米国 - みる会図書館


検索対象: 考える人 2015年冬号
40件見つかりました。

1. 考える人 2015年冬号

の底力である。あるいは、大国が覇権を安定的に維 持するために不可欠な「理念の力」とでも言うべき か例えば、かっての大英帝国からは十九世紀半ば にキリスト教青年会 (YMCA) が、一一十世紀初頭 にはポーイスカウトやガ 1 ルスカウトなどに代表さ れるスカウト運動などが世界各地に広まった。一一十 世紀にはソ連が東側世界の盟主となったが、そうし た草の根レベルでの * 心力は乏しかった。二十一世 紀において台頭著しい中国であるが、市民社会のカ は国内においても限定的であり、国外においては見 る影もない。暈大国や経済大国、すなわちハード パワ 1 大国だけでは覇権の構築は難しい。 ミドルクラスか担う世界 もちろん奉仕や慈善という意味では、「鉄鋼王」 アンドリュー・カ 1 ネギ 1 ( 一八三五 5 一九一九 ) 、 、 , 一 T 石油王」ジョン・・ロックフェラー ( 一八三九 、 1 5 一九三七 ) 、「自動車王」へンリ 1 ・フォ 1 ド 八六三 5 一九四七 ) といった「アメリカン・ドリー ム」を体現する大富豪が米国の内外で図書館から大 学、ミュージアム、病院などへの支援を惜しまなか しや、むしろ一般的に った点を忘れてはならない。、 ソフトパワーとしてすぐに相起されるのは、そ , フし た篤志家が作った巨大な財団であり、そのグロ 1 バ ルな展開かもしれない。近年では「王」ビル・ ゲイツ ( 一九五五 5 ) などがこの系譜に連なるので あろ一フ しかし、国王や貴族ではなく「デモスⅡ市民」を 主体に発展を遂けてきた米国にあっては、大富豪の 1 みならず、いわばプチ・ブルジョアとしてのミドル クラスもまた奉仕や慈善において大きな役割を担っ てきた。ロ 1 タリ 1 やライオンズはその好例であり、 まさに二十世紀という「アメリカの世紀」ーーライ ・ル 1 スが一九四一年に記 フ誌を創刊したヘンリー した言葉ーーをする運動たった。その運動が、 今日、ミドルクラスの台頭が著しい新興国で共感を 得て、会員増につながっている。ロータリ 1 の場合、 一一〇〇三年からの十年間で台湾では四十九パ 1 セン ( 七千五百人 ) 、インドでは三十八パーセント ( 三万四千人 ) 、韓国では二十六パ 1 セント ( 一万二 千人 ) の増加だ かたや、日本では二十一。 1 セント三万一二千 人 ) 、イギリスでは十六パ 1 セント ( 八千人 ) 、そし てロータリ 1 の杢豕本元である米国では十五パ 1 セ ント ( 五万八千人 ) の減少となっている。 米国の場合、日本とは異なり、移民の流入などに より人口は右眉上がりになっている。それだけに気 に . なる傾・回 米労働省統計局によると、人口に占めるボランテ ィアの割合は前年同時期の一一十六・五パーセントか ら一一十五・四パ 1 セント ( 六千一一百六十万人 ) に減 少している。地域的にはモルモン教徒が多い西部ュ タ州では住民一人当たり七十八時間が奉仕に充てら れており全米トップで、最下位の南部ア 1 カンソ 1 州とは約三倍の開きがある。中西部は概して他の地 域より積極的のよ , フだ (Volunteering in the United States. 2013 ) 。 当然ながら、経済的・時間的に余裕がなければポ ランティア活動に携わることは難しい (Charles Murray, Co き g 」、ミ 4 2012 ) 。米国では、一九八〇 年代のレ 1 ガン政権以降、格差が拡大傾向にある。 今日では、所得上位十パ 1 セントの収入が全国民の 収入総額の五割に迫っている。これは世界大恐慌以 来の富の偏在だ。米国勢調査局によると、貧困層は 人口の約十五パ 1 セントにあたる五千万人に近づい ており、米国人世帯の三分の一は持ち家もない ()n ・ come and poverty in the United states. 2013 ) 。 「ミドルクラスの没落」か指摘されるようになって 久しいが、近年、「ティ 1 パ ーティ ( 茶会 ) 」運動や 「ウォール街を占拠せよ」という形でミドルクラス の異議申し立てが政治的に表面化したことは記憶に 新しい。前者は保守派 ( 右派 ) 、後者はリべラル派 ( 左派 ) が中心だったが、どちらも自分たちの人生 や社会が手の届かない巨大な権力ーー前者の場合は ビッグ・ガバメント、後者の場合はビッグ・ビジネ ス によって牛耳られているという認識は共有し ていた。それは、努力をすれば誰でも成功できると いう「アメリカン・ドリーム」の消滅に対する憂い であり、怒りであり、抗いである。そして「物語」 の消滅は、「理念の力」すなわちソフトパワ 1 の低 減を意味する。そのことが米国衰退論者の論拠の一 っとなっている。 しかし、そうした米国のミドルクラスの窮状をよ そ目に、米国の奉仕クラブの理念は台頭する新興国一 のミドルクラスへと越境し、伝播し、拡散を続けてが いる。これもまた忘れてはならないアメリカン・レ ン カ ガシーの一つである メ 7 4 2

2. 考える人 2015年冬号

退するが、一九四九年に再び復帰加盟し、急速に日 十五人いた。資産合計は十億ドルを超える。金融市 総数は一万八千百四人三〇一四年四月時点 ) で、 2 本全国に拡張していった。 場への投資にも積極的だ。補助金の八十九パーセン 出身地は世界百一一十以上の国・地域に及んでいる 冪すべきは一九五三年に啝只ロ 1 タリ 1 クラブ 世界にほば類を見ない、 トが水と衛生、疾病予防と治療、経済と地域社会の 日本独自の展開た。高度成 が米山の功績を称えて発足させた「米山基金」が、 発展、基本的教育と識宀卞回上、母子の健康、平和 長を経て豊かになり、かつ「国際化」や「国際貢 と紛争予防・解決などのプロジェクトに充てられて その後、国内全地区の共同事業となり、一九六七年 献」が時代のキ 1 ワ 1 ドになった背景もあろう。 おり、このパーセンテ 1 ジは非営利団体としては驚 グロー、ハルな拡張を続けるロータリ 1 たが、例え を一 ば、ベトナムでは活動を認可されていないベトナ 異的な高さだ。ロ 1 タリーは、アメリカ慈善協会 戸 井 (AIP) など、非営利団体の格付けを行う複数の団 ム戦争前には存在していたが、社会主義政権下で市 体から最高評価を得ている ( 「国際ロータリーおよびロ 民社会の活動は大きく制限されたままだ。近年、再 ン ータリー財団 2012 ー 13 度年次報告」 ) 開を目指す動きもあるようだが、ヾ へトナム政府が方 イ カ マ 針を改めるかは微妙だ。 の ン 中国においても「ロ 1 タリ 1 Ⅱ資本家クラブ」と 世界的展開とその限界 いうイメ 1 ジがあるためか ( 台湾や香港を除き ) 中 フ 日本にロータリ 1 クラブが発足したのは一九二〇 国人の入会は認められていない。しかし、外国人会 年である ( 本部による正式承認は翌年 ) 。三井銀行 員によるクラブは上海と北京に存在している 一一〇一三年春、上海の高級ホテルで行なわれたタ の米山梅吉が渡米した際、ダラスロ 1 タリークラブ 資 方の例会に参茄を願い出ると、央諾してもらった。 の会員たった三井物産の福島喜三次から話を聞き感 な巳 約八十人の会員のうち出席は約半数。会員の出身国 銘を受け、只ロ 1 タリ 1 クラブを立ち上げた。新 ラ c クラブを発足させるには、原則、他クラブのスポン は二十ヶ国以上に及び、最も多いのはドイツ人だそ ク サーを必要とするが、啝只の場合はダラスがスポン 上海在住の日本人は十万人ほどいるが会員と タ c サーとなった。世界で八百五十五番目のクラプだっ なると僅か一人。親が日本で会員たったことに加え、 ロ z た。その後、神戸、名古屋、京都、横浜で來只をス 約五年前から働く上海で同僚から誘われて入会した という。日本では七十代の会長も珍しくないが、上 ポンサ 1 としてクラブが誕生した ( 日本で一一番目に 本設 日建海の会長は四十歳にも満たない。ちょうどポスト 誕生した大阪は日本で唯一の本部直轄のクラブ ) 。 関東大震災 ( 一九二三年 ) の際には、世界各地の五 ン・マラソンの爆破テロ事件三〇一三年四月 ) の 百を超えるクラブから約九万ドルの義捐金・救援物 直後たったこともあり、例会では米国人会員への哀 に財団法人 ( ロータリ 1 米山記念奨天三へと発展 したことだ。同事業は日本で学ぶ私費外国人留学生 資が届けられ、壅只ロータリ 1 クラブは震災孤児の 悼の言葉が相次ぎ、犠牲者への募金が行なわれた ために「ロ 1 タリー・ホーム」を建設した。第一一次 に奨学金を支給しており、年間の奨学生採用数は約 ロシアにも口 1 タリーが存在する。一九八八年に 世界大戦により日本のロ 1 タリ 1 は、ドイツやイタ 七百人、事業費は約十四億円と、国内では民間最大 スウェーデンの会員三人が同国に赴任していたソ連 リアなど枢軸国のクラブ同様、国際ロータリ 1 を脱 の国際奨学事業となっている。これまでの奨学生の 大使に話を持ちかけたのがきっかけで、ソ連解体消

3. 考える人 2015年冬号

滅 ( 一九九一 ) の前年に正式に発足し、今日に至っ ている。ソ連末期には社会統制が実質的に機能して いなかったことの証左にも田 5 える。米国と複雑な関 係にあるイランやイラク、北朝鮮、シリアなどには ロ 1 タリークラブは存在していない。当該国にとっ ても、本部にとっても、リスクが高いのであろう。 その一方、ロ 1 タリーは一一〇〇一一年に「平和セン タ 1 (Rotary peace Centers) 」を設立し、チュ ラロンコ 1 ン大学 ( タイ ) やデューク大学 ( 米 ) 、 ブラッドフォ 1 ド大学 ( 英 ) 、国際基督教大学 ( 日 ) など七大学と提携し、毎年約百人のフェロ 1 を選出、 平和と紛争予防・紛争解決分野の修士号または修了 証取得のための奨学金を提供している。また、会員 や学友 ( 奨学生や同窓生 ) とのネットワーキングに も積極的で、毎年、盛大な国際大会 ( 二〇一四年度 はシドニ 1 、二〇一五年度はサンパウロ ) を開催し ている。シカゴの一青年の孤独から生まれた親睦と ・奉仕の結社は、まさにグロ 1 バルなネットワ 1 クへ と進化した。 奉仕大国・米国 日本では馴染みが薄いかもしれないが、こうした 結社作りは米国人の十八番でもある。独立から半世 紀経った米国を視察したフランスの貴族、アレク シ・ド・トクヴィルは『アメリカのデモクラシ 1 』 において次のように観察している 重要な公共の利益のため、心をこめて大きな犠牲を 払う米国人を、私はこれまで目にしてきた。そして、 必要があれば、米国人はほとんどの場合、誠意を持っ て互いに助け合うものだということに気付いたことか これまでに百回もある (Alexis de Tocqueville. De ミミ・ き in 」 4 ミ e ca d T ミ 0 Essays ミ ~ 」 4 ミ e 、 2003 〔 1840 〕 . pp. 594 ・ 595 ) 。 新大陸で植民地を開拓した人々にとって、団結し て互いに助け合うことは生存のためにも不可欠だっ た例えば、入植者たちは私設消防隊を結成して消 火活動を行い、一七三六年にはべンジャミン・フラ ンクリンがフィラデルフィアに - 目擎〕消防隊を創設し ている。米国では現在も消防士の七割以上はボラン ティアから成っている。市 ( 町 ) 長や市 ( 町 ) 会議 員のなかにはボランティアも少なくない。道路のゴ ミ集め、ミュ 1 ジアムでの入場整理や資料整理、病 院の受付なども小さな市町ではボランティアに多く を依存している。一一〇一一一年の連邦機関 (Corpora- tion for National 年 Community Service) の報 告書によると、米国では市民 ( 十六歳以上 ) の約四 分の一に当たるおよそ六千五百万人が年間延べ八十 億時間近くを奉仕活動に充てており、その経済的価 値は少なくとも千七百五十億ドルに相当するという ( きミミ、 b ミミ 0 c ト」ミ e 3.2012 ) 。 つい先日もワシントン・ O ・に暮らす日本人の教 え子からこんな電子メールが送られてきた。 夫の直属の上司 ( 女性 ) が十日ほど前に小さなお子 さんを残して突然亡くなったのですが、葬儀の仔細に Take Them A Meal" というウ かかる連絡以外に、 = ェブサイトからメールを受け取りました。調べてみる と、故人の親しい友人が取りまとめ役になって当該サ イトに登録し、ご遺族のためにタ食を用意するポ一フン ティアを募るという内容のものでした。そうしたサイ トの存在や遺族のケアの仕方を初めて知ったので、ち よっと様子見をしていたところ、五日後には実に九月 半ばから一月ニ五日までの夕食ボランティアか全て決 まっていました。 ( 中略 ) 死後五日、葬儀を一一日後に 控えた時点で延べ一五〇人近い人々がご遺族のために 夕食を用意する意思表示をしたことになります。 ( 中 略 ) 現時点でご遺族は四月半ばまでタ食の心配をしな くて済むようです。アメリカ流の助け合いを、新たに 目撃しました ( 二〇一四年九月一一十四日、私信 ) 。 米国が寄付大国であることも「米国Ⅱ強欲資本主 というイメ 1 ジに囚われている人には意 義の権化」 外に映るかもしれない。日本の寄付総額 ( 個人・法 人を含む ) は二〇〇九年の約一・一兆円から東日本 大震災を経て一一〇一一一年には約一・四兆円まで増加 し、対名目比も〇・二三パーセントから〇・ 三〇パ 1 セントに上昇している ( 「寄付白書 2013 』 ) 。 かたや、米国の一一〇一一一年の寄付総額は三千百六十 一一億ドル ( 約三十一一兆円、一ドルⅡ一〇〇円 ) と日 本の一一十倍以上に及ぶ。対名目比も約一一バ セントで日本とは大きな開きがある ( 0 ~ ) ぎ g 6 の 4 2 ミ 3 をミ ) 。米国における寄付の特徴は個人寄付一 の割合が高い点で、例えば、一一〇一一一年の寄付総額か レ のうち、個人寄付が占める割合は七十一一バーセント ン で、法人が占める割合は僅か六パ 1 セントに過ぎな励 法人が半分以上を占める日本とは寄付の主体がア 違う。一人当たりの寄付金額を比べると日本人が約 2 、 0

4. 考える人 2015年冬号

一・五万円、米国人が約一一十一一万円と十五倍近い差 がある 米国で寄付が盛んな理由の一つに税制上の優遇措 置があるのは確かだが、忘れてはならないのは、米 国の財団や慈善団体が誕生したのは所得税が導入さ れる前である点だ ( 戦費捻出のため南北戦争中の一 八六一一年に一度導入されたが、戦後すぐに廃止。本 格的に復活したのは第一次世界大戦直削の一九一三 とりわけ個人救済を重んじる 年 ) 。キリスト教 プロテスタント の教えに基づく奉仕や寄付の奨 励、自治精神、社会的地位との結びつき ( いわゆる 「ノ。フレス・オブリ 1 ジュⅡ高貴なる者に伴う義 務」 ) なども看過できない要因た。「立派に実行する 方が、立派にしゃべるよりも良い」と述べたのはべ ンジャミン・フランクリンだが、学問知や形而上的 知を軽蔑し、実践知や身体知を重視するのは米国の 知的伝統でもある。 現在、米国には非政〉示の市民社会組織が約八千 存在しており、国際ロ 1 タリ 1 からライオンズクラ 。フ国際協会、国際キワニスといった奉仕クラブはそ の一例に過ぎない ライオンズは地域社会の向上を目的に、一九一七 年、当時三十八歳の青年実業家メルビン・ジョーン ズによりシカゴで設立された。ロ 1 タリ 1 よりも後 発ながら、今日では世界一一百九以上の国・地域に約 四万亠ハ千のクラブと約百一一一十五万人の会員を擁する 世界最大の奉仕クラブに成長している ( ちなみに本 部のあるシカゴ郊外のオ 1 ク。フルックにはマクドナ ルドの本社もあり、同社の世界的訓練施設であるハ ン、ハーガー大学が附設されている ) 。各クラブ・地 区よりもライオンズ全体としての活動を重視し、例 会が隔週で、失明予防に力を入れている点などロー タリ 1 とは異なるが、会員の背景や組織体制は似て いる。どちらもほば同時代のシカゴを発祥の地とし ているが、ハリスとジョ 1 ンズの関係は定かではな したた、ハリスの兄弟はライオンズに勤務したこ し」か亠のるよ一フた。 一九一五年にデトロイトに設立されたキワニス ( 現在、本部はインディアナ州インディアナポリ それでも世界約八十の国の ス ) はやや小規模たが、 約八千のクラブに約六十万人の会員を有する。ョ 1 ド欠乏症 (IDD) や母子破傷風の撲滅をスロ 1 ガ ンに掲げている。ロ 1 タリ 1 やライオンズ同様、中 西部を拠点としている点が興味深い。ポストンやニ 0 F REEz 2 れ d SO ⅱ Be-A-Lio Be ュし ( ) 11 、 0 、 ~ e 長 ューヨ 1 クなど東部のクラブに比べるとエリ 1 ト主 義的色彩が弱く、かっ米国のハ ートランド ( 中心 部 ) ゆえの一般性や普遍性を有している点が全米展 開を利したのかも知れない このようにアメリカが奉仕・寄付大国であること に疑いはないが、興味深いデ 1 タもある。米国市民 外交センター (). S. center for Citizen Diploma- (y) の名誉会長アン・オルセン・ ショッデ氏は米国人の〇・一一七パ 1 セントしか海外ボランティアに 参加せず、米国内の国際団体での ボランティアも〇・一バ 1 セント 著 に留まっている現状を憂える。パ 告 広 スポートの保持率も一一十一一バ 1 セ の 一フ ントと低く、第一一一一一一口語の話者率も ク ズ九パ 1 セントしかないという オ (Ann OIsen Schodde. "Citizen DipIo- イ macy: Building a Nation 0f G10bal る あ Citizen Diplomats," in PD 」、 02 ぎ こ , フした Winter 2 日 2 ) 。確か一 デ 割合だけを見て、米国人が「内向 ュ き」だと称することも可能かもし れないしかし、仮に自らが直接 海外に赴くことはなくとも、親睦と奉仕の精神をモ ジュ 1 ル化し、海外の人々が自ら進んでそれを受容 するようなシステムやメカニズムを編み出してきた それはまさにソフトパワ 1 と呼ぶに相応しい 時々の米国の政権の施策には異論があろうと、それ を必ずしも平板な反米王義に変換させない米国社会 246

5. 考える人 2015年冬号

年ほど前から本部でアジア地域の広報を担当してい る ロ 1 タリ 1 には現在、世界八ヶ所に約六百人の常 勤スタッフがおり、うち約五百人が本部で働いてい る。本部スタッフの十パ 1 セントは外国人で、公用 語は七一一一口語 ( 英仏独伊西日韓 ) 。公式の会議には必 ず同時通訳が付けられる。会長の任期は一年で、一一 〇一一一年度には埼玉県の八潮ロ 1 タリークラブの田 中作次氏が選出されている。日本人の会長としては 三人目、三十年ぶりだ。 一九三九年、新潟県の農家に生まれた田中氏は、 中学卒業後、集団就職で上京。夜間学校で苦学しな一 がら、下町の紙問屋「田中米一一商店」に養子入りし た後、会社を引き継ぎ、家庭紙の総合商社に成長さ せた。全国家庭紙同業界連合会会長や八潮市商工会 副会長も歴任している。三十代半ばに同僚から誘わ れたのがロータリ 1 入会のきっかけだったという ノ 1 ー 1 ヘー - し J ( 「毎日新聞」一一〇一一一年七月一日 ) 。「学歴工 は真逆の、いわば「叩き上げ」のお手本のような人 物だ。その彼が世界一一百以上の国・地域 ( 五百三十 六地区、三万四千五百七十八クラブ ) に約百一一十万 人の会員を擁する国際ロ 1 タリ 1 の指揮を託された のである。巷に飛び交う「グロ 1 バル人材」をめぐ る議咽が急にちつばけにーーーそして、極めて小手先 の話のように 思えてくる。ちなみに日本国内に は三十四地区の一一千一一百八十六クラブに約九万人の 会員かいる会員数では米国、インドに次ぐ世界三 位だ。最盛期の一九九六年には十一一一万人を超えたが 高齢化の影響などにより、一九九七年以降は減少傾 向が続き、一一〇〇〇年に約五十一一人だった一クラ。フ 人工妊娠中絶や人権といった論争的なテーマを避け る一方で、ポリオ撲滅など普遍性の高いミッション を掲けてきたからだという。米国や日本などでは会 員が減っているものの、インド、タイ、台湾、韓国、 ブラジル、東欧、アフリカなどでは増加傾向にある の平均会員数は、一一〇一三年には三十九人にまで減 少している。 チャン氏によると、ロ 1 タリ 1 が世界に広まった のは「有益な事業の基礎として奉仕の理想を鼓吹、 育成する」と定めた綱領が魅力的であること、また 2013 年 1 月、ロータリー世界平和フォーラムでアウンサンスーチー氏にハワイ平和賞を 贈呈する田中作次・国際ロータリー会長 ( 当時 ) 第ニ次世界大戦後の躍進 ロ 1 タリーの起源は一一十世紀初頭のシカゴに遡る 南北戦争後の「金びか時代 (Gilded Age) 」と呼ば れるバ。フル期を経て大発展を遂けたシカゴだが、過 当競争や誇大広告、不正が横行し、「悪徳と腐敗の というイメージも強くなっていた ( ちなみに、 アル・カボネが「暗黒街の顔役」としてシカゴで暗 躍したのは、もう少し後の一九二〇年代である ) 。 当時、シカゴに事務所を構えていた青年弁護士ポ 1 ル・ハリス ( 一八六八 5 一九四七 ) は、そうした風 潮のなかで虚無感と孤独感に苛まれていた。異業種 の友人一一一人 ( 石炭商、鉱山技師、仕立て屋 ) と相談 し、仕事の上でお互いに信頼のできる公正な取引を 、更にはそれを真の友情に発展できるような仲 間を増やしたいと切望し、定期的に集う会を立ち上 げた。その初日が一九〇五年一一月一一十三日で、ロー タリー誕生の日となった。当初、四人の事務所を 「輪番 ( Ⅱ in rotation) 」で会合場所としたことか ら「 Rotary ( Ⅱ回転 )- と名付けられ、歯車がエン ブレムとされた。ハリスらが最初に行なった社会奉 仕活動は公衆トイレの設置運動たった。 設立三年で会員数は一一百人を超えたが、やがて会 員同士の親睦や相互扶助を優先させようとする一派 と、対外的な奉仕活動を積極的に行なおうとする一 派の対立が顕在化するようになった。そこで両者の 融和のために創出されたのが「ロータリー・ソン グ」だったという。会員の一体感を演出し、差異を 242

6. 考える人 2015年冬号

企 0 タリ 1 での私のホストはポストン近郊で小さな会社 奉仕のク一フブ を経営する、当時五十歳くらいの白人男性だった。 ィリノイ州エバンストン。シカゴ郊外に位置する 幾度か例会にも招かれたが、会員は地元に根をおろ この町の名を初めて目にしたのは大学四年の頃。当 した医師や弁護士、会社社長など「フロフェッショ 時、国際ロ 1 タリ 1 の奨学生に選はれ、事務的な手 ナルー ( 専門職業人 ) か中心だった。会場に大きく 続きのため、何度も手紙やらファックスを送った先掲けられたロータリ 1 のエン。フレム ( シンポルマー がエ、ハンストンにあるロータリ 1 クラブの本部だった。それまで米 国を訪れたことがなく、インタ 1 ネットも無かった時代の話である もっともロータリークラブその ものは日本全国にもあり、地元の 名士が名を連ねていることは学生 の私でも知っていたたた、クラ プの入会には会員 ( ロ 1 タリア ン ) の推薦および会員全員の賛同 が必要で、週に一度、食卓を囲ん での定例会 ( 一時間程度 ) に出席豸′。 する義務があること、欠席した場 合は国内外の他クラ。フに出向き埋 め合わせをしなくてはならないこ と、一業種につき会員は一人を原 則とすることなど、細かな決まり があることは奨学生になって初め て知った。公園の清掃や車椅子の寄付といった地域 での社会奉仕活動からポリオ撲滅などへ向けた国際 奉仕活動、海外からの奨学生への支援に至るまで、 時間的にも経済的にも相応のコミットメントが必要 のようで、実に奇特な集まりだと感、いした。 その点は留学先の米国でも全く同じだった。ロ 1 ク ) 、ロータリー・ソングの斉唱など、例会の光景 は日本でも見覚えのあるものだった。「クラブ」と しっても、ロ 1 タリーは、ライオンズやキワニス同 様、「奉仕クラブ (service club) 」であり、「社交 クラブ (social club) 」とは異なる。自前のダイニ ングやホ 1 ル、ましてや宿泊ル 1 ムを有しているわ ら一ド 物 A 丁ー 0 物 AL 義 500 ー AT ー 0 物 0 ( 上 ) シカゴ郊外にあるロータリークラブの本部ビル。 ( 下 ) 工ンブレムのデ ザインの変遷。右下か現在のもの ()A CENTURY OF SERV ℃ E"0t り ) けではない。とはいえ、社会的に成功を収めたミド ルクラスが集っている点で、社交クラブ的な側面も あることは否めない。 私の場合、奨学生としての期間が終わると、次第 にロータリーとの関係も薄れていったが、 日本や米 国のみならず、オ 1 ストラリアからプラジル、ウガ ンダ、インド、マレーシア、フラ ンス、トルコと、これまでに訪れ た多くの国々でロータリーのエン プレムを見かけては、そのグロー ヾルな広がりを実感するようにな った。とりわけ、ロータリーか米 国発の、そしてミドルクラス主体 の奉仕活動であることを考えると、 大国としてのアメリカン・レガシ ーをしているかのよ , フにも田 5 えた。 日本人も会長に シカゴのダウンタウンから電車 で小一時間。ロータリ 1 は駅から 至近距離にある十八階建てのオフ イスを所有しており、十一階以上 を本部が占めている。ミシカン湖を見渡すことが出一 シ 来、眼下には名門ノ 1 スウエスタン大学のキャンパ レ スが広がる ン 案内してくれたのはソウル出身のハワード・チャ励 ン氏。一九八〇年代末、一一十一一歳のときに家族で米ア 4 国に移住し、シカゴのテレビ局勤務などを経て、十 2

7. 考える人 2015年冬号

ノ 蹶議第 0 超克しようというわけご。 ロ 1 タリ 1 は全米各地へと広がる。一 九一〇年に設立された「全米ロ 1 タリ 1 クラブ連合会」 ( 十六のクラブで構成 ) は一九一三年に「国際ロ 1 タリ 1 (Ro- tary lnternational) 」へ、一九一七年 に附設された国際奉仕活動のための「ロ ータリ 1 基金」は一九二八年に「ロ 1 タ 1 財団 (The Rotary Foundation of R0tary lnternational) 」へ、それぞれ 発展・改称され、今日に至っている。と りわけ米国が名実ともに西側世界の盟主 となった第一一次世界大戦後の躍進は目覚 ましく、一九四五年の国際連合の設立準 備会に集った各国の代表団のうち七人の 委員長と一一十人の代表がロータリ 1 の会 員で、代議員を含めるとその数は四十九 0 人に及んだ。国連早の原案作成にも十 9 一人が顧問団として参画しており、現在 国連として経済社会理事会 (ECOSOC) で最高位の協議資格を有し ている。 代表的な会員を挙げてみよう。 ニール・ア 1 ムストロング、ウインス トン・チャ 1 チル、ウォルト・ディズニ 、ト 1 マス・エジソン、ウィリアム・ フルブライト、服部禮次郎、ジョン・ ・ケネディ、ダグラス・マッカ 1 サ 1 ト 1 マス・マン、松下幸ラ」助、フィリッ プ王子 ( エディンバラ公爵 ) 、フランク = RO わⅣ第 JC をを POTAP 正ト A 0 P に村は A 料 0 石 0 ド 驫つ ) 3 を RO し a 「 iO 0 刻を毅を を : 、 tø曲 0 、第を第 Oz R ・ね日 smo RO す A ー R(JIARYO ノトまキ OTa naHeL4 ャ CZC)*<QZ>mi 隧 0 の記工罐 リン・・ルーズベルト、アルベルト・シュバイツ マーガレット・サッチャ 1 、ウッドロ 1 ・ウ イルソンなど錚々たる顔ぶれである。 、女性の入会が認められたのは一九八九年と 遅い。一九七八年、カリフォルニア州のクラブが女 で 世性を入会させたことで本部から除名され、裁判沙汰 となった。結局、一九八七年に連邦曩局裁が本部の 友 の 判断を違憲と見なし、一一年後に国際ロータリ 1 の定 匁款に変更が加えられるまで十年以上の歳月を要した。 g 最高裁の判決は、職場や公共施設におけるあらゆる 本形の差別を防止するという市民権条項に基づくもの 日 の で、ロータリ 1 以外のクラブでも同様の動きが顕著 になっていった。 もっとも、ロ 1 タリ 1 本部と各地区・各クラブの 左関係そのものは主従関係ではなく、むしろフランチ ャイズの関係に近い。チャン氏によると、近年は 「分権化 (decentralization) 」が顕著になり、各地 区・各クラブの事情や自主性を尊重する方向にある 誌 という。会費もクラブ毎に異なり、啝只のあるクラ 関 ブの場合、入会金が八万円、年会費が一二十万円、寄 行 付金などが年間五万円程度となっている。シカゴな 発 集 ど大きなクラブでは三、四百人の会員を擁すること 部 その十分の一程度のクラブも多く も珍しくないが、 本 ルる存在する。会員の七十パ 1 セントが五十歳以上で、 タあ 日本の場合はそれよりやや高齢とのこと毎年、世一 シ ロ誌 ガ 際界全体で約十パ 1 セントの会員が様々な理由でロ 1 レ ・カーエ タリ 1 を退会しており、増加分をほば相殺する格好 ン カ となっている 財政基盤は安定している。二〇一二ー一三年度、ア 一一十五万ドル以上の寄付をした会員は世界全体で五 2

8. 考える人 2015年冬号

年近く前、中国雲南省の昆 私の家族 3 明市に住んでいたとき、道 でよく見かける一人の一一胡 弾きの男性がいた。真っ白な髪と長 遊牧夫婦が いあご鬚を持っ初老の彼は、いつも 同じ赤い壁の前に座り、にこやかな 表情で優しい音色を響かせている。 世界で出会った ニーハオ ! と声をかけると満面の 笑みで応えてくれ、箱にお金を入れ 家族の物語 ると丁寧に謝意を示してくれる。そ の様子に惹かれ、話を聞いてみたい と田 5 うようになり、私はある日、亠 近藤雄生 な」かけたてして , ての男性、陳健軒 text by KO コ do Yuki さんが抱える大きな悲しみを知るこ とになった。 陳さんは中国南東部の湖南省の農 民たった。ごが、 ナそののどかで平凡 な毎日は、一つの出来事によって一 気に崩れた。ある日、息子がケンカ で誤って相手を殺してしまい、その まま姿を消してしまったのだ。その 後息子が戻ってくることは一一度とな 、妻は悲しみのあまり精神を病み、 四年後に亡くなった。そうして独り 残された後、彼は息子を探す旅に出 ることを決意したのだ 父親から譲り受けた一一胡を持ち、 路上で弾いて小銭を稼ぎながら陳さ んは中国各地をさまよった。だが、 十 三 ustration by Minegishi TO 「 u ン」姦ー 7- 2

9. 考える人 2015年冬号

謎の行 納豆 ンダレー ) チェントウン タウンぐ たかのひでゆき 一九六六年界只都生まれ。早稲田大学 探検部在籍時執筆した『幻獣ムペンべ を追え』でデビュ 1 。辺境倭をテー マにしたノンフィクションを中心に 「西南シルクロードは密林に消える』 「ミャンマーの柳生一デヘン王国 潜入記』デジア新聞屋台村』など著 圭数。一一〇〇六年「ワセダ三畳青春 起で第一回酒飲み書店員大賞受黨 『謎の独立国家ソマリランド』で第 三十五回講談社ノンフィクション賞、 第三回中大・山と倭文学賞受賞。 ーラオス タ 【第三回】 火花を散らす 納豆ナショナリズム せんべい納豆に味噌納豆、 ミャンマー・シャン州の納豆には 驚くべき多様性があった そして、シャン州の納豆中心地・ タウンジーで出会ったのは : 名パートナー・竹村先輩とゆく爆笑紀行 カンポジア 2 ( よいよ 1 シャン州東部の町チェントウンから、 同州の州都にして、一説には「シャン州の納豆中 心地」とも呼ばれるタウンジーにやってきた。 ここで私は二つの大きな目標をもっていた つはシャン料理を習うこと、もう一つは、シャン 人のせんべい納豆を一から自分で作ってみること である。 たやす 最初の目標は容易かった。ここには私の旧友で ありシャン文化の伝道師でもあるセンファーの実 家がある。今はお母さんとお姉さんが住んでおり、 私たちは毎日そこに通い、シャン料理を習ってい たか、もう一つの納豆作りは意外にも難題だっ 自ら「納豆の民」を称するシャン人は納豆にう るさい。その彼らに「どこの納豆が美味しいの か」と訊くと、最も多い答えが「ライカ」と「ム ンナイ」だ。どうやらその二ヶ所がシャン州にお ける納豆の名産地、日本で言えば水戸に相当する 場所らしい。両方ともタウンジ 1 から車で一日か からない 距離だと聞き、「じゃあ、そのどっちか で体験させてもらおう」と気軽に考えていたのた か、そう甘くはなかった。 両方とも外国人は許可なしでは訪れることがで きない町だったのだ シャン州はつい最近まで外国人にとって「秘 境だった。今でも、外国人旅行者がふつうに訪

10. 考える人 2015年冬号

lshikawa Naoki Himalayan Experience 4 。。、当時は激しい凸凹道も多く、常にばくらの身最後の村、オ 1 ルドティンリ 1 で一一泊するあい 体は上下左右に揺れていた チョモランマ遠征に同行してくれるシェル シガッェではタシルンポ寺に立ち寄った。タシ パたちとはじめて顔を合わせたクライミング・ ルンポはラサのダライ・ラマ政権としばしは対立シェル。、が八人、台所をしきるキッチン・シェル したパンチェン・ラマが住持を務める寺院である パが三人で、みんな思った以上に若かった。精悍 この対立はチベット支配を狙ったイギリスと中国な顔つきをし、目からエネルギ 1 が溢れでている に政治的に利用され、結局チベット動乱でダラ シェルバを東ねるリ 1 ダ 1 はロプサンだ。日本人 イ・ラマ十四世がインドに亡命し、パンチェン・ と同じようにお辞儀をし、見るからに礼儀正しく ラマ十世は北京で中国政府の首脳となった ( その頼りになりそうな青年だった。年の頃は一一十代後 後ふたたび中国政府に批判的な立場に転じたが ) 。半から三十歳くらいだろうかロプサンは他のチ ームのシェレ。、 ) タシルンポ寺は今も千人近い僧侶が暮らし、チベ ノノカらも信頼されており、すでに数 ットで最も活発な寺院の一つだという 回のエベレスト登頂経験を持つ。 このシガッ工に一泊してから、チョモランマの 他にもエベレストに史上初めて十回の登頂を果 べ 1 スキャンプへの起点となる町、オ 1 ルドティ たした有名なシェルバであるアン・リタの息子、 ンリ 1 を目指した。砂埃をあげながら四台のランカサンもいた。眼鏡をかけ、人の良さそうな浪人 ドクルーサ 1 が西へと走ってい く。途中五〇〇〇生という風体だが、すでにエベレストに数回登頂 を越える峠を抜け、オ 1 ルドティンリーに到着。しており、父親の血を受け継ぐ優秀なシェル。、ご。 ここからチョモランマとチョオュ 1 が見える シェルバたちは皆熱心なチベット仏教徒である オールドティンリーは想像以上にさびれた町だ遠征に小さな経典のようなものを持ってきている った。泊まる宿には電源がないので夜にはカソリ者もいれば、ダライ・ラマの写直 ( を密かにもって ンで動く発電機を使って電気を作る。電話などは きている者もいる。目的は登山だが 、彼らはチベ もちろんない。しかし、ここから、不ハ 1 ル国境まットにやって来たとい一フことに多一少一なりとも嬉し での発展は予想以上に早く進んでいて、電話線やさを感じているようだった。 ランドクルーサー四台に分乗し、ばくたちはラ用水路など様々なインフラが整いつつある過渡期オ 1 ルドティンリ】に隣接した小高い丘から街 いくつか サを発ちシカツェへと向かった。途中、 だった。ばくは十三年後の一一〇一四年に同じオー並みを一望した。丘は古い城塞跡になっていて、 の村や関所を越え、新緑が美しい川沿いを車は走ルドティンリ 1 を訪ねることになるのだが、村はてつべんには赤い煉瓦の砦が残っている。オ 1 ル っていった。現在は舗装されて道路もよくなった拡張され、見違えるほどの活況を呈していた。 ドティンリ 1 の南には中国の人民解放軍が駐屯し 最後の村 亠 し オールドティンリーで出会った子どもたち。