表現していますが、現実にはない、ム のヨコスカです。ひろしまも、私のひ ろしま。個的な視線による創作です」 二〇〇八年に『ひろしま』 ( 集英 社 ) が刊行された小さな軽やかな本。 ページをめくると、あの夏の日にたし かに生きていた人たちのひとりひとり が浮かんできて、深い余韻を残す。キ るヤプション ( 写真説明 ) は一切ない 囮イメ 1 ジを押し付けず、見る人たちが それぞれ自由に感じてほしいからだ。 資料館には今もあらたに遺品が寄贈 されている。七十年ちかくもの歳月、 衣服をまとっていた人にゆかりのある ま人が大切に目しつづけてきた。石内 ろの前にあらわれるそれらは、「私を待 E ち受けているかのように」田 5 え、以来、 毎年撮影をつづけている。新着品もふ くめ、一一〇一四年に大判の『 From ひ ろしま』 ( 求龍堂 ) を刊行した 「ひろしま」は、広島をはじめ国内各 地で展覧会が相次ぎ、大きな反響を巻 き起こしていった。二〇一一年末から 一一一年にかけてはバンク 1 ( カナ ダ ) のブリティッシュ・コロンビア大 学人類学博物館での展覧会が開催され、 多くの来場者が熱心に見入った。 この展覧会を企画し、ドキュメンタ 1 映画『ひろしま石内都・遺され
いしうちみやこ 写真家。 1947 年生まれ。神奈川県横須 賀市で育つ。多摩美術大学デザイン科 染織デザイン専攻中退。 1979 年、写真 集 TAP.ARTNIENTI および写真展「ア ート」にて木村伊兵衛写真賞受賞。 東川賞国内作家賞、日本写真協会賞作 家賞、毎日芸術賞、ハッセルプラッド 国際写真賞など受賞多数。 2013 年紫綬 褒章受章。「絶唱、横須賀ストーリー」 1 ・ 9 ・ 4 ・ 7 」「手・足・肉・体 Hiromi 1995 」伊藤比呂美との共著广キズアト」 「 Mother'sJ scarsat 「 INNOCENCE 」 「ひろし気など多数の写真集がある。 107 石内都の「ひろしま」
オハイオ州デイトンの国立米空軍博物館に展示された、長崎 に原爆を投下した cn 四の前に立っ ( 右 ) 。着物に手袋姿でニュ ーヨークの街を歩く ( 左 ) 。 2 ま ) し 度 にの 1 破れたワンヒ。ース丁寧につくろわれたプラウスや セーラー服・・・・・・原爆資料館に保管される議牲者の遺品は、 写真家・石内都の目と手を経て新たな命を得た いま、その作品を媒介として、アメリカで、スウェーデンで、 原爆という人類全体の悲しみ」をめぐる語り合いが始まった 与那原恵 text by Yonahara Kei オサム・ジェームス・中川・撮影 photographs by Osamu James Nakagawa の終わりと、秋の始まりが同 居するような九月半ば、石内 都はニュ 1 ヨークに降り立っ た。なれた足取りで空港内を歩き、外 に出ると、太陽の光がまぶしく照りつ けていた。夏はまだ去っていなかった。 一九七九年以来、たびたび訪れてい るニュ 1 ヨーク、今回は石内がもっと も信頼するギャラリストで出版人のア ンドリュ ・ロスに招かれた石内が ライフワ 1 クと位置付ける「ひろし ま」シリーズのニュ 1 ヨーク版写真集 の刊行と個展のオープニング、さらに 中西部インディアナ州での講演などが 彼女を待っている。「『ひろしま』がア メリカでどう受け止められるのか、反 応を楽しみにしている」。 石内が「ひろしま」の撮影を始めた 夏 106
たものたち』を監督したのがリンダ・ ある古いビルにある。午後のやわらか いのですが、内容は原爆が残していっ百部 ) が誕生した。『 Here and Now 【 ホ 1 グランドだ。石内とはニュ 1 ョ 1 な光が木の床に差し込む。ロスは石内たもの。繊細なテ 1 マですが、石内さ Atomic Bomb Artifacts. ひろしま / クで出会った。宣教師の娘として日本の個展の最終チェックに集中していたんの視点を通じた、芸術表現になって Hiroshima 1945Z2007 ー 「今、 で生まれ、十七歳まで育ち、「日本人一九九六年以来「時が忘れさせてし ここに」である。約二十一センチの正 とアメリカ人の狭間」で戦争や、今日まったもの、けれど人の眼に触れるべ ロスは「ひろしま」シリーズのすべ方形、厚さは約五センチ。特徴的なの にいたる日米問題をテーマに『きもの」に着目しつづけ、写真集などてのカットを取り寄せ、時間をかけては、タイトルも奥付も印刷されず、左 0 』などを発表。石内との深い信頼関を出版、九九年からギャラリ 1 を運営吸収していった。「ア 1 トとして見せる右どちらから開いてもよいように造本 係を築いている。 してきた。彼のプロジェクトの大半は こと」を模索し、試行錯誤を重ねたとされていることだ。両方向から交わる カナダの地で、石内はある事実を知本として結晶させることが目的だ。一一 いう。こうしてじつに美しい本 ( 限定視線、そして終わりも始まりも提示さ れていないそこにロスのメッセージ った。広島の原爆に使われたウランは、〇一〇年に、石内の初期三 カナダ先住民が採掘に従事させられ、部作をあらたに編んだ を感じる 貨物船で運はれたものだったのだ一 『 Sweet Home Yokosuka おさめられた作品は全一一百十四点。 ロロ当 九九八年、先住民テネ族が来日して被 1976 ー 1980 』を刊行。一一回 ひとつのモノに対して複数のカットを 爆者を見舞い「聖なる土地の産物が他の個展を開催してきた。ロ 掲載したのは「石内さんが衣服などに 日ロ 0 い 者を傷つけた」と謝罪している。彼らスはリンダとも旧知の仲で 近づいたり、 距離をとったりする、心 も祖先の土地を奪われたうえ、ウランある の動き、そのプロセスもあらわしたか ロ日ロ円 採掘が原因と思われるガン患者が多発おだやかで、静かな雰囲 ったから」。作品は「色ごとにまと したというのに 石内は「遠いカ気をたたえるロス。それで まって展開する。オフホワイトのニッ べ 1 ジュのプラウス、イエロ 1 ナダの先住民と日本人が、原爆を通しも視線は厳しく、繊細な指 て接点があったとは大きな衝撃でした。先で本を繰る様は、職人の ビンク、紫の子どもの祝い着、黒のワ ンビ 1 ス : 『ひろしま』を通じて、原爆を加害ようでもある そして再び淡い色へと 者・被生暑の構図としてではなく、日「石内さんは、写真集『ひ 返る、可逆的な構成だ 米問題としてだけでもなく、人類全体ろしま』をつくることから、 ギャラリーでの個展の展示は、大判 の悲しみとして、今日の問題として、未知の広島への旅が始まり のデジタルプリント五点のほかは、こ もっと大きな意味をもたせたい」と語ましたね。そうして出来た の写真集とまったく同じ並びだ移り る 本も旅をする。私は『ひろ ゆく色を順に追ううちに、ひとりの人ひ 第区ロは しま』を見たときに驚きま 生の時間をたどっているようにも田 5 えの 内 アンドリュ る した。まるでファッション ・ロスのギャラリー 石 「ロス」は、アツ。、 ノ 1 ィーストの歴史カタログのように敷居は低 石内がやってきた。宿泊先にロスか photog 「 aph by Matsui Yasunori fHe 「 e and NowJ を企画編集したアンドリュー・ロス
ないものたとよくわかった」といった。 ま」はどのように撮っているのですか料 石内は静かな口調で答えた。「遺品た インディアナ大学フランクリンホー ちは、地下の収蔵庫の小さな箱におさ ル。石内の講演「私の写真が生まれるめられています。それを広げて、こん 時」が行われた聴衆は満席の一一百人。にちは、とあいさっします。自然の光 幅広い年齢層が集った。 の中に置いて、いちはんかっこよく、 石内は、空軍博物館を見学したこと美しくなるように形をととのえます」。 から語り始め、米軍基地の街・横須賀そうして、一呼吸おいて、いった。 で育ったことが写首【を撮るきっかけに 「この服を着ていた彼女が、いっ帰っ なったと述べる。傷ついた街が 約一時間の講演聴衆は熱心に聞き入った。 抱えていたもの、それを見たか った。そして四十歳を迎えたと きに「この四十年の時間がたま っている」と、自分と同じ一九 四七年生まれの女性たちの手足 を撮った。「人間の人生を支え たもの」としてとらえたのだ さらに人の皮膚、傷跡を見つめ るシリーズに取りくんだやが て母の遺品、なかでも下着を撮 影したのは「母の肌に寄り添っ その空の下に人が生きていたことを無縄でよく見た」とつぶやいた最後のていた第一一の皮膚」と感じたか 視した実験だったのだと。よく計算さ展示室に巨大なミサイルが埜してい らだ。さらに「ひろしま」へ、 れた照明のなかで、流れるように展示 石内はそれを見上げながら、「もメキシコの美術家フリ 1 ダ・カ されているけれど、それが不気味さをはや軍用機を操縦する人間すら必要な ーロの遺品へと展開している あらわしている」という とこかのだれかがボタンを押せば一貫したテ 1 マは「積み重なっ 展示は、朝鮮戦争さらに冷戦へとい 、、ごけ。人間を超え、怪物のように た時間」「時間のかたまり」と ざなう。軍機は巨大化していく。 いうべきものです 中川進展する軍事技術人間の叡智も、理 の妻智子が「。子どものころ、沖性も追いつけない、コントロールでき男性が質問した。「ひろし 、 0 ヾ 1 静まりかえったミサイルの展示室。言葉を失う。 4
しを NE ツ ORK てきてもい ( よ、フに」 客席から、深い息がもれた。 石内は再びニューヨークに戻り、ア ートブックフェアへの参茄など日程を こなしていった。一一週間のアメリカ滞 在で、多くのアメリカ人と語り合えた ことをよろこび、「写真は他者に開か れたメディアだと再確認した旅でした。 十一月一日。石内はハッセルプラッ ド国際写真賞受賞記念シンポジウムの 出席と、個展「 The Fabric of Pho- tography ( 写真を織る ) ー開催のため、 スウェーデン・ヨーテポリへと旅立っ た二〇一五年九月にはアメリカ・ロ スアンゼルスの・ポール・ゲティ美 術館で個展が開催される。「 Postwar Shadows 」 「戦後の影」。石内が つぶやいた一一一一口葉が、タイトルになった。 ム宀なは、らけい ノンフィクション作家。一九五八年果京都生まれ 「諸君 ! 」一九九六年八月号掲載の記事で「編集者が 選ぶ雑ジャーナリズム賞」作品賞受賞。「物語の海、ろ 揺れる島 = まれびとたちの沖縄」「美麗島まで沖縄、 台湾家族をめぐる物語』など著書多数。『首里城への の坂道鎌倉芳太郎と近代沖縄の群像』で河合隼雄内 学芸賞、石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞石 ( 文化貢献部門 ) 受賞。
させる。先生は、一方の意見にかたま「子どものころ、ヒロシマへの原爆投 る車でブル 1 ミントンから約三 らないように配慮していた。でも、ひ下は戦争を終わらせるために正しいこ 時間、オハイオ廾テイトンに到 とりの生徒が、日本人が悪いのだからとだったと教えられました。石内さん 着した。石内のたっての要望で 投下は正しいと強い調子でいいだした。のひろしまは、原爆の事実をとてもエ 「国立米空軍博物館」 ( 一九七一 私をにらみながら。先生がすぐに止めモ 1 ショナル ( 情緒的・感動的 ) に伝 年開館 ) を訪れた。その概要は させました」 えている。他人事ではないと思った。 公式ガイド。フックが説明してい る 翌朝、石内はインディアナ大学に向戦争の苦しみは、戦後もずっとつづい かった。一八二〇年設立、名門大学とていたことがよくわかる」という女子 〈世界最古最大の空軍博物館で して知られ、芸術分野の人材育成でも学生。 す。歴史あるライト・パターソ 名高い。日本とのかかわりでは、イン広島に家族で行ったことがある、と ン空軍基地に置かれたこの壮大 ディアナ生まれで、第一一次世界大戦の う女子学生がいた祖父母はフラン な施設は、家族の誰もが何時間 従軍ジャ 1 ナリスト、アーニ 1 でも楽しめるエンタ 1 テイメン ・。ハイス人で、ドイツとの過酷な戦争体験が ルがブル 1 ミントン校で学んだ戦場ある広島で出会った被爆老人の話を トと教育の機会を提供していま の無名兵士の姿を活写して国民的人気聞き、「彼の苦しみが祖父の体験とも す。 ( 略 ) 博物館には三百五十 を得たが、 一九四五年四月、沖縄伊江重なった」という。 機を超える航空機やミサイルが 島で戦死。戦後、が接収した 石内は「すべてはパ 1 ソナルな体験 展示されています〉 ( 五五年まで ) 東京宝塚劇場を「ア 1 博物館がオ 1 プンする朝九時、 から始まるそれをどう広げていくの竃、を ) を ・パイル劇場」と改称したことでかそして自分の頭で考えることが大 空軍のテ 1 マ曲が流れ、平日に 日本人の記憶にとどまる 事ですね。私も、ひろしまを撮りなが もかかわらず大勢の来場者が吸 石内の学生たちへのレクチャ 1 は、 ら学んでいきました」。 い込まれてゆく。大半はリタイ く感じます。ヒロシマだけではなく、 一一日間にわたった。写真、テキスタイ男子学生が手を挙げた。「ヒロシマ アした白人のツア 1 客だ中です ルを専攻する学部生、院生が対象であはアメリカの歴史にとって遠い出来事世界で起きた事実、起きていることを。るのは、そろいの赤いネクタイをしめ る。写真家としての足跡とともに、 だと田 5 っていました。僕たちは一一次的ヒロシマへの物理的距離、時が隔てたる退役軍人である 「ひろしま」シリ 1 ズの写真集三冊を情報しか知らない ヒロシマの悲劇を距離は、日本人もアメリカ人も同じな巨大な三つの格納庫を利用した展示 見せ、「ひろしま、という日本の文字知っている日本の若者は、どう考えてのです。未来をどう考えていくのか、室。飛行機開発の草創期からの歴史を 私たちは同じ地点に立っています」 を覚えてほしい」と語りはじめ、撮影いるのでしようか」。 たどっていくこの空軍基地の名称は、 のいきさつを述べていった。熱心に聞石内は日本で若者たちに話す機会も ライト兄弟に由来するのたが、木材を き、メモをとる学生たちから意見と質多い どこまでも平原がつづくなか、幹線使った初期の飛行機が、鉄のかたまり 「日本人もヒロシマを知らないと、よ道路を走っていく 中川夫妻が運転すへと大きく変貌したのがわかるのは第 問が相次い 学部生・院生へのレクチャー。中央はジェームス・中川 7 photog 「 aph by Zach FeIts ッ 114
考える人 平成る年 9 月 1 日第三種郵便物認可 平成 27 年 2 月 4 日発行季刊 2 ・ 5 ・ 8 ・月の 4 日発行 ( 12 月日発売 ) 季刊誌 2015 イ 2015 、 Vin plain livmg & high thinking 松山巖 ジョルジョ・アミトラーノ 賀敦子の愛した本、 出会った人き アメリカに渡った 石内都のびろし巷 一ごロングインタビュー , 檀ふみ x 酒尹順子 天宅の対談 徳市立図聿 160846358
胡麻和え、茄子の煮びたし、 ら届けられたオフホワイトの薔薇の花「このすてきなブラウス。あの戦争中 銀鱈の味噌漬け、梅ごはん にも、つつましくはあっても美しく生 東とカ 1 ドが、とてもうれしかったと ワインを傾けながら語り合っ 礼を述べ、ハクする。そして展示をじ活しようとした人がいた生と死を一 緒に感じます」。 っと見つめて、いった。 ロスが二〇〇三年に出版し 「すばらしく美しい彼にすべてを任男性がつぶやくように「日本には、 た写真集『 AFTER AND せたのは、ロスのひろしまを私が見た山や川、石にも魂が宿っているという 「その後と、 BEFORE 』 かったから。彼は深く解釈してくれた、考え方があるそうですね。英語のスピ に」が、ニューヨーク版 そのことがよくわかります。アメリカリチュアルと意味は違うのかもしれま 「ひろしま」へとつながって での個展をずっと望んでいて、ようやせんが、そのことを考えています」と 写真評論家の男性は「傷ついた くスタートする。写真をやってきて、 それは、超高速カメラでと よかった。今、そう田 5 うわ」、石内は写首 ( が、歴史を語るということを初め らえた核実験と、被爆後の広 て感じました。私たちは写百 ( があって おだやかな表情を浮かべた 島市街を定点観測した記録写 語り合うことができるのですね」と話 夕方六時。オ 1 プニングパーティー 真集である。腐ったオレンジ が始まった。ニュ 1 ョ 1 クのア 1 ト関した。 のようにも見える核爆発の瞬 係者を中むに、リンダ、そして在住日老年の女性が「ヒロシマを日本のホ 焦土となった市街にある 本人らがつぎつぎとやってくる。それロコ 1 ストとして実感しました。もの ひしやげた鉄骨。爆風を浴び ぞれ、展示の前にじっとたたずんで作すごい悲劇を受け止めたという意味で て墓石が倒れた墓地 : : : 。爆 品を丁寧に見ている。手を胸にあてたす」と、石内に熱、いに話しかける。そ 心地からの距離、日時を違え、 まま、身じろぎしない人、深く息を吸の言葉に対して彼女は、「ヒロシマを 原爆がおよばした影響を記録 い込む人・ : : ・女性たちに感想を尋ねホロコーストと表現することは日本で 、、 0 はなかったけれど、たしかに一般市民約一一時間。古くからある別荘地は、緑していたそれらの写真は、数奇な運 「ばろばろの黒いワンビ 1 ス、見つめ十数万人が死ぬとわかっていて原爆は濃い自然に囲まれている以前の所有命をたどっている マサチューセッツ州の幹線道路の脇 ているとヒロシマの風景が見えてくる投下された。それなのに、ヒロシマが者の家を改装したというロスのカント リーハウスは、広々とした白い家だ 、廃屋があり、偶然そこを車で通っ ようですね。被爆後の市街の写真を見体験した悲劇は何も解決されていない 敷地内に菜園もあるリビングには暖た人がのぞくと、古びたトランクがば たこし」があ一りま亠 9 か、ってれより↓も強い のです」と答えた。 炉とゆったりしたソフア。キッチンはつんと残されていて、多数のモノクロ インパクトを感じます」。「とても静か ノ 1 ーし」し」も」」、 プロ仕様だここで三泊にわたるロス写首 ( があった。すでに故人であった住 翌朝。ロスは愛大ハ な、小さな作品ですが、じっと見てい ると、ゆっくりと、人があらわれてく石内とリンダを車に乗せ、所有する力の温かいもてなしを受けた。この日一一一人は、原爆実験に関わった研究者だっ る。そして私たちに語りかけてくる」。ントリ 1 ハウス ( 別荘 ) へと向かった。人で共作したタ食は、インゲンと蕪のたのだ写真は、何人かの手をへて口 ニューヨークアートブックフェア会場にて。 っ hO ~ og 「 a ℃ h by Matsui Yasunori 112
photog 「 aph by Matsui Yasunori 0 スの元へと届けられた。彼は出版を決科長でもある。日本人の両親の間にニ 意し、深い黒と際立っ白のみで構成しュ 1 ヨークで生まれて日本で育ち、ヒ ュ 1 ストン大学で写真学をおさめた た写真集をつくりあげた。 「究極の記録写真でした。この写真か妻智子が沖縄出身だということもあり、 ら完全に抜け落ちているのは、人の面近年は沖縄戦の記憶をテーマにした 影です。まったくない石内さんの『ひ fGAMA CAVES 』など、意欲的な 一点一点から作品を発表している ろし、ま』には人がいオ 私がイメ 1 ジしたのは、生身の身体で 空港から彼が暮らす町プルーミント した。ほっれた糸、破れた布は、血脈ンまで約四十分、トウモロコシ畑が広 や内臓までも想起させた。『 AFTER がり、中西部らしい家屋が点在する AND BEFORE 』の写真とは対照的これがアメリカの一般的な風景なのだ ろうインディアナ大学プル 1 ミント でした。必然的にリンクしましたが、 『 Here and Now 』は、究極的に美しン校 ( 約四万六千人在籍 ) を中心とす い本をつくろうとしたのです。美しい る人口八万の大学都市である。中川は からといって、政治性がないわけではかねてより学生たちへのレクチャー ない。そもそも政治性のないア 1 トな講演を石内に依頼しており、実現の運 びとなった。 ど、許されないでしよう」 戦争は、究極の政治判断による暴力中川家は落ち着いた雰囲気の一軒家 だ。その日々にさらされながらも、美 一人娘の光 ( 十六歳 ) とともに、 しいものを身にまとうこと、それは精夕食の鍋を囲んで語り合う。アメリカ 神としてのレジスタンスといえるのでの高校で原爆はどう教えられているの て はないか。美を、生きることを否定さか、光に尋ねた ス 「一、一一年生の選択科目、世界史の授 れる社会にあっては ロ 業で採りあげられます。先生はヒロシ ラ ニューヨ 1 クから飛行機で約一一時間。マ・ナガサキの原爆投下のべ 1 シック ャ ギ石内はインディアナポリス空港に到着な事実、被害者数もいいました。でもひ ク した。出迎えてくれたのは、彼女と旧被害のディテールまではいわなかった。の ョ 知の写真家オサム・ジェームス・中川そのあと原爆に対する様々な意見を紹内 ュ 3 たインディアナ大学芸術学部写真学介して、生徒たちにディスカッション