岩波文庫 35 ー 014 ー 1 近代日本思想案内 鹿野政直著 岩被 岩波書店
差は、西洋人による中国人の牛馬視から、租界の清潔と租界外の不潔との対比に至るま で、だれの眼にも鮮明に映りました。中国が中華を自任する態度は、こうして、上海を みた渋沢栄一が記したように、「尊大自恣」にすぎないと目されるに至ります ( 『渋沢栄一 滞仏日記』 ) 。そういう過去をつぶさに検討した松沢は、この時期を、日本の中国像の「大 きな暗転の時期」と結論づけています。 「日本」の発見 ペリー来航を機として育まれていった共通の視野の第二は、「日本ーの意識がめざま しく成長しはじめたことです。「西洋」の発見が、「日本」の発見をももたらしたのです。 「日本」という国号は、七世紀後半、天皇の称号とセットのかたちで定まった、と考 えられています ( 網野善彦『日本論の視座列島の社会と国家』小学館、一九九〇年、吉田孝 『日本の誕生』岩波書店、一九九七年 ) 。しかし今日わたくしたちがもつような「日本ー意識、 「日本人ー意識が、人びとのうちにひろく成立していたわけではありません。 近世についていえば、二つの点でそのことが指摘されています ( 植手通有『日本近代思 想の形成』岩波書店、一九七四年 ) 。一つは、むしろ「天下ーの概念が通用していたことで
九八八年 ) は、それが日本に引き起した影響について、手ぎわよく概観しています。戦争 についての情報はいち早く伝わり、写本として弘まったばかりか、幾冊もの書物が書か れ、中華敗るとの文化的衝撃を与えました。なかでも影響の大きかったのは、魏源の世 界地誌『海国図誌』全五〇巻 ( 一八四一一年、のち六〇巻、さらに一〇〇巻に増補 ) でした。清 国の学者・地方官であり、アヘン戦争に参加した彼が、海防思想にもとづいて著わした この書物は、本国以上に日本に大きな波紋を描きだしました ( 田中彰・宮地正人校注『歴史 認識』〔日本近代思想大系、岩波書店、一九九一年〕に、この著作の翻刻諸本の抄と、それについ ての解説があります ) 。吉田松陰も、獄中からその差入れを兄に懇望し、同書を写しとっ くつがえ いましめ ています。かもしだされる危機感は一言でいえば、清国を「前車の覆るは後車の戒ーと にぎたづばなし するものでした ( 吉田松陰「瓊杵田津話の後に書す」一八四八年、『未焚稿』所収 ) 。一八五一 代 時ー六四年の太平天国も、もとより大いに日本社会の関心を引きました。 中国観の転換には、実地での見聞も引金となりました。松沢弘陽はそのことを、『近 幕代日本の形成と西洋経験』 ( 岩波書店、一九九三年 ) で、「西洋「探索」のための旅と西洋と の最初の出会いが、同時に中国を訪れ、本土と海外の中国人社会を訪れ、初めて中国に 出会う旅でもあった」と指摘しています。西洋への旅でふれた西洋対中国の圧倒的な落
きんだいにほんしそうあんない 近代日本思想案内 第 1 刷発行 岩波文庫別冊 14 著者 発行者 発行所 電話 1999 年 5 月 17 日 かのまさなお 鹿野政直 大塚信 株式会社岩波書店 〒 101- 繝 2 東京都千代田区ーツ橋 2 ー 5 ー 5 案内 03 ー 5210 ー 4000 営業部 03 ー 5210 ー 4111 文庫編集部 03 ー 5210 ー 4051 印刷・理想社カバー・精興社製本・桂川製本 ⑥ Masanao Kano 1999 Printed in Japan ISBN4 ー 00 ー 350018 ー 0
337 としてまとめられるような論文を専門誌に連作のかたちで書いてきて、つとに政治学界 の俊秀と認められていましたが、この論文を軸にオピニオン・リーダーの一人と目され るに至りました。 『世界』は、岩波書店主岩波茂雄の発案で、「新日本の文化建設」を使命としつつ ( 岩 波茂雄「『世界』の創刊に際して」創刊号 ) 、 吉野源三郎を編集長とし、一九四六年 一月号を創刊号として発足した総合雑 誌でした。吉野は東京帝大哲学科出身 年 の編集者で、軍国の風潮高まるなかで 作家の山本有一二とともに、子どもに自 当眞由で豊かな文化のあることを伝えよう 丸と、「日本少国民文庫ー一」ハ巻を企画 し ( 新潮社、一九三五ー三七年 ) 、みずか らもその一冊として、少年コペル君を 主人公とし、日常の観察から発見に至
108 で刊行、その後各国語版となる。日本語訳は 一九三五年に岩波書店刊、日本語表題は内村 が原著に与えていた訳名 ) に詳しくのべら れています。ウィリアム・クラークか組 て織と気風をつくりあげた札幌農学校で、 鑑ク上級生たちからの布教攻勢に抵抗したあ 村一 内ョ げく、内村は「イエスを信ずる者の契約」 に署名するに至ります。おびただしい 神々への礼拝を欠かさなかった彼は、「神は一なることを発見したのです。それは、 はつらっ 多くの神々に囚われていた彼の心を自由にして撥溂たるものとしました。こんなふうに 書いています。 新しき信仰によって与へられし新しき霊的自由は、余の心と体とに健全なる感化を 与へた。余の勉学は更に一層の集中を以て為された。肉体に新しく活力を享けて、 ゆり ばっしよう 余は山野を跋陟し、谷の百合花、天空の鳥を観察し、「天然」を通して「天然」の 「神ーと交らんことを求めた。 そら ュ
324 するならば、第一一回はもっと多く、第三回は第一一回よりも更に多くなるのは当然で ある。かくて「人命に代へ難く」と諦めて、貧しい財政の中から支出された前記の 八百円は、丁度第三回目の雪下ろしの時のことであった。 中谷はこの本で、こうした悪条件を克服するために雪の研究は欠かせないと、懸命に 人びとの理解を求めようとしているとの観もあり、また「裏日本ー問題を提起している とも読みとれます。しかし科学者として研究に入りこむと、結晶の美しさ、微妙さは彼 を魅了してしまいます。中谷は、科学者と文人という二つの魂の結晶というべき、つぎ の言葉をもってこの本を結びました。 雪の結晶は、天から送られた手紙であるといふことが出来る。そしてその中の文句 は結晶の形及び模様といふ暗号で書かれてゐるのである。その暗号を読みとく仕事 か即ち人工雪の研究であるといふことも出来るのである。 断想やアフォリズム 断想というときすぐ思い浮べるのは、『漱石全集』 ( 全一一八巻 + 別巻、岩波書店、一九九三 ー九九年 ) に「断片ーとして収められた夏目漱石の断片的な感想の数々です ( 一部分が、三
242 ( 「朝鮮問題の問答集ー同前所収 ) マルクス主義 「物心一如」というようなかたちで、日本の思想に伝統となっている「精神的雑居性 を原理的に否認する役割を担ったのが、「明治のキリスト教であり、大正末期からのマ ルクス主義にほかならない」とは、丸山眞男の言葉です ( 『日本の思想』岩波書店、一九六 一年 ) 。そこで丸山は、それらがその異質性ゆえに伝統の側からのつよい拒否反応にさ らされたと指摘するとともに、マルクス主義についてつぎのようにのべました。すなわ ちマルクス主義によって日本の知識世界は初めて、「社会的な現実を、政治とか法律と か哲学とか経済とか個別的にとらえるだけでなく、それを相互に関連づけて綜合的に考 察する方法を学」んだ、それがマルクス主義に社会科学を一手に代表する位置を与える とともに、「理論信仰という自家中毒を起させる原因ともなった、と。 世界を解釈しうるだけでなく変革しうる理論だということが、とくに知識青年たちを マルクス主義へ引きつけました。第一次大戦直後の一九一八年一二月、「ネオ・ヒュー マニズムーを掲げて東京帝大法科大学学生を中心に結成された新人会は、ほどなくマル
説は、『中江兆民全集』〔全一七巻 + 別巻、岩波書店、一九八三ー八六年〕を初めとして、嘉治隆一編 校『兆民選集』、松永昌三編『中江兆民評論集』などに収められ、読みつがれてきました ) 。 こころみに、『東洋自由新聞』創刊号の「社説 ( 一八八一年 ) をみると、それは、自由 についての原論といった趣きがあります。そこで兆民は、自由が、「リベルテーモラル ( 即チ心神ノ自由 ) ーと「リベルテーポリチック ( 即チ行為ノ自由 ) 」とから成るといいま す。後者は、思想・一一 = 口論・集会・結 社など、憲法の条文にふつう盛りこ こ まれる実定法上の自由を指しますが、 秋 彼のいう自由は、そういう個別的な 幸 年 項目に止まりません。むしろ、「精 神心思ノ絶ヱテ他物ノ東縛ヲ受ケズ 書 完全発達シテ余力無キヲ得ル」状態 のの いわゆる 民もで「古人所謂義ト道トニ配スル浩然 ノ一気」ある前者こそ、「本有ノ根 基」で、後者の自由はそこから流れ
れらの創唱宗教は、つよい自律性を機軸とする点で信仰の新生面をひらきました。 キリスト教の移植 ペリー来航を機とする開国は、キリスト教の日本への再来を不可避としました。もた らされた文明は、キリスト教をバックボーンとしていたからです。外交問題となった信 キリンタン こ・つさっ 仰の自由の要求のまえに、新政府は、切支丹禁制の高札を撤去し、また帝国憲法では、 「安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ」という限定つきながら「信 教ノ自由ーを認めます。仏教と神道が中心だった日本人の信仰世界に、まったく異質の 信仰が説かれてゆくことになります。 カトリック・ギリシア正教・プロテスタントと大きく分けられる三教が、それぞれ日 新本を伝道の地としました。カトリックでは、禁圧されていた切支丹が復活したほか ( 維 の新政府による浦上信徒の弾圧がありましたが ) 、あらたな布教が開始されました。ギ 信 シア正教では、ニコライによる布教がきわだっています ( ニコライについては、中村健之介 『宣教師ニコライと明治日本』〔岩波書店、一九九六年〕があります ) 。プロテスタント諸教派の 場合、伝道を西へと進めて太平洋岸に達していた米国の教会が、主力を占めました。