目標 - みる会図書館


検索対象: 逆転の証言―太平洋戦史
32件見つかりました。

1. 逆転の証言―太平洋戦史

た。しかし、目標上空で目視爆撃ができないばあい、投下機は原爆を積んだまま基地に帰投する ことになっていました。 また、もしどうしても爆弾を投棄しなければならないような状況になったばあいは、決して米 軍が占領している地域の近くで投棄してはならないという厳重な注意を受けていました : : : 」 と、ティベツツ准将は続けた。 投下目標からはずされた京都 さて、原爆投下の目標に関しては、一九四五年四月、ワシントンに原爆投下のための目標委員 会が設置され、五月二日に初めて委員全員が会合した。原爆投下の目標についての具体的な討論 が行われたのである。 レスリー・・グロープス将軍はその時のことを次のように回想している。 「 : : : 私はそのとき、開口一番、この委員会の任務の重大さ、機密は最高度に保たなければなら ないことなどを強調するとともに、私が考えた四つの目標を委員たちに示した。 そしてさらにマーシャル陸軍長官が、日本の西海岸の諸港は、アジア大陸と日本との交通にと って極めて重要な役目を果たしており、攻撃目標として重視しなければならないという意見を持 っていることをここで力説した」

2. 逆転の証言―太平洋戦史

「それに比べると、広島のほうは実際のところそれほどの理想的目標とはいえず、われわれは京 都こそは日本の重要な軍事目標の一つだと決めていたのです」。 と、ティベツツ准将は意外な原爆目標の選定の経緯を語る。 事実、当時、京都の平和産業はすべて軍需工業に転換されており、それらの多くは精密兵器、 航空機部品、レーダー射撃装置、さらに照準装置などの重要軍需品を生産していたのだ。 ではどうして、最終的に京都が原爆投下目標リストからはずされたのか。 それは、当時のスチムソン陸軍長官の″鶴の一声″からだった。 フィリビンの総督時代に京都を訪れ、その古代文化に強く心を打たれたスチムソンの「京都は 日本の古都であり、歴史的伝統に生きるこの美しい文化の都市は、日本人にとってのいわば宗教 的重要性を持った心の故郷である」といった強い反対理由で、京都を原爆目標にするという多く の主張は、一蹴されてしまったのだった。 スチムソン陸軍長官のこうした強硬な主張で京都は除外されたのだが、その代りとして長崎が 原爆投下目標に加えられたのは、長崎市民にとってまことに不運だったと言わざるを得ない。 ところで、もう一つ、原爆投下に当たって避けなければならない問題があった。 目標地区内外にあると思われる米軍捕虜収容所が、原爆投下の巻き添えを受けるというもので ある。

3. 逆転の証言―太平洋戦史

「攻撃空母の作戦室で、最終的に東京空襲の攻撃目標について慎重な討議を行ったのですが、こ のとき終始、有効な助言をしてくれたのが、かって在日米大使館付駐在武官補佐官として東京に 勤務していたジョリーガー海軍中佐 ( 海軍航空担当武官 ) でありました。彼の微に入り細にわたる 情報提供、とくに日本の工業地帯に関する目標の選定は、何といってもわれわれにとって珠玉の ようなものでした。それによって、それそれ異なる攻撃目標が、よりいっそう明確となったわけ です」。 初 それでは、攻撃についてはどんな不安があったのか。 土 「われわれはできる限り超低空で飛ぶように指示されていましたが、残念ながら、日本のレーダ ーがどの程度の能力を持っているかを知らなかったので、目標に対して、最小限の爆弾投下によ 隊って、最大の効率を上げ、かつわれわれ攻撃隊の被害を最小にとどめるように指示されました。 爆それから任務を終えたのちは、できる限り早くその場を離脱するように言われておりました。 また、私は部下搭乗員に対して、目標に向かって少しのムダもないよう突進せよ、少なくとも 一機一目標にせよと指示しました。 そのほかきびしく言い渡したことま、、、 ーレカなることがあっても、東京のインべリアル・パレス 三 ( 皇居当時は宮城と呼んでいた ) だけは攻撃してはならないということでありました。 第 私は第二次大戦が勃発する前、ドイツのフランクフルトにいて、対独戦の戦略目標について、

4. 逆転の証言―太平洋戦史

。次にその目標は、原爆の投下で日本国民の抗戦意志を挫折させてしまうような地域でなけれ ばならない。さらにその目標は軍事拠点ーーっまり軍隊の所在地、軍事補給物資の生産地、ある いは重要司令部の所在地などでなければならない。 そして技術的には、原爆投下機の最大行動半径の限度であること、また計器に頼らない目視爆 た 撃が必要であること、それに関連して、爆撃目標上空の気象条件が原爆投下にもっとも適合して 下 いることなどから、その目標はかなり限定されるのであった。 搬 ポール・ティベツツ准将は当時のことを、こう説明する。 の「原爆投下高度が、最適の高度より高すぎても低すぎても、損害を与えるスペースはぐっと減っ てしまう。原爆が最適高度の四〇。ハーセント下方か、一四。ハーセント上方で爆発すると、損害を 与える地域は二五パーセント減になるというのが、当時のわれわれの計算でした」。 の当時、広島に投下された原爆の爆発力は、 eze 高性能爆薬の五千トンから一万五千トン分に シ 相当するものと見積られ、そのもっと望ましい爆発高度は、千五百五十フィートから一一千四百フ ィート ( 約百四七十メートルから七百三十メートル ) と計算されていたという。 四「原爆を絶対に目標に命中させるということが、われわれの考え方の基本にあったので、目視爆 第 撃が重要視され、そのためには好天候の日を選んで実施するということに意見が一致していまし ー 63

5. 逆転の証言―太平洋戦史

〇六〇五ーー硫黄島上空より日本に向かう 〇七三〇ーーー赤プラグを挿入 ( 投下すれば爆発する状態に原爆をセット ) 〇七四一ーー・上昇開始。気象状況受信 ( 第一〈広島〉、第三目標〈長崎〉上空は良好、第二目標〈新潟〉 上空は不良 ) 〇八三八ーー・高度三万二千七百フィート ( 約九千九百七十メートル ) で水平飛行に入る 〇八四七ーー電子信管テスト、結果良好 〇九〇四ーー針路を西にとる 〇九〇九 , ーー・目標の広島、視界に入る 〇九一五″ 8 ″ ( 午前九時十五分三〇秒 ) ーー原爆投下 最初の計画では、原爆投下時刻は午前九時十五分と予定されていたのだから、目標上空に到達 するのにわずか三十秒しか狂いがなかったということになり、ティベツツ准将の操縦技術の精度 の程が証明されたのである。 原爆機には、想像以上のさまざまな細かい配慮が払われていた。 離陸後に爆弾の最終組み立てをするというのも、テニアン基地の上空で万一墜落するばあいの 危険を最小限に食い止めることにあったし、陸・海軍双方の所属機および数隻の潜水艦による、 ー 82

6. 逆転の証言―太平洋戦史

さらに同将軍は、五月十四日に、オッペンハイマー博士が報告に来たところでは、ファットマ ンの爆発力は依然として不確実なので、目標委員会はそれに従って目標と投下期日などについて 考え直す必要があるのではないかというアドバイスを受けたことを告白している。 このことは、″リトルポーイ“ ( 広島に投下された原爆 ) は問題なかったのに対して、″ファットマ ン″のほうはさまざまな未解決の問題を含んだまま長崎に投下されたことを証明している。 もともと原爆は日本本土への進攻作戦で予測される莫大な数の米軍将兵の死傷を最小限に食い 止め、戦争を急速に終結にもち込む手段として使用しようというのだから、なんとしてもその時 点に合わせて原爆が期待どおりに生産されなければならなかった。 「 : : : 日本のような手ごわい敵に対して、ひとたび優勢が獲得された暁には、決していかなる猶 予をも許してはならないことは、老練な軍人ならばだれでも百も承知のことだった。もし、原爆 が九州進攻の予定の数日後、つまり十一月初旬でなければ作戦実施部隊に引き渡せないとなれ ば、私は上陸日の延期を勧告しただろう」。 レスリー・・グロープス将軍のこの回想 ( 前掲書 ) は、当時、アメリカ側も重大な不安に陥っ ていた事実をいみじくも物語っている。 次に問題になったのが、原爆投下の目標の選定だった。 まず原爆の投下目標が、すでに戦略爆撃機の空襲によって損害を受けていては何にもならな ょ 62

7. 逆転の証言―太平洋戦史

かに、次の目標の一つに最初の特殊爆弾を投下せよ。 〈目標〉広島、小倉、新潟、長崎。 陸軍省より派遣された軍人および科学者は、爆弾投下機に随伴した観測機上にあって爆発 効果の観測および記録に従事せよ。ただし、観測機は爆発地点より数マイル以内に近寄るこ とを禁ず。 一一、特殊爆弾計画者の諸準備完了しだい、次の爆弾を前記目標に投下せよ。前記目標以外の目 標を選定する場合は別に指令す。 三、本兵器の対日使用に関する情報は、陸軍長官並びに大統領以外にはいっさい洩らさないこ と ( 後略 ) 。 四、以上は陸軍長官並びに参謀総長の指令と承認のもとに発せられたものである。貴官は個人 的にこの指令の写しをマッカーサー将軍 ( 南西太平洋方面最高指揮官 ) およびニミツツ提督 ( 太 平洋方面最高指揮官 ) に手交されたい。 参謀総長代理 e ・ e ・ハンディー 対日作戦 ( 原爆投下 ) の諸命令は、すべてマンハッタン計画の総指揮官グロープス少将が起案 し、マーシャル参謀総長の承認を受け、陸軍航空部隊総指揮官・・アーノルド将軍の署名の 1 0

8. 逆転の証言―太平洋戦史

特別の海・空からの周到な救助計画も立てられていた。そして、原爆投下の四時間前から六時間 後までの十時間は、他の作戦機はいっさい、目標の五十マイル以内に滞空することは許されない ことになっていた。 さらに、原爆機がテニアン基地から発進したのち、故障したばあいを考えて、予備機として一 機が硫黄島で待機することになっていた。 原爆機は、目標の付近まで二機の観測機に随伴されることになっていた。そのうちの一機には 計測および記録器具が積み込まれ、その中には、目標近くに投下して、その目盛りの数字を自動 的に返信するようになっているものも含まれていた。 「われわれの作戦を妨げるような日本側の反撃を封じるために、原爆機の出撃と日を同じくし て、他の航空攻撃が行われることになっていました」。 当時の水も洩らさないばかりの配慮について、ティベツツ准将はそうつけ加えた。 「広島の照準点は、陸軍司令部に接近した地点であった。 原爆が投下された地域内の住民に対する放射能障害を、最小限に食い止めたいというのがわれ われの願望でもあったので、爆発はどうしても高空で行わなければなりませんでした。問題は爆 弾投下後、爆発点から極力外側に立ちのくために、それまでどんな重爆撃機もやったことのない 一五〇度という急激な大角度急旋回の離脱運動をしなければならなかったことです。つまり、原

9. 逆転の証言―太平洋戦史

それらの都市は、高山、郡山、神戸、新居浜、四日市、宇部、舞鶴、福島、長崎の九都市で、 曇天の場合はレーダーを使用するという訓練も行った。原爆機の搭乗員たちに目標までの飛行と 目標発見に慣熟させるための訓練であった。 爆撃飛行には往復とも硫黄島上空を通過するよう計画され、高度は天候に左右されるが、途中 た れの日本軍防空部隊が必要以上に警戒心を抱かぬように、目標に向かう場合は一万フィート ( 約三 下千メートル ) かそれ以下、帰投の時は一万八千フィート ( 約五千五百メートル ) かそれ以上という制 限をつけていた。 原 ー基地での訓練から通算するとほぼ一か年の訓練を積んでいたので すでに本国のウエンドーバ のある。 そ 第爆弾の構成部品は七月中旬以降、重巡「インディアナポリス」と特別空輸機で同基地に送られ の ることになっていた。 マ シ 「原爆第一号は八月三日ごろ、第一一号は八月六日までに、そして第三号は八月二十四日ごろまで に、続いて九月中に準備完了の予定でした」 四というティベツツ准将は 第 「このごろという意味を説明しなければなりませんが、それはその日の前後四日間をアメリカ陸

10. 逆転の証言―太平洋戦史

長崎の郊外約一キロのところには、 広島の付近には、捕虜収容所は一か所もなかった。だが、 収容所が一つあると報告されていた。そこには連合軍の捕虜が数百名詰め込まれており、毎日、 長崎港のドックで労働に従事させられているはずだった。 そして、当然原爆投下の時刻には、そのドックで働いているだろうから、予期される危険にさ た れらされることは十分に考えられた。 下 しかし、そのことを考慮に入れるべきだというス。ハーツ戦略空軍司令官に折り返し発信された 搬 爆ワシントンからの電報には、次のような意味のことが記されていただけだった。 原 「捕虜収容所の位置を考慮して目標の変更を行うことは、いっさい必要ない。しかし、貴官の責 の任で照準点を選定するに当たり、捕虜収容所に命中しないよう、その方法を修正することは自由 である」。 夢実際に長崎にいた連合軍の捕虜が原爆の犠牲になったかどうかはさだかでないが、興味がある の のは、当時のバーンズ国務長官が、もし日本に対して原爆を日本の軍事目標で投下する用意があ マ シ ると警告したら、日本は各地の捕虜収容所に詰め込まれている捕虜を、その地区に集めてくるの ではないかという不安を表明したということだ。 四今から考えると、いささか滑稽とも思われるのだが、戦争というものは、それほど平常では考 7 第 えられない憎悪を駆り立てるものなのだ。