軍のマーシャル元帥、それに陸軍航空部隊司令官のアーノルド陸軍大将がこの計画に賛同し、彼 らはこの攻撃についてかなりのディスカッションを繰り返しておりました : ・ : ・」。 それより前の一九四二年一月、日本海軍の真珠湾攻撃にも匹敵する報復としてこの東京空襲を 作戦参謀と考えた合衆国艦隊司令長官アーネスト・キング海軍大将は、この問題の研究を航空参 謀に命じるとともに、アーノルド大将に通達した。 作戦の原案としては、攻撃空母の搭載機を使用するが、東京から五百カイリの行動半径で哨戒 する日本側の哨戒艇および三百カイリの行動半径で行動可能の基地航空部隊の前線哨戒機に捕捉 されることは危険を伴うので、これらの哨戒行動圏の外側から発進し、東京空襲を行って、中国 にある友軍の飛行場に着陸するというものであった。 キング大将からこの問題の研究を命じられた航空参謀は、ただちに機動部隊の編制と作戦計画 の立案に着手した。 陸軍のアーノルド大将はこの画期的な〈東京空襲〉部隊の指揮官に、第一七爆撃連隊のジェー ムズ・・ドウリットル陸軍中佐を任命し、以下二百名を空襲部隊参加要員に指名した。 攻撃用作戦機はー型爆撃機十六機とし、まずフロリダ州のエグリン航空基地で約一か月間 訓練ののち、サンフランシスコから攻撃空母「ホーネット」で出撃するという詳細な計画を立案 した。 06
百四十五マイル、ラバウルから約三百七十マイルの地点である。 「われわれは、山本長官はおそらくスピードの遅い輸送機か爆撃機に搭乗してくるだろうと考え ていました。いずれにしても、平均毎分三・五マイルか四マイルのスビードで飛んでくるだろう と計測を立て、高度はおそらく一万フィート以下だろうと読んだのです」。 山本長官のスケジュールは、四月十八日の〇九四五 ( 日本時間午前七時四十五分 ) バラレ着となっ ている。 「そこで、われわれはそれより十分早く、つまり〇九三五にカヒリの三十五マイル東の上空で山 し本機を捉えようと決めたのです」。 撃ミッチェル少佐もランフィアー大尉も、この地点で山本機に奇襲攻撃をかける以外に、この絶 を 帥好のチャンスを生かす方法はないと思っていたという。 元 さて、攻撃隊は一番機が編隊長のトーマス・・ランフィアー大尉、二番機がレックス・ 十 ムアー中尉、四番機がジム・マクラナハン中尉という編制だった。 五バラ中尉、三番機がジョー・ 山 総指揮官のミッチェル少佐は攻撃隊と掩護隊の十七名のパイロットを集めて、徹底的にその接 私 敵・攻撃要領を繰り返して説明した。 一「われわれは、もし、山本機を発見して撃墜したとしたら、出撃した全機はそれ以上の空戦を避 第 けて基地に帰投することを確認していました : : : 」。
特別の海・空からの周到な救助計画も立てられていた。そして、原爆投下の四時間前から六時間 後までの十時間は、他の作戦機はいっさい、目標の五十マイル以内に滞空することは許されない ことになっていた。 さらに、原爆機がテニアン基地から発進したのち、故障したばあいを考えて、予備機として一 機が硫黄島で待機することになっていた。 原爆機は、目標の付近まで二機の観測機に随伴されることになっていた。そのうちの一機には 計測および記録器具が積み込まれ、その中には、目標近くに投下して、その目盛りの数字を自動 的に返信するようになっているものも含まれていた。 「われわれの作戦を妨げるような日本側の反撃を封じるために、原爆機の出撃と日を同じくし て、他の航空攻撃が行われることになっていました」。 当時の水も洩らさないばかりの配慮について、ティベツツ准将はそうつけ加えた。 「広島の照準点は、陸軍司令部に接近した地点であった。 原爆が投下された地域内の住民に対する放射能障害を、最小限に食い止めたいというのがわれ われの願望でもあったので、爆発はどうしても高空で行わなければなりませんでした。問題は爆 弾投下後、爆発点から極力外側に立ちのくために、それまでどんな重爆撃機もやったことのない 一五〇度という急激な大角度急旋回の離脱運動をしなければならなかったことです。つまり、原
( このとき、興味があるのは、邀撃の日本戦闘機に対する脅しのために、機体の後部に木製の黒塗りの機銃 を偽装したことだった。さらに爆撃照準器は、低空爆撃を実施するということもあって、旧式のマーク・ト ウェイン型を使用することにした。撃墜されたとき日本側に奪われないようにという配慮から、最新式のノ ルデン型は装着しなかったのである ) 。 前述したように、空襲後は中国に退避する計画であったため、四月十八日の午後、日本から五 百マイルの距離で発進し、夜間攻撃を行 0 て、昼間、中国の飛行場 ( 麗水飛行場を予定 ) に着陸す 土ることとした。 本またドウリットル中佐機は他の機より三時間前の午後二時に先発し、東京に焼夷弾を投下し 日 - 一て、後続機の攻撃目標を照らし出す。 隊以後、航空作戦部隊の準備や搭乗員の訓練はドウリットル中佐の指揮下で進められることとな 爆った。 ところで作戦に使用する機種がーに決まるまでが大変だった。 「問題になったのは、この作戦に使用する航空機をどれにするかということでした。それぞれに ウ ・ト 独自の強い意見を持っており、とくに佐官クラスと尉官クラスの間で火花を散らす論議が飛び交 三わされ、結論はいつ出るかわからないような有様でした : : ・こ。 ドウリットル中将は遠い日を回想しながら、さらに続けた。 109
およびギルバート諸島に対する空襲を試み、陸上に対する艦砲射撃など行ったからである。 続いて、二月二十四日には中部太平洋のウェーキ島も攻撃目標となった。 ウェーキは太平洋戦争開戦の年の十二月二十ニ日、日本軍がここを占領していた。だが、米軍 のこのような動きに対して日本軍は十分な反撃ができなかった。連合艦隊司令部は地団駄ふんで 口惜しがったが、敵の攻撃地点が日本本土から遠く離れているということから見て、恐らく米海 空軍の国内向け宣伝のための作戦であろうぐらいにしか考えていなかった。 土ところが、その楽観的観測を吹き飛ばすような事態が発生した。 本三月四日、ハルゼー提督率いる攻撃空母「エンター。フライズ」を中核とする米空母機動部隊 一が、南鳥島に来襲したのである。 隊南鳥島は東京から千六百キロの近距離である。 驚いたのは連合艦隊司令長官の山本五十六だった。だが、驚いてばかりもいられなかった。山 本の胸裡にかねて深く沈澱していた懸念が大きく揺れはじめていた。 ( 敵は来る。近くいつの日にか、必らず本土空襲を行うはずだ ) 山本はこの危惧を、すでに開戦前に彼がハワイ作戦の構想をはじめて明らかにした頃から胸中 三に深く抱いていた。 第 そのことは、太平洋戦争開戦の昭和十六年一月のはじめ、当時の海軍大臣及川古志郎に宛てた ー 03
にはジョン・ミッチェル少佐が決まった。 「この攻撃チームに選抜された時は、さすがに異常なほどの興奮と緊張を覚えました。今でもは つきりと想い出します」。 ようげき 「われわれは山本機の編隊をプーゲンビル南端のカヒリの東方、三十五マイルの上空で邀撃する ことに決めたのです。十八機のæ-z は、二つのセクションに分かれることにしました。すなわ ち攻撃隊と掩護隊に分け、攻撃隊は四機で編制し、一万フィートの高度で山本機を待ちうける。 そして、できれば奇襲攻撃で彼を撃墜する。また掩護隊は残りの十四機で編制し、ミッチェル少 佐がそれを指揮し、山本機の邀撃地点まで完全な編隊で飛ぶ。その任務は、われわれ攻撃組を一一 万フィートの高度で警戒掩護し、おそらくどっと飛びかかってくるであろうゼロ戦を撃退すると いうものでした : ・・ : 」。 ランフィアー大佐は三十年前の状況を、あたかも昨日の出来事のように熱を入れながら話し続 けた。 要求される至難の航法技術 カヒリの東方三十五マイルの邀撃地点は、山本機がラバウルを飛び立ち、バラレの航空基地に 向かう航行線上にあり、ーの編隊が進発するヘンダーソン基地からはコース距離にして約四
″爆撃隊を発進させよ″ ″ドウリットル中佐およびその勇敢なる攻撃隊諸君の幸福と神の加護を祈る巳。 〇八一一五 ( 午前八時二十五分 ) 全機始動開始。 天候きわわて不良。風速四十ノットを越える強風にあおられて「ホーネット」の巨艦は激しく 揺れた。灰色の大波が舷側を叩き、水しぶきをあげて飛行甲板を洗う。 高度な飛行技術を要する空母からの発進には、最悪のコンディションである。 轟々と野獣のうなり声を上げて一機、また一機とカタ。ハルトの位置に移動する。 ドウリットル中佐機が、われに続けとばかりに真っ先に飛び出した。 次つぎと矢つぎ早に発進するその中の一機が、あわや失速ーー海中に突入したと見る間に立 ちなおり、天空の一角をついていく。 全機十六機のうち、十三機は東京、他の三機は東京を通らず、それぞれ名古屋、大阪、神戸へ と向かった。 筆者はこのときの模様を撮ったフィルムをかって米国防総省で見る機会があったが、それは、 のちにベトナムのヤンキー・ステーションで目のあたりにした数多くの攻撃空母搭載機の出撃に も見られない壮絶なものであった。 一時間のうちに全機十六機が無事発進し終わると、「ホーネット」は速力を一気に二十五ノッ 1 」うごう ー 26
ウラジオストク 名古屋 攻撃空母「ホーネット」位置 x 第ニ十三日東丸敵機動部隊発見位置 ドウリットル隊攻撃経路図 B 5 爆撃機 ーイ 2
ランフィアー大尉は、幾度も自分にそう言い聞かせた。 これまでに八十回を越える出撃を重ね、自信は十二分にあるはずなのに、なぜか操縦桿を持っ 手が汗ばんでくる。 「緊張が極度に達している証拠だったのです : : : 」。 ランフィアー大佐はそう言って苦笑する。 運命の時 0 九四五 やがて編隊はプーゲンビル島の南の海岸に近づいた。時計の針は〇九三三 ( 午前九時三十三分 ) ジャストを指している。 予定の会敵時刻は〇九四五である。予定どおりとすれば、あと数分で会敵点に到達するはずで ある。 果たして日本機は時間どおりやって来るだろうか ? いつになく胸の鼓動が昂ってくる。 しかし、これほどの衝撃的ドラマは太平洋 戦場にはつねに切迫したドラマの交錯がある。が、 戦争、そしてその後のどの戦争を通じても見られなかったのではなかろうか。 当時の日本海軍の至宝、連合艦隊司令長官山本五十六大将の搭乗機に〈待ち伏せ攻撃〉をかけ
一、東京の北方方面から侵入した一一機は、早稲田付近に焼夷弾を投下。 一、犬吠埼方面から侵入した一機は、赤羽方面に直進、焼夷弾を投下。 一、千住方面に侵入した二機は、そこから月島、品川を経て登戸方面に向かい、焼夷弾を投 一、川崎方面を空襲した数機は、日本鋼管、昭和電工の工場を爆撃。 一、横浜方面に侵入した数機は、横浜の市街に焼夷弾を投下。 一、一機は横須賀東南方向から低空侵入、横須賀海軍鎮守府、および工廠を攻撃、入渠中の 「大鯨」に損傷を与える。 他の三機は名古屋、阪神方面を空襲、それそれ与えられた目標を攻撃。 ( 三機のうち一機の目標は大阪を攻撃するよう指示されていたが、間違えて名古屋を攻撃 ) 一、名古屋方面から侵入した一一機は、名古屋、四日市を空襲、東邦化学および三菱飛行機工 業を爆撃。 一、一機は神戸市方面を空襲。 東京方面は第一弾がその日午後〇時十五分に投下されたが、前述したように、″敵の空襲″は 少なくとも翌十九日と判断していたので、警戒警報は横須賀鎮守府管内だけに発せられていた。 下。 ー 30