極東国際軍事裁判 - みる会図書館


検索対象: 逆転の証言―太平洋戦史
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1. 逆転の証言―太平洋戦史

本庄関東軍司令官の責任 それより一か月前の八月二十六日、関東軍司令官本庄繁中将は、新軍司令官の武藤信義大将に 軍務引き継ぎを終えて、帰国したのち、天皇に拝謁して軍状を奏上した。 奏上が終わると、天皇は、満州国ができて満州人は喜んでいるかとたずねたのち、すぐ「満州 事変は一部の者の謀略ということを聞きおよんでいるが、どうか」と下問した。 本庄中将はそれに対して、 「一部軍人、民間人によって謀略が企てられということは、私もあとで聞きおよびましたが、関 東軍並びに軍司令官としては、当時、そのような謀略は決してやっておりません」 と即答した。 本庄中将は、関東軍として、軍司令官として、謀略には参加していないと強調しているわけで ある。 ところが「本庄中将は東京で行われた極東国際軍事裁判で偽証している」と、王鉄漢中将はき びしくその点を指摘する。つまり本庄中将は、謀略に参加しているというのである。 うんぬん ただ、王中将のこの「極東国際軍事裁判で偽証している云々」というのは、何かの勘違いだと 思われる。というのは、本庄中将は極東国際軍事裁判が行われる以前の終戦の年十一月に自決し

2. 逆転の証言―太平洋戦史

石原はその後、少将に進級して参謀本部の作戦部長のポストに就き、短期間ではあったが、陸 軍に石原時代の到来を思わしめた。 だが、昭和十二年九月に関東軍参謀副長に転出し、ここで当時参謀長だった東条と衝突して、 石原の軍人としての命脈を絶たれることになった。 終戦翌年の昭和一一十一年、持病で東京・飯田橋の逓信病院に入院していた石原は、突然、極東 国際軍事裁判 ( 俗にいう東京裁判 ) の証人として臨床訊問を受けた。 石原はその時、この裁判が日清・日露戦争までさかのぼって裁くのだと説明されて憤然とし、 検事団に向かって叫んだ。 「ベルリを墓から掘り起こして連れて来い。彼奴こそが大東亜戦争の元凶だ。逆にこの俺が裁い てやる。次なる第一級の戦争犯罪人は原爆投下を命令したアメリカ大統領トルーマンだ ! 」 石原は政治をきらっていたが、政治力は十分あった。太平洋戦争中のそれそれの位置で東条と 石原を入れ替えていたならば、日本の命運はまるで違っていただろうと評する人は少なくない。 石原はしかしそれだけの人物であった。ただ、自信過剰であけすけの言動が他人の誤解を招き、 それだけに論敵も多く、大成することなく終わったのは惜しい限りであった。 一方の板垣征四郎は、どちらかというと、石原とは極めて対照的な人物といえた。

3. 逆転の証言―太平洋戦史

また、アメリカきっての軍事評論家として原爆使用についてきびしい論評をしてきたハンソン ・ポールドウインは、「原爆はただ勝利をいくらか早めるのに役だったにすぎない。しかし、平 和においてかってアメリカの得た非常にすぐれた道徳的立場は、失われてしまった。広島や長崎 の被害者たちは、将来長く原爆のことを決して忘れないだろう。そしてアメリカの蒔いた憎しみ た れの種子を、アメリカはいつの日か刈り取らねばならぬだろう」 (G 「 eat Mistakes the War 投一 950 ) と痛烈な論評を下している。 原 戦後の昭和二十一年五月三日から始まった〈世紀の裁判〉といわれる「極東国際軍事裁判」 ので、ただ一人、日本の無罪を主張したインドの代表判事ラダ・ビノード・。ハール博士は、 : いったいあのばあい、アメリカは原子爆弾を日本に投下すべき何の理由があっただろうか。 夢日本はすでに降伏すべき用意ができていた。広島に原爆が投下される二か月前から、ソ連を通じ の て降伏の交渉を進める用意をしていたのである。当時日本は、連合国との戦いにおいて敗北した マ シ ということは明らかにわかっていた。彼らはそのことを十分知っていたにもかかわらず、実に悲 惨なる破壊力を持ったこの原爆をあえて投下したのである。しかもそれは、一種の実験としてで 四ある。われわれはそこにいろいろな事情を汲み取ることができないでもない。しかしながら、こ ) れを投下したところの国から、いまだかって真実味のある懺悔の言葉を聞いたことがない。これ

4. 逆転の証言―太平洋戦史

政府首脳のため息 もともと関東軍の任務は、旅順、大連を含む関東州の防衛と、南満州鉄道およびその付属地域 に住む日本人の保護にあった。 この本来の任務を逸脱した行動をとれば、必ず張学良指揮下の軍隊と衝突することは明らかで ある。そうすれば当然の結果として、蒋介石を敵に回さなければならなくなる。 当時、蒋介石の背後には強力な米英の軍事力が控えていたわけだから、連動的に米英を敵に回 すようになっていくことは必然である。 また、関東軍がもし遠くハルビン方面まで進出していくとすれば、当然ソ連の権益を侵すこと になり、そのばあいは対ソ戦の危険も覚悟しなければならない。 こういったさまざまな状況を考えるからこそ、陸軍中央部は関東軍の″独走″に危惧を抱き、 そのコントロールに懸命になっていたのであった。 戦後、東京で行われた極東国際軍事裁判の起訴状によれば、日本の指導層による全面的共同謀 議は、一九三一年の満州事変のときから始まったということになっている。だが、当時の日本政 府は、元老西園寺公望、若槻首相、幣原外相をはじめとして、そのことごとくが満州における武

5. 逆転の証言―太平洋戦史

板垣も石原と同様にいろいろと逸話があったようである。士官学校時代、日曜日の外出で、大 酒を呑んで帰校したが、たまたま意地の悪い区隊長の週番士官による飲酒点検があると知った板 垣は、点検前に一計を案じて、大量の仁丹を口に抛り込んで申告し、危ないところを事無きを得 たのだった。 ところが、この話が後年、板垣が関東軍在任の頃、新聞社に伝わり、それがまた仁丹の会社に 伝わり、「仁丹を飲めば偉くなる」という広告の宣伝文句にさえ使われて、大いに仁丹が売れた という嘘のような本当の話がある。 板垣の陸大時代の人物評価に、「小事に拘泥せず、清濁合わせのむの雅量あり、大局の把握を あやまらず、謀略に適するの素地ありと認む」とあり、石原の「粗野にして無頓着」と比較する とまことに好対照であり、悍馬のような石原に対して、板垣は礼儀を知る人物であった。 陸相の東条英機は板垣の後輩であったが、東条に対してでも、何かにつけて極めて礼儀正し 、石原とは雲泥の相違だった。 板垣はまた石原のように雄弁でなく、陸相時代もその訥々とした語り口は、かえって聴衆に感 動を与えてその演説も懇切を極めたため、大臣の中でいちばん言葉数が多かったという。 戦後の極東国際軍事裁判で証人として出廷した元満州国皇帝溥儀は、法廷で板垣を見て、おど おどし、これを見た板垣は、「危うく噴き出しそうになった」と回想しているが、豪胆無比と、

6. 逆転の証言―太平洋戦史

力行使には絶対に反対であり、それゆえにこそ、前述したような関東軍の独走にはとくに気をつ かっていたのであった。 そうしたことから、陸軍中央部もまた、武力解決策の実行には反対であったのだ。 参謀本部は立案以外の軍事行動を認めず、関東軍の独断専行、とくに謀略行為については、い っさいこれを禁じていたのであった。 当時、「政治的策動または大陸浪人の陰謀に、軍人はけっして参加すべからず」という基本の 方針を打ち出して、とくに少壮将校を戒めていたのであった。 図幣原外相は、「九・一八事件」直後の閣議で、この事件は関東軍の謀略であると断言し、林久 の治郎奏天総領事、木村鋭一満鉄理事の報告文を読んで、南陸軍大臣をはげしく攻撃した。 このことは『満州事変機密作戦日誌』にくわしく記されている。 の そしかし、その南陸相も、武力解決案には基本的にまったく反対だったのだ。 当時の陸軍大臣南次郎大将は、極東国際軍事裁判の法廷で、「陸軍大臣には直接の軍事行動を 変 事コントロールする権限はま 0 たくなかった」と言 0 て直接の責任はあくまでも関東軍司令官本庄 満 繁大将にあると主張してやまなかったが、事実、満州事変の開始にも、またその拡大にも、南は 反対を唱えてやまなか 0 たのだ。 第 その陸相の制止をも振り切って、板垣征四郎大佐は「 : : : 千載一遇の好機に乗じ、敢然として

7. 逆転の証言―太平洋戦史

われた板垣に対して、いつまでもその畏怖がとれなかったのだろう。 石原と板垣はその年の七月、「対ソ作戦計画の研究」という名目で行われた北満参謀旅行で、 関東軍司令部付の佐久間亮三大尉に詳細な「満蒙占領統治計画案」の作成を命じているが、当 時、石原中佐が胸に描いていた日本の歩むべき道は、次のようなものであったようだ。 「 : : : 日本が満州なしで生活していくことは不可能であったし、逆にこれを放置しておくなら ば、日本は張学良と背後の南京政府の排日によって大陸の足がかりを失う状態にあった。 世界情勢の危機にあって、日本の進むべき道は、満州を中国本土から分離することだけであ 図る。 のソ連は第一次五カ年計画に着手し、その戦備はしだいに充実しつつあり、やがて極東におい て、わが国の一大敵国として相まみゆるのも遠くはない。しかし、今ならばこれに大きな顧慮を の そ払わずに満州建設に向かいうる。赤色勢力の南下に対し、強力な防波堤を築かなければならな 州中国国民の民族運動と国権回復運動は自然の理であって、蕗介石の統一は必ずや成功し、その 国力は漸次結集されるであろう。しかし現状は、なお内紛が絶えず、満州の問題に力強い反発を 二示しえないだろう。 第 国際連盟や米国の千渉も、現情勢においては大きな顧慮を要しないが、将来は不利となろう。

8. 逆転の証言―太平洋戦史

ケット博士 ( ノーベル物理学賞受賞者 ) が「原爆投下は第一一次大戦の最後の軍事行動だったという よりは、むしろ戦後激化したソ連との冷戦の最初の大作戦だった」と、その著『恐怖・戦争・爆 弾』 ( 田中慎次郎訳 ) で述べているように、むしろ政治的意味の方が濃厚な気がしてならない。 その時点では、当初、日本を敗北させるためにどうしても必要だと考えられていたソ連の参戦 た れは、そうした政治的影響を考えたばあい、アメリカにとってもっとも望ましくないものになった 投ためだったのではないかと考えられる。 つまり、日本に対して原爆を使用するというアメリカの決定は、同時に一歩進んでソ連に対 原 し、さらに抑制的に作用するのではないかという国際政治上の思惑が働いたためではないかとい のうことである。 そ 当時、アメリカは日本の最後の抗戦に直面していたばかりでなく、切迫したソ連の挑戦にも対 抗しなければならなかったからであって、ソ連軍が満州になだれ込む前に対日戦を終結させてお の こうという願望が、このことをいっそう促進させたのではないだろうか。 マ シ プラケット博士は、アメリカが原爆の早急投下を促した圧倒的理由は、すでにずっと以前から 計画されていた満州に対するソ連の攻撃に関係があると指摘しているが、事実、ドイツの降伏後 四六か月以内 ( 後に三か月に訂正 ) には、ソ連は日本に宣戦を布告するだろうといった一九四五年ニ 第 月のヤルタ会談での再確認どおり、八月八日 , ーー広島原爆投下二日後にーー・日本に宣戦を布告、

9. 逆転の証言―太平洋戦史

に、神は人類の目の前に、かの原子爆弾を罪の証拠として突きつけ給うであろう。 今にして思うのだが、原爆を東京湾に落として、その恐ろしさを日本人に見せればよかったの だ。またもし、原爆が一九四五年の二月に完成していたらと思うのだ。そうすれば、硫黄島に落 とせたからだ。あそこは軍事施設と戦闘員だけだったのだから : : : 」と。 た れ さ 原爆はなぜ投下されたか 下 という問題については、戦後さまざまな論争が巻き ところで、原爆はなぜ投下されたのか 原 起こり、今までのところでは、この問いに対する決定的な解答は見出されていないといってよ のい そ アメリカが国力を挙げて原爆の製造に本格的に取り組み始めたのは、前述したように、日米開 戦二年前の昭和十四年十月にさかのぼるが、その目的の第一は、あくまでも純軍事的なものであ の り、それを使用する決定の大きな理由も、できるだけ速やかに戦争を勝利で終わらせるという意 マ シ 味を超えるものではなかった。 トルーマン大統領も 四「私は原爆を軍事兵器と見なし、それを使用するのに一点の疑念も抱かなかった」 第 と述べている。

10. 逆転の証言―太平洋戦史

この「魚電」の真意、とくに「日本側からどのように挑発されても、隠忍自重して反抗しては ならない」ということについては、今もって実は判然としていない 元来、張学良という人は武力紛争を好まない真からの平和主義者であり、日本も国際連盟の一 員である以上は、日中間の紛争について話し合いに応じる用意があるはずだと信じ、この「魚 電」を発令したのだというのが、中国側の一般的所説のようである。 だが、この「魚電」の真意は、実は他にあると解釈する向きもないではない。 つまり、当時の中国軍の戦力は日本軍に比すべくもなく、その実態を知っていればこそ、直接 武力をもって対決することを避けようとしたのが″不抵抗″主義をとらせたのだという説であ このことについて、王鉄漢中将は、 「当時、日本側と話し合いによる和平交渉を信じて不抵抗主義をとるべきだと認識した軍幹部の 考え方は、少なくとも誤りである」 と指摘し、次のように言う。 「当時の日本軍に対して抵抗するということは、その国力、兵力からみてもとうてい不可能であ ったことは明白です。それゆえにこそ、不抵抗主義をとらざるをえなかったのでしよう。さらに 張学良将軍を総帥とする瀋陽の軍政責任者が、当時の情勢を理解しておらず、日本軍がまさか瀋