武将 - みる会図書館


検索対象: 言い分の日本史 : アンチ・ヒーローたちの真相
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1. 言い分の日本史 : アンチ・ヒーローたちの真相

師直も参加しているのだ。 尊氏の挙兵は、見せかけは後醍醐帝攻撃だが、実際には鎌倉幕府に反旗をひるがえし、幕府の ろくはら " 出先機関 ~ である京都六波羅の探題を壊滅させた。 半年後、鎌倉幕府はあ 0 けなく滅亡し、後醍醐帝による政権「建武の新政」が成立する。しかし、 天皇の復権も実態はお粗末なもので、新政権樹立の原動力とな 0 た武士を軽視し、貴族や僧侶を優 遇するなど、いちじるしく配慮に欠けたものだった。 かくて二年後の建武二 ( 一三三五 ) 年、不平武士をひきつれた足利尊氏が後醍醐帝を攻め、反乱 を起こすと、建武の新政はわずか二年で瓦解する くすのきまさしげ こ、つみよ、つ このとき尊氏は、楠木正成らの軍を破 0 て入京。光明帝を立てて「建武式目」を定め、室町幕府 を樹立する。後醍醐帝は奈良の吉野に移り、皇位の正当性を主張した。ここに、南北朝の分裂が起 こることになる ひっとうしつじ 尊氏の幕府設立と同時に、高師直は室町幕府の筆頭執事となり、政事面で手腕を発揮してゆく。 もろやす し」、つか / 、 さらに弟師泰も軍事分野で頭角をあらわし、兄弟二人で幕府の政権をぎゅうじる実力者として、の しあがっていった。 師直は南朝の名だたる勇将を討ちとり、各地の合戦で勝利をおさめるなどして、武将としての名 もあげる。 0 たんだい カカし 0

2. 言い分の日本史 : アンチ・ヒーローたちの真相

「勇敢にして思慮ぶかく、部下に対して情けぶかき大将」 「執事兄弟なくしては、誰が天下を鎮めるだろうか」 と、『太平記』でも賞讃されている 南軍の楠木勢が師直本陣へ猛攻撃で肉迫したとき、浮き足だった味方の将に向かい、自 市直は大声 を張りあげて、 「見苦しいぞ。敵は小勢だ。師直はここにおる。兵を見すてて京へ逃げのびて、どの面さげて将軍 にお目にかかるつもりかっ : : : 運を天にまかせよ。名を惜しいとは思わぬか」 と叱咤激励した。 きこっ ここにみられるのは、まさに気骨あふれる正義感以外の何者でもない よ、つしゃ また、勝利を手にするため、寺社であろうと容赦なく火をつけて燃やすのは、ひとり師直にかぎ 0 たことではない。武将たるもの、こと戦さ場にあ 0 ては情け容赦など無用なのだ。そして、戦国 たいげん 時代なら当然の下克上をいち早く体現したのが、この師直であった。 それを思うと、彼の出現は早すぎたのだと言えはしまいか 貞和五 ( 一三四九 ) 年、師直と直義の不和がいよいよ表面化し、京では一触即発の不穏な空気が 流れていた。 しった おさ

3. 言い分の日本史 : アンチ・ヒーローたちの真相

まず直義の側が先手を打った。 びっちゅうびんご たんたい ずも 養子の直冬を備中・備後・出雲など、中国八カ国の探題に派遣。師直の執事職を解任させるのだ。 しかし直義のもくろみはみごとにはすれ、師直にかわって執事に就任したのは師泰の子である。こ れでは、ただ高一族のなかで役職が代わったにすぎない 師直方は近隣諸国の武将をあつめ、五万騎が直義討伐のために京都で挙兵した。対する直義方に あつまった兵力は、わずか七千。窮地におちいった直義は、尊氏の屋敷に逃げこんだ。 恩賞の授与には師直の承認が必要だった。そのせいもあって、彼は多くの武将たちに信頼されて いたのだ。結局、師直軍に取りかこまれた直義は、失意のあまり出家してしまう。師直は反対勢力 しげよし なおむね の上杉重能と畠山直宗の処罰をもとめ、直義に代わって義詮が後任につくのである この一連のクーデターは、尊氏の意向にそって師直が動いた結果だといわれる つまり、尊氏はわが子義詮への権威の委譲を願っていたが、直義に男児が生まれたことと、直冬 が探題に命じられたことで、思ってもみなかった方向に流れがかたむこうとしているのを知った。 そこで義詮を守るために、直義をおとしいれ、実権を奪ったのである あく かんのう さいごく 翌る観応元 ( 一三五〇 ) 年、西国の武将たちを味方につけた直冬が、九州で挙兵する いんとん 尊氏は直冬討伐のため、師直・師泰兄弟を伴って九州に出陣するが、その間に、出家して隠遁し ついと、つ 、、、市直追討をよひかけた。そしてこともあろ四 たはすの義直もひそかに京都を脱出して大和へ向力し日 きゅうち やまと 0 0 0 0

4. 言い分の日本史 : アンチ・ヒーローたちの真相

ふたつ目として考えられるのは、家康がそう仕向けたのではないかということだ。 秀秋は豊臣家に近い存在である。秀吉の直系ではないが、一度は後つぎの養子だったのだ。もし たいぎめいぶん 今後ふたたび家康に反対する勢力が現われるとしたら、大義名分として秀秋をかつぎだす可能性が 考えられる とはいえ、秀秋が裏切ってくれたおかげで、勝利がもたらされたのも事実である。 おろ 秀秋は後世に伝えられているほど愚かではなく、むしろ有能だったと考えると、家康にとっては むしろ困りものーー - ー目の上のたんこぶか、あるいは不発弾をかかえているようなものになる。いず れにせよ、秀秋は歓迎されざる立場にあった。 そこで、裏切り者として徹底的に嫌われ、人望を失うように仕向ける。そうすれば、武将たちも 秀秋を慕ってあつまるようなことはないはずだ。裏切り者には多すぎるくらいの領地をあたえてお さながら、 「領主としての器量、才覚もなし」 かんべき といった噂でも流しておけば完璧で、領民らの心もはなれてゆく。そう家康は計算したのではな 、かラつ、つ、刀 石田三成に不信をいだき、徳川家康にしたがうべきだという考えかたは、はじめから東軍に味方 した武将たちとほとんど変わらない。それなのに、関ヶ原の戦場でドラマティックに裏切ったばか 、つわさ 0 155

5. 言い分の日本史 : アンチ・ヒーローたちの真相

事の真相と松永久秀の言い分 評判のわるさでは戦国武将のなかでも一、二をきそう梟雄。かの乱世を生きた武将なら、誰でも あ やりそうなことをやっただけなのに、なぜか松永久秀はことさら悪しざまに言われ、嫌われている その理由として、よく指摘されるのが、殺しかたの問題である。たとえば、毒殺という方法でこ げ・一」′、、じよ、つ っそりと殺す、あるいは、だまし討ちという卑劣な手段をつかう。つまり、いくら下剋上の世と このとき信長はすばやく反応し、大軍を送りこむ。予想外の展開に驚き、久秀は即座に、 「勝手な行動をいたしましたが、イ 也意あってのものではござりませぬ わ と詫びをいれ、大和の多聞城を信長に献上した。さらに幼い子どもを人質に差しだし、なんとか 無断出兵の罪をゆるしてもらう。 その後、しばらくは信長の臣下として働くものの、ふたたび裏切り行為をする。冒頭に書いた信 貴山城たてこもりである。死を覚悟のうえでの籠城であった。 以上、三つの悪業と二度の裏切りをもって、彼は大悪人という烙印を押され、その死にさいして 「仏罰」とののしられるほどに嫌われることとなった。 きよ、つゆ、つ らくいん ひとじち 0 Ⅱ 7

6. 言い分の日本史 : アンチ・ヒーローたちの真相

つるまっ 淀城で、淀殿は鶴松を産む。待望のわが子に秀吉は愛情のかぎりをそそいだ。 かぞ しかし残念なことに、鶴松君は数えの三つにしてその生命を終えてしまう その二年後、奇跡が起きた。ふたたび淀殿が懐妊し、出産したのだ。秀頼の誕生である。が、皮 肉にも、この秀頼誕生こそが、豊臣家の滅亡への始まりだったともいわれている できあい 秀吉は、まえにも増して息子を溺愛した。 「肝心のまつりごとかおろそかになっておりはせぬか」 と、家臣も眉根を寄せるほど、息子のことしか頭にない様子だった。 ほんらい、天下を治める後継者として、また武将としても、秀頼を一人前に育てあげなければな らなかった秀吉にしてからか、このありさまだった。淀殿にいたっては、なおのことだったようだ。 波乱の戦国時代に育ったとはいえ、幼いころに父を亡くし、男兄弟とも別れ、女家族のなかで育 ってきた淀殿は、秀頼を才気ある武将に育てる術を知らなかった。いや、一人の母として、あえて それを望まなかったとすら言えるのではなかろうか 秀吉の死後、淀殿は息子秀頼とともに大坂城へはいり、それまでの住人、北政所は京へと移る 一見これは「正室」対「側室」の争いにみえる。つまり側室の淀殿が勝利し、北政所を追いだして、 おんなあるじ / 女主″の座を手にしたかのように思われよう まゆね きせき 169

7. 言い分の日本史 : アンチ・ヒーローたちの真相

卑劣な手段にうったえるしかなかったとも言われている そんな明智光秀の天下が長つづきするはずもなかった。 じゅくりよ むろん光秀とて、信長を討ったあとの諸将の動静を熟慮してはいた。それなりに手を打っていた つもりだったが、 彼の期待は裏切られた。 ただおき 味方として考えていた組下大名であり旧来の友人、細川藤孝・忠興父子 ( 忠興は光秀にとって ひょりみ むすめむこ つついじゅんけい 娘婿でもある ) 、筒井順慶などが、光秀の決起の要請に応じず、日和見的な態度をとったこと。そ のふずみ のぶゆき して、これまた光秀の娘婿であり、父信行を伯父信長に殺された織田 ( 津田 ) 信澄が、信澄よりも にわながひで のぶたか 早くに本能寺の異変を知った丹波長秀、織田信孝によって討たれたことも光秀の誤算であっただろ 結果的にいえば、光秀側についた武将は、ほとんどいなかった。誰も光秀が勝っとは思っていな かったのである もっとも大きな誤算は、羽柴秀吉の動きであった。光秀は、敵対行動に出る者がいたとしても、 おもな武将はみな当面の敵をかかえているため、すぐに自分を攻められる者はいないであろうと踏 んだ。そして、その間に事態を掌握することが可能だと考えた。 基本的に、光秀の読みはまちがってはいなかった。が、ただ一人の例外ーーー莠吉のために、それ 0 0 0 ごさん 129

8. 言い分の日本史 : アンチ・ヒーローたちの真相

ないおう 「やつは家康に内応しているのではないのか」 と疑われつつあった。家康も三成も、ともに大軍の小早川勢を味方にひき入れることが勝利を決 するだろうということを意識しており、執拗に調略の手をのばしている 秀秋は、このとき十九歳。当時は立派に一人前の成人とみなされた年齢だが、じっさいにはまだ 感情の揺れ動く年ごろだったのかもしれない 待ちのぞんだ三成挙兵の報に接して、江戸にひき いったんは上杉討伐に向かった家康だったが、 かえした。それからしばらく情勢把握や各種の工作などで時をついやし、九月一日になって、よう やく江戸城を出立する あのつ 同じころ、西軍は丹後の田辺城、伊勢の安濃津城などを落としながら進み、九月五日には西軍の ちょうそかべもりちか おもな武将、大谷吉継、毛利秀元、長宗我部盛親などが関ヶ原周辺に集結した。小早川秀秋も周囲 の勢いに流されるかのように、とりあえす関ヶ原の松尾山に陣をかまえた。 家康は、天下取りに着手する以前から、抜かりなく西軍の武将たちの世話焼きを買ってでるなど、 調略の手をまわしていた。また、関ヶ原にいたるまえに、大量の書簡を大名たちに送っており、そ の時点で、すでに勝敗が決まっていたともいわれる 他方の三成は、豊臣家への忠誠心は人一倍あったが、人脈づくりや説得工作が下手だったように たんご しつよ、つ 145

9. 言い分の日本史 : アンチ・ヒーローたちの真相

いた。信長のほうでもまた、光秀の京の公家衆や将軍家、幕臣たちと交渉する能力を高く評価し、 必要としていたのである。 光秀はその生涯で、三人の主君につかえたことになる。光秀には忠誠心は希薄で、ただ自分が戦 国の世をのしあがっていくための手段として、場あたり的に主君を選んでいた、 - 、ーーそういわれるゆ えんでもある おうみ げんき その後、光秀は信長の家臣として順調に出世をとげ、元亀二 ( 一五七一 ) 年には近江坂本城の城 てんしよう 主となった。信長の家臣のなかで、もっとも早くに城持ち大名となったのだ。天正三 ( 一五七五 ) たんば 年には丹波攻略の命をうけ、四年がかりでこれを平定する じゅんぶうまんばん 光秀の前途は順風満帆に見えた。 しつの頃からなのか そんな光秀の心中に、「打倒信長」の意識が芽ばえたのは、、 かごん 戦国の世を生きる武将として、天下取りの野望は誰の胸にもあったといっても過言ではない。 光秀もそういう一人であったのだろう。そして、願ってもないチャンスがめぐってきた。 光秀はその機を逃さなかった。 天正十 ( 一五八一 l) 年、信長のおもだった武将は各地を平定する任務についていた。北陸は柴田 はしばひでよし かすまさ かついえ 勝家、関東は滝川一益、中国は羽柴秀吉といった具合である。光秀のみが、いち早く丹波の平定を 終えていた。信長のつぎのねらいは四国であった。 0 0 ばくしん 125

10. 言い分の日本史 : アンチ・ヒーローたちの真相

かげかっ たいとう ところで、やはり五大老だった上杉景勝も徳川氏の台頭には危惧をいだいていた。 同年の秋、上杉景勝は領国整備にかこつけて会津にもど 0 て以来、おお 0 びらに兵や武器をあっ めだしていた。あからさまに反抗的姿勢をみせつける景勝に対し、家康は秀頼の名で再 = 一上洛する よ、つにと、つなかしたが、 まったく応じる様子がない 慶長五 ( 一六〇〇 ) 年の六月はじめ、ついに上杉討佖を決定した家康は、六月十六日に大坂城を 出立し、江戸城をめざした。 一方、ひそかに戦さの機会をうかが 0 ていた三成は、家康が兵をあげたと知 0 て、さ 0 そく豊臣 系の大名、武将を召集。七月なかばには諸大名に家康討伐の檄文を送り、軍議もおこなわれた。 ふしみ かくて西軍は手はじめに伏見城を攻めることにな 0 たが、小早川秀秋は身の振りかたを決しかね ていた。小早川家は大軍を擁するため、西軍からの引きは強い。 秀秋は、うわべだけ応する振りを して、のらりくらりと言を左右にし、三成主唱の軍議にも参加せずにいた。 七月十九日から開始した伏見城の銃撃戦に小早川勢が合流したのは、三日もあとの二十二日のこ とだった。 かんらく ほどなく伏見城は陥落するが、その後秀秋は病気療養と称して遊び暮らし、ど 0 ちつかすの態度 をとりつづける。そのため、西軍の武将たちから、 しよ、つー ) ゅ、つ よ、つ 144