小さな村々にまで足をはこび、直接領民から暮らし向きなどを聞いており、問題があれば、ただち - 」、つしよ、つ んぶう にそれをあらためる手を打っている。たとえば公娼の淫風で善良な市民が困っていることを知るや、 すぐさま、その廃止を断行した。 大老になどならなければ、「彦根の名君。として一生を終わったにちがいない しもじも このような下々への心づかいは、多分に埋木舎での貧窮庶子時代につちかわれたものだろう。青 春期における彼の生きかたからみるかぎり、もともとが " 武断型。というより " 文人型。の資質だ ったと思われる ようきよくつづみ あだ名が「茶・歌・ポン、だったといわれることでも、それはわかる。ポンとは謡曲の鼓のこと ぜん である。歌とはむろん和歌で、漢詩より好きだったという。そのほか、国学、書、画、禅、焼物、 いっかん 仏教と、なんにでも手を染めている。武も居合であって、精神修養の一環と考えていたらしい。し かも、いずれも達人の域にあったといわれ、自分の一派までつくりだしているのだ。 つまり、多面的に人格を形成した教養人であり、その基礎がのちの総合的な判断力を生みだした じゅがく といえよう。わけても長野主膳を師とした国学は、論理的な骨格で成り立っ儒学とちがって、微妙 な現実感覚にもとずく、たおやかな合理主義を養った。 それは、直弼が政事上の問題を解決しようとするさいの考えかたにも、よく生かされている 直弼に言わせれば、将軍継嗣で候補を立てて策動すること自体が問題である 248
さいぎしん という猜疑、いにさいなまれていった。 信長の判断は、恣意的であり独善的である。もともと信長との関係に違和を感じていた光秀は、 その独断的采配がいつ自分の上にくだったとしてもおかしくはないと思うようになった。 信長に切りすてられること。それはみすからの死だけでなく、明智家、そして光秀を慕う家臣た ちの行く末までも左右する。人一倍家臣思いの光秀にとって、それだけは避けなければならない事 態であった。 光秀は確実に追いつめられていった。そんなおりに、例の中国出陣が決まった。光秀はおのれの 今後を、このチャンスに賭けたのである もちろん、簡単に成功するであろうとは考えていなかった。 「しかし、ここで決起しなくても、いっかは必す信長に滅ばされる : : : それならば、この絶好の機 会に賭けてみるしかないではないか」 彼にしてみれば、神にもすがる思いだったにちがいない たんに野心から天下を欲したわけではなく、自分とみすからの家臣が生きのびる道を選びとるた くじゅ、つ めの苦渋の判断だったのだ。 それにしても不可解なのは、秀吉の動静である。 137
突きつけると、頼宣は落ちつき払って口をひらいた。 とざま 「さても、これはめでたきことである。この判が外様大名のものであったなら、逆心の疑いありと かん 世間はいろいろ勘ぐって、大騒ぎとなったやもしれぬ。しかし余の判を似せたのならば、安心でご ざる。まさか、余のごとき身内が陰謀を起こすなぞ、とうてい考えられぬこと : : これで、天下は 安泰でござるぞ」 と、一笑に付して、疑念をかわしたのだ。 どくけ 出席者一同、頼宣のふてぶてしい態度に毒気を抜かれ、反論すらもできなかった。結果、頼宣の いんしよう 嫌疑は晴れ、向後、印章をあらためるということで一件落着となるのである。 なんという大芝居。父家康の血を引くだけあって、″大狸〃のみごとな″化けざま〃としか言い ようがない。自分は名前を借用されただけで、事件とはまったく関係がない。しかも自分の名が騙 さかて られたことはもつけの幸いと、これを逆手にとってでたのだ。 さらにうがった見かたをすると、松平伊豆守自身が由比らの動きを利して謀ったとも考えられな くはない。 計画をいち早く察知した伊豆守が、由比のもとへスパイを送ったために、事件は早々に外部にも けんせいきゅう れ、失敗に終わる。「慶安の役」といわれるこの騒動は、いわは″知恵伊豆〃の頼宣への″牽制球〃 であり、浪人たちへの見せしめだったともいわれている こ、つご らくちゃく おおだぬき かた 190
若いだけあって、なるほど性急にすぎる面も否めなかったが、のちの世に非難されるほどの逆臣 だったわけではない。当時は権力争いで皇子同士が殺しあうことなど、すこしもめずらしいことで はなかったのだ。 入鹿の悪名はすべて、ク 1 デタ 1 の実行者が自分たちを正当化するために作りあげられたものな のである。
「これはいったい何事か ? 」 中大兄は大地にひれ伏して、答えた。 ・ v•らっ第、り・ 「鞍作はわれらが天孫を滅ばして、みすから大王の位につこうとねらっております。どうして鞍作 ごときか、尊い天孫一族にとってかわることかできるでしようか」 鞍作とは入鹿の別名である 大王は中大兄の返事を聞くと、黙って宮殿の奥へはいっていってしまった。 ほどなく一人の刺客は入鹿にとどめをさした。遺体はござのようなものでおおわれただけで、宮 の外に打ち捨てられた。 しとしとと降る雨が遺体を濡らした。 ふるひとのおおえのおうじ その場にいあわせた古人大兄皇子は、あわてて自分の宮に逃げ帰った。そこに留まっていては、 あや 入鹿と親しい自分も殺められるのではないかと恐れたのだ。 「鞍作が殺された。恐ろしいことじゃ」 と、家の者に話すと、彼は門をびたりと閉ざして、屋敷のなかにとじこもった。 入鹿の暗殺に成功した中大兄は、すぐさま蘇我氏が建立した法興寺に乗りこんだ。法興寺を本拠 地として、戦さの仕度に取りかかった。朝廷中の皇子や豪族たちが中大兄のもとにあつまった。 おおおみえみし 中大兄は入鹿の父親である大臣蝦夷に入鹿の遺体を送りつけた。入鹿が暗殺されたことを知って、 てんそん
しっそう激化させた。 水戸の気風は骨つほく、怒りつほく、理屈つほいといわれるが、それはこの時代にとくに強く現 われる。芹沢もそんな雰囲気のなかで育ち、どっぷりとその気風に浸かっていた。ただ彼に、理屈 つほさはない。芹沢は議論を好まなかった。 ゅ、つこく と、つ、」 あいざわせいしさい このころの水戸には藤田幽谷、東湖父子、また会沢正志斎などの論客がいた。おそらく多くの藩 士たちが、いたるところで激論を闘わしていただろう。だが芹沢は、それにはくわわらない。頭で じ はわかっていても、うまく論じられない焦れったさか、彼を議論の場から遠ざけた。 「わかっておることではないか : : : 論ずるまでもあるまい」 彼は熱弁をふるう朋輩たちの顔を見ながら、よくそう思った。芹沢は信ずるところを一途に突き 進んでゆく型の人間だった。そして人並みすぐれた剣技と体力で、邪魔物をなぎ払っていった。だ が、そんな彼も自分の心のうちに尊皇と佐幕という、相反する二つの思いがあるのを自覚していた。 そのような葛藤はこの時分、多くの武士にみられたことだった。郷士とはいえ、水戸藩に育った 彼に尊皇の志は強い。しかし水戸藩は、親藩ではないか この矛盾する思いを割り切って行動で きるほど、芹沢は器用ではなかった。 まいど / 、 がんらい酒好きの彼は、しだいに酒の量をふやしていった。そして芹沢はいつのころからか梅毒 に冒されてしたか、 、 ' 、そのことも酒量が増す原因となった。飲めば、必ず乱れた。自分ではどうしょ きつぶ かっと、つ 232
やがて高貞の留守をねらって邸内に忍びこみ、湯あがりの妻女の姿をのぞき見することに成功し あで たのである。ほんのりと紅いろに染まった肌、濡れた長い黒髪、そして絹の小紋をまとった艶やか な姿に、師直はワナワナとふるえるほどの興奮をおばえた。 いろカ 「なんと、色香ただようあやしい姿か : : : ああ、この女を、わしのこの手で抱きしめることができ たら ついに幕府に対し、 恋の病にとりつかれた師直は、どうしてもあきらめきれない。 「高貞に謀反のくわだてあり」 ざんげん と讒言して塩谷をおとしいれ、夫人を奪おうとする。事態を察知した高貞は妻子を本国へ帰し、 自分も京から帰国の途につくが、師直はこれを追い、高貞と妻子は憤死してしまう。 自分のほしいものを手に入れるため、相手を死に追いこむ卑怯なやりかたは、まさに大悪党以外 ご、つまん のなにものでもないだろう。師直と吉良上野介の悪業のイメージが重なり、師直は傲慢な好色漢と して悪名高い存在となってしまった。 さて、当の高師直とは、どういう男だったのか ? げんこ、つ 高師直が一族四十三人をしたがえて南北動乱の渦中に身を投じたのは、元弘三 ( 一三三三 ) 年の ことである。足利尊氏が三千騎あまりの軍をひきいて鎌倉を出発し、京へ向かった一行のなかに、 むほん あしかがたかうじ ひきよ、つ ふんし こもん
そうであればこそ、自分のほうは刀の柄に手をかけもしなかったのであり、「喧嘩両成敗」とさ れすにすんだのである ただし、このとき内匠頭の頭には、上野介に 対する疑念や不信感があったことは否めまい そ、つでなければ、多くの他人がいるまえで、 : この間よりの遺恨、覚えたるかっ」 などと叫びはしなかったであろう。 ・も、つュ、、つ それもしかし、じっさし ( ( 、こよ内匠頭の妄想で あり、誤解にすぎなかったのではなかろうか 儀礼事のつど、諸々の役務についた大名や旗 本らに、礼法やしきたりを教えるのは、高家の 仕事のひとつであった。そしてそれに対する報 酬は、教えられる立場の者があらかじめ持参す る 決まりではないが、当時の慣習として、そう てらこや なっていた。私塾や寺子屋の伝授料、医者の診 つか 203
えんぶん 棚にあげ、妻の艶聞はたとえ噂であろうとも許せなかったらしい 皮女は夫を「尻に敷いた」のではない。 政略結婚とはいえ、富子はつくづく男運がなかった。彳 「尻に敷かざるを得なかった」のだ。 ぞんぶん だが、見かたを変えれば、夫が義政という " ひょうろく。だったからこそ、思う存分自分の才能 を開花させることができたともいえよ、つ しかし、彼女の晩年は必すしも幸せではなかった。 おのれのもてるすべてをかけて将軍にした義尚は、黄疸をわすらい、二十五歳の若さで世を去る 翌年、夫の義政も息子のあとを追うように逝ってしまう。結局、巨万の富とそれにともなう権力を もってしても、望むものを手に入れることはできなかったということだろうか 現実をしつかりと見すえ、つねに時代の先を読んで行動した富子。もしも今の世に生まれていた ら、彼女はまさしく " 女傑 ~ であり、さらには " 時代の申し子。として、もてはやされたことだろ おうたん
門前に馬をつなぐとは、降伏して家臣になるという意味である。道三は青年信長のなかに、なに を見たのか。なにを感じとったのか その答えは道三の遺言状のなかに端的に表わ されているのではないだろうか 弘治一一 ( 一五五六 ) 年、長良川で嫡男義龍と 対決する直前、道三は生き残った幼い息子へ一 通の書状を書き送っている。とうに覚をきめ ていたのだろう、それこそは彼の遺一言状であっ た。こんな要旨である 「美濃の国は尾張の織田信長にゆすりわたす 譲り状はすでに信長に送ったので、そなたは約 定どおり妙覚寺にはいり出家すべし。そなたが 出家すれば、九族にわたって天に生する。この ことを心得てほしい。自分は死ぬであろうが、 ほっけみよ、ってい 法華の妙諦を知るおのれは、たとえ身を切り刻 じようぶつ まれて果てようとも、成仏できるから案ずるな」 マ鶩ー こ、つふく たんてき 109