にどのような危険が及ぶかを示したものだ。「富士 ハザ 1 ドマップ」はつぎの三種類が作成された。 < 一般配付用マップ 防災業務用マップ 0 観光客用マップ < は一般市民を対象としたもので、富士吉田市、 御殿場市など五つの地域にわけ、「いざというとき、 どのような行動をとるべきか」を指示している。避 難の仕方、避難場所などを図解していた は県や市町村など自治体の防災担当者用で、各 自治体がそれぞれの「地域防災計画」を作成する際 の資料となるものだった。 0 は富士山を訪れる旅行者、登山客用で、過去の 火山活動を説明し、万一のときの避難の心得を説い たもの。観光用のパンフレットとともに配付された はともか 2 、、と O はほとんど - キにと、られるこ ともなく、ⅱにのこることもなかったのではある まいか富士山が噴火するなど、お伽噺にもひとし いからだ。あの美しい、永遠の三角のお山が、むく つけき黒煙を吐き、灰や岩を吹きとばすなどという ことが、どうしてありえよう。それは天地が宙返り するのにひとしいのだ「ハザ 1 ド」などと意味不 明の一一一一口葉で用心をいわれても、お笑い草としか思え 。県や自治体の防災関係者は、その後もさ まざまなシミュレーションをくり返しながらハサー ドマップの改訂をつづけているだろうが、より詳細 な予測図ができればできるほど、一般の関心から遠 くなるのを実感しているのではなかろうか 火山の過去をたどる おがー蛍 6 はたす 小鹿島果の『日本災異志』第八巻は「噴火之部」 にあてられていて、天武十三年 ( 六八四 ) の「信濃 てんびようほうじ 浅間山噴火」からはじまっている。つぎが天工玉字 八年 ( 七六四 ) の「大隅桜島噴火」。そのつぎが富 士山の噴火で、順に抜き出すと、左のとおり 天応元年 ( 七八一 ) 駿河富士山噴火、雨灰木葉彫 延暦十九年 ( 八〇〇 ) 駿河富士山噴火、響如雷灰 如雨 延暦一一十一年 ( 八〇一 l) 駿河富士山噴火 貞観六年 ( 八六四 ) 駿河富士山噴火 これは「貞観の大噴火」といわれるもので、膨大 な溶岩が青木ヶ原一帯に流出、「せの海 ( 湖 ) 」を本 栖湖・西湖・精進湖に分断した。 承平七年 ( 九一一一七 ) 駿河富士山噴火 長元五年 ( 一〇三一 l) 駿河富士山噴火 永保三年 ( 一〇八三 ) 駿河富士山噴火 元弘元年 ( 一三二一 ) 駿河富士山噴火 永禄三年 ( 一五六〇 ) 是歳駿河富士山噴火 寛永四年 ( 一六一一八 ) 是歳駿河富士山噴火、江戸 雨灰色黒 元禄十一一一年 ( 一六九九 ) 是歳駿河富士山噴火 宝永四年 ( 一七〇七 ) 駿河富士山噴火 これは「宝永の大噴火」とよばれたもので、噴火 は十六日間つづき、火山灰などの噴出物が「近国一一 十里四方ニ及ビ伊昱相模駿河」をはじめ、江戸から 房総半島にまで降りつもって甚大な被害を引き起こ おおすみ した。現在、富士山南面にパックリと大きな口をあ けているのが、そのときの火口である 防災学者つじよしのぶ ( 都司嘉宣 ) は、ほかに新 しい武者金士『増訂大日本地震史料』などを参照 しながら、富士の噴火年表をつくっていて気がつい た。江戸以前の部分は主として「正史」、つまり 「支配者の統治の記録」から採録されている。した がって噴火が農作物に被害を与えたとか、道路を埋 没させたとか、 事、行政にかかわる場合は記録さ せるが、「統治上の利害に無関係」なことは、ほと んど記されない。たとえば静かに噴煙を流している といった、支配者にとって得にも損にもならないこ とには、「正史」の記録者の興味は及はない。 これに対して現在の火山学の関心は「噴煙を含む 火山活動」のあるなしであって、穏やかに噴煙をあ げているのは火山活動を休止したわけではなく、活 発な活火山なのだ。とすると記録にある富士山噴火 だけでは、その年以外の富士山のことはわからない。 現在と同じように噴煙もあげず、地熱の痕跡もない 静かな山だったのか。はたしてどうなのか。正史は ~ の、 t' 。らかに、 この問いに答えるには不適切な史料で ある。いくらくわしくつくっても理号の年表は、 過去のある時代に富士山が活火山であったかどうか、 十分には答えてくれないのだ そんなことからこの地震研究所の学者 ( つじ ) が、 「科学的な考察材料」として非科学的な材料にあた ることにした。専門の火山学者にも、富士山が静か に噴煙をあげていた時代のことはあまり知られてい ないからである。お伽噺や昔話、起打文、万葉、古 今、新古今の歌、実朝の『金槐和歌集』、下っては
に始まると、サルもインセストタブーを普遍的に 持っていることがわかってきました。母親と息子 は交尾しません。母系的な社会、つまりオスが群 を渡り歩いていく社会では、オスに自分の子供は 見分けられません。しかし、母親は自分の子供が 見分けられるわけです。自分が産んでいるのです から。そして同じ母親のもとで一緒に育った兄弟 姉妹の間柄でも交尾が起こらないことがわかって きました。つまり、インセストタブ 1 として制度 化されているわけではないけれども、近親相姦を てカ な 起こさないような忌避関係が、人間以外の霊長類 的よでで にもあることがわかってきた。しかもそれは、母 ヒにま在見置 親と子供の間にある生物学的なつながりが功を奏 文ュ存装 しているのではない。つまり、それは生後に生じ うるよなた る子育てを通じた親和的な関係なのです。例えば、 っ的っヒガ 生まれてすぐの兄弟姉妹を隔離して育ててしまえ ば、その間に交尾は起こります。母親も、もし隔 装生押 離して育ててしまえば、大きくなった息子との間 に交尾は起こる。でも、ある程度親密な期間を幼 ました。その間でどういう 少期に過ごせば、その間で交尾は起こらないので 交尾が起こったかを後 す。 で検証してみると、まず母系的な血縁関係を通じ 、ハリーマカクで非常におもしろい研究があ た母、息子、兄弟姉妹、いとこ同士では、ほとん ります。 ハ 1 バリーマカクはニホンザルと同じマ ど交尾は起こっていない。 これは生物学的な認知 カク属で、モロッコあたりに住んでいます。ニホ があるのかもしれないし、あるいは母親のもとに ンザルと同じような社会構造を持っているのです 育った経験によるものかもしれません。今度は父 が、複数のメスと複数のオスが一緒に群をつくっ 系関係を調べてみた。これも血液を採っているか ていて、オスだけが群を渡り歩いていく母系社会 らわかる。父親を中心にした父と娘、兄弟姉妹、 です。普通オスは自分の子供を認知できません。 たたし ハ 1 、ハリ 1 マカクは、オスが生まれたば かりの子供を引き取って一生縣大里育てるという行 動が知られています。 そこで、母親のように子育てしたオスとその娘 の間に交尾が起こるかどうかを調べた研究がある 1 ーリ / のです。この一群のバ 1 マカク全ての個体 から血液を採取して、生物学的な血縁関係を調べ そしていとこ同士、これは普通に交尾が起こって います。このことから、彼らは少なくとも生物学 的な血縁関係を認知して交尾を忌避しているわけ ではないことがわかった。 さらに、先ほど言った、生まれたばかりの子供 を育てるオスと、その子供が性的成熟に達したと きに交尾が起こるかどうかを調べてみると、それ は、その子供が小さかったときの、子育てをした オスとの間の親密度に比例して交尾を避けること もわかりました。両者に生物学的な血縁関係はあ りません。どの程度親密に世話をしたかにかかっ ているのです。あまり親密でなかったペアでは交 尾が起こっていた。でも、非常に親密に世話をし ていたペアの間で交尾は起こりませんでした。 この親密度とは、一日のうち六 % の時間を六カ 月くらい続けた程度のことです。それほど強い親 密度ではない。そういうことが明らかになると、 人間以外の霊長類でも、実は生まれつき親子ある いは親族という血縁関係を認知しているわけでは なく、生まれてからの関係の親密さが、その子が 大きくなったときに性的対象となるかどうかの選 択に大きな影響を及ばしていることがわかってき たのです。 人間のインセストタブ 1 というのは、霊長類の こうした社会的な認知によって既につくられていな て たものを、単に制度化したものに違いない逆につ 家 言えば、人間関係が複雑になり、霊長類のような 4
たった。会うことによって、握手をしたり抱き に人間たけの行為です。それが今だんだん薄れて きている 合ったり、肩をたたいたり触れ合うことが、何よ その理由は、実は近代科学技術と民主主義にあ り人間関係を修復するのに役立つものです。時に ると思っています。民主主義も近代科学技術も、 は殴り合って喧嘩をすることが、人間関係を深め 個人の自由度を高め、個人の欲求をなるべく多く る効果を持っこともあります。だが、そういう接 満たすように働いてきました。例えばかっての電 触を頻繁に使ったコミュニケーションも薄れてき というのは、家事をする ました。もともと人間は会うことでお互いの信頼 化製品の「一一一種の神器」 人の労働を減らし、自由な時間をつくるためのも 関係を高め、維持してきたわけですが、今は会う のですが、これがまさに高度成長期に登場した。 ことそのものが省略されるようになっている。食 三種の神器には第一期 ( 一九五〇年代 = 白黒テレビ、 事もそう。昔は長い時間をかけて食事の鬻をし、 洗濯機、冷蔵庫 ) と第一一期 ( 六〇年代Ⅱカラーテレビ、 そして長い時間をかけて、みんなで楽しく語らい ク 1 ラー、自動車 ) がありました。それらが、安定 ながら食べるものでした。家族の団欒というのは、 社会をつくるのに大きな役割を果たした。 必ず食事の席にあったのです。 安定期にはコンビニエンスストアができ、車が しかし、そういうものが少なくなり、個食がふ 普及した。日本人の大きな望みは自分の家を建て えた。私はそれはサルに戻る行為だと言っていま ることだったけれど、家を建てるのはお金がかか す。先ほど申し上げたように、サルは食べるとき るから、まず車を持った。個室を持って、なるべ に分散する。でも、人間は本来食べるときに集ま く人に邪魔されない自分だけの時間を自由に使う。 る。それが個食になっている。集団のために個が これが高度成長期に小さな家に住んで一生縣大叩働 奉仕するような行為が減って、むしろ個を高める いていた人たちの希望で、それがかなえられるよ ために集団がある。つまり、個人が重要視される うになった。だから、店に行って自分の好きなも ような社会的傾向になってきた。これが私が「サ のを買って、車を使って好きなところに行って、 ル化する現代社会」と考えた理由です。 誰にも邪魔されない個人の時間と空間を持てるよ 集団のために何かしたいというのは、人間にし うになったわけです。でも、それが社会関係を切 かない。「誰かのために」というのはあります。 るようになった。そして今の崩壊期に入る前に、 子供のために何かをすることは、ほかの動物でも あります。しかし、集団のためにというのはない。 技術が盛んになった : 煩わしいと思っていた集団の時間は、実は社会 集団は実体のあるものではありませんから、まさ 関係をつくるにはこの上ないものだった。だが、 それを負の面としてしか捉えなかった。それは私 が家族というものを負の面としか捉えなかったの と一緒です。それには、欠かせない大きな価値が あった。食事というのは時間をかけることに意味 があったのです。時間を節約してなるべく自由な 時間をふやそうとするのは、ある意味では正しい かもしれないが、社会的な関係をつくる上では、 むしろマイナスだった。相手に対する優しさとい うのは、時間をかけなければ生まれてこない。そ れが結局は、自分の資本になる。これを社会関係 資本と一一一一口うのですか、そういうものをつくること に、日本社会は向かってこなかった。 人間関係に抱かれた存在 しかも民主主義は、個人を解放する方向に向か っていきました。欧米社会は、もともと個人主義 で社会をつくっていますから、日本社会とは大分 違っています。日本社会は、個人主義を発達させ る前に集団を重視した社会をつくってきました。 近代科学技術と民主主義がどんどん個人を解放す るとそちらへ向かい、集団の大切さを見失って、 集団に依存していた社会関係も一気に壊れてしま ん ったのです。 て 最初に言ったように、人間以外の霊長類は家族っ 家 的な集団か家族のない集団か、そのどちらかしか
文体の科学 山本貴光 文章の「身体性」を 手がカり , ことばと人の関係を 解き明かす ! 「文体は人なり」ことばのスタイルこそ思考のスタイルだ。 長短、配置、読む速度 : : : 目的と媒体が、最適な文体を自 ら選びとってゆく。古代ギリシアの哲学対話から、聖書、法律、 科学の記述、数式、広告、コンピュータのプログラム、批評、 文学、ツィッターまで。理と知と情が綾なす、ことばと人と の関係を徹底解読する。電子時代の文章読本。 978 ・ 4 ム 933677 一 6 定価 ( 本体 1900 円十税 ) 斤潮ネ土 http://www.shinchosha ・ co ・ jp
私の 舟 ( ママ ) ハラ」問題 クハラ、ハワハラ、マタハ ラ : ・ : 。他者への発言や行 動が本人の意図には関係な 相手を傷つけたりすることを、 ハラスメントと呼ぶ 私はここに、母と娘の抑圧問題を 総称する一一一一口葉として、「母ハラ」を 加えたい。 大人になった娘の言動にダメ出し をしたり、家を出て暮らす娘の身の 回りを世話する。仕事や結婚相手の 選択にロ出しする。娘の自己決定権 を奪う行為だが、当事者にも抑圧で あることが分かりづらいものが、私 の考える母ハラだ。言葉を与えるこ とで当事者が苦しみを客観視できる ようになれば、と願う これまでこの問題は、「母と娘の といった言葉 確執」、「母が重たい」 で表現されてきたが、生ぬるい。母 ハラは母親が無自覚に娘を苦しめ、 プライドを奪い、深刻なケースでは 命をも脅かすのである 献身的な愛情を注ぐ母親を加生暑 と呼ぶなんて、と憤る人や、親を批 判するのは娘の甘え、と不快感を持 つ人もいるたろ - フ。しかし、そうい う周囲の無理解も、母ハラ被圭暑を 追い詰めてきた。 セ のなのだから。 いる親子を否定するつもりはない。 致し方ない側面もある。家庭内の 何を隠そう、私自身が母ハラ被害 問題は外に見えにくく、自分の家族多様な親子関係の中に、難しい問題 者である。 を抱えているケ 1 スがある、という のあり方が普遍的と信じている人は 家族は 子どもの頃から、母と折り合いが ことを認めて欲しいだけだ。 多い。人が物心つくころ、家族は世 しろいろあ 悪く家族に何か問題があるとは感じ それぞれ固有の文化を持っていて、 界たったからだ。別に、、 てきたが、 それをはっきりと理解し そこでのル 1 ルや関係性も固有のも っても基本的には信頼関係を築いて たのは、夫の家族と出会ってからだ。 特集 メぎ g ミミ、ミ 0 ミ、 十五年前、夫の実家で初めてその 山極寿一さんと考える 家族って家族全員と対面した。ダイニングで なんだ ? 団欒する義父母、義兄夫婦と甥っ子 たちを観たとき、現実 ティを感じられず「まるでホ 1 ムド ラマみたい」と田 5 った。 誰もが新しい家族の私を受け入れ てくれる。歓迎して気にかけてくれ る。その暖かさがつらい という感 覚を理解してもらえるだろうか今 は違うが最初の数年、私は自分に居 場所が用意されている状態が耐えが ここ数年、母と娘の関係が かってないほどこじれている 「毒母」「母娘問題」など、 さまざまに呼称されてきたが これからは「母ハラ」と呼ばう それだけ根深い問題なのだ。 阿古真理 text by AkO Mari 亠の , 」土まり . 作家・生活史研究家。 庫旧笙まれ。神戸女宀 を卒業後、広告制作へ ーに。食を中、いに、 性の生き方などをテ , 書に「昭和育ちのお、 和の洋食平成のカ一 理の年』「うちの「 母・母・娘の食卓」貪 ポ「まる子世代」』 ( 生 4 7
小さな規模の集団ではなくて、大きな規模の集団 を営むようになったときに、むしろ霊長類では機 能していた性的忌避の行動がうまく機能しなくな って、制度化する必安が生じたのかもしれません。 そこで得られる大きな教訓は、先ほど言ったよ に親子が擬制的なものであっても、つまり生物 学的な根拠のない親であっても、生後の子育てを 通じた関係によって本当の親子になれるというこ とです。人間の家族は、生物学的な血縁関係によ って成立するものではない。子供をどう育てるか によってつくられるものであることがはっきりし た。ですから、親子の血縁を QZ< を調べて明ら かにしようとする行為は、全く無意味だというこ とです。 これらのことが人間の家族の由来としてわかっ てきた。それをおそらく人間は進化史の初期の時 代から現代まで続けてきた。そういうことによっ て、言葉によるコミュニケーションの前に、既に 人間の社会、あるいは人間の社会をつくる心はで きていたのです。言葉はさらに人間の集団を大き くすることに功を奏しました。百五十人という集 団から、国家を形成するまで集団を拡大すること ができるようになった。これは一一一一口葉なくしてはで きません。 そしてもう一つ、人間の寿命が長くなったこと コリラもチンパン にも大きな意味がありました。、、 ジ 1 も、生殖能力が衰えると同時に、大体寿命を 終えます。でも人間は、生殖能力が衰えても、長 い間生きる。それは、長く生きた人の経験が、若 い世代に非常に役立ったからです。若者がまだ体 験していないさまざまな出ま、まだ体験してい ない人間関係を、古い世代は既に体験しています。 その体験を通じて、若い世代がさらに新しく確実 なことができるような教え方をした。それが人間 の社会を発展させてきた大きな要因たと思います。 る でもっ 醺高ナのな とでたこよ もし J 関、さ , フ こ頼て会れ 会信寺はさ 今略 省 あるいは、直立一一足歩行によって産道の大きさ が限られてしまったがために、難産という重荷を 背負った女性たちが、まだ健康なうちに出産を終 えて、つまり閉経を迎えて、自分が出産するので なく、その経験によって娘や若い世代の出産を助 け、そして孫の生存力を高めるような振る舞いを するようになって、人間の寿命が延びたという説 という話で がある。これは、「おばあさん仮説」 2 すが、こうして人間は、そういうふうに集団規模 4 を膨らますと同時に、世代間関係の複雑さも高め たのではないかと思います。そうやって社会は進 歩してきた。 やさしさは「時間をかけること」 現代の話になりますが、なせ今、家族もコミュ ニテイも崩壊しつつあるのかという話をしましょ 繰り返しになるかもしれないけれど、家族や コミュニティを支えてきたのは、一一一口葉ではなかっ た。言葉以前のコミュニケ 1 ションによるつき合 い方だったと思います。そしてそれは、今でも同 じなのです。 人間は、サルと同じように視覚優位の世界で生 きています。百聞は一見にしかすという一言葉があ る通り、どんなにいろいろ聞いたとしても、その 現場を見るにまさるものはない。例えばスリとい うのは現行犯でないと捕まえるのはむずかしい 見ることによって人間はリアリティを得る、そう フ動物なのです。でも、人間関係については、 だんだんと視覚を使うコミュニケ 1 ションが減っ て、逆に、遠距離間のコミュニケ 1 ション、相手 の顔が見えないコミュニケ 1 ションがふえてきた。 もう一つ言えば、視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味 覚の五感のうち、触覚を使ったコミュニケ 1 ショ ンは、人間のコミュニケーションの中で非常に重
今の技術は人間の身体を超えたところにあ りますから、身体がついていかない。どこかで揺 り民しがあるだろうと思います。人間の五感を満 足させるような機能を持った技術が新たに開発さ れるか、さもなければ、人間自身が機械化してい くしかありません。機械が一番効率的なのだから、 人間がロポット化していく。機械と人間が違うと ころは、機械は疲れません、不服を言いません、 しかも行動が予想できます。 機械の対極にいるのは動物です。動物は予想が できません。疲れます。不服を言います。人間の を 思うようにならない。弋人のペット志回が非常 っョてな に強いのは、効率性や経済性を推進するトレンド 違シし日寸 と同時に、自分で思いどおりにならない世界の方 よ一は 日ケ々る にも強」ト」一ドを持「て、その二「の間で揺れでニ我ざ 動いているカら。人間は、もともとそういう両面 今ミ を持っていると思うのです。 今の日本社会は、一方で経済効率性、個人の自 由、個人の利益を高める方向に向かう動きと、他 方でスローな社会、無駄の多い、予想できないよ うなものに憧れる両面を持っていると思います。 重要なのは、人間の信頼や関係をつくるものは、 効率性の逆の方にあるということです。いかに効 率性を高めても、逆に関係は壊れていく。相手に 対して優しいということは、そのために自分の大 切な時間を使うということだからです。 そこを、もう一度考え直して社会をつくり直さ です。そして、人間同士の信頼関係を担保するの は、古いコミュニケーションだということです。 いまだにそれは大切にしますよね。書類だけでな 面接をしないと相手がわからないとか言うよう しいところはあります。それは、 技術にも、 階層化しないということ。これは大いに利用する 必要があるかもしれない。点と点ですから、権威 ないと、幸福感あるいは信頼関係は取り戻せない と思います。もちろん技術を捨てるわけには いきませんから、そういったものを利用しながら 新たな信頼できる社会をつくっていくにはどうし いいかを考えるべきなのです。 重要なポイントは、家族というものが生物学的 なつながりだけでできているわけではない、むし ろもともと「つくられるもの」であるということ をつくらないということが大きい。それは、これ からの社会をしているような気がします。 これからはリーダーをつくらない時代たと思い ます。お互いが共同参茄して、リーダーをつくら ずに意見を述べ合っていく。ただし、どうやって 意思決定をするのかがまだ定まっていない。だか ら社会は歪女に包まれている。今までは、意思決 定をする機関を選ぶために選挙をして、選挙で選 ばれてしまえばその意思決定は済んだけれども、 って , フ↓玉、 ) ( ( 力なくなってしまった。もはや選挙もあ まり意味をなさない時代に来ている。別の意思決 定の仕組みが必要なのだろうと思います。 そういうものをつくる中で、新しい社会システ ムが芽生えていくのではないでしようか今まで とは違ったコミュニケーションを我々はしていか ざるを得ない。そこで担保される集団規模は、こ れまでと全然比べものにならない大きさを持って いる。それをどう扱っていくのか。個人情報の漏 洩などは最たるもので、かってそれは人と人との 間を通じてしか流れないものだったけれど、今は 一斉に流出してしまう。しかも逆に言えば、個人 情報を意思的に発信する人たちもいるわけです。 たとえばフェイスブック。以前は日記でしかなか ったものを、プログの世界でどんどん発信してい るのですから。マスコミの機能も全然変わってきな て っ ました。これまではマスコミが公共圏をつくり、 族 家 ある意思決定に大きな影響力を持っていたけれど、 4
ーさんと考える ドは咏よりも濃い」のか、それとも家族は他人の始 間。も起きない限り、ふたんはあまり意識しない家族の存在。 。も、ひとたびこじれると、これはど厄介な関係はない 「持づて生まこ「家族」と意識的に作る「・ - ' - ' 族」、ぜんぶあわせて考えた。 ' 4.0 い ( 豕族って
個人の欲求を満足させるような食事の場をつくる。 その中からできることをやっていくということな のだと思います。昔は、例えば会社で上司が飲み に行こうと一言うのにつき合わされて嫌な田 5 いをし た方がたくさんいるたろうと思いますか、そうい うものを今さら復活させようとしたって無理に決 まっている。でも、見方を変えれば、それはビジ ネスになる。上司と部下が食事できる場をつくる ことも、魅力的な仕掛けを考えれば、それによっ ていろいろな人間関係ができるのだから、 思います。 また、今、個人で自由な時間を持て余している 人が多い。特に日本は少子高齢化社会で、高齢者 かさらにふえていく。そういう人たちはお金と時 間を持っている。彼らの時間をどう使うか。その 中に若い人たちをどう巻き込むかによって、日本 社会は変わってい 。お金を持っている高齢の人 たちが、思い思いに個人の果たせなかった欲望を 獲得しよう、達成しようとしても社会はよくなら ないし、バラバラな社ムができるだけです。 今の高齢の人たちは、冒頭に私が言った三つの 変化をみんな知っている。高度成長期、安定期、 そして崩壊期と。その中で何がよかったかを過去 にさかのばってることがで、さる。これは亠 9 ご′、 重要なことです。若い世代は、時代の変遷を知ら ないから、人間関係の価値や変化のプロセスを理 解できない今ある自分、今ある関係をただ受け 価値観を「麻痺」させる子育て 山極さん御自身、御家族をお持ちになって発見 したこと、教えられたことは何ですか 山極家族というのは、実は他人とのつき合いか ら始まる。要するに妻と自分には全く血縁関係が ない。しかも歴史を共有していない。育ってきた プロセスは知らないわけですから。他者ですよね。 他者との間に子供をつくる。子供はゼロから自分 が責任を負うわけです。あるいは子供にとったら、 もう既にゼロから自分を取り巻いている人々がい る。それは一生つき合わなくてはならないもの。 それを僕はネガティブなものと考えていたけれど も、ポジテイプなものかもしれない い J 一フ二い , フ↓」」、刀し」ー , , フ・し」 、子育てをやってみた ら膨大な時間を子供に対して与えなくてはいけな いことがわかる。あらゆるものを犠牲にして。子 供か病気になれば何もかも捨てないといけよい。 それは戻ってくるものではない。ただ 価値観をそ こでいったん麻痺させて、誰かのために自分の時 間を捧げるのは、非常に人間的な行為です。人間 的と一一一一口うよりも、むしろ生物としての行為です。 しいカ、わ力、らない とうやったら、 入れるしかない。。 そこをみずから実践できるのは、高齢者だと思い ます。それをやらないとまずいと思います。私も 高齢者になってきたから。 ゴリラもそうなんだから。そして人間はそれを大 きく広けたのです 自分を犠牲にする行為がなせなくならないかと いうと、根本的にうれしいことだからです。母親 は自分のお腹を痛めて産んだ子だから当然かもし れないし、養子に迎えた子や、あるいは近所の子 であっても、子供に対して尽くすのは、人間にと って大きな喜びです。歪十なことになったり、ア クシデントが起こったときに、子供を助けてやり たいと思う気持ちは、人間が共通に持っている幸 福感なのです。それがあるからこそ、そして分か り合えるからこそ、人間は存在すると思うのです。 私はアフリカで ZCO の活動をずっとやってき ました。文化も社会も違い、言葉も違う人たちだ けれども、何が一番根本的に了解し合えるかとい ったら、「未来のため」ということ。子供たちの ために何かをしてやりたい、 現在の自分たちの利 定で世界を解釈してはいけない、自分たちの 持っている資源を未来の子供たちに託さなければ いけないという思いです。そういうことを重荷と 田 5 ってはいけないのです。 人間というのは、現実から来る抑制ではなくて、 タイムスケ 1 ルの長い過去と未来に縛られる抑制 によって生きている。それが人間的なものだと思 います。それを一番実感できるのが、子供を持つな て ということ、家族をつくるということなのです。っ 家 家族に何か事件が起これば、今やっていることを 9 4
動物からお乳を利用できるようになった、あるい は消化効率が良く、毒素の少ない食糧を生産でき るようになって、人間の内臓はもっと小さくなっ たり、十分に大きな脳をつくれるようになった。 だけど、現代人の脳の大きさに達するのは六十万 年前ですから、最後の食糧美叩が起こるずっと前 、大きさの面たけでいえば、人間の脳は完成し ています。 その大きな脳は集団の大きさに比例しています から、たくさんの人間が一緒に集まって生活する 社会的複雑性に耐えられるような時代が、六十万 年前には既に到来していたと思われるわけです。 人間の脳、すなわち千四百 8 から千亠ハ百 8 の脳 に適する人間の集団規模がどのぐらいかというと、 百五十人ぐらいと言われています。これは「ダン 1 数ーと言われ、実は現代の狩猟採集民でも、 幾つかの家族が集まってつくる「バンド」と呼ば れる地域共同体が、ほばその規慎だと言われてい ます。私はそれを、毎年年賀状を書くときに思い 出す人の数と一言うのですが、大体それが百五十人 ぐらい。つまり常に顔を覚えていられるような人 間、自分がある程度の信頼関係を持てるような人 たち。それが百五十人なのです。それは、言葉を 使って達成された人間関係ではありません。私た ちは日常的に言葉を使って人間関係を左右してい ると信じ込んでいますが、そうではない。顔を思 い出す、あるいは仕草や自分との関係を思い出す、 それが百五十人です。 実は、百五十人という集団の中には、さらに幾 つかの規模の集団がある。例えば家族です。ゴリ ラは家族的な集団だけで暮らし、それを超える集 団をつくりません。それは熱帯雨林に住んでいる からこそ保てる集団規模です。一方、チンパンジ ーは家族をつくらず集団をつくって暮らしていま す。これも家族と集団とを両立させず、集団た で暮らそうと思ったら、熱帯雨林が一番過ごしゃ すいからです。しかも、チンパンジ 1 は熱帯雨林 を少し出始めていますから、ゴリラより柔軟性に 富んだ力強い集団なのだと思います。 でも、人間はゴリラともチンパンジーともちか って、家族と社会という一一重性を持った集団をつ くることができた。それは、恐らく百五十人ぐら いの集団なのだろうと思います。その中に、家族 的な集団がある。それは、言葉を介さずとも保て る集団です。 言葉のいらない共鳴集団 家族みたいな集団は、もう一つあります。共鳴 集団と言いますけれども、要するにお互いが共鳴 するように一つの目標に向かって一致団結できる、 そういう集団です。たとえばスポーツです。その 適正な数は十人 5 十五人と言われていて、サッカ 1 のイレ。フン、あるいはラグビ 1 の十五人を思い 出していただければわかりますが、彼らはスポー ツをしているときに言葉をほとんど交わさない。 もちろん声はかけ合います。でも、日々顔を突き 合わせて、体を同調させて暮らしている中で、お 互いがどういう動きをすれば自分に何が求められ ているのか、あるいはどういう目配せでどう動け ばいいのかということを知っています。そのため 一つの生き物のように動ける。それが人間の 基本的な集団です。言葉は要りません。 そしてその外に、さらに三十人 5 五十人規模の 集団があります。これは例えばクラスです。学校 のクラスというのは三十人 5 五十人ぐらいです。 あるいは会社の一つの部、幾つかの課が寄り集ま った部です。先ほどの共鳴集団に相当するのが、 会社で机を並べている数だとも言えます。毎日机 を並べて顔を突き合わせていますから、健康に卩 題があるかもしれないとか、ちょっとこいっ気分 が悪そうだなんていうのも、顔つきや仕草でわか る。そういう集団がいくつか集まった部。誰かか 欠けていればわかる、あるいは一つの目標を立て れば、集まれる集団です。宗教の布教集団などが これに当たります こういった分節化された集団に、人間は個人で 幾つも属している。言い方を変えれば、毎日そう いった規模の集団を遍歴しながら暮らしを営んでな て いて、それが人間の非常にすばらしいところなのつ 家 です。人間は、一つの集団たけ 一つの家族だけ 7 3