の方がもっと匂いがきつくて美味かった という話をしばしば耳にするが、それは昔のほう が生活臭が強かったからだ。今は田舎の家でも数 十年前とは比較にならないほど衛生的になり、と いうより過度に消毒・消臭されている。ほのかな豆 ア 匂いも「くさい」と感じてしまうから、さまざま の な食品の匂いがどんどん薄くなる 謎 結局のところ、山の民は彼らなりにその生活に 4