深夜の爆発音 その夜、川島大尉が指揮する第三中隊は、午後十時二十分頃、南のほうで爆発音を聞いた。と 間もなく、河本中尉からの伝令で、中国兵が鉄路を爆破し、攻撃をしかけてきたという報告を受 けたーーー ( ということになっていた ) 。 事実は、河本中尉が列車の通過直前に鉄路に爆薬をしかけて、点火したが、不完全だったた め、レールが一・五メートルほど吹き飛んだだけだった。急行列車はちょっと傾いただけで通過 してしまった。 しかし、だからといって計画には少しも支障はなかった。張作霖を鉄道爆殺したときと違っ て、満鉄は自国の鉄道であり、しかも単に満州占領の口実ができればよいわけだから、爆破は形 ばかり行われればよかったのだ。 この点については、のちに国際連盟から事件調査のために派遣されたリットン調査団も指摘し ている。 * 張作霖爆殺事件とは、当時の奉天軍の首領であった張作霖を下野させ、武装解除させるという関東軍 の意図に対して、関東軍高級参謀の河本大作大佐が謀略を組んで昭和三年六月三日夜、ひそかに満鉄 線と京奉線の立体交差する地点に爆薬を仕掛け、張作霖を爆殺した事件である。 7
特別の海・空からの周到な救助計画も立てられていた。そして、原爆投下の四時間前から六時間 後までの十時間は、他の作戦機はいっさい、目標の五十マイル以内に滞空することは許されない ことになっていた。 さらに、原爆機がテニアン基地から発進したのち、故障したばあいを考えて、予備機として一 機が硫黄島で待機することになっていた。 原爆機は、目標の付近まで二機の観測機に随伴されることになっていた。そのうちの一機には 計測および記録器具が積み込まれ、その中には、目標近くに投下して、その目盛りの数字を自動 的に返信するようになっているものも含まれていた。 「われわれの作戦を妨げるような日本側の反撃を封じるために、原爆機の出撃と日を同じくし て、他の航空攻撃が行われることになっていました」。 当時の水も洩らさないばかりの配慮について、ティベツツ准将はそうつけ加えた。 「広島の照準点は、陸軍司令部に接近した地点であった。 原爆が投下された地域内の住民に対する放射能障害を、最小限に食い止めたいというのがわれ われの願望でもあったので、爆発はどうしても高空で行わなければなりませんでした。問題は爆 弾投下後、爆発点から極力外側に立ちのくために、それまでどんな重爆撃機もやったことのない 一五〇度という急激な大角度急旋回の離脱運動をしなければならなかったことです。つまり、原
基地に移動し、ここで高々度飛行での目視訓練と、レーダー爆撃に慣熟するための猛訓練が重ね られた。 ティベツツ准将は、その理由をこう説明する。 「本来、爆撃機の航空作戦は、大小を問わず、編隊で行われるのですが、ここでは編隊飛行はや た れらず、搭乗員が単機で行動することを重視する訓練を行っていました。なぜかといえば、日本に 般原爆を投下するばあい、 , 四が基地を発進してから原爆を投下して基地に帰投するまでの全行 程を護衛する護衛機の能力に、当時はまだ確信が持てなかったからです : : : 」。 原 こうしてキューバで二か月の長期訓練を終え、ウエンドーバー基地に帰ってきた搭乗員は、日 の本に投下する原爆の原型とまったく同じ模擬爆弾で弾道テスト訓練を繰り返した。 「演習用模擬爆弾は、もちろん爆発を起こすような爆弾ではありませんでした。しかし、最後の 夢ころの爆弾の何発かは、普通の高性能炸薬が詰め込まれていました。その爆弾で、ソウルトン・ の O 地区のファイアリング・レンジ ( 実弾射撃場 ) で弾道テストを行ったのです : : : 」。 シ 実際に使用する原爆は、 「大砲型爆弾 ( 広島に投下された″リトルポーイ″と呼ばれたもの ) とインプロージョン型爆弾 ( 長崎 四に投下された″ファットマン″と呼ばれたもの ) の二種類でした。それは一九四四年の九月にすでに / 第 決定されており、それによってー四の機体の改造が、大至急行われていました」。
軍のマーシャル元帥、それに陸軍航空部隊司令官のアーノルド陸軍大将がこの計画に賛同し、彼 らはこの攻撃についてかなりのディスカッションを繰り返しておりました : ・ : ・」。 それより前の一九四二年一月、日本海軍の真珠湾攻撃にも匹敵する報復としてこの東京空襲を 作戦参謀と考えた合衆国艦隊司令長官アーネスト・キング海軍大将は、この問題の研究を航空参 謀に命じるとともに、アーノルド大将に通達した。 作戦の原案としては、攻撃空母の搭載機を使用するが、東京から五百カイリの行動半径で哨戒 する日本側の哨戒艇および三百カイリの行動半径で行動可能の基地航空部隊の前線哨戒機に捕捉 されることは危険を伴うので、これらの哨戒行動圏の外側から発進し、東京空襲を行って、中国 にある友軍の飛行場に着陸するというものであった。 キング大将からこの問題の研究を命じられた航空参謀は、ただちに機動部隊の編制と作戦計画 の立案に着手した。 陸軍のアーノルド大将はこの画期的な〈東京空襲〉部隊の指揮官に、第一七爆撃連隊のジェー ムズ・・ドウリットル陸軍中佐を任命し、以下二百名を空襲部隊参加要員に指名した。 攻撃用作戦機はー型爆撃機十六機とし、まずフロリダ州のエグリン航空基地で約一か月間 訓練ののち、サンフランシスコから攻撃空母「ホーネット」で出撃するという詳細な計画を立案 した。 06
られていたのである」と述べている。 しかし、当時のマーシャル参謀総長がそれに関連して戦後明らかにしたところによると、日本 本土進攻作戦計画の立案では、三回の攻撃のために九発の原爆がどうしても必要だと考えていた という。各攻撃軍に一一発ずつ使用させるので、九州に対する第一次攻撃に合計六発を必要とした わけで、残りの三発は、当時日本軍が戦闘地域に投入するものと信じていた予備兵力に対して使 用する計画を立てていたという。 そして、九発もの原爆をどうして戦術兵器として使用しようと考えていたのかについて、マー シャル将軍は、当時は原爆の潜在能力がよくわからず、せいぜい数百トンの爆弾に相当するぐら いにしか考えていなかったからだと説明している。 このマーシャル発言の背景となる日本本土進攻作戦については、多少の説明が必要だ。 当時、日本本土進攻作戦について、その必要性を最も強く主張していたのは太平洋方面陸軍総 司令官のマッカーサー元帥だった。 その進攻作戦計画案は一九四五年 ( 昭和一一十年 ) 十一月一日に九州に進攻し、 ( これをオリンビッ ク作戦と名づけていた ) その五か月後に関東平野に上陸 ( コロネット作戦 ) するというもので、その 理由は、日本本土の爆撃だけに頼ることは、ドイツの戦略爆撃でもそうであったように、決定的 成果は望めない。この際、陸・海・空三軍の合同兵力をもって日本の心臓部に突入し、それを攻 7
( このとき、興味があるのは、邀撃の日本戦闘機に対する脅しのために、機体の後部に木製の黒塗りの機銃 を偽装したことだった。さらに爆撃照準器は、低空爆撃を実施するということもあって、旧式のマーク・ト ウェイン型を使用することにした。撃墜されたとき日本側に奪われないようにという配慮から、最新式のノ ルデン型は装着しなかったのである ) 。 前述したように、空襲後は中国に退避する計画であったため、四月十八日の午後、日本から五 百マイルの距離で発進し、夜間攻撃を行 0 て、昼間、中国の飛行場 ( 麗水飛行場を予定 ) に着陸す 土ることとした。 本またドウリットル中佐機は他の機より三時間前の午後二時に先発し、東京に焼夷弾を投下し 日 - 一て、後続機の攻撃目標を照らし出す。 隊以後、航空作戦部隊の準備や搭乗員の訓練はドウリットル中佐の指揮下で進められることとな 爆った。 ところで作戦に使用する機種がーに決まるまでが大変だった。 「問題になったのは、この作戦に使用する航空機をどれにするかということでした。それぞれに ウ ・ト 独自の強い意見を持っており、とくに佐官クラスと尉官クラスの間で火花を散らす論議が飛び交 三わされ、結論はいつ出るかわからないような有様でした : : ・こ。 ドウリットル中将は遠い日を回想しながら、さらに続けた。 109
この空襲部隊の基幹となる第一六機動部隊は、ウィリアム・・ハルゼー中将を総指揮官と し、同中将は旗艦、攻撃空母「エンタープライズ」に座乗し、空襲部隊発進の攻撃空母「ホーネ ット」ほか各種の水上艦艇をその指揮下に置くというものだった。 第一六機動部隊の編制は次のとおりだった。 指揮官海軍中将ウィリアム・・ハルゼー 攻撃空母「エンタープライズ」 ( ー % 空襲部隊指揮官ドウリットル陸軍中佐 ) 攻撃空母「ホーネット」 ( ー搭載 ) 巡洋艦戦隊重巡三隻、軽巡一隻 水雷戦隊第一二、第一三駆逐戦隊 ( 各駆逐艦四隻 ) 給油部隊給油艦一一隻 ただし、攻撃空母「ホーネット」と随伴艦は、四月二日、サンフランシスコのアラメダ基地を 出港、攻撃空母「エンタープライズ」と随伴艦は、四月八日、ハワイの真珠湾を出港し、両機動 部隊は十三日、ミッドウェーとアリューシャン諸島西部の中間地点で会合する。 作戦計画の概要は次のとおりであった。 攻撃用のー爆撃機は各機五百ポンド爆弾四個を搭載する。 ょ 08
トに上げ、避退した。 「大戦後半の戦略爆撃と違って、われわれはわずか十六機、しかも五百ポンド爆弾一個だけとい う小さな規模の空襲ではありましたが、この空襲は当時の日本側にとって、きわめてプレッシャ ーのかかるものに違いないと考えていました。 私も米国民の一人なので、率直に言って、日本海軍の真珠湾攻撃に対する仕返しであることを 心に強く止めておりました。 そこで、何としてでも、命令どおりにこれを成功させねばならないという責任感に燃えており ました。ただ発進寸前まで、中国側が果たしてわれわれの着陸に協力してくれるかどうかという 不安があったことは事実です : : : 」。 ドウリットル中将が、危惧していたとおり、中国政府に対する着陸飛行場の折衝は、秘密保持 の関係上、漠然としたところもあって、実際には間に合うように手配されていなかった。 侵された東京 攻撃空母「エンタープライズ」の搭載機は、約三時間にわたり十六隻の日本海軍の哨戒艇を攻 撃して、その中の数隻を撃沈、第三哨戒隊の哨戒艇「長渡丸」は軽巡「ナッシュビル」に降伏し て、乗組員の一行は捕虜となった。 ~ 28
百四十五マイル、ラバウルから約三百七十マイルの地点である。 「われわれは、山本長官はおそらくスピードの遅い輸送機か爆撃機に搭乗してくるだろうと考え ていました。いずれにしても、平均毎分三・五マイルか四マイルのスビードで飛んでくるだろう と計測を立て、高度はおそらく一万フィート以下だろうと読んだのです」。 山本長官のスケジュールは、四月十八日の〇九四五 ( 日本時間午前七時四十五分 ) バラレ着となっ ている。 「そこで、われわれはそれより十分早く、つまり〇九三五にカヒリの三十五マイル東の上空で山 し本機を捉えようと決めたのです」。 撃ミッチェル少佐もランフィアー大尉も、この地点で山本機に奇襲攻撃をかける以外に、この絶 を 帥好のチャンスを生かす方法はないと思っていたという。 元 さて、攻撃隊は一番機が編隊長のトーマス・・ランフィアー大尉、二番機がレックス・ 十 ムアー中尉、四番機がジム・マクラナハン中尉という編制だった。 五バラ中尉、三番機がジョー・ 山 総指揮官のミッチェル少佐は攻撃隊と掩護隊の十七名のパイロットを集めて、徹底的にその接 私 敵・攻撃要領を繰り返して説明した。 一「われわれは、もし、山本機を発見して撃墜したとしたら、出撃した全機はそれ以上の空戦を避 第 けて基地に帰投することを確認していました : : : 」。
。次にその目標は、原爆の投下で日本国民の抗戦意志を挫折させてしまうような地域でなけれ ばならない。さらにその目標は軍事拠点ーーっまり軍隊の所在地、軍事補給物資の生産地、ある いは重要司令部の所在地などでなければならない。 そして技術的には、原爆投下機の最大行動半径の限度であること、また計器に頼らない目視爆 た 撃が必要であること、それに関連して、爆撃目標上空の気象条件が原爆投下にもっとも適合して 下 いることなどから、その目標はかなり限定されるのであった。 搬 ポール・ティベツツ准将は当時のことを、こう説明する。 の「原爆投下高度が、最適の高度より高すぎても低すぎても、損害を与えるスペースはぐっと減っ てしまう。原爆が最適高度の四〇。ハーセント下方か、一四。ハーセント上方で爆発すると、損害を 与える地域は二五パーセント減になるというのが、当時のわれわれの計算でした」。 の当時、広島に投下された原爆の爆発力は、 eze 高性能爆薬の五千トンから一万五千トン分に シ 相当するものと見積られ、そのもっと望ましい爆発高度は、千五百五十フィートから一一千四百フ ィート ( 約百四七十メートルから七百三十メートル ) と計算されていたという。 四「原爆を絶対に目標に命中させるということが、われわれの考え方の基本にあったので、目視爆 第 撃が重要視され、そのためには好天候の日を選んで実施するということに意見が一致していまし ー 63