あるものではない。おそらくは、上野介を「敵役」にしたてるための後世の作り話であろう。 もっとも、それらの作り話を当初から意図的にながしていた " 陰の人物。がいる、という説もあ 小身の出自ながら、将軍綱吉のおばえめでたく、当時の幕政をぎゅうじっていた側用人の柳沢吉 保である。 前述したように吉良家は足利流の名家であり、高家筆頭の要職についている。しかも上野介の妻 つなかっちゃくし の富子は有力大名、上杉家の出身。さらに当主だった富子の兄の上杉綱勝が嫡子のないまま急死し つなのり たために、上野介夫婦の子が綱憲と名乗り、上杉家をついでいた。 そのうえ、こんどは綱憲の二男を吉良家の養嫡子に迎えている。これが吉良左兵衛義周で、のち とカ に赤穂浪士の討ち入りのさい、「喧嘩両成敗、の法によって咎を受け、信州諏訪に流される。そし ひふん て悲憤のうちに、かの地で病死するのである とまれ、吉良・上杉の両家は当時、二重三重にきずなを深めており、吉良の「名」と上杉の「カ , ちゅ、つすう とがむすびあえば、大変なものとなる。柳沢ら幕府の中枢にある者にとっては、目の上のタンコプ 一種の脅威であった。 、バックには四十二万六 かたや赤穂の浅野家も豊臣の世からの名門の流れをくみ、小藩とはいえ かたき さひょ、つえよしちか 205
ある 悪人あっかいしたのか、誉めたのかいすれにしろ、信長の〃久秀の三大悪業〃という言いかた によって、久秀の悪評は確実にひろまった。 つまるところ、久秀は時の権力者・織田信長の一言で、まさに戦国を代表する大悪人となり、そ の悪名をはせたといえるのである だが、彼は二大悪業だけで知られていたわけではない。じつは一流の知識人としても、名をとど ろかせていたのだ。 おはえがき せんきようし 当時の宣教師ルイス・フロイスの日本覚書によれば、畿内有数の実力者となった久秀について、 「大和の国の殿、松永久秀はすぐれた知識をもち、統治の才をそなえた人物である」 と伝えている 生まれも育ちも定かでない彼が、才覚ひとつで三好家の重臣にまでのばりつめ、一時的とはいえ いきさっ 室町幕府の実権を握ったという経緯をふまえれば、フロイスの評価は当然といえなくもない じせき じじつ、久秀はそれを立証するような事績を残している そのひとっか創意工夫をこらした城づくりだろうなかでも有名な城は、信貴山城と多聞城であ る。この二つの城の築城のおりに、彼は「天守閣」というものをはじめて造っている。とくに大和 の丘陵地帯に築いた多聞城は当代随一と絶賛された。 0 0 0 0 Ⅱ 9
し、鉄砲隊三段がまえの新戦法をあみだし、巨大鉄甲船団を創設する。また、徹底した実力主義を 採用、家柄や身分に関係なく有能な者を抜擢した。 らくいちらくざ 経済においては、楽市楽座によって商業流通を活発化させるとともに、当時の特権商人たちの地 ひえいざん 盤を奪った。宗教面では、比叡山の焼き討ちなどにより旧来の宗教権威を否定。一方では、キリス ト教を保護し、当時のヨーロッパの情報を収集した。 信長のめざしたものーーそれは自身が絶対的な権力者になることであり、彼にはそれを実現する だけの強靭な意志と実行力がそなわっていたのである っよ、つ、」、つ しかし信長はまた、冷酷で残忍な独裁者でもあった。その兆候は当初から少なからずあったが、 足利義昭を失墜させ、元号を天正に変えさせた頃から顕著になった。 ぎやくさっ 信長はおのれの敵にかぎらず、その関係者、その敵に好意をもつ者にいたるまで、すべてを虐殺 するようになったのだ。さらに信長は、このころから家臣の忠言には耳をかたむけず、みずからを 天下人と自認し、神の使いとまで一言うようになった。 「天下統一が確実になりつつある今、このわしに怖いものは何ひとつない」 ついにはそう豪語するにいたり、家臣をはじめ、有力武将たちはみな、信長を恐れて彼の意のま まだった。 のぶやすせいばい つきやまごぜん 同盟者徳川家康でさえも、信長の命を受けて、正室築山御前と嫡男信康を成敗している。武田に てんかびと きよ、つじん しつつい ばってき てつこ、つ 0 131
りかあることだけは否めない それがしかし、道鏡の血族なのか、あるいは道鏡の出世のバックアップをした、いわば″スポン サー〃の一族なのかは、これまた、はっきりしていない いすれ、その出自はさほど高貴ではない。そんな道鏡が政権をほしいままにし得たのは、ひとえ エラ に当時の権力者ーーーわけても藤原一族の〃失策〃による。 がいせき 道鏡が政界に登場するまえから、天皇家の外戚として深く権力の中枢にはいりこんでいた藤原氏 しれつ は南家、北家、式家、京家と分かれ、それぞれ覇権をめぐって、血で血を洗う熾烈な争いをくりひ ろげていた。それも一族間だけでなく、邪魔者とみれば皇族であろうが皇太子、天皇でさえも廃し たり滅ばしたりしていた たいとう そういうなかで台頭してくるのが、藤原南家の仲麻呂なのである たけちまろ 聖武帝亡きあと、光明皇后は、藤原武智麻呂の息子で才気煥発な仲麻呂に目をかけ、一一人して政 務をとりしきってゆく。のちの称徳帝が女児ながら皇太子となり、孝謙帝として即位してからも、 権力は彼ら二人に握られたままであり、そのときの帝は、まさに藤原氏が権勢をふるうためだけに 存在したようなものだった。 仲麻呂は、一時は帝をしのぐほどの権力を手にしていたのである このころに道鏡が登場した。いつまでも権力の座にしがみつこうとした仲麻呂だったが、その道 はけん かんばっ
きわめて大きな意味をもってくる ひとつには支配者階級に切りこんでゆくために必要なもの、つまり学問や高い教養、礼儀作法を なんよ、つ すべて身につけたことであり、もうひとつは南陽坊と知りあったことである。とくに南陽坊との出 としたか 会いは、彼が美濃の名族長井家の当主長井利隆の弟であっただけに、価値あるものとなる あきんど 郷里にもどった庄五郎はやがて淀川沿いに店をかまえる油屋に婿入りして、商人になった。当時、 油は大変ぜいたくなもので、もつばら公家や武家や豪商らのために製造され、専売制になっていた。 はちまんぐ、つ と、つみよ、つ 庄五郎の商った油は、離宮八幡宮が製造する灯明用の荏胡麻油である 庄五郎は油売りの行商人となって諸国をまわった。とりわけ美濃へは京都に近いということもあ り、また修行僧時代の弟弟子南陽坊がいたこともあって、しきりに足をはこんだ。南陽坊は庄五郎 じよ、つざい にち、つん より先に妙覚寺を去り、美濃にもどって、土地の常在寺の住職となり、日運を名乗っていたのだ。 このとき″油売り庄五郎。の眼に、武家社会はどう映っていたのか。あっさりと油売りをやめて しまったことからすれば、彼はこ、つ田 5 ったのにちがいない 「このおれなら、武家社会でも生きていける」 すでに下剋上の世ーー中世的な秩序は大きく揺らぎ、たとえば元は一介の素浪人にすぎなかった そ、つ、つん 北条早雲は伊豆の国盗りに成功し、その名をとどろかせていた。 庄五郎は志を立てるや、油売りの職を捨て、女房を捨て、一転して武芸にはげむ。そして日運の な力い 0 むこい 0 0 102
若いだけあって、なるほど性急にすぎる面も否めなかったが、のちの世に非難されるほどの逆臣 だったわけではない。当時は権力争いで皇子同士が殺しあうことなど、すこしもめずらしいことで はなかったのだ。 入鹿の悪名はすべて、ク 1 デタ 1 の実行者が自分たちを正当化するために作りあげられたものな のである。
そうであればこそ、自分のほうは刀の柄に手をかけもしなかったのであり、「喧嘩両成敗」とさ れすにすんだのである ただし、このとき内匠頭の頭には、上野介に 対する疑念や不信感があったことは否めまい そ、つでなければ、多くの他人がいるまえで、 : この間よりの遺恨、覚えたるかっ」 などと叫びはしなかったであろう。 ・も、つュ、、つ それもしかし、じっさし ( ( 、こよ内匠頭の妄想で あり、誤解にすぎなかったのではなかろうか 儀礼事のつど、諸々の役務についた大名や旗 本らに、礼法やしきたりを教えるのは、高家の 仕事のひとつであった。そしてそれに対する報 酬は、教えられる立場の者があらかじめ持参す る 決まりではないが、当時の慣習として、そう てらこや なっていた。私塾や寺子屋の伝授料、医者の診 つか 203
「謀反のくわだてあり と言いがかりをつけ、当主らを殺し、みずからその後釜におさま 0 てしま 0 た。そして西村勘九 郎あらため、長井新九郎と名乗る。一時、長井一族の反撃をうけるものの、頼芸の庇護のもと、難 を逃れて、たくみに長井家と和睦する それから数年後、いまではす 0 かり落ちぶれた、かっての長井家の主家・斎藤家をひきつぐと、 としまさひでたっ 斎藤利政 ( 秀龍、のちに道三 ) と改名する 天文十一 ( 一五四一 I) 年、彼はいよいよ最後の仕上げにはいる。土岐家当主の土岐頼芸の追放で あ 0 た。道三の奇襲によ 0 て、頼芸の居城である大桑城はあ 0 けなく落城。頼芸は尾張の織田信秀 ( 信長の父 ) のもとに身を寄せるのである なんびと 「おのれのうえに立つ者は、もはや何人もおらぬ」 恩人を討ち、主人を追放し、ついに美濃一国を手中におさめた道三。油売りから身をおこして、 ほば二十年後のことである。こうして道三は " 美濃の蝮。とよばれて恐れられ、戦国の世の梟雄と なるのであった。 てんぶん わぼく 0 0 0 おおが 104
芹沢がしたことといえば、およそ取るに足らないような悪事がほとんどである。剣は相当な使い 手だったが、 誰かをつけねらって暗殺するなどという、手の込んだことのできる人間ではない。私 憤を公鑽におきかえて、誰かを憎悪するなどという感情ももちあわせてはいない 単純で、怒りやすいだけの人間なのである。乱世のなかで巧みに泳ぎまわれるような、目先のき く人間ではないのだ。むしろ、利用されてしまう側の人間なのである 謹厳実直といわれた武市半平太は、何人もの暗殺を指示している。清河八郎は幕府の政事総裁職、 松平春獄さえだましてしまった。近藤勇や土方歳三も、無益な殺生をしすぎている。彼らが悪意を もってそうしたというよりも、そ、ついう時代だったのだ。 むしろ、この時代のもっとも強力な「悪」は、当時の志士たちによって醸成されたヒステリック な気分であると言える。この気分はその後長く日本の、とりわけ純朴な若い世代につきまとい、冷 静な思考力、判断力を失わせてゆくことになる ふん きんげん 238
合いの争いにうんざりしていた彼女としては、むしろ仏法の力にすがろうとさえしていたのだろう そのことは、仲麻呂の乱の直後にくだされた勅にもあらわれている 「皇太子を定めぬのは、天がゆるすほどの君がいないからである。かかる君が現われるまで待とう また人びとかそれぞれに、好みの者を推したてようとはかることが多いけれども、向後はそうした ことをしてはならない」 このように見てくると、字佐八幡の神託を画策したのも、じつは称徳帝自身であった、という説 にも、つなすけなくはない。 道鏡の心のうちに人一倍の出世欲があったことは、むろん否めない。だがそれは、ひとえに仏教 をひろめようとの思いから出たものだった、と思われる 行基のように、民間で庶民に慕われながら法を説くというのも、一つの手ではある。か、それで は、ひろまりかたに限界がある。「法王ーの地位につけば、僧侶の権威や尊厳を高め、それによっ て、あまたの庶民に仏教を知らしめることが可能になる。 そしてまた、帝にまでなろうとしたことも、そこにはやはり、仏教とのかかわりがあったのでは あるまいカ 法王なる地位じたいすでに、当時ほとんど帝と同等の処遇にはなっていた。けれども、道鏡は ″仏教界の王〃と〃俗界の王〃とを兼ねることで、 そんげん こ、つご