もとに、ス。ハーツ将軍に対して下令されるというものだった。 そして陸軍航空部隊の作戦は、米戦略空軍指揮官のスパーツ将軍の指揮のもとに実施され、第 一一〇航空軍はルメイ陸軍少将の指揮を受け、麾下の第五〇九混成部隊はポール・・ティベツツ 陸軍大佐が指揮するという組織となっていた。 た れ さ 下 ところで、この「マンハッタン計画」 ( 原爆計画 ) という世紀の大ブロジェクトを総指揮したこ 投 のレスリー・・グロープス将軍とは一体どんな人物だったのだろうか。 原 一九一八年ウエストボイント陸軍士官学校を卒業したグロープスは、陸軍工兵少尉に任官、そ のの後、エ兵畑を歩き指揮幕僚大学、陸軍大学校を卒業、第一一次大戦の勃発した一九三九年陸軍省 そ 参謀本部員となったという軍のエリート・コースを驀進した米陸軍の逸材であった。その後、エ 夢兵総監部建設部長代理として敏腕をふるっていたところをマンハッタン計画総指揮官の白羽の矢 のを立てられ、四十六歳で准将に昇進。その頃から傍若無人の猛威をふるいはじめた。 シ その軍における強大な権限はアイゼンハワー元帥を上回るほどであったといわれ、しかも強烈 ロ な個性はナポレオン以上で、独裁者ヒトラーそこのけの専断は非難の集中攻撃を浴びたこともあ 四つたほどだった。 第 もともとグロープスがこの世紀の原爆計画の総指揮官に任命されたきっかけは、後にペンタゴ
厚いクリーム色のスクラップ・ブックを持ってこさせた。それはランフィアー家にとっても、ラ ンフィアー大佐にとっても永遠にかけがえのない宝物なのである。 その一ページ、一ページに大切に保存されている数々の感状と、ずっしりと重みのあるさまざ まの勲章には、一九四三年四月十八日、山本五十六元帥の搭乗機一式陸攻を撃墜するまで、出撃 回数九十八回、ゼロ戦撃墜十五機、さらにその後のヨーロツ。ハ戦線と、決死で闘い抜いた空戦の 勝利の記録が深く刻み込まれていた。 ーー・海軍特功十字章、陸軍銀星章、空軍銀星章、空軍殊勲十字章、樫葉空軍十字章、空軍殊勲 し章、優秀樫葉勲章、当時の南太平洋方面総司令官ハルゼー海軍大将からの個人感状、米海軍から 撃の特別個人感状など 帥およそ個人の戦功を讃える勲章で、ここで見られないものはないほどである。 元 「この一つ一つを見ても、いまそれそれの当時の戦闘を克明に想い出すことはとてもできません 十 五 が、ただ一つ、山本元帥機を撃墜した瞬間は、いまでも鮮明に脳裏に焼きついています : : : 」。 本 山 ランフィアー大佐はそういって、あの日、あの瞬間を想い起こすように、じっと目を閉じて、 大きくため息をついた。 一彼は陸軍少尉として南太平洋の戦場に出動以来、ー叩、、ーと、 第 続けざまに当時の新鋭機を駆って、日本海軍が誇るゼロ戦と血みどろの空中戦をやってきたが、
軍のマーシャル元帥、それに陸軍航空部隊司令官のアーノルド陸軍大将がこの計画に賛同し、彼 らはこの攻撃についてかなりのディスカッションを繰り返しておりました : ・ : ・」。 それより前の一九四二年一月、日本海軍の真珠湾攻撃にも匹敵する報復としてこの東京空襲を 作戦参謀と考えた合衆国艦隊司令長官アーネスト・キング海軍大将は、この問題の研究を航空参 謀に命じるとともに、アーノルド大将に通達した。 作戦の原案としては、攻撃空母の搭載機を使用するが、東京から五百カイリの行動半径で哨戒 する日本側の哨戒艇および三百カイリの行動半径で行動可能の基地航空部隊の前線哨戒機に捕捉 されることは危険を伴うので、これらの哨戒行動圏の外側から発進し、東京空襲を行って、中国 にある友軍の飛行場に着陸するというものであった。 キング大将からこの問題の研究を命じられた航空参謀は、ただちに機動部隊の編制と作戦計画 の立案に着手した。 陸軍のアーノルド大将はこの画期的な〈東京空襲〉部隊の指揮官に、第一七爆撃連隊のジェー ムズ・・ドウリットル陸軍中佐を任命し、以下二百名を空襲部隊参加要員に指名した。 攻撃用作戦機はー型爆撃機十六機とし、まずフロリダ州のエグリン航空基地で約一か月間 訓練ののち、サンフランシスコから攻撃空母「ホーネット」で出撃するという詳細な計画を立案 した。 06
る。しかも、まだ戦争は終わったのではない。 その爆弾とは原子爆弾である。極東の戦争責任者たる日本に対して、太陽の原動力ともなって いる力が放出されたのである。 七月二十六日、ポッダムで最終通告が発せられたのは、日本国民を破滅から救わんがためであ た れった。日本側首脳はこれをただちに拒否した。この期に及んでも、なお当方の要求を拒絶するに 投おいては、有史以来最大の破壊威力を持っ爆弾の雨を、引き続き彼らの頭上に降りそそぐことに 爆なろう : : : 」。 原 「センターポード作戦」を遂行せよー の そ トルーマン大統領が原爆投下命令を正式に下したのは、広島に原爆が投下された昭和一一十年八 月六日より十二日前の七月二十五日だった。 の マンハッタン計画 ( 原爆計画 ) 総指揮官のレスリー・・グロープス陸軍少将の「センターポー マ シ ド作戦」計画 ( 原爆投下作戦の暗号名 ) は、命令通りに、ワシントンから戦略空軍司令官カール・ス パーツ将軍宛てに、 e ・ e ・ハンディー参謀総長代理名で打電された。 四「戦略空軍司令官カール・ス。ハーツ将軍閣下へ 第 一、第二〇航空軍第五〇九混成部隊は、一九四五年八月三日ごろ以降、天候の許す限りすみや ツイ 9
かに、次の目標の一つに最初の特殊爆弾を投下せよ。 〈目標〉広島、小倉、新潟、長崎。 陸軍省より派遣された軍人および科学者は、爆弾投下機に随伴した観測機上にあって爆発 効果の観測および記録に従事せよ。ただし、観測機は爆発地点より数マイル以内に近寄るこ とを禁ず。 一一、特殊爆弾計画者の諸準備完了しだい、次の爆弾を前記目標に投下せよ。前記目標以外の目 標を選定する場合は別に指令す。 三、本兵器の対日使用に関する情報は、陸軍長官並びに大統領以外にはいっさい洩らさないこ と ( 後略 ) 。 四、以上は陸軍長官並びに参謀総長の指令と承認のもとに発せられたものである。貴官は個人 的にこの指令の写しをマッカーサー将軍 ( 南西太平洋方面最高指揮官 ) およびニミツツ提督 ( 太 平洋方面最高指揮官 ) に手交されたい。 参謀総長代理 e ・ e ・ハンディー 対日作戦 ( 原爆投下 ) の諸命令は、すべてマンハッタン計画の総指揮官グロープス少将が起案 し、マーシャル参謀総長の承認を受け、陸軍航空部隊総指揮官・・アーノルド将軍の署名の 1 0
航空作戦面からいろいろと計画案を練っておりましたが、その頃、ドイツ軍の攻撃目標の中に、 イギリスのバッキンガム宮殿が入っていたのを知っております。もちろん、日本とイギリスでは いくらか考えも異なってはいるのでしようが、なんといっても日本国民の中にある天皇の存在は 権威の象徴であって、 ・私はそういうふうに聞いておりますが : : : そういうことから、天皇を 失った国民の空虚と悲痛を考えるとき、私は戦争とはいえ、天皇のおられる皇居を爆撃すること だけは、私の当時の気持ちがそれを許さなかったのです : : : 」。 「目標はトウキョウだ」 四月二日、一〇〇〇 ( 午前十時 ) 、攻撃空母「ホーネット」は重巡二隻、駆逐艦四隻、給油艦一 隻を随伴して、視界千ャード ( 約九百十四メートル ) の濃霧が立ちこめるサンフランシスコ湾を秘 密裏に出港した。ゴールデン・ゲート・プリッジ ( 金門橋 ) を抜け、湾外に出ると、針路を北西に とって、速力を上げた。 ところで、このドウリットル空襲部隊について面白い余話がある。 日本でもアメリカでもそうだが、陸軍、海軍には、必ずと言っていいほど悍馬のような荒っぽ い威勢のいい猛将がいるものである。とくに米海兵隊などには、今でもそういった将軍を実戦部 かんば
このとき広島はきわめて重要な軍事目標だということに意見が一致し、それから数日の後、こ の委員会は最終的に次の目標を選定した。広島、小倉陸軍造兵廠、新潟、それに京都が加えられ ていた。 広島が選定された理由は次のようなことによるものだった。 た れ広島は京都を除いて、空襲によってまだ損害をうけていない最大の都市で、人口は三十万を越 投す。それは九州と本州を結ぶ日本陸軍の船舶補給、運輸の中心地宇品港を控え、日本海軍の輸送 船団の集合地でもあった。約二万五千の兵力が各地に駐屯し、陸軍司令部 ( 筆者注 " 当時ここには 原 第一一総軍司令部と第五九軍司令部とが所在していた ) があり、市街は四つの地域に集中されていた。鉄 の道操車場と陸軍補給廠が市の東側に沿って位置を占め、重工業施設の大部分は市の中心地区に隣 接していた。 次に京都が選定されたことについて。 のわれわれ日本人の京都という都市に対するイメージからいえば、少なくとも原爆投下の対象地 シ 域とはおよそ縁遠い存在だが、約百万の人口を持っ京都には、付近の諸都市が破壊されるにつれ て多数の避難民と罹災工業が流れ込んできていた。その上この京都ならば、原爆による損害が隅 四々まで行きわたり、その破壊威力のさまざまな効果を知る上で、またとない広さを持っていると , 第 いったことが当時の理由だったようだ。
で思いついたものだという気持ちが強く、それだからこそ、その名がすぐに口をついて出たので はないかというのである。 この〈東京空襲〉作戦計画は、高度の秘密保持を必要とした。東京空襲の三か月前、つまり一 九四一一年一月の時点でこの秘密計画を完全に知っていたのは、大統領を除けば次の七名にすぎな かった。 聾 土海軍作戦参謀ロウ大俟ドウリットル中佐、陸軍航空隊司令官アーノルド大将、太平洋艦隊司 林令長官 = ミツツ大将、機動部隊指揮官 ( ルゼー中将、航空作戦参謀ダンカン大俟合衆国艦隊司 一令長官キング大将、以上である。 ハルゼー中将は戦後の回想記の中で、当時のことを次のように書いている。 「 : : : 南鳥島を空襲して三月十日に真珠湾に帰港した直後に、私は、キング提督の命を受けてワ シントンから飛来したダンカン大佐から、話があるといわれてニミツツ司令部に呼び出された。 ダンカン大佐は、すばらしい計画がある、貴官にだけ打ち明けるのだと前置きして、その内容を 次のように洩らした。 三すなわち、ドウリットル陸軍中佐が、海軍の協力の下に、攻撃空母の飛行甲板からー % 爆撃 第 機を発進させるため十六機の搭乗員を訓練している。海軍はこの空襲部隊を東京に向け発進させ
陸軍省はそれを見て驚愕した。これまで超極秘にしてきた作戦計画が、どこかで漏洩している かもしれないという危惧が先に立ったのである。 陸軍省では、「この計画はまったく可能性を無視することもはなはだしい愚劣な計画である」 として、国務省にそのまま返送した、という経緯もあった。 エグリン基地での訓練を終えたドウリットル中佐以下二百名の隊員と十六機のーは、三月 三十一日、サンフランシスコ湾に面するアラメダ海軍飛行場に空輸され、翌四月一日、サンフラ ンシスコ湾に停泊中の攻撃空母「ホーネット」に隊員は乗り込み、ーは飛行甲板に搭載され アメリカの西部劇監督で有名なジョン・フォードも同艦に同乗していた。〈東京空襲〉出撃の 模様を飛行甲板で撮影する軍報道班の総指揮をとるためだった。 当時アメリカでは、ハリウッドの名だたるプロデューサー、ディレクター、カメラマンなどを 軍に徴用し、それぞれの分野に応じて専門職を生かす、いわば報道班的なものを編成し、戦闘状 況を後方に正確に伝えようとしていた。ジョン・フォードはこのとき、海軍中佐として軍籍にあ った。 さて、東京空襲の攻撃目標はどのようにして決めたのだろうか。 こ 0 きようがく ろうえい
略すべきであるというものだった。 これに対して、日本本土進攻作戦案に反対する主張も多く、大統領付幕僚長のレーヒー海軍大 将は、 「すでに撃破されている日本に膨大な人命の犠牲と経費をかけて進攻する理由はどこにも見当た た れらない」 下 と言い、キング海軍作戦部長は、 搬 「日本を敗北させるのに地上兵力をもって日本本土に進攻する必要は全くない。海・空兵力だけ 原 で十分だ」 のと主張した。陸軍航空部隊司令官のアーノルド陸軍大将もキング部長と同様の意見だった。 そこでワシントンの統合幕僚長会議は、これらの主張を統一するため、次のような対日進攻作 戦の全般計画方針を策定した。 の 一、日本に対する封鎖ならびに空襲を強化すれば、自ずと九州上陸進攻可能の情勢が生まれて マ シ くるだろう。 一、九州上陸作戦は日本の可能機動力を減退させ、ついには関東平野から日本の産業中心部に 四対して決定的進攻を加えるための有利な戦術的情勢が出てくるであろう。 第 さらにマーシャル参謀総長の日本本土進攻に対する強い主張もあってトルーマン大統領は次の