高島 - みる会図書館


検索対象: 考える人 2015年冬号
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1. 考える人 2015年冬号

働きにむかって開かれていることを指す。高島は その典型的な人物だった。そうしたカは人と彼を 結びつけることにおいても強く働いた。一八七〇 ( 明治一一 l) 年、高島は、伊藤博文と大隈重信に東 京横浜間に鉄道を通す必要性を強く訴え、実現に こぎつける。横浜に今もある「高島」という地名 は、このときの彼の働きに由来する 高島学校が開校されたのは翌七一年で、七三年 には高島の手を離れている。松田の評伝によると、 高島学校は、六歳以上の子供に教育の機会を提供 するという目的で開校された。そこでは英語をは じめとした洋学のほか、四書五経を教え、『易 経』に至っては高島が自ら教えたとあるが、岡倉 一雄の一一一口葉にあったように人々には語学学校とし て広く知られたというのが実情たったろうたが 高島にはさらなる目的があったように田 5 われる 人が時代を作ることを高島は熟知していた ) ー、こ行にもあったが、 先に この短期間に高 島学校は、幾人かの逸材を輩出している。天心の ほかには、のちの総理大臣寺内正毅、寺内内閣の 外務大臣をつとめた本野一郎、分野は異なるが、内 村鑑三と札幌農学校時代から親友たった、のちに 植物学者になる宮部金吾も高島学校に学んでいる 入学したとき、角蔵は十歳、宮部は十一一歳だった。 のちに宮部が札幌農学校で植物学を講じたノ 1 トが残っている。この草稿を彼はすべて英語で書 いている。彼にとっても若き日に高島学校で英語 にふれた経験は小さくなかったと思われる。少年 この企図が実現することはなかったが、申し出を だった宮部と角蔵がどのくらい接近し得たかはわ 無視したわけではない。福澤は高弟たちを教師と からないたが、秀逸さにおいて同年代の一一人が して高島学校に送りこんだここでは詳論する紙 周囲の注目を集めただろうことは想像に難くない 幅を持たないが、福澤も高島と呼応するような精 神界への鋭い触覚の持ち主だった。彼が宗教に関 内村は高弟とも一度ならず訣別を繰り返すような 苛烈な人物だったが、 心を示さない、 いわゆる合理的な人物だったとい 宮部と内村の友情は特別で、 生涯変わることがなかった。 うのは俗説に過ぎない。後年、福澤は、キリスト 内村鑑三と岡倉天心に面識はなく、一一人の著作教のユニテリアンに接近する。高島は、優れた実 を見ても互いに関する一一一一口及はない。年齢は内村が 践家に息づく霊性、高次な意味における宗教性を 感じとっていたのかもしれない 一歳上になる。現象的に接点はないといってよい が、精神史的に考えるとき、話は変わってくる 高島学校で英語をはじめとした、洋学を講じた 鎖国時期を文化の胚胎期として積極的に認識して のは、福澤門下の人々だった。このとき、福澤の いることにおいて、また、「霊性」ある、よ 思想は、弟子たちを通じて、という間接的なかた し ( SPlr- ちであったとしても天心に流れ込んでいる。また、 ituality を論じた最初期の日本人であることにお いて、さらには明治期に英語で著作を発表してい 福澤諭吉の精神が天心にもっとも強く接近するの る点において接近する。こうした共振を考えると は九鬼隆一との邂逅においてである。九鬼はある き、宮部を間に内村と天心をつなぐわずかな線の とき福澤に出会い、強く惹かれ、志願して慶應義 痕跡を見付けてみたくなる 塾の門を日いた 文部省官僚として第一線で活躍 明治精神の意義と実相を考える「福沢・岡倉・ するようになった九鬼と福澤の関係には紆余曲折 内村西欧化と知識人」と題する論考で丸山眞男 があり、福澤とその周辺に抗する行動に出ること が、「内線回路」という術語をもちいて三人を貫 もあったが、九鬼の福澤個人への敬愛は変わるこ とはなかった。 く時代精神に言及しているが、こうした交差が、 のちに九鬼隆一は、文部省につとめていた若き 高島当子校で起ころうとしていたことは注目してよ 高島嘉右衛門は、学校に福澤諭吉を招こうと 天心を登用する。この人物こそ、天心の才能をい ち早く、また、はっきりと認めた人物だった。九 していたのである。破格の条件を提示し、福澤に 運営を任せようとした 鬼は、哲学者九鬼周造の父であり、その妻波津子 は、ある時期天心と親密な関係を持った。そのあ このときすでに福澤は慶應義塾を開いている 128

2. 考える人 2015年冬号

高島嘉右衛門の学校に学ぶ 天心岡倉覚三は、一八六三 ( 文久一 l) 年、横浜 に生まれた。 たが、この記述も精確ではない。彼の親が付け た名則は「角蔵」だった。父親は武士だったが、 一家は、かっては朝 明治になって商人になった。 倉家の家臣で、朝倉を名乗っていたが、あるとき から「朝」を「岡」に変え、岡倉の姓を名乗った。 子供は、文字通りこの新しく商家となった家の蔵 の角で生まれた 「角蔵」ではなく「覚蔵」だったという説もある 父は幾度か改名するのだが、覚右衛門と名乗って した時期があるからだろう。どちらであったとし ても、のちに本人はこの文字が気にいらず、自分 で「覚三」と改めることになる。いつのことだっ たかは分からないたが、遅くても十代の終わり 泉こよすでに「覚三」と記され にあたる学校の記金 ( ( ている。 明治維新は、徳川幕府から天皇家への政権の移 動というよりも、文字通りの革命、たった。このこ この革命が起こった とは今一度再考されてよい とき、角蔵は七歳である。視座の、あるいは地位 の逆転が起こり、価値と意味の転換があらゆると ころで生起した。政治の問題として起こったが、 それは宗教、芸術、学問といった分野にも強く影 響した。新政府の樹立と明治憲法の発布に象徴さ すみ れる行政、立法の世界で起こった変革は、市井の 人々にも大きく影響を与えた。多くの革命におい てそうたったように、 変わってはならないものさ えも変えようとした。のちに天、いは、美の世界に おいて、形而上の問題において、この無秩序な 「改革」の波と闘うことになる 当時の横浜は、今日のような大都市ではないが、 すでに国際社会にむかって開かれた場所たった。 横浜からは欧米の文化、風俗が日本に流れ込んだ その一つが英語である。角蔵もその影響を一身に 浴びることになる。彼が英語を習い始めたのは八 歳のころだった。『岡倉天心全集』 ( 平凡社 ) の年 譜によると、彼がまず学んだのはジェイムズ・、ハ ラ 1 の私塾で、その後、高島学校に学んだと記さ れている。この高島学校をめぐって、天心の息子 岡倉一雄の評伝『父岡倉天心』には次のように 記されている。入学したとき天心はすでに十歳に なっていた文中に出てくるジョン・バラ 1 はジ ェイムズの弟である 当時の横浜では洋学に志すものすこぶる多く、その需 要に応するためにニ、三の英学校を営む英米人があっ た。なかんずく、米人へポンの居留地に開いた語学校 と並んで、伊勢山下に設けられた高島学校は出色のも ので、教師としては、ジョン・バラーか教鞭を執って いた。そして、その語学校を出た幾多の人材は、やが て来たった明治文化の発展に協力し、相当の寄与をな しているようである天心もまた、同校に入学を許可 され、 ) ンヨン・バラーから英語の基礎教育を施された。 一見すると何気ない記述だが、天心の生涯を考 、んるとき、 いくつか重要な問題をはらんでいる。 高島学校は、単に優れた語学学校たっただけでは なかった。創立者は高島嘉右衛門で、横浜市の都 市基盤を作った実業家である同時にこの人物は、 占いを論じた『高島易断』の著者でもあった。だ が、今日流布している「高島暦」と高島嘉右衛門 の間には直接的な関係はない。高島の生涯は、松 田裕之の『高島嘉右衛門横浜政商の実業史』に 高島が、明治実業界の大人物であることは異論 を俟たないが、この人物をめぐる評価となるとさ まざまな意見がある。江戸時代末期一八六〇 ( 万 延元 ) 年、高島は金貨密造の罪で逮捕、投獄され る。そこで出会った人物に易を教わった。六五年 に赦免され、このとき、名則を嘉右衛門に改めた し」、つ , 」 0 もともとの名前は「嘉衛門」 経済活動は、現代人が感じているよりよほど霊 的な才能を必要とする。現代でも優れた実業家が 同時に優れた霊的感覚をもっていることは少なく ことに明治のような変革期にはそうした人 物によって時代は牽引されたここでの「霊的」 とは、いわゆる貧しきスピリチュアリ、スムとはま倉 7 ったく関係がない人間を超える大いなる存在、 2

3. 考える人 2015年冬号

現代日本文学の紹介者、アッコ・リッカ・スガ 松山須賀さんをめぐる対談をするならば、ジョ ルジョ・アミトラ 1 ノさんがい ( 、と思ったんです。 僕よりはるか前から須賀さんをご存知で、交友を 深めていた方だから。アミトラ 1 ノさんが、須賀 っ頃ですか ? さんの存在を初めて知ったのは、い アミトラーノ私が一一十歳、ナポリ東洋大学で日 本文学を専攻していたときのことです。とても古 い本を古書店で見つけました。書名は日本語に訳 せば「日本現代文学選」でしようか。翻訳者がア ッコ・リッカ・スガとあり、日本人なのかイタリ ア人なのか、よくわかりませんでした。 一九七〇年代末の当時は日本文学のイタリア語 訳はほとんどなく、何であれ、見つけたらすぐ手 に入れて読みました。作品の選者も須賀さんで、 イタリア語訳の美しさだけでなく選び方も見事だ ったと、 いまでも思います。そのころ私が知って いたのは谷崎潤一郎と川端康成くらい、それから 三島由紀夫。あとはほとんど初めての作家ですが、 なかにとくに好きな中島敦の短厨がありました。 松山「名人伝」ですね。 アミトラーノそれに感銘してほかの作品も読み たくなり、結果的に私は卒業論文で中島敦につい て書くこととなりました。 松山のちに日本に来て、中島敦について卒業論 文を書きたいので、須賀さんに相談なさったとい う話を聞きました。 アミトラーノええ、私の日本文学の教授マリ ア・テレーザ・オルシ先生の紹介で。須賀さんに 電話すると、すぐに約東してくださって、上智大 学に行き、はじめて会いました。 松山日本では、どの大学に留学されたんですか アミトラーノ慶應義塾大学です。でも、それ以 前に自費で一一か月間たけ日本に来て、須賀さんに 会いました。そのあと、須賀さんがイタリアのナ ポリ東洋大学で客員教授をされて、その一一年後、 私は奨学金を得て慶應に一年間留学しました。 松山ちょっと話はもどりますけれど、アミトラ 1 ノさんが日本文学に興味をもったというのは、 イタリア人では珍しいんじゃないですか ? アミトラーノそのころは珍しかった。入学した ときは八人で、卒業したのは二人か三人くらい 途中でやめた人の方が多かったのです。 松山谷崎、川端、三島をご存知だったというの は、翻訳されていたからでしようが、イタリアで 人気があったんですかアミトラ 1 ノさんが高校 生のときに谷崎や川端や三島に興味をお持ちだっ たとはちょっと不思議な感じがするのだけれど アミトラーノ私、ちょっと不思議な高校生でし たいろんな意味で 松山ははは。 アミトラーノそのころの普通のイタリア人の学 生は谷崎や川端は読まなかった。 松山谷崎や川端は名文家、きれいな文章ですけ 中島敦にいった、それもまたちょっと不思議 な感じがしますね。 アミトラーノ須賀さんはそう驚かなかったです。 松山これ、大岡昇平が序文を書いていますね。 「俘虜記」の一部が入っている。漱石の「坊っち ゃん」、鏡花の「高野聖」、外「高瀬舟」・ アミトラーノあとは太宰治「ヴィョンの妻」だ とか、川端康成「ほくろの手紙」。 松山ちょっと不思議な作品。ェロティックでね。 アミトラーノそれから、一葉の「十三夜」、石 日淳「紫苑物語」、ほんとうに素晴らしい作品ば 、刀り - 松山須賀さんが、紫苑にあたるイタリアの植物 がわからず、ペッピ 1 ノさんのお母さんのところ へいったら、ああ、これだとわかったという話を、 なにかに書かれていますね。 「俘虜記」が入っていて、それで大岡さんに序文 を書いてもらおうと田 5 ったんでしようが、僕は、 々 最初から戦争の匂いがしたんですね。全体的に 花袋の「一兵卒」とかの日露戦争、志賀の「范の 出 犯罪」も日本統治下の台湾の物語ですし、林芙美 本 子の太平洋戦争の後を生きなきゃならない女の話け 愛 である「下町」も、太宰治の「ヴィョンの妻ーもの そう。日露戦争以後の日本の戦争の影響下にある 賀 須 作品を選んでいるなあ、と。戦争の傷跡は、ヨ 1 談 対 ロッパ人には今なお身近ですから。 7 9 、、 0

4. 考える人 2015年冬号

加し、制度的にも充実を見た時期であった。 192 5 年に 957 園であった総数が、 1931 年までは 毎年 100 園の割合で増大している。独立した法令 として「幼稚園令」 ( 1926 年 ) が公布されたが、 他にも文部省訓令では、幼稚園の目的として「自然 及人事ニ属スル観察」という項目が掲けられた。こ の設置目的に比べて、校舎設備は一一義的なものと見 なされた。家なき幼稚園が運動として可能となった のは、 , 」うした法令の整備によるものである。 家なき幼稚園を主唱したのは、教育家にして社会 啓蒙家の橋詰せみ郎 ( 1871 ー 1934 ) であった。 せみ郎は本名を良一といい、尼崎に下級武士の子と して生まれた。小学校を卒業すると代用教員を務め る。この辺りの出自と経歴は、若干の年度差こそあ れ高島平三郎にも、四方田保にも似ていなくはない。 明治時代とは、没落士族の困窮した家庭から情熱的 な教育者や法豕が輩出する時代たった。橋詰は学 資を得て兵庫県尋常師範学校を卒業すると、大阪市 の小学校や関西女学院で、川年にわたり教員生活を 送る。 1906 年 ( 明治年 ) に大阪毎日新聞社に入 社、教育担当の記者となるが、病を得て退社。 19 10 年代の中ごろから、啓蒙的ジャーナリストとし て旺盛な活動を開始した。もっとも新聞社時代から 宝塚少女歌劇のため脚本を執筆したかと思えば、自第… 動車を用いて「婦人社会見天三を企画していた 1926 年には京都で「こども博覧会」を開催し、 書を廻し、「池田家なき幼稚園」を開設する。開設 玩具、育児用品、小児医療用品を展示して大成功を といっても、園舎があるわけではない。 毎朝、園児 収めた。作詩作曲にも才能を発揮し、童謡はおろか、 たちは橋詰の自宅の前に集合し、近くの呉服の 「オヤビョンビョン、盆の踊りは親孝行踊り」など 境内でまず山田耕筰作曲による「家なき幼稚園の という盆踊り歌の作詞作曲までしている。家なき幼 歌」を合唱。次いで 2 人の保母に引率され、近く 稚園とは、このユニークな教育ジャーナリストが、 幼児は既成の家屋のなかに閉じ込めてはならず、広 く自然を教材として遊び学ばなければならぬという、 強い信念のもとに始めた運動であった。 1922 年、橋詰は池田市室町の自宅近所に趣意 1 ある猪名川や大光寺の森、城山の原つばなどへ出か ける。折り畳み式の椅子や組立て机、さらに移動可 能な簡易ォルガンなどが、このときいっしょに連は れる。園児たちはこうして自然のなかで歌ったり踊 ったり、クレョンで絵を描いたりして午後までを過 ごす。先にも記したように、家庭制度の延長上にあ る通常の幼稚園では歪尤分であるというのが、橋詰 の理念であった。 橋詰のこの池田での試みは成功し、たちまち人 の入園申込みを得た。最初は師範学校出の保母たち を雇い入れたが、彼女たちがあまりに官僚的な児童 観しか持っていないことに失望した橋詰は、自分の 娘を保母に仕立て上げて起用した。彼は大阪府から 「家なき」という名称はどうも認可のさいに困ると 号 いわれ、やむなく公式には「自然幼稚園」として届 け出た。だが家なき幼稚園は評判を呼び、阪急沿線 は - 3 の各駅の住人たちの間から同様のものを設置してほ しいという要望が相次ぐこととなった。その結果、 レ」 優 1924 年 ( 大正年 ) から年にかけて、宝塚、十 三、箕面、大阪 ( 市内 ) 、雲雀ヶ丘、千里山の 6 か 了 所でも、同じ幼稚園が開設されるようにな「た。そ 園 稚 の箕面の幼稚園で園長を務めることになったのが柳 子である。 1910 年、小林一三が私鉄電車の終着駅と定め たときから、箕面という小さな村は大阪神戸のモダ ニズムの実験場となった。小林はここに動物園を設方 置し、近くの桜井に分譲住宅を建設した。動物園はの やがて宝塚に移転し、少女歌劇とともに彼の地の観 光名所となったが、箕面はその後も大阪近郊の閑静母 な住宅地として発展を続けた。保が一家をあげてこ いちぞう

5. 考える人 2015年冬号

去ることはできないからだ。一一一口語は意識的見象で には読みとり得る空間が広がっているだけで、何 とも九鬼と天心をめぐっては、人生の節目で複雑 あると共に深層意識と深くつながっている。いわ かを読みとることを強いるようなものはない。 な出まが起こることになる ば表層的な意味を示す外的一一一口語のほかに、人は誰 さらにいえば、オリオン座という天空の分節の も生来的に内的一一呈の体系をもっている。外国語 仕方は、西洋の天文学の常識であって、東洋には 英語というもう一つの「眼」を開く を抵抗なく読み書き、話すことができたとしても、 まったく異なる星の読み解き方がある。同じこと 意識下では母語への翻訳が毎瞬行われているので は雑草という一言葉をめぐっても言える。雑草であ 英語を学びはじめた角蔵の上達ぶりは目を見張 ある。 るかどうかは、人間における有用性において判断 るものがあった。言葉は乾いた海綿に水が吸い込 だが、それだけならば文化間の交わりは閉鎖性 される。植物療法を学ぶことで雑草に埋め尽くさ まれてゆくように少年に浸透して行った。英語に を深めるにすぎない相異するものと対峙するこ れていると思われていた光景が、薬草の沃野に見 おいて、「とくに会話は、英米人の間に立ち混っ とは自己を見つめる絶好の契機になる。母語とそ えて来ることもある て退けをとらぬまでに上達し、英文もまた、一通 それぞれの人間、それぞれの文化、それぞれの れ以外の一一一一口語の差共が正当に認識されるとき人は、 りの意見を書きあらわすに差し支えなくなってい 0 外国語を通じて、母語をより深く、また微細に認 云こ書いている 時代が、固有の世界を認識している。異なる文化 た」と岡倉一雄は評イ ( 識することができる。新たな一言語は、母語を通じ に生きるとは、別様に世界を見ている、というこ 新しい言語を身につけることは、異なる文化圏 て認識する世界の像を、微細によりはっきりと映 に暮らす人々との対話を実現する。だが、一言語を とでもある。たとえば、英語の beauty は、たし し出すレンズのような役割をもっている かに美を意味するが、古い日本語では「美し」と 会得したことによる可能性は、そうした可視的な 角蔵と英語に言及し、随分と遠いところに来た 書いて、「うつくし」とだけでなく、ときに「か ことだけに収まらない。習熟すれば、もう一つの オしたカ、これまで論じて と思われるかもしれよ、 なし」と読む。「かなし」は、「悲し」だけでなく 「眼」を開くことになる。習得する前には見えな 「愛し」とも書く。もちろん、 love と愛も同じ事きた一言語と世界認識の問題はまさに、角蔵、そし かったものが、外国語の単語一つを知ることで見 てのちに覚三、天心となった、この人物のなかで えて来ることがある。一一十世紀ドイツの一一一一呈学者象を意味しているのではない。 love は、恋とも 実現されていったのである レオ・ヴァイスゲレ。、 違う。日本語を母語とする文化圏においては、美 ノノ 1 が、一言語と世界認識をめ 流暢な英語を話す少年に周囲の大人たちは驚い はどこかで、悲しみと愛おしさとつながっている ぐって興味深い指摘をしている。人間は、それぞ ていた。高島学校に入り、英語を覚え始めたころ 英語とは異なる多層的な世界を構築している。こ れ用いる一一一一口語によって世界を別に言していると だった角蔵の母が産後の肥立ちが悪く急逝して いうのである の感覚のまま、英語の beauty を読んでゆくと文 しまう。それからしばらくして、残された父と角 意の誤差は著しく拡がって行く たとえば、星座を知らない者が Or 一 on という 蔵が出掛けたときのことだった。一一人は来只と神 それならば一一一一口語を習得するたびに世界観が変わ 英単語を学び、空を見上げると、オリオン座が存 とんなに 奈川の境を示す標識を見る。父は角蔵に読んでみ倉 るかというと問題はそう単純ではない。。 在するようにも見えて来て、暗闇と点在する光だ った空間に意味が生まれる。だが、そもそも天空外国語を流暢に話すようになっても、母語を消し ろという。しかし、角蔵は一文字も読むことがで四 0 0 0 0 0 0 0

6. 考える人 2015年冬号

須賀敦子編訳 『日本現代文学選』 後は一一人いっしょに読み直して、あちこち直した りしました。ほんとうに楽しい仕事でした。銀獅 子賞をもらったのは私たちの字幕のおかげよと、 もちろんこれは冗談で、須賀さんは言いました。 そのあと、石川淳の作品も一一人で訳そうという 話もありましたけど。 松山室福千年』ですか アミトラーノそう。でも、実現しなかった。私 は字幕の仕事が終わってすぐにイタリアに帰って、 そんなに長く一緒にいる機会もなかったから。 松山須賀さんが最後に入院する前に電話がかか ってきて、そのときに、毎日手紙を出すと、つい 言っちゃったんです。毎日なんか手紙書けない。 でも、三、四日に一通くらいずつ、手紙を出しま した。書くことなくなって、絵はかり描いて遊ん でいた。それを妹の良子さんに見せて、松山さん の今日の手紙はよかった、この前のはダメね、と手 紙の採点をしていたそういうことがありました。 ポンビアーニ社より刊行 (Narratori giapponesi moderni, a cura di Atsuko Ricca Suga : introduzione di Shöhei Ooka. MiIano : Bompiani, 1965 ) 序文・大岡昇平 夏目漱石「坊っちゃん」 森鵰外 「高瀬舟」 樋口一葉「十三夜」 泉鏡花「高野聖」 國木田独歩「源叔父」 田山花袋「一兵卒」 志賀直哉「范の犯罪」 菊池寛 「忠直卿行状記」 谷崎潤一郎「刺青」 谷崎潤一郎「夢の浮橋」 芥川龍之介「地獄変」 井伏鱒ニ「山椒魚」 * 改稿前 横光利一 「春は馬車に乗って」 川端康成「ほくろの手紙」 坪田譲治「お化けの世界」 太宰治 「ヴィョンの妻」 林芙美子「下町」 月羽文雄「厭がらせの年齢」 井上靖「闘牛」 大岡昇平「俘虜記」 三島由紀夫「志賀寺上人の恋」 深沢七郎「東北の神武たち」 石川淳「紫苑物語」 庄野潤三「道」 中島敦「名人伝」 僕は須賀さんのお見舞い、怖がりだからなかな たぶん、疲れたんじゃないかな、と思いました。 か行けなくて、亡くなられる一か彑則くらいにお 松山人に気をつかっちゃうんですよね。見舞客 会いした瞬間、これは須賀さん亡くなるなあと思 に気をつかわなくてもと思うんだけど。 ったんですけれど、アミトラ 1 ノさんは、いっ頃 アミトラーノそれもあったのでしようけど、た 行かれたんですか ? ぶん、もう会えないから、言えることは全部言い アミトラーノ二か月、三か月前かもしれない。 たくて。いまとても後悔しているのは、そのとき よくおばえていませんけれど。何回も電話で話し も、その前も、須賀さんの亡くなることが私には ました。私が、じゃあ日本に行こうと言うと、来想像できなかった。だから、メモや日記を書かな なくていいと彼女は何度も言いました。 かった。彼女のおもしろい話は憶えているところ ある日須賀さんが、もし私ともう一度会いたけ もありますけれど、たくさんのことを忘れました。 れ、よ、いま来たほうかしし 、と一言いました。それで、 松山入院中に会ったそのとき、須賀さんは未完 私は壅に来ました。 の小説のことなど、何か話していましたか。 松山まだ元たったのかな。 アミトラーノ須賀さんから、書きたい小説とか、 アミトラーノ私は、一週間ほどいましたけれど、 そういう話をいつばい聞いたんです。私は彼女か その一週間に、良い日も悪い日もありました。最 ら呼ばれて、重い病気たとわかっていたのに、や 初の日は、彼女は何時間も話してすごく元気でし つばり、なぜかその瞬間たけ楽しんで、記録した た。でも、その翌日病院に行ったら、看護師さん りはしなかった。そのことは、とても後悔して ( ます。 は、今日は調子が悪いから会えないと言いました。 松山そうですね。僕も手帳とか日記とかつけな々 人 いんで、須賀さんとずいぶん会っていることは会 っ っていますが、どこで、いつ、会ったのか全然わ会 からない。たまたま、そのとき、誰かいるとその本 こし J が手がかり・になる′、、らい 愛 アミトラーノこんなに素晴らしい本を書けたの子 ですから、だいじようぶじゃないですか第・ 須 ( 二〇一四年十月六日、ジュンク堂書店瞿店にて ) 談 3 0

7. 考える人 2015年冬号

やと。而して翁か画学上に於て最も切に論弁したる所 鈴木大が『日本的霊性』を著す半世紀前に霊性 は照応の理是なり。 の形而上学と呼ぶべき体系を樹てている。天心と 弁栄の関係はのちに改めてふれることがあるだろ 「美憊小」との一語は、柳宗悦がいった「美の法 う。一一人は共にインドを訪れている。彼らにとっ 門」を想起させる。彼らにとって美術とはついに てインドは釈迦の生地であり、アジアの霊性の淵 原ヾこっこ。 高次の「宗教」に達するものだった。ここで「照 応」とは、大いなる世界と人間界が共振すること 「宗教」と「霊性」の関係をめぐって弁栄は次 を示す。その様を、そのつながりを描きだすこと のように書いている。 が芳崖の眼目だったというのである。天心の芳崖 論は、この画家が人に語り、筆記させた数ベ 1 ジ 霊性は無限の大霊に接触する裔である。大聖釈 にわたる絵画論を引用し、終わっている。そこに 迦神の子キリスト其他の聖人衆の大なる金剛石の霊性 は次のような求道する画家の内心の事実がまざま に心霊界の太陽と仰ぐ所の真神即ち無量光如来の大霊 ざと描かれている。芳崖はこう語った。「博く古 光が反映したる光輝が東西に一切の人類界の霊性を照 あまね 人の第思を壓袰に蔵し、普く内外の妙画を胸中に したるが即ち宗教である あらざ 蓄へ、運筆に熟し意匠に富むに非れは紙幅に臨み ( 『弁栄聖人要集人生の帰 ) 自在なる能はさるは言を待す」。画は、個人の営 みではなく、古人との協回だと芳崖は信じた。自 霊性は、大霊と呼ぶべき大いなるものにふれる 分の手が画くのではなく、歴史が自分を用いると 「機関」である。彼方なる世界から射し込む光が、 いうのが彼の実感だった。 釈迦、キリストといった聖者を通じて世界を照ら 天心とフェノロサ、そして芳崖が試みたのは、 し、人間に内在する霊性に働きかける、それが 日本美の再発見と西洋美との融合であるよりも、 「宗教」だというのである。こうした意味に従っ 東西霊性の邂逅である。弁栄が霊性を語るとき、 て、先の天心の一節をもう一度読んでみる。「人 生各自独立の宗教なかるべからず」、超越的世界釈迦とキリストを一なる役割をになった二つの存 芳崖の絵に描き出されて 在として述べていたが、 にむかう道は、人それぞれ異なってよい いるのも同質の次元である。 のである。この一節に天、いはこう続けている。 この世において宗派はしばしば強く衝突する だが、霊性の次元において宗派は、互いを補い 美喪の宗教は美熏不あり、復た何そ他に之を求めん ひろ 高め合う。仏教を信じる者が観音と呼ぶものを、 キリスト者は聖母と呼ぶかもしれない描かれて いる幼子に生まれたばかりのイエスの面影を見る かもしれない。芳崖の悲願の表現となった「悲母 もっとも高次な 観音」は、狭義の仏画ではない。 意味での「宗教画」であり、霊性の表現だった。 一八八八 ( 明治一一一 ) 年、芳崖は「悲母観音」 を残して病に斃れた。六十歳たった。天心とフェ ノロサが心血を注ぎ設立した只美術学校の教員 に内定していたが、彼が教壇に立っことはなかっ たたが、芳崖の試みは、その後、天心門下の大 観、蠢早、観山をはじめとした画家たちに受け継 がれた。天心の高弟たちが描きだそうとしたのも 「霊性」の世界、「照応の理」だったのである。 主な参考文献「井筒俊彦著作集第四巻意味の構造」 ( 中央公 論社 ) 、岡倉一雄「父岡倉天心」 ( 岩波現代文庫 ) 、「岡倉天心全集 別巻』 ( 平凡社 ) 、清見陸郎「天心岡倉覚三」 ( 中央公論美術出版 ) 、 清水宙天子「岡倉天心の比較文化史的研究」 ( 思文閣出版 ) 、中村愿 「狩野芳崖受胎観音への軌跡」 ( 山川出版社 ) 、松田裕之「高島嘉 右衛門横浜政商の実業史」 ( 日本経済評論社 ) 、山口靜一「三井寺 に眠るフェノロサとビゲロウの物巴 ( 宀ロ出版社 ) わかまっえいすけ 批評家。「三田文学」編集長。一九六八年生ま れ、慶應義塾大学卒業。主な著書に「井筒俊彦 叡知の哲学」、「神秘の夜の旅」、「死者との対 區、『岡倉天心「茶の本」を読む』、『君の悲し倉 岡 みが美しいから僕は手紙を書いた」他。

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イタリアでダンテを学ぶように、なぜ日本では子どものときに源氏を学ばないのか。 ってる作品だけ翻訳したわけじゃないですから。 と、はじめてその翻訳を読んだとき、ナタリア・ アミトラーノ中島敦は例外ですけど。 イタリア人、あるいはヨ 1 ロッパ人にとってわか 松山石川淳の「紫苑物語」も例外といえば例外ギンズブルグに似た印象があったそうです。 りやすいイロ ( 佃力ということをすっと考えなが 松山谷崎とギンズ。フルグは、どう似ているので ですけれど、これも戦いの話です。そういうこと ら選んでいったのだろうと思うんです。 はあまりお感じになりませんでしたか ? アミトラーノきっと、そうですね。その短篇を アミトラーノギンズブルグは『細雪』の谷崎の アミトラーノそのときは気がっかなかったけれ 選んだ理由についてはあまり話さなかったけれど、 ように、日常生活の流れを描くのが得意でした。 いま田 5 い返せばそうですね。そう思います。 川の流れ 中島敦と石川淳の作品のことは、私たちの会話一 大した事件もなしに日々が続いてい 松山イタリアの王国樹立と日本の明治維新は十 何回も出ました。 のような動きを、谷崎もギンズブルグもうまく描 九世紀半ばと同時期ですし、共に第一一次世界大戦 リ 1 セとい - フィタ そのあと、ゴッフレ 1 ド・ きました。そして、ふと気がつくと、このふたり の敗戦国で、イタリア人にもわかるような選択を ノリ 1 ゼは、この リアの作家が日本にきました。。、 の小説のなかで、日常生活がいつのまにか人生そ したんだろうと、目次を見たときに感じたんです 本で「紫苑物語」を読んで非常に気に入り、石川 のものに変貌しているのに気づきます。つまり、 よ。谷崎が二つ入っているのかな。 淳に会いたいと言って、須賀さんの紹介で実現し つまらない現実がなにかもっと大規模なものにな アミトラーノ「刺青」と「夢の浮橋」。谷崎だけ っているんです。 たのですが、この二人の対話はあまりうまくいカ 一一つ。どうしてでしようね。 なかったみたい 松山須賀さんがあれほどナタリア・ギンズ。フル 松山やつばり好きだったんでしよう。須賀さん、 松山それ、僕も聞いたことがあります。須賀さ グが好きだったというのもわかるような気がしま 『瘋癲老人日起まで訳している。 んとどじよう鍋を食べにいく車のなかで、石川淳 す。やつばり影響されたんでしようね アミトラーノたぶん、須賀さんの谷崎翻訳のな なら、どれが好きか訊いた。訳してる「紫苑物 アミトラーノそう思います。『武州公秘話』に かでいちばん素晴らしいのは『武州公秘話』。こ 一 = 巴かと思ったら、それではなくへンな話、なん はすこしアンテイミスト ( 親密 ) なところがあっ れはほんと , フに聿糸主卩らし、 ていったかなあ。革ム叩とか明日起こることが言事 て、ギンズブルグの『ある家族の会話』とか『マ 松山それはど一フい - フところが ? にはる新とカ、そ , フい - フ ンゾ 1 ニ家の人々』とかの、ああいう雰囲気が漂 アミトラーノ原作の素晴らしさは一言うまでもあ アミトラーノおばえていません。 っていたみたい。 それはガルポリさんの意見です りませんが、須賀さんの翻訳はイタリア語の細や 松山ちょっと不思議な話で、最後に主人公が抜 けど、私も賛成。 かなニュアンスを実にうまく使っています。批評 き手をきって運河を渡ってゆくんですけどね。あ 松山よく選んだものだと咸皎します。これを選 家のチェ 1 ザレ・ガルポリさんは、須賀さんの翻 あ、「鷹」だった。革命伝説という評がありました。 ぶためには、そうとう読まなければならない。知 訳の素晴らしさについて書いています。彼による 8 9

9. 考える人 2015年冬号

こに移転したのは 1916 年のことである。 柳子を園長とする箕面家なき幼稚園を可能にした のは、ひとえに岸本汽船が協力を惜しまなかったか らである。岸本汽船は本来が海運業者として出発し た。三代目を継いだ岸本兼太郎は第一次大戦によっ て巨利を得ると、小林が放棄した箕面動物園の跡地 を別荘地に切り替え、「箕面土地会社」なる不動産 会社を設立、宅地造成に乗り出した。また財政難で 四苦八苦していた小林を再度にわたって助け、阪急 電車が神戸線を開通させるのに尽力した。兼太郎は 教育事業にも積極的で、 1926 年には箕面学園尋 常小学校を設立し、それは後に箕面自由学園として 現在に至っている。こうした一連の箕面開発の一環 として、岸本汽船は現在の箕面公園の一角、箕面学 園小学校の隣に、幼稚園のための土地を提供したの である。 1924 年 6 月、柳子は箕面家なき幼稚園の初代 園長として、女子大時代から夢見ていた児童教育家 としての道を歩み出した。橋詰が最初に手掛けた池 田の幼稚園が「お宮の幼稚園」と呼ばれたのに倣っ て、箕面の幼稚園は「山の幼稚園」という愛称を得 た。最初の園児たちのなかには、柳子の実家、矢野 家の係累に当たる飯國キョの幼い顔もあった。子供 たちは端午の節句には鯉のばりを揚げ、七夕には飾 りものを作って願いごとをした。池田や雲雀ヶ丘の 園児たちと合同で、明石まで遠足に行くこともあっ 大阪禹の家なき幼稚園では園児の送迎に 人ほどが乗車できるフォードの大型車が 2 台使用さ れたが、 ' おそらく箕面においても同様の大型車が用 いられていたはずである。記録によれば、大阪での 、、 0 には、まず表紙を開くと箕面土地会社の全面広告が 自動車使用には 1 か月円の経費がかかった ( 19 飛び出し、続いて 7 つの家なき幼稚園からの報告や 32 年 4 月 ) 。そこから推測するならば、幼稚園の月 園児の父兄からの投書などが掲載されている。北原 謝はおそらく 3 円から 4 円を徴収していたものと推 白秋から巌谷小波、賀川豊彦、薄田泣菫、また神話 測できる。これは当時の物価水準からすればけっし て安いとはいえなかった。にもかかわらず箕面の新学者の松村武雄といった面々が、童謡やエッセイを 寄稿している。そのなかに「自然物手技」と題して、 箕面の家なき幼稚園の保母からの報告が寄せられて 家なき幼稚園長翡饂橋詰良一著識大 , いるのを紹介してみよう。箕面の奥深い渓谷や広々 大 主年 京知 と続く草原のなかで、柳子が園児たちとどのような 《ー第ー第 : 。、夛ま ! 。、当幼知遊戯に興じ、どのような手作り玩具を老蓁してした 第六情製の紀第一三野外差載の自第ニ一母のお番との 【目歌内容】 第セおき催第の修養 な瞹 かが髣髴されるからである。 ー・まれ物土 : 人竹 ~ 第れ、の第′らー ! 第のれめ 第一計第の動査 0 第一五 5 日のお第び 第ニ勲の目指すところ第れ関後の第評 告 め・、・食上 1 いーーまー 木の葉の籠。木の葉とタンポポの電車。桜の葉と 第一穴健銀上の要 第ー女庭のま 第一セ使丁の第応 ・・ , 曾郎広 ”に、つんた : のす物 , 。中驫一第一一五上・物 ~ 三の 見第ー製第のつ ( ら ~ 第一 0 各増 ~ 6 等新 で宿まⅢ物 第一一保の内 第三名のおこる所以 保物のロはーは“の第富は第一 ^ 郎外から第市、 第ニ六効種の一設化一五 第圏最初の理想第 ! 保項Ⅱり・収 : 第な、・新 - 村をふよす・第歳 ! 、 みの松葉の虫籠。芦の葉の弓と矢。木の葉の蝶々。タン 製の一“ー第 : に物見の 月口をら人第第・ . 第ニセ様學と炊の載 第五関のを強 からー各わ年中行物 ・ 0 内容にー・自ドま第機 ・第一一八第集 詩第 : 一の ◆美第なも 工あ■カー・の第所ー用具事大強・、、 4 ーをは第第一れ自動から電阜へ 外、 第ニ 0 小との終 : 直第載十第入◆ に載 - 、の解震 橋実ポポの輪つなぎ。レンゲ草の眼鏡。栗の葉の飛行船。 木の葉のアイスクリーム入。花びらつなぎ。藤の葉 と艶紙のトンポ : : : 女子大時代に高島平三郎から、 子供の玩具は毀れやすいものがよく、原色が好まし いと教えを受けた柳子は、年後に実際に子供たち が草木を素材に自由に老蓁した玩具を、次々と手に することになった。 情熱の中断、死 もっともこの至福の日々は長くは続かなかった。 もとより病弱であった柳子は、その上に疲労が重な ったため、外出を控え、寝所に臥せる日が少しずつ 増えてきたのである。婦人会も、幼稚園も、いっし か他人に任せる日々が続くようになった。そうした 柳子を見かねて、保は母屋のわきに 3 部屋からなる 離れを新たに設けた。飛び回る子供たちから離れて、 興住宅地に居住を始めたホワイトカラ 1 の一家は、 争って子弟をこの幼稚園に入園させようとした。 橋詰せみ郎はみずから主幹となって、 1920 年 代後半から年代前半にかけて、幼稚園運動の機関 誌『愛と美』を発行している。「児童愛、生活美」 という角書きをもったこの判間頁ほどの月刊誌 箕面の山を負て南に開け 暖い住宅地を一度御覽下さいませ 理想の小學校「糞面學園」 もあリます 理想の幼稚園「面自然 幼稚園一もあリます。 貸家も美しくて巖、こ ご天下無類です。 家なき幼園 西洋貸家の一ッ 所務事社會地土面箕 代国面箕電 ) 丁ー凡に東りよ點終面箕急阪 川川Ⅲ目 箕面土地会社の広告。「愛と美」 1932 年 5 月号。 いろカみ

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、、。、 1 ルに向かった。カトマンズに着いたのは夜メラビ 1 クはその則哨戦を兼ねていたようだ。そ が八〇〇〇峰への登山経験があり、ラッセルに 一一一一口わせると「例年になく国際的で、かっ強力なメ中だったが、客引きや物乞いもインドのように強の後、一一〇一三年に八十歳でまたまたエベレスト 引ではなく、一人旅の緊張感がほどよくほぐれた に行くなんて、当時は誰も田 5 っていなかっただろ ン、ハ 1 が集まった」とのこと。このようなメンバ 1 の中で、果たして自分がどこまでいけるのか不のを覚えている。あの路地で野良大に追いかけらう。そういう時代たった。 当時は低酸素室と呼ばれる部屋を持っていたの 安になってくる。ちなみに、ばくはそれまでに北れたなあ、などと思い出に耽っているといつのま にかレストランに到着していた。エレベ 1 タ 1 では、自衛隊か鹿屋体育大学くらいで、ヒマラヤを 極・南極に滞在し、六つの大陸の最高峰に登頂し たというだけで、八〇〇〇 E 峰の経験はなく、ど最上階にあがり、扉が開くと、大テー。フルで十人目指す登山者は鹿児島に行ってトレーニングをす ることがあった。低酸素室は、文字通り酸素濃度 ちらかといえば、垂直方向ではなく水平方向の旅ほどの日本人が談笑しているのが見えた。そこに は、当時七大陸最高峰に最年少で登頂して有名にの低い部屋で、その中で運動をし、さらに寝泊ま のほうを得意としていた りすることによって、平地にいながら高所順応の ホテルの前のバーでメンバ 1 全員が顔合わせをなった野口健さんもいた。 野口健さんは、日本人四人、韓国人一人、シェトレ 1 ニングができる施設のことを一言う し、ぎこちない挨拶を交わした。その後、夕食に トレーニングは主に午前と午後に一一時間すっ低 ルバ三十人という大がかりな隊を組んで、清掃登 誘われたがやんわりと断った。言葉の不目由さも あって、もともと外国人との会食がばくは苦手な山のためにチョモランマへ向かう。頂上には登ら酸素室に入り、それぞれ約一時間すっバイクマシ のだ。何より、ちょうどカトマンズに来ていたフず、しかし最終キャンプまでは行く予宀鴈たという。ンなどで軽い運動をして、夜はその部屋の中で眠 、最大酸素摂取 この隊を編成するにあたって、五千万円かかったる。こうしたサイクルのあいたに ロスキ 1 ャ 1 の三浦雄一郎さんから連絡をもらい 日本食レストランでの夕食に誘われていたのた と話しているのを聞いて驚いた。ばくの今回のチ量や骨密度、血圧、腹筋力などさまざまな項目の 待ち合わせをしたレストランは、安宿が集まるタョモランマ登山の費用は、その十分の一よりもも検査をしつつ、自分の身体を見つめ直していく 最終的には、アコンカグアのべースキャンプが っと安い額が一ヶタ違うだけあって、大量の日 メル地区からほど近い「槙木」という店たった。 タクシ 1 に乗ってカトマンズの風景を眺めてい本食を持ち込んでいるらしく、もしかしたらそのあった標高四一一〇〇くらいに部屋の酸素濃度を とよこしまな設定して眠るところまで行った。どこまでこうし ると、はじめてネパ 1 ルを訪れた六年前の記憶がおこばれに与かれるかもしれない、 た数値が生きてくるのかわからないが、やらない 徐々に蘇ってきた。あのときばくはまだ十七歳のことを考えたりもした。 よりよやったま , フカ ( ( ( 、しオし 三浦雄一郎さんとは鹿児島で一度お会いしてい 高校一一年生で、はじめての海外一人旅ということ た。三浦さんはばくがエベレストに行くのと同時三浦さんとは、トレ 1 ニングの合間に一緒こ日皿 もあって、毎日が楽しくて仕方なかった。 登 こ、。、レのメラピ 1 クに登りに行く計画を立泉に浸かったり、自分とは縁のなさそうな高級料 初めはインドのコルカタに降り立ったのだが、期 ( 、イノ 1 ノ ャ いきなりタクシ 1 の客引きにもみくちゃにされて、てていて、そのトレ 1 ニングのために鹿屋体育大亭に連れていってもらったりもした。こうした鹿 マ インドの洗礼を受けた。その後もあらゆることに学に来ていたのだ一一年後の一一〇〇三年に世界最児島滞在の際に、「またカトマンズで会おう」とま 言われていて、その約東を覚えていてくださった 驚き続け、疲れ果てたばくは陸路で国境を越えて年長七十歳でのエベレスト登頂を目指していて、 あず 121