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検索対象: 考える人 2015年冬号
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1. 考える人 2015年冬号

カルの納骨堂はほば済んだ感じではないか。リスポ ンからエヴォラを経て、カンボ・マヨールとモンフ ォルテは、アレンテ 1 ジョと呼ばれる地域である 「テ 1 ジョ河の下」という意味だという。ポルトガ ルの南部に相当する。北部にも納骨堂はあるかもし れないが、短い期間たから、三つも回ればもう十分。 いずれの納骨堂も、時代的には比較的に新しいもの であることが注意を引く中世の骨ではない。納骨 堂という文化 ? がポルトカル島にやってくるのに、 時間がかかったことを思わせる。それでも納骨堂を ともあれ作ったのだから、その基盤にある感性は欧 州全体に共通するものであろう。われわれ日本人は むろんそれを共有していない。 とい - フことで、翌日か、らはまさに墓匕り . 、リ・ . スホ ン禹の墓場を回ろうという 工疋。でも朝は早く目 が覚めてしまったので、ホテルの近所を散歩する 近くに小さい公園があって、墓ではないが、胸像が 立っている。 Alfredo Keil 、音枩豕、画家、詩人と ある。ポルトガルでは作家は要するに詩人である。 胸像は墓ではないけれど、機能的にはむろん墓と共 通する面を持つ。墓碑に近いが、その下に本人が埋 まっていないというだけである。似たような芸術家 の胸像はパリのペール・ラシェ 1 ズの墓地でも見る こレ」がで、さる 。バルザックはその典型で、胸像が 「人間喜劇」と題された書物を開いて手に持ってい 銅像文化はおそらく欧州由来で、あちこちに広が ったのだと思う。 ししような悪いような習慣という しかない。ィースター島のモアイは有名たが、この 石像は銅像とは違うであろう。東大の医学部、とく る うものがあるおかげで後世が困る点は、場所をふさ ぐことである。田口先生の場合、やむを得ず一つは 屋上で雨ざらしとなった。以前に埼玉県出身の偉人 を顕彰するという企画で、埼玉県庁の方が来られた 時には、大歓迎で一つ持って行っていたたした = = に解剖学教室には、明治時代の大先生の胸像が複数 あった。ベルツやスクリバのようなお雇い外国人教 師の場合はもちろんだが、初代の解剖学教授である 田口和美先生の場合には、大きな胸像が一一つあった。 ) 」、つノ 一つは予備のつもりだったかもしれないが、 リスポン、べレン地区のアジューダ墓地。庶民の墓が並び、訪問者で公園のよう。 、」ト 0 がある。この先生は研究に打ち込むあまり、日露戦 争を知らなかったという伝説が残されている。もう 一つ立派な胸像があり、小金井良精先生のものであ る。手に頭骨を抱えている。じつはこれは三体ある 彫刻家の堀進一一が最初にこの胸像の型を作ったとき、 頭骨のモデルが日本人ではないだろうといわれて、 作り直したという挿話を、星新一が『祖父・小金井 良精の起に書いている。詳細は来只大学総合研究 博齠の解説にあるから、興味のある方はそれを参 照されたい。ネットで簡単に読むことができる。 リスポンにある有名な銅像は、ジョゼ・トウマシ ュ・デ・ソウザ・マルティンス博士のものである エンツェンスペルガーは医学関連施設の前にあるそ の銅像が「超自然的な大きさでばくの前に立ちはだ かった」と書いている。この人は医師だっこ。、、 とんどカルト教団の教祖風のところがあったらしい ポルトカルの医学にはどこか妙なところがある。そ の好例はロポトミ 1 の老蓁者アントニオ・カエター ノ・エガス・モニス博士である。一九四九年にノ 1 ベル医学生理学賞を受賞した。戦後の混乱期でもあ り、世界もあれこれ混乱していたのであろう。その ~ 舌の尾は私の現役時代まで引き続いていた。大学 紛争の頃、臺事件が話題となったからである。これ はロポトミーを受けた患者の脳から研究用の資料を 取ったという問題である。戦争のような災禍が起こ った時代のさまざまな事件を、平和な時代に考えよめ うとすると、見当が外れることが多い私は日本の 戦争は、関東大震災に端を発したと思っている。あ ロ れだけの災禍が首都来で起こり、それを目前に見 3 たことが政府首脳の感覚に影響しなかったはずがな幻 うてな

2. 考える人 2015年冬号

な をつなぎ合わせる効果を持っています。おそらく 、きぎす ても 言葉のない時代は、そういう機能を音楽が果たし ばでなで て」たに違」な」。「まり、赤ち ~ んと育児をすあい「、れはっ感 る人との間に起こるような一体感を大人の間にも よ体哄 持たせ、統一的な行動をとらせるような機能を発 」けがす同カ 揮したのだと思います。これはさらに、人間の共 ナ司ご司っ揮共る 咸芳を高める。だから人間は、ほかの霊長類には 同人二発せ 家のを方わ ない大集団を一時的にも持続的にもっくれるよう 共 そ性家合 になり、様々な文化行動ができるようになった。 そして、家族と地域共同体とを両立させることが 人 できるようになった。これは音楽の効能です。そ してそれが、人間の家族の由来だと思うのです。 由でつくり上げざるを得なかった組織なのです。 その副産物として、さまざまな人間の能力が育っ だから、人間の家族というのは、決して最近で ていった。共感が最たるものです。共感を発達さ きたものでも文化的な理由でできたものでもない。 せながら、人間は家族を仕上げてきた。つまり、 人間が、人間に近縁な類人猿との共通祖先から分 共同体だけがあっても人間ではない。家族だけか かれて、類人猿がこれまで住んだことのない未踏 あっても人間ではない。その二つがなければ、人 の地、つまり森林から離れて新しい地へと旅立っ 間性を発揮することはできない。家族と共同体を たときに、その環境条件に合わせて生物学的な理 日 0 つなぎ合わせるのが共感です。 父親という「文化的な装置」 逆に言うと、現会に何が起こっているかと いえば、一一つをつなぎ合わせる共感が衰えている と思うのです。家族と共同体という一一つの組織は、 全く別の理由で袞退をしてきました。それについ ては後でお話ししますが、これが、私がゴリラに 学んだことです。 私はそれまで家族というものを大変ネカテイプ なものと捉えていた。親にも子にも負担が重くの しかかって、そういうものを一生背負って生きて いかなくてはならない不目由なものだと考えてい たのです。だが、そうではない、 逆にそういうア イデンティティをヒ月負うことによって、人間は自 由になれることがわかった。人間は、出自を明ら かにすることによって、他の人とも自由につき合 うことができるそういうものを持っていなけれ ば、人間は得体が知れない。単なる「永遠の個」 になってしま , フ 人間は、初めから集合的な存在であって、人間 の体の一部は他の人の体の一部なのです。由来を 背負っているからこそ、人間は真っ当につき合う ことかできる。人間が自由に集団の間を歩き回るな て ことができるのは、ある特別な組織や集団にアイっ 家 デンティティを持っているからです。私たちの現 9 3

3. 考える人 2015年冬号

人間が獲得した難しい社会技術 共同体というのは、お互いが家族とは違うル 1 ルでもって共存しています。仲間に助けてもらえ ば、別のときに助けてあげる。あるいは、何かを してあげればお返しが来る。これは互酬的な社会 ですね。それぞれが対等な立場でつき合う、そう いうル 1 ルがあります。そのル 1 ルを守っていた ら家族は形成できない家族というのはえこひい きをする社会組織ですから、他人よりも自分の子 也人よりも自分の親が大切。それ 供はかわいいイ 、、。当たり前です。しかし、それではとても集団の ル 1 ルは守れよ、 オ ( たからこの二つは矛盾します 人間独自の社会構造です。サルはそういう一一重の 従って、サルの社会はどちらかを選ぶしかない 社会構造を持てなかった。家族的集団をつくるに 人間の社会は、その一一つを両立させた。それがす は、森林に住むしかない。一方、大きな集団をつ ばらしいところなのですが、簡単なように見えて、 くるときには、家族というものは解体するしかな 非常に難しい社会技術です。そのために、人間は それがマカクやヒヒの社会です。人間は、家 共感力というものを発達させなくてはならなかっ 族と、家族が複数集まった地域共同体というもの を両立させたわけです。 相手が何を感じているか、相手が何を自分に なせサルにそれが両立できないかといったら、 望んでいるか、何をしたいのか、自分がこういう 行をしたら相手はどう感じるのかということを 家族をつくる原理と共同体をつくる原理が違うか らです。その一一つは矛盾します。家族は自分の犠 常にモニタ 1 し、推しはかる育力です。これは非 牲を惜しまない。親のために、子供のために、犠常に高度な能力です。それは、人間がたくさん子 供を持って、親子だけではなく他人がその子育て 牲になることが自分の喜びにつながるような組織 に参入して、共同保育というサルにはできないこ です。それは血縁関係がなければ難しいわけです ね。 とを始めて、やっと身につけられた能力なのです。 共感力というのは、共同保育の間で育ちました それを大人の間の社会関係にまで普遍化したこと が、人間が一一重性を持った社会をつくれた理由な のです。 それは決して共成芳だけではありません。最近、 いろいろな行動を比較しながら、初めに親子の間 で生じた行動が、大人の間に普遍的に広がるとい う現象を発見しました。 いい例が、食物分配行動です。食物分配行動と いうのは、今、約三百種ある霊長類の中で、非常 に限られた系統にしか出てきません。その中でも 大人の間で食物分配が起こる種は限られています。 でも、大人の間で食物分配が起こる種は、必ず親 子の間で食物分配が起こる種です。親子の間で食 物分配が起こるけれども、大人の間で食物分配が オくさんあります。だけど、 大 起こらない重は、こ 人の間で食物分配が起こるのに、親子の間に食物 分配が起こらない種はありません。ということは、 まず親子の間で食物分配が起こりーーこれは親が 子供に与えるということで始まるわけですーーツて れが大人の間に普遍したというふうに考えるのは、 とても自然なのです。 同じように、多分、音楽もそうです。音楽も、 恐らく親子の間で交わされた音楽的なコミュニケ 1 ションが、大人の間に敷衍されるようになった。 これは人間たけに起こった現象ですが、食物分配 と同じような経路をたどったと考えるのが自然だ ろ , フと思います なせかというと、人間の赤ちゃんだけが持って いる特徴というものがあるからです。ゴリラの赤 ちゃんと比べてみるとよくわかります。僕もゴリ ラの赤ちゃんを育てた経験がありますから。何が 違うかといえば、ゴリラの赤ちゃんは泣きません 人間の赤ちゃんは、生まれてすぐに泣きます。こ コリラの赤ちゃんはガリ の違いが大きいまた、、、 ガリに痩せています。大人のオスは体重一一百キロ を超えて、メスも百キロを超えるほど大きいのに、 ? ん ゴリラの赤ちゃんは二キロ以下で生まれてきます て 人間の赤ちゃんは、大人の男の体重がせいぜい七つ 家 十キロから八十キロ、女性が五十キロから六十キ 3

4. 考える人 2015年冬号

フリカという大陸で古い人間の社会を老小するこ 伊谷純一郎さんの、そのまた先生の思想が大きく とができないからです。そして人間の家族の形態 影響しています。今西さんは、家族の起源という によく似た社会を持っているのが、ゴリラだった ものを霊長類学の中心テーマに据えた。人間しか からです。 家族を持っていない。 人間に遺伝的に近縁な霊長 チンパンジ 1 はそういう家族みたいなものは、 類は、どれ一つ家族というものを持っていない では、なぜ人間は家族を持てたのかそれは人間 一切持っていません。チンパンジ 1 には「父親」 、よ、乱婚であるために父親を確宀疋できない が言葉を持ち、意識を持って、家族というものを のです。人間の家族は乱婚ではない。ちゃんと父 知的につくり上げたわけではないだろう。むしろ、 人間が進化する過程で独自に獲得した生物学的な 特徴と連動して家族はつくられたに違いない、 す を以 いうのが今西さんの考え方です。人間は初めから で 人間であったわけではなくて、人間とはちょっと 犠、。のと、 、こび且 違うゴリラやチンパンジ 1 、オランウータンと同 の供る喜 じような共通祖先から発してきたものであるから、 分子なのア 文化の根本にある生物学的な理由から家族はつく は借に生匇る られたはずだ、と。だから、人間たけが持ってい め我 - 目が 族・ る生物学的な特徴、直立一一足歩行だとか、そうい な っ ったものと大きな関係を持っているというのが、 今西さんの根本的な考え方です。 親がいるだから、乱婚ではない交尾形態をもち、 私も、それはそうだと田 5 った。そのことを探る 父親の存在があるゴリラを研究しようと思ったの ためには、人間に近縁なゴリラやチンパンジーの です。 社会を研究しなくてはいけない。だからアフリカ で、ゴリラを見た。そこで人間の家族とゴリラ に彳たわけです。動物園のゴリラを見てもゴリ の家族の違いが、たんだんと明らかになってきま ラの社会はわかりません。化石を見ても社会はわ した。人間の家族は、熱帯雨林の中でつくられた からないからです。実際にゴリラが進化を遂けた わけではないということも見えたのです。熱帯雨 熱帯雨林の中で、ゴリラがどういう社会をつくっ ているかを見なければ、人間が進化をしてきたア 林の外で、人間の祖先が、類人猿がずっと暮らし 続けてきた熱帯雨林を離れたときに、家族をつく らなくてはならない原因が生じたに違いない、 いうことに田 5 い至ったんですね。 その最大の理由は多産です。森林のサルとサバ ンナのサルを比べると、一番大きな違いは多産性 です。サバンナは木菻と比べて、安全度が低い 食糧の獲得も果実が実る森林よりも難しい。その ために乳児死亡率が非常に高い。それに対応する には、どうしても子供をたくさんつくらなくては いけないわけです。だから、サバンナのサルは多 産で、出産間隔が短いという特徴を持っています。 しかもサバンナのサルは、森林性のサルより大き な群をつくる。安全を確保するためです。ゴリラ のような小さな集団では、とても生きていけない。 そのために、人間は立って二足で歩くようになっ たなぜかそれは広い範囲を効率よく歩き回る ためと、自由になった手で食糧を運ぶためです。 誰に ? 安全な場所で待っ子供たちに、です。そ のときは、もう既に家族の原型はできていた ゴリラと人間が違うのは、人間はたくさんの子 供をつくらなくちゃいけなかったということです ね。ゴリラもチンパンジ 1 も、熱帯雨林に住む類 人猿は、四年から七年くらいに一回しか子供を産 まない。 ところが人間は、年子を産むことができ る 子供をたくさん産む人間が発達させていったの が、家族とコミュニティを両立させていくという、 0 3

5. 考える人 2015年冬号

年近く前、中国雲南省の昆 私の家族 3 明市に住んでいたとき、道 でよく見かける一人の一一胡 弾きの男性がいた。真っ白な髪と長 遊牧夫婦が いあご鬚を持っ初老の彼は、いつも 同じ赤い壁の前に座り、にこやかな 表情で優しい音色を響かせている。 世界で出会った ニーハオ ! と声をかけると満面の 笑みで応えてくれ、箱にお金を入れ 家族の物語 ると丁寧に謝意を示してくれる。そ の様子に惹かれ、話を聞いてみたい と田 5 うようになり、私はある日、亠 近藤雄生 な」かけたてして , ての男性、陳健軒 text by KO コ do Yuki さんが抱える大きな悲しみを知るこ とになった。 陳さんは中国南東部の湖南省の農 民たった。ごが、 ナそののどかで平凡 な毎日は、一つの出来事によって一 気に崩れた。ある日、息子がケンカ で誤って相手を殺してしまい、その まま姿を消してしまったのだ。その 後息子が戻ってくることは一一度とな 、妻は悲しみのあまり精神を病み、 四年後に亡くなった。そうして独り 残された後、彼は息子を探す旅に出 ることを決意したのだ 父親から譲り受けた一一胡を持ち、 路上で弾いて小銭を稼ぎながら陳さ んは中国各地をさまよった。だが、 十 三 ustration by Minegishi TO 「 u ン」姦ー 7- 2

6. 考える人 2015年冬号

が特別に生きてくるのであって、壮年期の時間し かなかったら、人間はロポット化します。老年期 の人たちと幼年期の人たちが合うのは、彼らの時 間の使い方がともに効率的でないからです。彼ら ( ( た、いるこし」カ は目的意識を持たなくて、 重要。人間社会が保てるのは、そういうクッショ ンのような存在があるからだと思うのです。 介護を「負担」としてしまったのは、今の日本 社会が壮年期の人たちの時間で動いているからで す。ただし、それは都市社会での話です。地方に 一丁けば、介護が必要であっても、そういう人たち かいることが、周囲の人たちの幸福につながるよ , フな一」」カ . ( 、、、、つばいあるはずで、それは人間の 日々の生活が効率優先で回っていないからだと思 います。 人間は多産だったから共同保育になった、ゴリ ラと同じように子供を託されたことで社会的存在と しての父親ができたというお話でしたが、少子化の 中で、経済力をつけた女性が「父親」を必ずしも必 要としなくなっていないでしようか 山極母親たちは、父親を必要としなくなってい ます。 父親受難の時代だと思いますが、この先、どこ へ向かうと見ていらっしゃいますか 山極家族をつくるというのは、男の側から見る と平等社会なのです。男はそれぞれが家族を持っ ことで対等につき合える。それは会社の関係とは 違います。社会的地位がどんなに違っても、みん なが子供に責任を持っ存在であるというのは、潜 在的な平等主義です。家族が男たちの平等意識を 満足させてくれるという点で、社会における一つ の緩衝材となった。コミュニティがいかに階層性 に富むものであっても、家族というのは対等なん です。 女からすれば、父親は自分と子供の保護者です。 介護を「負担」 としてしまったのは、 今の日本社会が 壮年期の人たちの時間で 動いているからです。 ある意味社会は男がつくってきましたから、これ は女にとっては満足できないことかもしれないけ れども、社会を男がつくってきて、その社会に通 じるパイプを握っているのは男だった。父親がい なければ、その父親の親族でもいし 。自分と子供 をきちんと守る存在が必要たった。それがこれま での社ムだったと思うのです。 それが崩壊してきた。まず、男が家族を持っこ とによって平等であることを欲しなくなった。み んなバラバラで平等もへったくれもない。一人で あっても構わないわけですよね。それが一つ。 次に、女にとっても、男という保護者が必要な くなった。別に男がいなくたっていいじゃないか と思うようになった。それが大きな問題です。 女は一人で生んで、小さな家族をつくることが できますから 山極相手がいなくても、精子バンクなどいろい ろ手段がありますからね。でも子供は欲しい。そ こが問題たと僕は思う。果たして、子供にとって 母親だけでいいのか、あるいは父親だけというこ ともありますから、片親たけでいいのかしかも 地域コミュニテイもない非常に限られた人間関係 の中で育っことが、果たして子供にとって幸福な のか、ということです。 僕は子供であるときの自分を思い返したとき、 あるいは今一般に育ってくる子供を見るとき、親 というのは世間に通じる関門たと思うのです。そ のときに、常に一対一で親と向き合うのは辛い。 やはり、親は複数であってほしいし、親以外のコ ミュニテイもあってほしい。たとえば父親と喧嘩 してどうしようもなくなったときに母親が助け舟 を出してくれたり、姉貴が慰めてくれたり、ある いは近所の人たちがとりなしてくれたりするでしな て よう。そういう緩衝材がなければ、世間を知ってつ 家 いるわけではない子供は非常に辛い 5

7. 考える人 2015年冬号

つくりません。サルは家族のない集団をつくって いる。それは非常に効率のいい集団です。個人の 利益を最大化するために集団をつくっていくので すから、個人の利益が侵されるようになれば、そ の集団から出ていきます。集団をつくる意味がな いですからね。 優劣も、そういうものです。別に劣位だから損 するわけではない。離れて食べればいいわけで、 自然の食物は幾らでもある。密集すればするほど トラブルが生じますから、密集し過ぎないよう優 劣を決めて、あるいは離れ合って、お互いが平和 つ「力す に共存できるようにつくられたのが、サル社会の 中な持感で ルールです。 者の儿れ でも人間は、共成芳を高めて、共同の子育てを . 也よ間い 幻る人《虫な し、互いのために何かすることが自分の幸福につ 見よ 3 議 ながるような、サルから見れば不思議な習性を育 間を川思 てました。他人の利益を最大化し、自分の利益を人→分こ」・不 減らすことが喜びにつながるような集団をつくっ ているのですから。つまり、人間はその集団の一 集団。人間は家族を持っているがゆえに、どんな 部であることが大きな喜びであり、集団のために 苦境に立っても助けてくれる人がいることを信じ あることが自分の生きる道につながっている。 られるのです。自分は一人ではない、 人間は他者の中に自分を見るようになった。こ も、フ一つ、人間にはコミュニティがある。コミ れは人間の持つ、非常に強い共成方の不思議な現 ュニティというのは、信頼できる人たちの集まり れです。人間は他者に自分の目標を見るようにな です。自分がそこで損をしても、どこかでまたそ った。子供が特にそうです。例えばイチロ 1 選手 の見返りが来る。コミュ一一ティの外というのは、 のようになりたいと田 5 う、あるいはノラク・オ、ハ きちんと目に見えるル 1 ルをつくらなければ、相 マ大統領のようになりたいと田 5 う。そんなふうに 自分の人生の目標に他者を置くようになった。も ちろん、その人そのものになれるわけではないけ れど、ああいうふうになってみたいと田 5 う。そう いう人間の持っ親和性というのは、ほかの動物に は絶対あり得ない。 それは、人間が他者と同化で きるような心の持ちょうをつくったからです。そ れが人間の集団性、あるいは社会性なのです。そ れを担保するのが、家族という、えこひいきする 0 手を信頼できないような集まりです。 そういう幾つかの人間関係に抱かれるようにし て人間は存在している。それが現代のさまざまな 個人を解放する技術によって、あるいは考え方に よって、どんどん孤独にさせられてしまっている。 個人の能力を高めることが人間の幸福につなが るという考えが蔓延しました。しかし考えてみれ ばわかることですが、みんながみんな個人の能力 を高め、それを一〇〇 % 発揮しようとしたら、社 会は消滅します。人間が互いに ) 補い合って、相手 のやりたいことを理解し、自分を抑制し、他者と 協力して何かの目標をつかむということをやらな ければ、社会的幸福は得られないし、社会を維持 することはできない。その基本を教えてくれるの が家族です。自分を犠牲にしても、子供のために、 あるいは親のために何かしたいと思う心があるか らこそ、それが社会の中で生かされるようになる わけです。 一一一一口葉を持ったことによって、人間は家族的な実 践、あるいはコミュニティの中の実践をいろいろ なことに応用できるようになった。言葉は比喩で す。全くつながりのないものをつながったように 見せる一つの装置です。例えば今、目の前にある 机。我々はそれを机というカテゴリ 1 の中で理解 していますが、他の机とは色も形も全然違います。 でもそれを机という一言葉で表すことができるから 省略できる。例えば木になっている実たって、一

8. 考える人 2015年冬号

つ一つみんな形も違うはずです。でもそれが何の 木の実あるいはどういう種類の果実であるかを言 うことによって、全部それは一緒のものに見える 言葉は、人間の目をだますのです。 言葉によって、人間は無限にある情報を的確に 処理して相手に伝えることができるようになった。 例えば「悪い人」をイメージするときに、「あい つは大のようにずる賢い」とか「狼のように凶暴 だ」と比喩によって表すことができる。それはあ る邪悪さや、ある性質を表すために、事細かに資 料を挙げて説明するよりよっぱど効率的な手段な のです。 言葉というのは、非常に経済的なコミュニケー ションの手段だった。「親子のようにつき合う」 とか、「あいつは敵だ」とか分類することによっ て、相互の了解が一瞬にして得られ、統一的な行 動、目的を持った行動というものが可能になった。 これは人間社会の大きな利点です。 でもそのことによって、自然界に起こらないこ とがたくさん生じた。戦争もその一つです。比喩 によってイメージを拡大し、実際には起こってい ないことを起こっているよ一フに見せかけることが 可能になったからです。人間のイマジネーション は、言葉によって一気に広がった。それによって、 おそらく生物学的な理由でつくられてきた家族、 コミュニティというものか大きく変容した。もと もと一一一一口葉以外のコミュニケーションによってつく 一九六〇年代の終わりごろ、宀工由食は栄養や味が られた家族とコミュニティですから、一一一口葉という 詰まった丸薬みたいなイメ 1 ジで、それを一つ飲 新しい手段、そして今という、面と向かって むだけで十分、将来の食生活はみんなそうなると 話し合う言葉以上の「離れたコミュニケーショ いったような・磧たった。ところが、そうはならな ン」が可能になると、当然それによってさらに大 かった。なせかというと、人間はやはり食べると きな影響を受けるわけです。 いう行為を五感で味わいたいからです。嗅覚や視 人と人との出会いによってつくられてきたコミ 覚や聴覚、そして触覚や味覚を総合的に使って食 ュニケーションが、出会いの必要のないコミュニ ケーションに変わることによって、仮想空間や仮事をするのが人間たからです。それを忘れて食べ るという行為は成り立たない栄養補絵たけでは 想コミュニティ、仮想家族というものが幾つも出 ないのです。 現したのです。家族に代わる、コミュニティに代 もう一つ、例えはメ 1 ディストクラブというの わる信頼空間が、—e 技術の中に出現するように がはやった。みんなが裸で暮らす島みたいなのが なった。それによって、人間の集団のつくり方が 登場して、ヒッビ 1 たちがそういうことをやって 変わってきたのです。それが今の社会に起こって しることです。 いたこれも憧れましたね。だけど、いつのまに か消えてしまった。なぜ消えたかというと、やは 家族よりも信頼のおける仲間、コミュ一一ティよ り裸ではっき合えないから。生物学的な理由はあ りももっと頼れる仲間というのが、違う空間の中 りません。だって裸でいても健康上は何の不思議 に存在している。フェイスブックを通したつなが もないのですから。だけど、 裸だとやはり困る。 り一とか、一フィンとか・ ある意味、もう家族も コミュニテイも幻想でしかないむしろ今の若者裸でいないことによって、人間独自の社会性が生 まれたのだから。それは家族とコミュニティとい たちにとって信頼できる仲間は、家族やコミュニ う一一重性を保つ上で、どうしても必安たったこと ティ以外のところにある。宗教でさえ、人々のつ なのです。そういう人間の身体に埋め込まれた社 ながりを維持する力がなくなってきました。それ 会性というものがある。それを無視して効率性や が現代社会の抱える問題だと思います。 経済性だけを追求しても限界がある 私が弊を鳴らしたいのは、人間の身体がまだ 新しい科学技術に適応していないことです。例え ば私が大人になるぐらいのとき、いろいろ美叩的 人間がロポット化していく な実験が行われました。いい例が宀工由食。当時、 6

9. 考える人 2015年冬号

個人の欲求を満足させるような食事の場をつくる。 その中からできることをやっていくということな のだと思います。昔は、例えば会社で上司が飲み に行こうと一言うのにつき合わされて嫌な田 5 いをし た方がたくさんいるたろうと思いますか、そうい うものを今さら復活させようとしたって無理に決 まっている。でも、見方を変えれば、それはビジ ネスになる。上司と部下が食事できる場をつくる ことも、魅力的な仕掛けを考えれば、それによっ ていろいろな人間関係ができるのだから、 思います。 また、今、個人で自由な時間を持て余している 人が多い。特に日本は少子高齢化社会で、高齢者 かさらにふえていく。そういう人たちはお金と時 間を持っている。彼らの時間をどう使うか。その 中に若い人たちをどう巻き込むかによって、日本 社会は変わってい 。お金を持っている高齢の人 たちが、思い思いに個人の果たせなかった欲望を 獲得しよう、達成しようとしても社会はよくなら ないし、バラバラな社ムができるだけです。 今の高齢の人たちは、冒頭に私が言った三つの 変化をみんな知っている。高度成長期、安定期、 そして崩壊期と。その中で何がよかったかを過去 にさかのばってることがで、さる。これは亠 9 ご′、 重要なことです。若い世代は、時代の変遷を知ら ないから、人間関係の価値や変化のプロセスを理 解できない今ある自分、今ある関係をただ受け 価値観を「麻痺」させる子育て 山極さん御自身、御家族をお持ちになって発見 したこと、教えられたことは何ですか 山極家族というのは、実は他人とのつき合いか ら始まる。要するに妻と自分には全く血縁関係が ない。しかも歴史を共有していない。育ってきた プロセスは知らないわけですから。他者ですよね。 他者との間に子供をつくる。子供はゼロから自分 が責任を負うわけです。あるいは子供にとったら、 もう既にゼロから自分を取り巻いている人々がい る。それは一生つき合わなくてはならないもの。 それを僕はネガティブなものと考えていたけれど も、ポジテイプなものかもしれない い J 一フ二い , フ↓」」、刀し」ー , , フ・し」 、子育てをやってみた ら膨大な時間を子供に対して与えなくてはいけな いことがわかる。あらゆるものを犠牲にして。子 供か病気になれば何もかも捨てないといけよい。 それは戻ってくるものではない。ただ 価値観をそ こでいったん麻痺させて、誰かのために自分の時 間を捧げるのは、非常に人間的な行為です。人間 的と一一一一口うよりも、むしろ生物としての行為です。 しいカ、わ力、らない とうやったら、 入れるしかない。。 そこをみずから実践できるのは、高齢者だと思い ます。それをやらないとまずいと思います。私も 高齢者になってきたから。 ゴリラもそうなんだから。そして人間はそれを大 きく広けたのです 自分を犠牲にする行為がなせなくならないかと いうと、根本的にうれしいことだからです。母親 は自分のお腹を痛めて産んだ子だから当然かもし れないし、養子に迎えた子や、あるいは近所の子 であっても、子供に対して尽くすのは、人間にと って大きな喜びです。歪十なことになったり、ア クシデントが起こったときに、子供を助けてやり たいと思う気持ちは、人間が共通に持っている幸 福感なのです。それがあるからこそ、そして分か り合えるからこそ、人間は存在すると思うのです。 私はアフリカで ZCO の活動をずっとやってき ました。文化も社会も違い、言葉も違う人たちだ けれども、何が一番根本的に了解し合えるかとい ったら、「未来のため」ということ。子供たちの ために何かをしてやりたい、 現在の自分たちの利 定で世界を解釈してはいけない、自分たちの 持っている資源を未来の子供たちに託さなければ いけないという思いです。そういうことを重荷と 田 5 ってはいけないのです。 人間というのは、現実から来る抑制ではなくて、 タイムスケ 1 ルの長い過去と未来に縛られる抑制 によって生きている。それが人間的なものだと思 います。それを一番実感できるのが、子供を持つな て ということ、家族をつくるということなのです。っ 家 家族に何か事件が起これば、今やっていることを 9 4

10. 考える人 2015年冬号

れないすると母が引き取るしかないわけですが、 父は莫大な養育費を払って、一一つの家庭の面倒を 見なくてはならないそんなお金がなかったので、 離婚できなかったらしいです。 酒井思い返すと、うちの母には「お金がないと 離婚もできないから、稼げるようになっておきな さい」とは言われていました。 檀ああ : : : それでこうなったんですね。 酒井はい ( 笑 ) 。結婚はしなくてもいいので、 子供は産んでおけばとも言っていましたね。 結婚生活はそんなに楽しいことばかりではなか ったわけですが、子育ては楽しかったみたいです。 檀よかったじゃないですか。それは酒井さんご 自身が肯定されていることだから。 酒井そうですね。私が、結婚以外の面ではまあ まあ道をはずれず育ったのは、楽しんで育ててく れたおかげかなという凩はします。 檀火宅はしていても、愛があった。 酒井そうですね。とりあえすごはんだけはつく 食べること ってくれた。夫婦仲は険悪でしたが、 だけでつながっていました。 擅それが一番大事なんじゃないですかね。 酒井私も周りを見ていても、どんなに母親が遊 んでいたり仕事で家をあけたりしていても、食事 をつくっている家はわりとうまくいっているかな いう気は、何となくします。 檀ああ : 。それは正論ですよね。食事さえち かりけ遍たで檀 りでの子もかも し食料供なら含父 たべ理のい 独身でいる原因を 味らじ食んどが合 付れや事じうつ一卩 考えた時、 けななはやぞい 、な召たよ のかい 大っか母いしけり 人たらとか上ど母親の火宅を結びつけると ので、父なが 納得しやすいので、 料す私が っ母っ 理。はってがく なみもく 自分の中では んんうり と た でな嫌ま れ料 号を理母のせいだということに す、いし わなた たつは していますね。 そり料 のと理子とり 上しば供はまま っか向 ゃんとしておけは、 , フまくいく 。お母様が家をあ けるときにも、食事はつくっていらしたの。 酒井はい。何をして遊んでいたかは知らないけ れど、冷蔵庫などにこれを食べろという料理は入 っていました。 檀さんのお父様は、ご自分でつくるほうがお好 きだったんですよね。お父様がお母様の手料理を 召し上がることはあったんですか 子供が嫌いなものが全部入っているんですね。ビ 1 マンとか干しシイタケを戻したのとか、高野昱 腐とかニンジンとか。私はとにかく好き嫌いかし つばいあったので、父がいるときの食事は拷問の ようでした。父がいない時は、母の料理はすごく 手抜き。でも子供たちはそれも好きだった。 酒井檀さんもすごくお料理をなさいますよね。 檀私、今うちで料理担当になっちゃったんです。 ほかの家事や母の世話は全部妹がやっているので。 酒井今は、妹さんとお母様と一緒に暮らしてら っしやる。 檀そうです。三人暮らしで、さらにドア一枚向 こうには兄一家も」る " 大家族一ですね。酒井さ んは今は全くのお一人ですよね 酒井いや、実は今パ 1 トナーはいるんですよ だから、檀さんも私も独身だけれど、純粋な独り 身ではないですよね。 檀どちらがほんとの独身か、どちらが不幸か ・ ( 笑 ) 。競い合うものではないんだけど。 酒井でも、私は何となく、どんな人と交際をし ても、絶対に男と女はいっか別れるという頭があ るので、いつでも別れる自由は持っておきたいな とは考えています。 もしかしたら一生一緒にいるかもしれないです が、世間の既婚者に「もしかして一生添い遂けよな て うと思って結婚したの ? って聞くと「一応結婚っ したときはそうだ」ってみんな言うんですね。 7 5