太平洋上から悠々と本土内に入れてしまった海軍の大失態は、当時の陸軍に対する面子からも、 国民に対しても事実、顔向けならなかったろう。 被害は極めて僅少だったとはいえ、十六機もの敵機が白昼堂々と日本本土上空を空襲するの に、一機も撃墜できないとあっては、国民の軍に対する信を失なうと考えたのか、軍部はその日 の午後、「帝都上空を空襲したる敵機九機を撃墜せり」といういい加減な報道をした。しかも本 来ならば〈大本営発表〉という形で行うのに、さすがに気がひけたのか、その時に限って、〈東 部軍管区司令部〉の名で新聞・ラジオを通じて空襲の模様を報道したのだった。 しかし、事実を知る国民の一部の間では、「落としたのは九機じゃなくて空気だよ」とまるで 狂歌のような蔭口が囁かれていた。 ではどうして米機動部隊による来襲と日本本土空襲を予測してあれほど警戒を厳にしていた日 本側が敵機を易々と本土に引き入れてしまい、一機も撃墜できなかったのか、言い換えれば、ド ウリットルの空襲はどうして成功したのかという疑問が残る。 まず第一は、宇垣参謀長がその「戦藻録』の中で、「 : : : 第二十三日東丸は九十トンの漁船と して、第一電後、消息を絶っ。粟田丸、赤城丸、第二一戦隊の特設巡洋艦はつけたるも、単に敵 数機の発見をなしたるのみにて、敵の実体を見ず。 : : : 」と記しているように、十八日の午前、 第二十三日東丸がその消息を絶った後は、第二六航空戦隊の索敵機も敵機発見の報告をし、また めんっ
十三日東丸」の報告を、きわめて高く評価して、言葉を結んだ。 「われわれは『第二十三日東丸』に発見されたため、当初の予定を変更せざるをえませんでし た。そこで、日本を空襲後、中国大陸〈到達したときは夜間とな 0 てしまい、予期もしなかった 大損害を受けてしまったわけであって、その詳細は前に述べたとおりであります。 したがって、こうした観点から考察するならば、むしろもっとも功績があ 0 たのは、この『第 一一十三日東丸』というべきでしよう」。
「第二十三日東丸」は、その前日の十七日一二〇〇 ( 正午 ) に第三哨戒隊と交代して釧路へ向け航 行中、十八日の〇六三〇 ( 午前六時三十分、米国時間午前七時三十分 ) 、敵飛行機、続いて米機動部隊 を発見、緊急電を発した。発見位置は北緯三六度、東経一五一一度一〇分、犬吠埼の東六百マイル ( 約九百六十六キロメートル ) の地点だった。 第二十三日東丸↓北方部隊十八日〇六三〇 ( 午前六時三十分 ) 「敵飛行艇三機見ュ針路南西」 「敵飛行機一一機見ュ」 第一一十三日東丸↓哨戒部隊十八日〇六五〇 ( 午前六時五十分 ) 「敵航空母艦三隻見ュ」 敵空母の隻数については、二隻あるいは三隻となっており、「第二十三日東丸」は暗号で敵発 見の模様を打電したので、隻数の符号をまちまちに受信したものと推定されている。 その後、「第一一十三日東丸」は四通の報告を行ったのち、消息を絶った ( 撃沈された ) 。 当時の連合艦隊参謀長宇垣纏少将は、その日誌『戦藻録』に、そのときの状況を次のように誌 している。 「朝食終了時 ( 〇七五〇 = 午前七時五十分 ) 軍令部よりの電話は第五艦隊の哨戒艇第二十三日東丸、 〇六三〇、東京の東七一一〇マイル ( 約千百六十キロメートル ) において敵空母三隻発見の報に接すと 工 22
ところで、米第一六機動部隊を最初に発見し、「敵艦見ゅ」と緊急電を打った哨戒艇「第二十 土三日東丸」の孤軍奮闘ぶりは、当然ながら、日米双方から高い評価を受けた。 林当時、第一三戦隊司令官は、「十八日〇六三〇敵機動部隊発見より〇七〇〇沈没に至るまで、 一敵の熾裂なる攻撃を被り 0 0 も六通 0 敵情報告を発し、わが作戦に寄与せしところ極めて大な り」と報告している。この功績によって、「第一一十三日東丸」の全乗員は、二階級特進、金鵄勲 章が授与された。 それでも日本本土が米軍機に奇襲攻撃を受けたという結果からみれば、「第二十三日東丸」の ッ 報告はなんら価値のあるものではなかったという評価もないではない。しかし、この身を挺して 送 0 た報告を生かせなか 0 たのは、受け取った側の問題である。そのことで「第一一十三日東丸」 の働きが左右されるものではない。 第 なによりも、この戦士たちは、相手側の米軍から称讃された。ドウリットル中将はかの「第ニ 戒によって米機動部隊の来襲を早期に発見する必要があるという意図が強調されはじめてきたの だった。 そして、連合艦隊が主張する運命のミッドウェー作戦が、にわかに現実性を帯びてきたのであ
思われる北緯三五度付近の海域を重点的に哨戒することとしていた。 そこで、この哨戒海域を担当する部隊に第五艦隊の第一三戦隊を充てることとした。 その艦艇の構成は次のようなものであった。 本隊特設巡洋艦三隻 第一、第一一、第三監視艇隊 各監視艇隊は特設砲艦、特設敷設艦一一 ~ 三隻、特設監視艇一一十五 ~ 二十八隻 合計特設巡洋艦三隻、特設砲艦、特設敷設艦八隻、特設監視艇約八十隻 この監視艇隊が編制されたのは、東京空襲のあった年の昭和十七年一一月一日で、それらは全国 の網元や、個人が持っていたカツオやマグロ漁船で、海軍が徴用したものだった。 これら百トンから二百トンの漁船の船員もそのまま徴用され、それに海軍の下士官兵が乗り組 んでいた。 司令部が置かれていた「赤城丸」「粟田丸」「浅香丸」の三隻は七千トン級の商船で、若干の武 装がほどこされていて特設巡洋艦として哨戒線の後方に配置されていた。 「第二十三日東丸」の緊急電を受けた海軍軍令部、連合艦隊は、ただちに第一一一、第一一六航空戦 隊に攻撃命令を発するとともに、第一航空艦隊、第三潜水戦隊に敵機動部隊所在地点への急行を
そのときがいちばん苦しかったと、ドウリットル中将は言う。 第ニ十三日東丸から打電 四月十八日未明、機動部隊は日本本土から約七百マイル ( 約千百一一十七キロメートル ) 以上離れ た地点で、電波探知器によって突然一一隻の小艇を発見した。 空当時、米機動部隊は、日本側がこのような遠距離まで哨戒しているとは、予想もしていなか 0 土たようである。 林機動部隊はただちにこれを回避し、空母「エンタープライズ」から数機の索敵機を発進させ た。 隊索敵機は前方四十二マイル ( 約六十八キロメートル ) の地点に、一小艇を発見した。 爆ハルゼー中将は軽巡「ナッシュビル」にこの哨戒艇を撃沈させ、「エンタープライズ」の艦上 攻撃機に他の哨戒艇攻撃を命じたが、機動部隊が日本側に発見されたことは確実と判断した。午 前七時五十五分だった。 一一一一方、この軽巡「ナッシ = ビル」に撃沈されたのは、哨戒艇の「第一一十三日東丸」 ( 艇長中村 第 盛作兵曹長 ) だった。
ウラジオストク 名古屋 攻撃空母「ホーネット」位置 x 第ニ十三日東丸敵機動部隊発見位置 ドウリットル隊攻撃経路図 B 5 爆撃機 ーイ 2
意見書の中にはっきりと述べられている。 「 : : : 若シ一旦カクノ如キ事態ニ立チ至ランカ、南方作戦ニ、仮令成功ヲ収ムルトモ、我ガ海軍 ハ与論ノ激昂ヲ浴ビ、延イテハ国民ノ士気ノ低下ヲ如何トスル能ハザルニ至ラシムルコト火ヲ観 ワライゴト ルョリモ明ラカナリ ( 日露戦争浦塩艦隊ノ太平洋半周ニ於ケル国民ノ狼狽ハ如何ナリシカ笑事 ニハナシ ) 」 この中の「カクノ如キ事態」とは、敵が日本本土に襲来し、帝都その他の大都市に攻撃を加え は、明治三十七 ( 一九〇四 ) 年、ロシアのウラジオ ることなどであり、また「日露戦争云々 : : : 」 艦隊の三艦が、東京湾に現われ、伊豆の大島と川奈の間をわがもの顔に航行したため、日本の国 民は山に逃げ込んだり、第二艦隊司令官上村中将の私邸に投石するなどして、大混乱に陥ったこ とを指している。 ところで、本土の東方洋上に出て哨戒に当たっていた哨戒艇の「第一一十三日東丸」は、その いぬぼう 朝、大吠埼の東六百五十カイリの地点にアメリカの攻撃空母二隻がいることを発見して、無電を 発しているが、この位置から空母搭載機が日本本土の空襲に出撃することは常識的にも不可能 で、しきりと索敵行動はしたものの、敵機動部隊の実体をつかめず、その後の相手の行動を見守 ることにしているうちに、日本は完全に意表を衝かれてしまったのだった。 ウラジオ しようかい タトエ 104
じようにも信じられないといいたげな様子だった。というのは、わたしの憶測ばかりではない理 由があるのだ。 一つは一式陸攻の機能上の問題である。 米軍。ハイロットたちは、この飛行機を″ライター″という隠語で呼んでいた。燃料タンクに防 弾設備がないので、一撃で火を発するという弱点を揶揄したのである。正確に弾丸を射ち込まれ たら、ひとたまりもないはずであり、機体は轟然と火を噴いて、たちまち四散してしまう。 もう一つの理由はーライトニング戦闘機の一際すぐれた性能についての確信である。 しー戦闘機は双胴体の一見無気味なドスのきいた機体だが、太平洋戦争開戦以来、向かうとこ 撃ろ敵なしといわれ日本海軍のいわば△虎の子 > 的存在として、連合軍側に恐れられていたゼロ戦 を 師の、その世界最強の戦闘機と銘打たれた看板を引きずりおろした戦闘機だった。 元 六大型・高速・重武装のーが登場してきたのは、太平洋戦争開戦の翌年、一九四二年 ( 昭和十 五七年 ) の末だった。 山 全備重量九・八トン、最高時速六六六キロ、航続距離一、二〇〇キロ、・ 7 ミリ機銃四挺と ミリ機関砲一門で武装されたーは、そのすぐれた火力、航続力、上昇限度、それになにより 一も堅牢という総合力を最大限、最高度に発揮して、それまでゼロ戦が誇っていた撃墜率を逆転し 第 てしまったのである。