事件密告の翌二十四日には、幕府の首脳があつまって、対応策がねられた。 「江戸に火をはなち、幕府転覆を画策するとは、だいそれたことを。鬼悪魔のしわざといえようぞ。 由比はまえまえから奇怪な人物だと目をつけておったが、やはり : 「いやいや、しよせんは金目当てのはかりごとにすぎん。愚かな奴じゃ。徳川家の財宝なぞ、もは や久能山にはありはせぬのに」 「噂によると、由比は三千人ものごろっき浪人どもをかかえておるというではないか。そんな悪人 さら ばらはさっさと成敗せねば、とんでもない事態をひき起こしかねぬ。ただちに捕えて晒し首とせん」 。け・んけ・んが / 、カ′、 宣宣諤諤の議論をかわしたすえに、 「首謀者由比正雪らを捕縛せよ」 とのお触れが出た。 すでに七月二十二日、由比正雪は手勢十人とともに江戸を発ち、駿府へ向かっていた。計画がも れたことも知らぬまま、二十五日の晩、一行は駿府に到着する。 みすい そして事件発覚からわすか四日後、幕府転覆事件は未遂のままにスピード解決した。 先まわりした幕府の役人たちが一行を取りかこみ、由比正雪はあっけなく自害して果てるのだ。 四十七歳の最期であった。 うわさ くび 180
主をうしない、町を徘徊する浪人たちに対し、住居の制限や貸宿の禁止など、幕府はきびしい取 り締まりをおこなった。いわば、江戸はリストラされた失業者たちのたまり場だったのだ。 レ」、つりよ、つ そんななかにあって由比は、浪人たちの頭領 として絶大な人気をたもっていた。 びぜん あるとき、備前岡山三十一万五千石の城主、 池田光政か、由比を五千石で召しかかえようと 申しでた。それに対し由比は、 「それがしの門弟のなかには、その日暮らしに も困る浪人がたくさんあり、ありていに申せば、 養ってゆくことができませぬ」 暗に万石以上の禄がなければ弟子たちを喰わ していくことかできないとほのめかして、きっ ばりと断わっている くまざわばんざん やまがそこ、つ 同じく浪人の軍学者山鹿素行、熊沢蕃山とな らび、そのカリスマ性から多くの浪人をしたが えた由比が、幕府から″危険人物〃と目をつけ あるじ みつまさ 183
さて、駿府に到着した由比正雪らの一行は、徳川紀州家の家臣と名のって、当地でも知られた宿、 たろうざえもん 梅屋太郎左衛門宅に宿泊する ばんがしら ところが幕府が送った使者、番頭の駒井右京が由比ら一行よりひと足先に駿府に着いていた よりきど、つしん 駒井の要請を受けて、駿府城代はじめおもだった役人や多くの与力、同心たちがかりだされ、万 全を期して待機していたのだった。そして由比たちが梅屋に宿をとったことが判明すると、周辺を とりかこんだ。一行は早くも〃籠の鳥〃状態となってしまう。 しかし、由比は軍学師である。どんな戦法に出てくるともかぎらない。宿屋をかこんだ役人たち はすぐには由比を召し捕らす、念のために与力の一人を使者に出した。 たびにん 「江戸表より手負いの咎人が逃げこんでおり、目下、旅人の傷をあらためておりまする。ついては しゆっと、つ おのおの方、ただちに町奉行のところへご出頭願いたい」 一行はこれに応ぜず、 「拙者どもは紀州家の家臣でござる。旅の道中に腹をいため、休養しているところでござれば、に わかには出頭でき申さず : : : 傷あらためが必要なら、ここまで検使を差し向けていただきたく存ず る」 と、宿を出よ、つとはしない 行く行かぬの押し問答がつづき、ぐずぐずしているうちに夜が白みはじめた。やがて二十六日の とがにん 、つごよ、つ きしゅ、つ けんし 185
し、功をなした人物である。ただちに奥村を問いただし、事件の全容を知る。 じきそ たしろまたざえもん 同じころ、田代又左衛門という浪人金貸しも、由比に謀反のくわだてありと直訴してきた。百両 を借りにきた丸橋に田代が金を貸すのを渋ると、ロのかるい丸橋は、 「借りた金は十倍にして返すから心配するな。というのもな : ポロリと計画をもらしていたのだ。 その夜さっそく、本郷の長屋にいた丸橋は生捕りとなった。 天下泰平の徳川二百六十年の間、ただ一度のクーデターといわれる「由比正雪の乱」。それは、 いったいどのような事件だったのか。その顛末を語るまえに、由比正雪なる人物について簡単に見 ておこう すんぶ 由比正雪は、駿府の百姓の出といわれる。父は農作のかたわら紺屋を営んでいたが、由比は臨済 はくづ 宗の寺で修行したのち、十七歳で実家を飛びだし、箔付けのために三度養子にはいっている ふちゅ、つ かすがのつほね 府中で槍の達人高松半兵衛の養子となったあと、江戸に出て、春日局のもとに出入りしていた菓 くすのきふでん つるややえもん 子屋、鶴屋弥衛門方に奉公に上がる。やがて牛込に住む軍学者、楠不伝の養子となったことから、 人生にはずみがっきはじめる 不伝のもとで軍学の教えをさずかると、みすから道場をひらき指南となるのだ。中国兵法の大家 てんまっ うしごめ いナど こ、つや りんざい 177
かたん し力し 陰謀に荷担したのは千五百人あまり。由比正雪の遺骸は、駿府近くの安倍川で晒し首にされた。 すずがもり 八月にはいって、丸橋忠弥をはじめ三十数人が江戸品川の鈴ケ森で処刑され、由比の母も駿府で はりつけ 磔の刑にされている。 せんげ こうして一味に対する苛酷な残党狩り、処刑がなされている間に、 新将軍家綱の将軍宣下の儀式 はとどこおりなく進められたのである。将軍交代劇を円滑におこなうために、由比正雪は利用され ただけなのだろうか 権力者たちの世はいつも安泰であり、その裏で、それにおどらされた者たちが無念の死をとげる のである。 えんかっ さら くび 191
とじよ、つ 「江戸市中が火の海になれば、老中や大名たちは、あわてふためいて江戸城に登城するにちがいあ きでん るまい。そこをねらって討ちとるのじゃ。丸橋殿、貴殿の槍の腕前をみこんで、幕府要人の暗殺役 しかとおたのみ申すぞ」 よ、つば、つ 総髪で色白、独特の容貌をもっ由比正雪のするどい眼光が、闇のなかでギラリと光った。 「心配ご無用でござる。江戸でのくわだては、拙者におまかせを。由比殿は、駿府から諸国の浪人 たちに呼びかけ、はせ参じる者たちを指揮してくだされ : : : 天下をことごとく戦さ場にしてしまい ましよ、つぞ こた 丸橋は自信に満ちた表情で応える 「財宝を手に入れたなら、天下に怖いものなし : : : これで世の中は、われわれの天下じゃ。幕府の 奴らに目にもの見せてくれよう」 「そうなれば由比殿こそ、今の公儀に代わりて世の頂点に立たれる御仁となろう」 「よし、作戦どおり事を進めようぞ」 ぐれん 紅蓮の炎につつまれて燃えあがる江戸の地獄絵を想像しながら、いつも冷静な態度をくずさない 由比が、 めずらしく声をたてて笑った。 しかしこの陰謀計画は、事前に知れてしまう そうはっ 、」、つき 0 じごくえ 0 せっしゃ ごじん 179
通説によれば けいあん 慶安四 ( 一六五一 ) 年七月二十三日。時の老中松平伊豆守信綱のもとへ、家臣の奥村権之丞が 弟八左衛門をともなって駆けこんできた。 しようせつ 「弟は由比正雪殿のもと〈軍学修行に通 0 ておりますが、じつは、由比殿は槍術指南、丸橋中弥ら てんぶく とともに幕府転覆の謀反をくわだてておりまする」 「なに、謀反のくわだてじゃと : : : 」 松平信綱は " 知恵伊豆 ~ の威名をとるほどの切れ者で知られ、先に起こ 0 た「島原の乱」を鎮圧 黒幕におどらされた窮乏浪人たちの " 星。第を はちざえもん 幕府転覆をはかったクーデター首謀者 ゆいしようせつ 由比正雪 むほん 176
早朝となり、宿屋の入り口が開くと、外から屋敷内の広間が見えるようにな 0 た。与力、同心たち跖 が恐る恐るなかを覗くと、大肌を脱ぎ、尻をからげた男たちが、 「とくと傷をごらんあれ」 口々に叫ぶ。その奥から杖をつき、疲れきった様子の一人の男が出てきた。 由比正雪本人である。 やまい 「病ゆえに、残念ながら出向くことはでき申さぬ。拙者どものからだを見て、怪しい者はおらぬと かがり・び いうことは定かになったはす : : : なのに、宵からずっと篝火をたいて、大勢で騒いでおるのはいか なることか。はてさて、とんだところに宿をとったものでござる。紀州公になんと申しあげたらよ いか」 由比の強い言いかたにも、与カたちはめげなかった。 「身に覚えがないのなら、むしろ、ただちにご出頭願いたい。だが、 もしゃ貴殿に傷があったなら、 逃がしはいたしませぬぞ。病の身なら、駕籠を用意させてもよろしいが : 「では、支度をして参上しよう」 そう言って座敷のなかにもどったが、さすかの由比も計画を察知されたことに感づいた 「かくなる、つ、んは、戦、つほかにあるまい」 「こちらから討ってでれば、なんとかなる」 のぞ かご
といったことが記されていた。 事件後、由比の知人の家から、金十七万両に銀八千貫、それに大量の武器と弾薬が見つか 0 た。 多くの門弟をかかえていたとはいえ、一軍学者が調達したにしては、限度を超えた莫大な量である / 、ろまく 背後に有力な黒幕の存在があったことは否定できない 由比のうしろ盾として、も 0 とも可能性が高いと目される人物は、紀州大納言徳川頼宣である。 「人あつめのために頼宣公の名前をつか 0 ただけで、事件との関与はない」 と、由比はわざわざ遺書にしたためているが、二人が面識のあ 0 たことは明らかだし、頼宣は謀 反の計画を知っていたのではないかといわれている。 ごさんけ 頼宣は徳川家康の十男であり、徳川御三家の一つ、紀伊家の家祖である。 家康の晩年に生まれた頼宣は、幼いころ、駿府城で父家康と親子水入らずの時をすごし、溺愛さ れて育 0 た。もちろん、他の御三家ーー水戸、尾張家とともに、徳川幕府の後継者としての権利を もっている。当然、家綱の将軍就任は面白くない。 有能な側近たちにささえられ、権力が集中し、巨大化した将軍家は、御三家とは別格の存在だ 家光亡きあと、将軍職をつぎうる地位にあるにもかかわらす、御三家は幕府の家臣の立場に甘んじ ている だて 188
ちょ、つこ、つど、つ 亠つよ、つ・よ、つ こ、つめい 「張良ーと「孔明」から二字を取った軍学塾「張孔堂」を江戸・神田で開校すると、あつまった門 弟の数は、三千人とも四千人ともいわれる。そのほとんどが浪人である。なめらかな弁舌と威厳あ る面ざしが人を魅了するのか、由比は浪人たちの〃星〃としてのしあがっていった。 えんしようぐら かわはらじゅうろべえ その由比がたくらんだク 1 デタ 1 とは、彼と丸橋、そして焔硝蔵下奉行の河原十郎兵衛などが中 てんぶく 心となって、江戸、駿府、京、大坂の四カ所に火をはなち、徳川幕府を転覆させるというものだっ くのうさん ます由比本人が駿府へ先まわりして、久能山を占拠。家康が隠した金銀財宝を奪ったうえで、駿 府城を乗っとる。ついで、江戸で小石川の焔硝蔵に付け火をし、町中に隠し置いた火薬にいっせい 0 に火をつけ、火の海にする たかはりちょ、っちん すきじゅ、つもんじ 混乱した隙に十文字槍の名人丸橋忠弥が手勢をつれて江戸城にはいり、葵の御紋の高張提灯を手 にして将軍の身がらを拘東。幕府の要人を殺害する。江戸の騒動に乗じて、京、大坂でも火をはな ち、駿府城にはいった正雪が新たな将軍を打ちたてて新政府を樹立するーーこんなシナリオである。 江戸の町を焼け野原とし、時の権力者らを皆殺しにして天下を奪おうというのだから、ただごと ではない。 「河原殿、焔硝蔵放火の手はすは万全であろうか」 「はい、充分心得ておりまする」 おも こ、っそく スター あおい べんぜっ 178