また、これも油売りの行商をしていたときのことだ。歩きつづけて疲れ切 0 ていた彼は、ある家 の門前で倒れた。するとその家の者が彼を助けおこし、親切に介抱してや 0 た。それから数年後、 一人の侍が供の者に荷馬車をひかせ、その家をおとずれた かじっ 「拙者、西村勘九郎と申す。過日の礼として数俵の米を持参いたした」 家の主人がけげんな顔をしていると、勘九郎は、 いのち 「生命を助けてもらった油売りでござるよ」 にやりと笑って告げ、 「生きているかぎり送らせてもらう」 とつけくわえたという そうした一般の美濃衆にとって、彼は悪党でもなんでもなかった。 たしかに美濃を奪われた土岐家一族には、彼の所業はゆるしがたいものだ 0 たかもしれない。だ か、そんなことは美濃の民びとたちにはかかわりのないことだ 0 た。むしろ、隣国の尾張や近江の 実力者と互角にわたりあえる、頼りになる人物をこそ望んでいたのだ。 そうでなければ、彼のような ' よそ者 ~ が美濃一国をおさめることなどできないはずである ちなみに道三は稲葉山城を築き、城下に新しい町をつくり、商人には自由な商い ( 信長の「楽市 せっしゃ 106
妙覚寺とは、かって道三が仏の修行をつんだ学問の寺である。また信長あての譲り状とは、彼に 援軍を申し入れるさいに送った書状といわれている 倅の義龍と一戦をまじえてまでしても、美濃を渡そうとしなか 0 た道三。その固い決意には、土 しゅうねん 岐家一族の復活をゆるさぬという彼の執念がうかがえる。言いかえれば、古い秩序を壊すことに全 精力を傾けてきた彼なりの正義の実現ーーその生きかたがにじみでている だからこそ道三は、土岐家再興をもくろむ義龍に敵対し、反面、古い習慣に立ち向かう青年信長 には好感をいだき、美濃一国を託してみよう、と考えたのである 「思えば、すいぶんと非情な所業もや 0 てきた。だが、すべては正義のためだ。美濃を信長にゆず るのも、またしかり。二十年かけて手に入れた国を手放すことに未練はない。無能な支配者なら、 たとえ倅でも殺すことは厭わない : ・ : おのれは逃げぬ 彼の遺言状から、こんなつぶやきが聞こえてはこないだろうか 「捨ててだにこの世のほかはなきものを いづくかっゐのすみかなりけん」 遺言状の文末に記された、道三の辞世の句である。 じせい 110
らくざ 楽座」のさきがけ ) をゆるしている。いわば、それまでばっとしなかった美濃を活性化させている のである。 もうひとつ、悪党説を強く打ち消すものがある。それは「正義の論理」である。つまり恩人を殺 したり主人を追放したのは、私利私欲にもとづくものではなく、彼なりの正義の実現だった。もっ と言えば、彼の所業は美濃を支配する無能な支配者への怒り、中世の古びた権威・秩序にしがみつ く者たちへの反発、だったのである このことはいくつかの事例で裏づけられる。好例は信長との関係だろう 信長との出会いは道三の娘の濃姫が信長に嫁いで五年後、天文二十二 ( 一五五三 ) 年四月のこと おそ だ。老獪な道三が青年信長という人物を見抜き、畏れを感じる場面がある めいさっ 会見場所は美濃と尾張の国境にある正徳寺であった。正徳寺は賑やかな門前町をもっ名刹で、 いっこ、つ 向宗の大きな寺である。 当日、道三は約東の刻より早めに着き、会見場所に近い一軒の民家にもぐりこむと、土間の格子 戸ごしに、こっそりと信長ら一行の様子を、つかがった。 「どんな身なりでやってくるかの ? 」 道三が従者に問うと、従者は、 「ひどく行儀のわるいお方と聞いておりますが」 ろ、つ力し のうひめ しよ、つとく とっ にぎ 107
きわめて大きな意味をもってくる ひとつには支配者階級に切りこんでゆくために必要なもの、つまり学問や高い教養、礼儀作法を なんよ、つ すべて身につけたことであり、もうひとつは南陽坊と知りあったことである。とくに南陽坊との出 としたか 会いは、彼が美濃の名族長井家の当主長井利隆の弟であっただけに、価値あるものとなる あきんど 郷里にもどった庄五郎はやがて淀川沿いに店をかまえる油屋に婿入りして、商人になった。当時、 油は大変ぜいたくなもので、もつばら公家や武家や豪商らのために製造され、専売制になっていた。 はちまんぐ、つ と、つみよ、つ 庄五郎の商った油は、離宮八幡宮が製造する灯明用の荏胡麻油である 庄五郎は油売りの行商人となって諸国をまわった。とりわけ美濃へは京都に近いということもあ り、また修行僧時代の弟弟子南陽坊がいたこともあって、しきりに足をはこんだ。南陽坊は庄五郎 じよ、つざい にち、つん より先に妙覚寺を去り、美濃にもどって、土地の常在寺の住職となり、日運を名乗っていたのだ。 このとき″油売り庄五郎。の眼に、武家社会はどう映っていたのか。あっさりと油売りをやめて しまったことからすれば、彼はこ、つ田 5 ったのにちがいない 「このおれなら、武家社会でも生きていける」 すでに下剋上の世ーー中世的な秩序は大きく揺らぎ、たとえば元は一介の素浪人にすぎなかった そ、つ、つん 北条早雲は伊豆の国盗りに成功し、その名をとどろかせていた。 庄五郎は志を立てるや、油売りの職を捨て、女房を捨て、一転して武芸にはげむ。そして日運の な力い 0 むこい 0 0 102
事の真相と斎藤道三の言い分 美濃を奪ったことで、道三には " 悪党。のレッテルがはられているが、そのじつ、弁舌さわやか りちぎ で教養があり、律儀で人情家であったという。それを証す逸話はいろいろあるが、美濃には、こう い、つ話が残っている 彼が庄五郎の名で油売りをはじめて間もない二十七、八歳のころであった。 あぶらつば 庄五郎は巾着から一文銭を一枚取りだすと、それを油壷のロにあてがった。商いの最中のことで ある。買い手はけげんな顔をして言、つ : それでは、油がこばれてしまうではないか」 「油屋、なにをはじめる ? : すると庄五郎は、 「妙技をごらんにいれます。しくじれば、油代はいただきません」 と笑って、一文銭の穴を通して、壷のなかに油を流しこんだ。 油は糸のように垂れ、穴のあいだを通って油壷にはいる。一滴の油もこばさなかった。彼の商 は評判をよび、 「ただ庄五郎が油のみ買いける」 という文書まで伝えられている きんちゃく 105
「謀反のくわだてあり と言いがかりをつけ、当主らを殺し、みずからその後釜におさま 0 てしま 0 た。そして西村勘九 郎あらため、長井新九郎と名乗る。一時、長井一族の反撃をうけるものの、頼芸の庇護のもと、難 を逃れて、たくみに長井家と和睦する それから数年後、いまではす 0 かり落ちぶれた、かっての長井家の主家・斎藤家をひきつぐと、 としまさひでたっ 斎藤利政 ( 秀龍、のちに道三 ) と改名する 天文十一 ( 一五四一 I) 年、彼はいよいよ最後の仕上げにはいる。土岐家当主の土岐頼芸の追放で あ 0 た。道三の奇襲によ 0 て、頼芸の居城である大桑城はあ 0 けなく落城。頼芸は尾張の織田信秀 ( 信長の父 ) のもとに身を寄せるのである なんびと 「おのれのうえに立つ者は、もはや何人もおらぬ」 恩人を討ち、主人を追放し、ついに美濃一国を手中におさめた道三。油売りから身をおこして、 ほば二十年後のことである。こうして道三は " 美濃の蝮。とよばれて恐れられ、戦国の世の梟雄と なるのであった。 てんぶん わぼく 0 0 0 おおが 104
つがせようと画策したため、長男の義龍がそれを阻止しようと弟たちを殺し、家督の座をかためた 0 という説である らくいん あだう もうひとつは、落胤説にからむ仇討ち。これは、義龍の出生にまつわっている ときもりよし みの 時は三十年ほどまえにさかのばる。道三が西村勘九郎と名乗り、美濃の守護大名土岐盛頼の弟頼 なり みよしの あいしよ、つ 芸につかえていたときのこと、主人の頼芸が深芳野という愛妾を彼にあたえる。ところが、勘九郎 に輿入れしてわすか半年後、深芳野は男児を産む ゆたかまる これが幼名豊丸、のちの義龍で、月足らすで生まれたがために、じつは頼芸の子ではないかと噂 された。 「義龍殿は土岐の殿様のご落胤ではあるまいか」 というものだ。義龍はやがてその事実を知り、頼芸 ( 実父 ) を追放した道三 ( 養父 ) に対して恨 みをいだき、挙兵におよんだというのである さらにこの落胤説にからみ、こんな話かある 道三が義龍に家督をゆずったのは、義龍が頼芸の落胤であるという威光を利用して、土岐家に忠 誠を誓う美濃衆をうまく取りこみ、領内の反対勢力を抑えこむためのものだったというものだ。こ れが、道三の謀略説である A 」に、か / v' 義記は、 0 0 0 0 かんくろ、つ し - 」、つ 0 、つわさ より 100
ロぞえや商いの得意先であった長井家当主の長弘の推挙をうけ、ついに美濃を支配する守護大名土 岐家に召しかかえられるのである 最初の主人は土岐政房の息子、頼芸であった。頼芸は庄五郎を気に入り、庄五郎もまた、まわり の者たちに気をつかいながら、そっなく武家奉公にいそしんだ。そんな庄五郎の身に、思いもよら ぬ好運がめぐってくる奉公にはいって四年ほどたったときである 亠まさ、もと 長井家の古老西村正元が急死したが、世つぎが決まっていないそこで、頼芸は長弘に、 「西村家を庄五郎につがせたらどうじゃ」 とすすめた。長弘も、庄五郎の才覚を高く買っていたので、異論をはさむことはなかった。 ちぎよ、つ かくして庄五郎は西村勘九郎となり、はじめて知行地を得ることになる。出世の第一歩であった。 たいえい 大永七 ( 一五二七 ) 年のことである その年、勘九郎は大胆不敵な行動に出る まず国主の土岐政房が病死し、嫡男の盛頼が土岐家当主になると、その弟、すなわち自分がっか むほん 皮の謀反はみごとに成功する える頼芸をそそのかし、盛頼を追い落としにかかった。 , イ = = 結果、土岐家の当主は頼芸となり、勘九郎は城主の地位をあたえられるのである。そのあと彼は だて 頼芸をうしろ盾に、美濃の実力者長井家をつぶしにかかる 」よ、つろ / 、 享禄三 ( 一五三〇 ) 年、彼は恩義ある長井家に、 まさふさ ながひろすいきょ 103
「実父、土岐頼芸の仇を討つべし」 はんき と、檄をとばして数多くの美濃衆を味方につけ、養父の道三に反旗をひるがえした。道三に支配 された美濃を奪いかえし、名門土岐家の再興、復活をもくろむ格好で挙兵したのである これに対し、軍勢の不利を押して、戦いにいどんだ道三ーー彼の生きかたをたどってみると、道 三・義龍父子の対決には、なにか宿命的なものが浮かんでくる ひとまず、道三の生きかたを見てみよう。 おうにん みねまる 応仁の乱から三十年ほどのち、道三は生まれた。幼名を峰丸という。その出自ははっきりしてい にしおか まつなみもとむね ないか、もっとも有力な説は京都の西の岡の地侍の子で、父は松浪基宗といった。 古い秩序がくずれはじめていたとはいえ、まだ家柄や出自などが重んじられ、実力だけでは出世 みよ、つか′、 できない社会である。貧しい地侍の子峰丸は父基宗のすすめで京都の妙覚寺にはいる。そこで彼は ほ、つれんほ、つ 法蓮坊と名乗り、勉学にはげんで、たちまち才覚を発揮する しゅぎよ、つ 弁はたち、仏法を深く解し、将来有望な修行僧として期待されるようになった。それが数年後、 げんぞく 急に彼は名僧への道をあきらめ、還俗してしまう。自分より劣る者が家柄によって、いち早く出世 していくのに耐えられなかったのだ。 しよ、つごろ、つ こうして道三こと俗名庄五郎は別の道を歩みはじめるが、彼にとって、妙覚寺にいたことが後に しゆっじ 101
◆ 美濃一国を奪い盗った元油売リ 斎藤道三 古き秩序を打ち壊すことこそわが″正義〃 ◆他人のやらぬ悪業を三つもなした奸物 松永久芬 一流の風流人として戦乱の世を生きぬく ◆「本能寺の変で主君信長を討った逆臣 明智光芬 謀反の理由はおのが身を守らんがため ◆わが子かわいさで「応仁の乱」を起こした愚母 日野富子 時代の先を読んで蓄財に励んだ女傑 むほん かんふつ