出席者は次のとおりだった。 軍務局長小磯国昭中将 ( のち首相 ) 、同次長二宮治重中将 ( のち文部大臣 ) 、軍事課長永田鉄山大佐 ( のち相沢三郎中佐に斬殺された ) 、総務部長梅津美治郎少将 ( のち参謀総長、終戦後ミズリー艦上で降伏 文書に調印した日本側代表の一人 ) 、第一部長代理今村均大佐 ( のち第十六軍司令官 ) 、第二部長橋本虎 之助少将 ( のち近衛師団長、満州国参議府副議長 ) 。 かんがきぎ 会議は、軍務局長の「関東軍の今回の行動は、ことごとくその任務に鑑み、機宜に適したもの である」との発言に異議を唱える者もなく、関東軍に対し、兵力を増強することに意見が一致し たのだった。 一方、内閣でも緊急会議が開かれ、若槻礼次郎首相は南次郎陸軍大臣に対し、「関東軍の今回 の行動は、支那軍の暴戻に対し、真に軍の自衛のためにとった行動であると信じてよいか」と念 を押した。 これに対して南陸相は、「私はそう信じております」と答えた。 だが、この時幣原喜重郎外相だけはどうしても納得がいかないといった表情で、この関東軍の 行動は、「計画的謀略のように思えてならない」と、終始を顔を曇らせていたのだった。 結局、その日の閣議で「事態を現在以上拡大させない」という方針が決定し、南陸相もこの政 府の方針に同意せざるをえなかった。
そこで、参謀総長は、ただちに部長会議を開き、すみやかに事件を処理して旧態に復する必要 があると述べ、参謀本部は折り返し、関東軍司令官に打電して次のようにその意図を伝えた。 一、九月十八日夜以後ニ於ル関東軍司令官ノ決心及ビ処理ハ機宜ニ適シタルモノニシテ帝国 軍隊ノ威重ヲ加へルモノト信ジアリ。 一「事件発生以後ノ支那側ノ態度等ニ鑑ミ、事件処理ニ関シテハ必要ノ度ヲ越工ザルコトニ 閣議ノ決定モアリ、従ッテ今後、軍ノ行動ハコノ主旨ニ則リ善処セラルペシ。 ところが、事件の不拡大を指示したこの参謀総長の訓令にもかかわらず、事態は関東軍の手で 図逆の方向へ進んでいってしまったのだった。 構 の これが満州事変の発端となった、いわゆる「九・一八事件」であった。 の 五十三年前の夜を回想する老将軍 そ 当時、奉天の北大営に駐屯していた第七旅第六一一〇団長だった王鉄漢大佐 ( のちに中将 ) は、そ 変 州のときの状況を次のように回想する。ちなみに、当時の中国軍の編制は、当時の日本軍の旅団に 相当する「旅」の下に、「団」 ( 連隊 ) 、「団」の下に大隊に相当する「営」があり、その下に中隊 一一に相当する「連」がある。 第 「・ : : ・午後十時を少し回った頃でした。静かな夜空を打ち破るように、遠くで爆発音が聞こえ、 のっと
満蒙問題の解決に驀進するを要す。少なくとも満蒙の天地に新国家を建設し得ば、区々たる悪宣 伝のごとき毫末も恐るるに足らず」という反抗の電報を打ち返し、ついには「軍は一定の任務に 基づき行動せるものなり。いちいち参謀本部の指令を受けるに及ばず」という反乱にもひとしい 電報まで打ってきたのだった。 かんば 当時の記録を総合してみると、当時の軍中央部には、「関東軍の悍馬はどうすることもできな い」という奐息まじりの声が集約されている。 秘密の参謀本部 それでは、どうして一参謀にすぎない板垣が、このような傍若無人の言行をほしいままにでき たのだろうか。そして、政府と軍中央部を無視して事変を拡大させたのか。 これについては『大東亜戦争肯定論』の林房雄が「橋本欣五郎大佐の手記」の編者中野雅夫の 興味ある一説を引用している。 「陸相も参謀総長も当時はうかつにして知らなかったが、このとき参謀本部内に別個の秘密参謀 本部ができていたのである。この参謀本部は板垣征四郎との間に独自の暗号を持っていて、金谷 参謀総長が『事変不拡大』を関東軍に打電すると、『参謀本部軍事行動停止命令は閣議に対する 体面上の事にして、その意志は軍事行動を停止せしめんとするものにあらず』と打電していた。 ′」うまっ ばくしん
かに、次の目標の一つに最初の特殊爆弾を投下せよ。 〈目標〉広島、小倉、新潟、長崎。 陸軍省より派遣された軍人および科学者は、爆弾投下機に随伴した観測機上にあって爆発 効果の観測および記録に従事せよ。ただし、観測機は爆発地点より数マイル以内に近寄るこ とを禁ず。 一一、特殊爆弾計画者の諸準備完了しだい、次の爆弾を前記目標に投下せよ。前記目標以外の目 標を選定する場合は別に指令す。 三、本兵器の対日使用に関する情報は、陸軍長官並びに大統領以外にはいっさい洩らさないこ と ( 後略 ) 。 四、以上は陸軍長官並びに参謀総長の指令と承認のもとに発せられたものである。貴官は個人 的にこの指令の写しをマッカーサー将軍 ( 南西太平洋方面最高指揮官 ) およびニミツツ提督 ( 太 平洋方面最高指揮官 ) に手交されたい。 参謀総長代理 e ・ e ・ハンディー 対日作戦 ( 原爆投下 ) の諸命令は、すべてマンハッタン計画の総指揮官グロープス少将が起案 し、マーシャル参謀総長の承認を受け、陸軍航空部隊総指揮官・・アーノルド将軍の署名の 1 0
ものであるかは、当時その入学試験が難関中の難関といわれた陸軍の最高学府であった陸大には 陸軍士官学校卒業者のほぼ一割ぐらいの者しか入学することができなかったという一事からみて もそのことがよくわかろう。 明治十五年に、陸軍の参謀を養成する学校として開校された陸軍大学校は、太平洋戦争の終戦 までに約三千名が輩出されたが、卒業者の大半が軍の要職につき、とくに大正以後は日本陸軍の みならず、日本の政治に決定的な役割を果たしたのであった。 この陸軍大学校を優等で卒業した将校を当時は「陸大軍刀組」といった。陸大の卒業式には必 ず天皇が行幸され、 ( 陸軍士官学校の卒業式にも天皇が行幸した ) 六人の優等卒業生に、いわゆる「恩 賜の軍刀」を下賜されたからだった。 「陸大軍刀組」必ずしも元帥や大将に栄進するとは限っていなかった。たとえば、東条英機大将 も参謀総長の杉山元元帥も、南方総軍司令官だった寺内寿一元帥も、そして先に述べた関東軍で 石原と名コンビになり、後には陸軍大臣にまで栄進した板垣征四郎も「陸大軍刀組」ではなかっ た。 また、陸軍大学校の卒業時、「いかなる参謀職にも適さず」という評価を受けながら、その後、 陸軍三長官ポストの一つである教育総監にまで累進した人に菊地慎之助という大将がいたが、 「陸大軍刀組」の石原莞爾も陸大卒業時には「粗野にして無頓着」という教官評がついていた。
略すべきであるというものだった。 これに対して、日本本土進攻作戦案に反対する主張も多く、大統領付幕僚長のレーヒー海軍大 将は、 「すでに撃破されている日本に膨大な人命の犠牲と経費をかけて進攻する理由はどこにも見当た た れらない」 下 と言い、キング海軍作戦部長は、 搬 「日本を敗北させるのに地上兵力をもって日本本土に進攻する必要は全くない。海・空兵力だけ 原 で十分だ」 のと主張した。陸軍航空部隊司令官のアーノルド陸軍大将もキング部長と同様の意見だった。 そこでワシントンの統合幕僚長会議は、これらの主張を統一するため、次のような対日進攻作 戦の全般計画方針を策定した。 の 一、日本に対する封鎖ならびに空襲を強化すれば、自ずと九州上陸進攻可能の情勢が生まれて マ シ くるだろう。 一、九州上陸作戦は日本の可能機動力を減退させ、ついには関東平野から日本の産業中心部に 四対して決定的進攻を加えるための有利な戦術的情勢が出てくるであろう。 第 さらにマーシャル参謀総長の日本本土進攻に対する強い主張もあってトルーマン大統領は次の
られていたのである」と述べている。 しかし、当時のマーシャル参謀総長がそれに関連して戦後明らかにしたところによると、日本 本土進攻作戦計画の立案では、三回の攻撃のために九発の原爆がどうしても必要だと考えていた という。各攻撃軍に一一発ずつ使用させるので、九州に対する第一次攻撃に合計六発を必要とした わけで、残りの三発は、当時日本軍が戦闘地域に投入するものと信じていた予備兵力に対して使 用する計画を立てていたという。 そして、九発もの原爆をどうして戦術兵器として使用しようと考えていたのかについて、マー シャル将軍は、当時は原爆の潜在能力がよくわからず、せいぜい数百トンの爆弾に相当するぐら いにしか考えていなかったからだと説明している。 このマーシャル発言の背景となる日本本土進攻作戦については、多少の説明が必要だ。 当時、日本本土進攻作戦について、その必要性を最も強く主張していたのは太平洋方面陸軍総 司令官のマッカーサー元帥だった。 その進攻作戦計画案は一九四五年 ( 昭和一一十年 ) 十一月一日に九州に進攻し、 ( これをオリンビッ ク作戦と名づけていた ) その五か月後に関東平野に上陸 ( コロネット作戦 ) するというもので、その 理由は、日本本土の爆撃だけに頼ることは、ドイツの戦略爆撃でもそうであったように、決定的 成果は望めない。この際、陸・海・空三軍の合同兵力をもって日本の心臓部に突入し、それを攻 7
る。しかも、まだ戦争は終わったのではない。 その爆弾とは原子爆弾である。極東の戦争責任者たる日本に対して、太陽の原動力ともなって いる力が放出されたのである。 七月二十六日、ポッダムで最終通告が発せられたのは、日本国民を破滅から救わんがためであ た れった。日本側首脳はこれをただちに拒否した。この期に及んでも、なお当方の要求を拒絶するに 投おいては、有史以来最大の破壊威力を持っ爆弾の雨を、引き続き彼らの頭上に降りそそぐことに 爆なろう : : : 」。 原 「センターポード作戦」を遂行せよー の そ トルーマン大統領が原爆投下命令を正式に下したのは、広島に原爆が投下された昭和一一十年八 月六日より十二日前の七月二十五日だった。 の マンハッタン計画 ( 原爆計画 ) 総指揮官のレスリー・・グロープス陸軍少将の「センターポー マ シ ド作戦」計画 ( 原爆投下作戦の暗号名 ) は、命令通りに、ワシントンから戦略空軍司令官カール・ス パーツ将軍宛てに、 e ・ e ・ハンディー参謀総長代理名で打電された。 四「戦略空軍司令官カール・ス。ハーツ将軍閣下へ 第 一、第二〇航空軍第五〇九混成部隊は、一九四五年八月三日ごろ以降、天候の許す限りすみや ツイ 9
ずいぶんと乱暴に聞こえる評価だが、石原がいかなる権力に対しても断じてその節を曲げない剛 直無比な性格と、人を人とも思わない下剋上的言動が多かったことなどを、そう評したものであ ろう。 石原が在満当時、北満のチチハル飛行場に現地査察のため来飛した本庄関東軍司令官を出迎え るのに、くしやくしゃの皺だらけの平常服を着ていたため、たまたま同司令官に随行していた同 期生が、どうしたのだと尋ねたところ、 「なに、どうもしないぞ。俺は殆ど軍服を脱いだことがない。睡くなればこのまま毛布にくるま 図ってごろりと寝るだけだし、とくに外出着は持っていない」 のと平然としていたという。それこそ石原の無頓着さを物語る一面であろう。 「地位も、名誉も、金も、生命もいらない」 そと常日頃、同期生に語っていたという石原は、「不正」や「奸言」を弄する権威には敢然とし て立ち向かったが、つねに「弱い者」「正直な者」には暖かく手を差しのべ、まれにみるその親 州孝行ぶりは陸軍部内でも有名であり、「兵は神様だ」と言 0 てこよなく兵を愛する温情溢れる将 満 校だったという。 一一昭和十六年ー太平洋戦争開戦の年の三月、第一六師団長を最後に陸軍を去った石原は、将来 第 は陸軍大臣か、参謀総長になるだろうといわれたほどの陸軍切っての逸材であった。 6
準備が進められており、地上決戦兵力は七個師団の歩兵と戦車二個旅団を第一線に、二個師団と 戦車二個連隊を第二線兵団として霧島山周辺に、一一個師団と戦車一個旅団を第三線兵力として、 熊本、福岡に備えていた。 総兵力は歩兵十一個師団と戦車七個連隊で、さらに特攻機と特攻舟艇によって、敵上陸軍の一 た 部を洋上で撃破し、また沿岸の砲兵群によ 0 て上陸用舟艇の一部を撃破することに専心準備をし 下 ていたのだった。 そして主たる上陸戦場を予想された有明湾の両岸には精鋭の砲兵陣が陣地構築をして、進入し 原 てくる舟艇群を南北から挟撃すべく、ニ十八サンチ、二十四サンチ、十五サンチの各巨砲合わせ のて十九門の砲口が満を持していたのだから米軍の蒙むる損害も軽微ではすまされなかったはずで そ 現にマーシャル参謀総長も米軍の死傷者を最初の一か月間で三万一千名におよぶだろうと予想 のし、キング提督は四万二千名に達するだろうと述べ、レーヒー提督は沖縄作戦では投入兵力の三 シ 五。ハーセントが死傷したのだからこの九州進攻作戦では七十六万六千名の三五パーセントの損害 が出るだろうと憂慮していた。 四さらにまたスチムソン陸軍長官にいたっては、米軍の死傷はおよそ百万を越えるだろうという 3 第 悲観的なものだった。