判断では空襲部隊の搭乗員をソ連船が収容したのではないかという可能性も大いにあるとみてい たようである。 というのは、その年の四月初め頃から日本の東方海上に米潜水艦が跳梁しはじめ、それにつれ ゅうよく て同海域にソ連船の遊弌する数も増え、日本の海軍部ではそれらはアメリカのための利的行為を 行っているのではないかという疑いを持っていたからである。 十八日、佐伯航空隊哨戒機は、「一五〇〇足摺岬ノ百六十七度八三浬ニソ連商船約二百屯を発 見沿岸〈誘導ニ努メタルモ停止ノ儘肯ンゼズ監視一時間後帰隊」と報告があり、連合艦隊司令 部はこのソ連船と米空襲部隊との関係を考えて連合艦隊参謀長は第一艦隊参謀長に次のような電 報を打っている。 「足摺岬南方ノソ連船ハ敵機搭乗員収容ノ疑ヒ濃厚ナリ捕捉臨検セラレ度」 同時に呉鎮守府司令長官も防備船隊と佐伯航空隊に捜索、引致するよう発令し、盤谷丸にその 臨検の実施を命じた。 しかし盤谷丸が串本へ連行してきたソ連船は容疑なしということで釈放したが、このように当 時ドウリットル空襲の影響による日本海軍のソ連船に対する関心は想像以上に高かったのであっ た。 その頃、東京空襲を終えたドウリットル空襲部隊は、ソ連のウラジオストックに退避していっ 工 32
その日の大統領と海軍首脳との昼食会の席上で、その暗号解読文をふところにしたノックス海 軍長官は真っ先にその話を持ち出した。 「 : : : しかし、どうもこの話はできすぎていて、いかにも偽電くさい。これで米軍機をおびき寄 せておいて、やってきたところを一網打尽という魂胆ではあるまいか : ・ : ・」というような意見も 出た。 だが、結局、海軍首脳は「復讐」という名をつけた作戦を実施しようということになり、戦闘 機の専門家に急ぎ具体的検討をさせたところ、ガダルカナル基地のー戦闘機を使用すれば山 本長官機は捕捉できるだろうとの結論を得た。 大統領の命令を受けたノックス海軍長官とキング海軍作戦部長は、「山本連合艦隊司令長官を 撃殺せよ」という極秘命令を下命した。 「提督を撃て ! 」 この極秘命令はニミツツ太平洋方面海軍司令官から南太平洋方面総司令官のハルゼー大将に飛 び、ハルゼー大将は直ちに指揮下の航空隊基地司令官マーク・ミッチャー少将にこの重大任務を 与えたのであった。 ハルゼー提督はそののことを回想して、「 : : : 私はマッカーサー将軍とニュージョージア作
「ーで暴れ回っていた時が、何といってもいちばん印象的だった」という。 「あの日も、やはりこんな天気だったな」 ランフィアー大佐は独り言のようにそうつぶやいて、夫人の方を見返りながら、真夏の太陽が ぎらぎらと照りつける窓外の青空を見上げた。 一通の電報 その日、一九四三年四月十八日の前日の午後、ガダルカナル島のー戦闘隊の第三三九戦 闘中隊の中隊長ジョン・・ミッチェル少佐と第七〇戦闘中隊の中隊長トーマス・・ランフィ アー大尉は、突然、ガダルカナルの作戦司令部のあるヘンダーソン基地に隣接する海兵隊の戦闘 指揮所に呼び出された。 何事だろうと急いで駈けつけてみると、そこにはすでに、ガダルカナルの作戦全般を担当する 陸軍、海軍、海兵隊の参謀と高級将校が集まって、作戦会議が開かれていた。 海兵隊の作戦担当の少佐は一一人の姿を見ると、黙ってうなずきながら、緊張した面持ちで一通 の電報を手渡した。 パーだった。 それは海軍が極秘事項の発信に使用するプルーのティッシュ 緊張して紙に目を移すと、タイプでたたかれたそのメッセージには、
思われる北緯三五度付近の海域を重点的に哨戒することとしていた。 そこで、この哨戒海域を担当する部隊に第五艦隊の第一三戦隊を充てることとした。 その艦艇の構成は次のようなものであった。 本隊特設巡洋艦三隻 第一、第一一、第三監視艇隊 各監視艇隊は特設砲艦、特設敷設艦一一 ~ 三隻、特設監視艇一一十五 ~ 二十八隻 合計特設巡洋艦三隻、特設砲艦、特設敷設艦八隻、特設監視艇約八十隻 この監視艇隊が編制されたのは、東京空襲のあった年の昭和十七年一一月一日で、それらは全国 の網元や、個人が持っていたカツオやマグロ漁船で、海軍が徴用したものだった。 これら百トンから二百トンの漁船の船員もそのまま徴用され、それに海軍の下士官兵が乗り組 んでいた。 司令部が置かれていた「赤城丸」「粟田丸」「浅香丸」の三隻は七千トン級の商船で、若干の武 装がほどこされていて特設巡洋艦として哨戒線の後方に配置されていた。 「第二十三日東丸」の緊急電を受けた海軍軍令部、連合艦隊は、ただちに第一一一、第一一六航空戦 隊に攻撃命令を発するとともに、第一航空艦隊、第三潜水戦隊に敵機動部隊所在地点への急行を
航空作戦面からいろいろと計画案を練っておりましたが、その頃、ドイツ軍の攻撃目標の中に、 イギリスのバッキンガム宮殿が入っていたのを知っております。もちろん、日本とイギリスでは いくらか考えも異なってはいるのでしようが、なんといっても日本国民の中にある天皇の存在は 権威の象徴であって、 ・私はそういうふうに聞いておりますが : : : そういうことから、天皇を 失った国民の空虚と悲痛を考えるとき、私は戦争とはいえ、天皇のおられる皇居を爆撃すること だけは、私の当時の気持ちがそれを許さなかったのです : : : 」。 「目標はトウキョウだ」 四月二日、一〇〇〇 ( 午前十時 ) 、攻撃空母「ホーネット」は重巡二隻、駆逐艦四隻、給油艦一 隻を随伴して、視界千ャード ( 約九百十四メートル ) の濃霧が立ちこめるサンフランシスコ湾を秘 密裏に出港した。ゴールデン・ゲート・プリッジ ( 金門橋 ) を抜け、湾外に出ると、針路を北西に とって、速力を上げた。 ところで、このドウリットル空襲部隊について面白い余話がある。 日本でもアメリカでもそうだが、陸軍、海軍には、必ずと言っていいほど悍馬のような荒っぽ い威勢のいい猛将がいるものである。とくに米海兵隊などには、今でもそういった将軍を実戦部 かんば
日米決戦の天王山といわれたガダルカナル作戦以来、打ち続く敗退によって、ラバウル、ニュ ーギニアの作戦軍はいまや沈滞気味であり、陸軍も消極的姿勢をとっている。 こうした全般的情勢から、かねがね攻勢作戦を行って前線将兵の士気を鼓舞する必要があるこ とを痛感していた山本長官は、四月十三日、南東方面艦隊から「作戦特別緊急電報」でバラレ、 ショートランド、プインの各基地を視察訪問する計画を通報していたのだ。 ところが、この暗号通達が米海軍の手によって詳細に解読されていようとは、日本側は知る由 もなかった。 た し 撃ミッチャー少将は急ぎ海兵隊の戦闘指揮所に陸軍、海軍、海兵隊の各参謀を召集し、直ちに 帥「山本長官撃殺」の具体的方法について討議を重ねた。 六そして、この重大任務を遂行するべテラン・。ハイロットをガダルカナル島のー戦闘隊から 五選抜することに決定したのだった。 山 ミッチェル少佐とランフィアー大尉の二人が戦闘指揮所に呼び出されたのは、つまりこの時だ ったのである。 一結局、この「史上最も劇的な」待ち伏せ攻撃に参加するパイロットは、第一二、第三三九戦闘 第 中隊から各八名、第七〇戦闘中隊から一一名のー搭乗員が選抜され、十八機の編隊の総指揮官
監視艇が敵機艦載機の攻撃を受けているという報告があっただけで、米機動部隊は捕捉できなか った。 そうした状況から、前述したように、一部では当日の空襲を予想し得る者もあったが、大本営 などでは空襲は十九日だろうと楽観していた。当時、海軍省の電信課長だった小倉真二大佐は、 諸種の受信から判断して、十八日の空襲を予期し、再三海軍軍令部に空襲警報の発令を督促に行 空ったことが回想されているが、軍令部にも当日の空襲を予想している者は全くといっていいほど 土いなかった。 林第一一はドウリットル空襲部隊の発進が変更にな 0 たことによ 0 て、日本側の航空部隊も、海上 一部隊も命令を受けていながら現場到着が間に合わなか 0 たこと。 隊第三にはそうした状況と合わせて空襲部隊のーが低空で来襲してきたため、本土の防空部 隊は結局、奇襲を受ける結果となってしまった。 事実、この日警戒警報が発令されていたのは横須賀鎮守府管内だけであり、十三時三十分空襲 を受けた時は上空警戒のゼロ戦十一機が在空中だったが、空襲部隊が低高度のため捕捉できなか ったという。 一一一また、大本営、連合艦隊司令部のその後の作戦指導にも、これが大きく影響した。 第 すなわち、ミッドウェーおよび西部アリューシャンの要地を攻略して、その基地からの飛行哨
軍のマーシャル元帥、それに陸軍航空部隊司令官のアーノルド陸軍大将がこの計画に賛同し、彼 らはこの攻撃についてかなりのディスカッションを繰り返しておりました : ・ : ・」。 それより前の一九四二年一月、日本海軍の真珠湾攻撃にも匹敵する報復としてこの東京空襲を 作戦参謀と考えた合衆国艦隊司令長官アーネスト・キング海軍大将は、この問題の研究を航空参 謀に命じるとともに、アーノルド大将に通達した。 作戦の原案としては、攻撃空母の搭載機を使用するが、東京から五百カイリの行動半径で哨戒 する日本側の哨戒艇および三百カイリの行動半径で行動可能の基地航空部隊の前線哨戒機に捕捉 されることは危険を伴うので、これらの哨戒行動圏の外側から発進し、東京空襲を行って、中国 にある友軍の飛行場に着陸するというものであった。 キング大将からこの問題の研究を命じられた航空参謀は、ただちに機動部隊の編制と作戦計画 の立案に着手した。 陸軍のアーノルド大将はこの画期的な〈東京空襲〉部隊の指揮官に、第一七爆撃連隊のジェー ムズ・・ドウリットル陸軍中佐を任命し、以下二百名を空襲部隊参加要員に指名した。 攻撃用作戦機はー型爆撃機十六機とし、まずフロリダ州のエグリン航空基地で約一か月間 訓練ののち、サンフランシスコから攻撃空母「ホーネット」で出撃するという詳細な計画を立案 した。 06
十八日、一一一三〇北緯三六度東経一五五度付近で敵機と、続いて第一六機動部隊と交戦し、そ の後消息を絶ったこの「長渡丸」に当時信号員として勤務していた中村末吉は当時の模様を次の ように回想している。公刊戦史』北東方面海軍作戦戦闘記録 ) 「一一一三〇敵艦載機三機を発見し、六ないし七回の銃爆撃を受けたが命中弾はなく、わが方 は小銃一一挺をもって応戦した。五分ぐらいして西方に檣を発見、続いて空母を含む七隻ぐらいが 空見えてきた。艇長は″逃げても無駄だ″と言い、敵の方に突っ込んでいった。その後も連続銃爆 土撃を受けて、電報を発信後、機械室に爆弾が命中、浸水して航行不能となったので、艇長は重要 林書類の処分を命じ、一括して錘をつけて海中に投棄した。 私は羅針甲板で見張りに従事していたところ、巡洋艦からの砲弾が檣に命中し、一時気を失 隊い、気がついてみると檣も羅針儀もなかった。艦橋に下りると艇長ほか一名が機銃弾により戦死 しており、後部兵員室に生存者がおり二名は自決していた。 生存者五名が甲板に上がった時、艇は沈没し、五名は米艦に収容された」。 しりぞ ハルゼーの機動部隊は日本海軍の追跡を斥けて、四月一一十五日真珠湾に帰投した。 = 一攻撃空母「ホーネット」を発進したー十六機のうち、十三機は東京方面を空襲、それぞれ 9 第 の指示された目標に対して攻撃を加えた。
破天荒な計画 東京空襲の指揮官、ジェームズ・・ドウリットル退役中将は、現在本国で弁護士を開業して いる。その事務所は「映画の都」で知られるハリウッドの大通りから奥に入った閑静な一隅にあ る。私が、そこを訪れたのは一九七八年も終わりに近い十二月の午後だった。 すでに九十の坂を越えたとはとても思えないドウリットル中将は、広いオフィスに響き渡るよ 土うな底力のあるつややかな声で自己紹介を終わると、いかにも退役軍人らしいきびきびした動作 林で、分厚いスクラップブックとアルバムを取り出してきて、満面をほころばせながら、筆者のイ ンタビューに快く応じてくれるのだった。 隊「私が〈東京空襲〉の爆撃隊指揮官を命じられたのは、一九四二年の二月、第一七爆撃連隊勤務 爆で、中佐の時でした。あまりにも破天荒な計画なので、その命令をまともに受けていいのか、ど うか、率直に言って半信半疑で戸惑っていた、というのが当時の偽らざる気持ちでした : : : 」。 と、ドウリットル中将は苦笑する。 「もともと、東京空襲を攻撃空母から行うというのは海軍士官の発想で、米海軍作戦参謀のフラ 三ンシス・・ロウという海軍大佐が考え出したものでした。もちろん初めての試みであるという , 第 ところから、大変な困難が予想されたのです。しかし、当時の海軍作戦部長キング海軍大将、陸