わいろ 通説によれば わかどしより てんめい 一人の若年寄が江戸城桔梗の間で斬られた。天明四 ( 一七八四 ) 年三月二十四日の夕刻のことで おきつぐ お当、と・も ある。今をときめく老中田沼意次の息子、意知であった。 しつむ 執務を終えた四人の若年寄が中の間をぬけ、桔梗の間にはいったところ、隣の新御番所に詰めて いた将軍警護役の侍が、 やましろのかみ 「山城守殿」 と声をかけ、ふりかえった意知に向かって、 財政刷新で憎まれ役を買ってでる 悪名高き賄賂の宰相 たぬまおきつぐ ( 田沼意次 当、一よ、つ ごばんしょ 210
しかし、その見かたはまちがっている。秀頼の入城は秀吉の遺言で、淀殿はあくまでも付き添、 だったのだ。そして北政所が京へ移ったのも、みずからの意志によるものであり、けっして追いだ されたわけではなかった。 淀殿にしてみれば、 おさなご 「わすか七歳の幼子を、たった一人で大坂城へやるのは忍びない。秀吉公が亡くなった今、わが子 を守ってやれるのは、母であるこの自分しかいない」 と考えたのにちがいない。この入城を「みずからの権力欲を満たすため」とする向きもあるよう だが、淀殿は「豊臣の正統な継承者である秀頼を天下人に」と望んだのであって、おのれが権力の 座につくことを望んだわけではない ふんべっ まだ物事の分別がっかないほどに幼い息子の代弁者として、結果的に政事の面にも口を出さざる をえなくなったのである。 あとがま 頼りにしていた後見役、前田利家の死後、徳川家康がその後釜におさまった。天下掌握をもくろ んでいた家康にとって、秀頼の代弁者たる淀殿はまさしく " 目の上のこぶ。と映ったことだろう。 国政の代行をとりおこない、征夷大将軍となって、一歩一歩目的へ近づいてゆく家康。その姿を 橫目に見ながら、淀殿は、 「秀頼さえ成人すれば : : : 」 170
ちも徳川につくべきだと言っている 秀秋のなかでは、気持ちは家康側にかたむいていたのだが、土壇場で三成から関白の地位をほの めかされてしまったのだ。 「西軍として戦い、家康方が敗れたならば、おのれは関白だ。秀頼は幼いゆえ、しばらくはこの秀 いちひと 秋に " 一の人。たる位が転がりこんでくる。三成には不満があるが、関白になれるなら : ・ : ・なって しまえば、三成なぞどうにでも料理できよう」 の、つり・ そんな甘美な誘惑が脳裏をよぎった。それで、合戦がはじまっても迷いつづけることになってし まったのである いきさっ そうした経緯から優柔不断などと酷評されることになるわけだが、 はたしてそうだろうか そのころはまだ戦国の名残りが尾をひいていた時代である。家康と三成、どちらが強いのか これを両天秤にかけるというのは、当時としてはあたりまえのことだ 0 た。どちらに味方するかに よって、その後の自分と所領地、そして家臣団の行く末が決まるのだ。だから、その天秤のかたむ く方向を、ぎりぎりの瞬間まで待ったということではなかったのか 決断力に欠けていたというよりも、いずれが強者か、あるいはどちらにつくのが得策かを見きわ めることに徹していたといえる また、秀秋一人が裏切ったようにみられがちだが、それもおかしなことである。 てんびん ゅうじゅうふだん 152
るのが、失脚直後、世間に流された「田沼罪状二十六カ条」である わいろ 罪状はすべて、意次の悪政をあげつらねたもの。とくに賄賂という言葉がくりかえし使われ、悪 政の根源がそこにあると言わんばかりに非難している たとえば、以下のようなものである 一、そのほうは諸家の役職や家格をあげる取り持ちが多く、ことに溜間詰は重き役目なるに、賄 賂だけで決めている。 おおや おくらま、 ひょけち 一、火除地になっていた浅草御蔵米御用地も、町人に売り渡された。賄賂によって公けの御用地 まで処分したのであろうが、その罪ゆるしがたし。 一、そのほうが賄賂を取るゆえ、低い位の役人までが金銀私欲に迷い、えこひいきをもって万事 を取りはからっている。すべてそのほう一人の大罪であり、のがるべからす。 こんなものもある。 りんしよく ごぜんふ 一、上様に差しあぐる御膳部や御召物、すべて粗末にすぎる。倹約と吝嗇の区別をわきまえてい はまちょ、つ 一、そのほうは神田役宅、木挽町屋敷、浜町屋敷、美麗をつくし、役柄不相応の驕奢といえる さた くわだ いんばぬま えぞち 一、蝦夷地 ( 北海道 ) 開拓や印旛沼干拓など、とんでもない企てで、沙汰の限りというべきであ 、 0 しつきやく こびきちょ、つ めしもの けんやく きよ、つしゃ 215
そ、つし いちす 彼らに対する評価が変わってきたのは、近年になってからである。土方歳三や沖田総司らの一途 な生きざまが共感をよんだのか、とくに若い層に彼らのファンが激増している。また、 「明治維新は正義の革命である」 といった皮相な見かたから解放された人びとが増えていることも、 " 新選組人気。に関係してい るのかもしれない しんさく 坂本龍馬や高杉晋作ら新しい時代を切りひらこうと燃えた志士たちばかりでなく、土方や沖田も また、自己の信念に忠実に倒幕派に立ち向かったのである。彼らもやはり、幕末という時代の英雄 と一一一口、んよ、つ。 せりざわかも だがその新選組に、まだ悪役、憎まれ役のままでいる人物がいる。芹沢鴨ーー新選組を立ちあげ た一人である。 たっ ひたち 芹沢鴨の生地は常陸国行方郡芹沢村で、郷士の家柄である。兄二人、姉一人の末っ子で幼名を竜 しんとうむねん と力さき みつもと ぶんせい 寿、のちに光幹といった。文政十三 ( 一八三〇 ) 年の生まれという。剣は神道無念流三代目戸賀崎 めんきよかいでん 熊太郎の免許皆伝師範と伝えられている てんぐ つぐじ 芹沢は下村継次 ( 嗣次とも ) という名で天狗党にはいり、勢力的に活動した。天狗党とは水戸藩 てんぼう において、天保の改革を推進した中下層の藩士らを、改革に反対する門閥派が " 鼻の高い成りあが り者〃という意味でよんだことに由来する 。り・よ、つま 6 しん 0 ご、つし 0 もんばっ ひじかたとしぞう 225
く、最後は突き殺されてしまう。 これが「将軍暗殺」という第二の悪業である。 かくして久秀は畿内一円を支配下におき、事実上の京の支配者となった。しかし義輝暗殺後、し よいよ拍車のかかった久秀の専横ぶりに三好三人衆の不満はつのり、やがて久秀と彼らの対立がは じまる。三好三人衆は、かって久秀によって追放された筒井家の順慶と手をむすび、久秀打倒の兵 をあげる。 ろ、つじよ、つ 永禄十 ( 一五六七 ) 年の春、久秀軍が大和の多聞城に籠城すると、三好連合軍は東大寺に本陣を かまえ、多聞城を攻撃した。数カ月におよぶ激しい攻防戦の末、久秀軍は十月十日、敵陣の東大寺 に夜襲をかける。焼き打ちであった。 たちまち大仏殿に火が燃えうつり、東大寺は全焼し、大仏の首も焼け落ちてしまう これが「大仏殿を焼く」という第三の悪業である さらに、悪業とはよばれていないが、久秀には二度の裏切り行為がある げんき 元亀二 ( 一五七一 ) 年、織田信長の命により、久秀はたびたび兵を動かしていた。三年前に信 よしあ - 一 か足利義昭を擁して上洛したさい、機をみるに敏な彼は、ただちに降伏。織田の軍門にくだってい たのである。ところが、各地の一向一揆に手を焼き、苦戦する信長のもたっきぶりを見て、ひそか あきたか たかや に河内の守護、畠山昭高の居城高屋城を攻め落とし、これを奪う。一度目の裏切りである。 よ、つ せんおう いっこ、ついっき びん 0 0 0 Ⅱ 6
肱、長野主膳からは 「強力な取り締まりこそ、肝要にござりまする」 との要請があった。 事ここにいたって、ついに井伊直弼は、おのれのまえに立ちはだかる勢力を一掃せんとはかった。 おそるべき弾圧が開始されたのだ。 よ、つしゃ はんば 「半端ではすまさぬ。幕府の施策にさからう者は容赦なくたたきつぶせ : : : とことん抹殺するのじ 持ち前の徹底性が最高権力を背景にいかんなく発揮され、直弼は文字どおり " 彦根の赤鬼。と化 したのだった。 あんせいたいごく 安政の大獄。 徳川三百年でも例をみないこの鉄槌の嵐は、連座する者が百人におよばうという規模もさること ながら、その実態も苛酷をきわめた。おおむね、それはつぎのようなものであった。 しよういん さない 一、吉田松陰、橋本左内といった有為の士をこともなげに死罪にした。 一、朝廷の周辺も厳しく処断し、帝すらをもおびやかした。 一、対象が藩士、浪士のみならず、庶民、僧倶婦女、幼児にまでおよんだ。 かじゅ、つ 一、それまで罪は一、二等軽減するのが慣例であったのに、逆に一、二等加重した。 かんよう てつつい みかど はっき っそう まっさっ 245
たように見える かつぼ つじつじ たいいちに、元禄という平和な時代、四十七人もの侍が深夜に武装して闊歩したのに、辻々の番 所役人や捕り方らは一向に気づかなかったというのだろうか そうなのである。大石内蔵助らの一行は、まさに一大武装集団であった。 こそでももひ 火事装東とはいうが、小袖や股引き、脚絆のそれぞれに鎖やすね当てを入れ、頭には鉢がねをし ずきん こんだ兜状の頭巾をかぶっていた。おかげで、いくら斬りつけられても、大怪我はせずにすんだ。 一方の吉良家の家臣たちは茶会の後始末で疲れきり、ふるまい酒などを飲んで、ぐっすり寝こん でいた。そこを急襲されて、寝巻きのままで応戦したのだ。裸同然で、褌すらつけていない者ま であったという 赤穂の浪士たちに一人の死者もないのにくらべ、吉良方が大勢生命を落としたのも、当たり前の さつりくざんぎやく ことであった。その殺戮は残虐をきわめ、犠牲者のなかには、じつに齢十三、四の茶坊主すらもふ しよ、っちくしゅんさ、 くまれている。松竹と春斎といって、 「われらが敬愛する大殿には、指一本ふれさせないぞっ」 叫びつつ、けなげにも堀部安兵衛らに立ち向かってゆき、殺されてしまう 上野介は領地吉良の民びとに対するばかりでなく、松竹らのような末端の家臣たちにも日ごろか かふと かた きやはん よわい ふんどし 208
ちょ、つこ、つど、つ 亠つよ、つ・よ、つ こ、つめい 「張良ーと「孔明」から二字を取った軍学塾「張孔堂」を江戸・神田で開校すると、あつまった門 弟の数は、三千人とも四千人ともいわれる。そのほとんどが浪人である。なめらかな弁舌と威厳あ る面ざしが人を魅了するのか、由比は浪人たちの〃星〃としてのしあがっていった。 えんしようぐら かわはらじゅうろべえ その由比がたくらんだク 1 デタ 1 とは、彼と丸橋、そして焔硝蔵下奉行の河原十郎兵衛などが中 てんぶく 心となって、江戸、駿府、京、大坂の四カ所に火をはなち、徳川幕府を転覆させるというものだっ くのうさん ます由比本人が駿府へ先まわりして、久能山を占拠。家康が隠した金銀財宝を奪ったうえで、駿 府城を乗っとる。ついで、江戸で小石川の焔硝蔵に付け火をし、町中に隠し置いた火薬にいっせい 0 に火をつけ、火の海にする たかはりちょ、っちん すきじゅ、つもんじ 混乱した隙に十文字槍の名人丸橋忠弥が手勢をつれて江戸城にはいり、葵の御紋の高張提灯を手 にして将軍の身がらを拘東。幕府の要人を殺害する。江戸の騒動に乗じて、京、大坂でも火をはな ち、駿府城にはいった正雪が新たな将軍を打ちたてて新政府を樹立するーーこんなシナリオである。 江戸の町を焼け野原とし、時の権力者らを皆殺しにして天下を奪おうというのだから、ただごと ではない。 「河原殿、焔硝蔵放火の手はすは万全であろうか」 「はい、充分心得ておりまする」 おも こ、っそく スター あおい べんぜっ 178
と言っておきながら、もう一人の饗応役、伊達左京亮には畳をかえるよう勧めた。これを知って、 内匠頭は大あわてで家臣に命じ、急きょ畳がえをおこなった。 ざた きよぎ 刃傷沙汰の起きた前日にも、身にまとう衣服の件で虚偽を告げた。 あさがみーレも 「麻裃でよかろうよ」 のしめだいもん 当日の朝、内匠頭がその姿で登城すると、熨目大紋でなければならなかった。これも、いそぎ取 えんさ りかえはしたものの、内匠頭には上野介に対する不信感と怨嗟の思いがつのっていった。それが、 松の廊下で " 爆発。したというわけである いきさっ けんか そうした経緯にくわえて、ほんらい武家同士の喧嘩は両成敗がすじであるはすなのに、内匠頭に は「即日切腹」という厳罰が科され、一方の上野介は「おかまいなし」で無罪とされた。浅野家の 家臣たちの不満は大きかった。 しかも、である。藩主の罪は家臣一同にも重たくのしかかってくる。お家は断絶となり、赤穂の 藩士たちは一人残らず解雇される。てんでんばらばらに散りゆく運命が待ちうけていたのだ。 それから「討ち入りの時までは、浪士となった旧藩士たちの涙ぐましい忍耐と努力の日々がっ おんけん 赤穂城の明け渡しのさいの強硬派と穏健派の抗争。国家老筆頭の大石内蔵助良雄は当初、強硬派 りよ、っせいば ひっと、つ くらのすけよしかっ 196