周家荘 客家と広東料理を 見事にドッキングさせて登場 味にメリハリをつけた 九龍レストラン 尖沙阻のネイサンロードから少し入ったところにある。 瑤柱蛋白炒飯 " 干し貝柱のたつぶり入った卵白の客家醸豆腐ⅱ客家の家庭料理。豆腐に豚肉他詰め、 油で揚げて土鍋で煮込んだもの ( ドル ) 。 炒飯。広東風の淡味 ( ドル ) 。 CHAU'S RESTAURANT 周家岫は 周家荘 CHAU' S RESTAURANT 住所 / 尖沙咀堪富利士道 1 2 至 1 6 號宏貿發展大廈 3 字樓 3 /F, Mass ReSOU 「 ces Deve10P- ment Building. 12 ー 16 Humph 「 eys Ave. , Tsimshatsui,KowIoon TEL/ ( 852 ) 2722 ー 7880 営業 / 1 1 : 00 ~ 1 5 : 00 17 : 00 ~ 23 : 00 無休 ハッカ 客家とは、昔戦乱の中で黄河地域から しせんカントン 四川、広東、などに流れて住み着いた漢 民族だ。土地の人には外来の客というわ けで「客家」と呼んだ。客家は奥地に追 われたため、魚よりも鶏、豚、内臟の料 理が得意で七〇年代までは愛好者も多く 名の知れた有名料理も少なくない。 そこに着眼したこの店のオーナー周劍 雄さんは、客家と広東料理を組み合わせ た店を一年前に、九龍のネイザンロード から少し入ったところへ出した。濃い味 の客家、淡味の広東は、相性がよかった トンシンユイ のか店は繁盛している。凍星魚 ( ハタの 一種 ) の一匹蒸しも客家の梅菜 ( 漬けも の ) を刻んで魚にかけて蒸したほうが風 味がある、などの工夫がみられて悪くな 調理師の何英偉さんと黄紹明さん。若いニ人が腕をふるった。 / ノいグニ ,
客式蒸海凍星魚 = 季節の魚の梅菜 ( モイチョイ・客家の漬けもの ) 蒸 し。梅菜は濃いめのよい香りがし て、ただ蒸しただけの魚よりおい しい ( 時価 ) 。 上 / 客式酔凍蟹 = 老酒をたつぶり とかけて蒸した酔っぱらいのかに ( 280HK ドル ) 。下 / 馳名周家鶏 = 店の自慢、有名な東江塩ま局鶏の周 家荘スタイル ( 2 圓 HK ドル ) 。 35
加威老道 金 0 倫道 0 000 00 巻 PRAT H0tel tanfor ra Harb arde Royal ◇ 麼地、 周家荘 ( 客家 ) ①嘉麟樓 ( 広東 ) 金島燕窩潮州酒樓 ( 潮州 ) ② Gadd ド s ( フランス ) OThe Lobby ( アフタヌーンティー ) 雪園飯店 ( 上海 ) OGrand Stand ( ニューオリンス ) 君怡閣 ( 広東 ) 朝福臨門酒家 ( 広東 ) ⑤麗晶軒 ( 広東 ) ① PIume ( コンチネンタル ) ⑩九記 ( 百利 ) 燒毎鮮酒家 ( 海鮮 ) OCIub Shanghai ( バー ) 朝桃李 ( 広東・飲茶 ) ⑩茶仙坊 ( 喫茶店 ) ①映月樓 ( 飲茶 ) ⑩金葉茶餐廳 ( 大衆食堂 ) ⑨福満樓 ( 四川 ) ⑩凱悦軒 ( 広東 ) 少咀 Tsim sha ⅲ \Jew WorId Centre 86
T C O N T E N S はじめ・に 香港「食」の魅力とは 香港概略地図 九龍ホテルダイニング ペニンシュラ・ 2 スパ ( プールサイドカフェ ) ギャ一アイズ ( フランス ) ージェント ・クラブ上海 ( バー ) ・麗日明軒 ( 広東 ) フルーム ( コンチネンタル ) シェラトン グランドスタンド ( ニューオリンズ ) ・ ージェンシー ィアット・リ・ ・凱悦軒 ( 広東 ) ホテル・ニッコー ・桃木実広東・飲茶 ) 君怡閣 ( 広東 ) 0 香港島ホテルダイニング グ一フンドハイアット ・港灣壹號 ( 広東 ) グリッシーニ ( イタリア ) リツツ・カールトン ・トスカーナ ( イタリア ) ・ 九龍レストラン ・福満樓 ( 四川 ) ・福臨門酒家 ( 広東 ) ・月家荘 ( 客家 ) ・映月樓 ( 飲茶 ) 龍 ( 聿酒店 ( 広東・鳩料理 ) ・雪園飯店 ( 上海 ) 全島燕窩潮廾、冫 ー樓 ( 潮州 ) ・九、記 ( 百利 ) 燒海鮮酒家 ( 海鮮 ) ・、ゞはト 50 48 は ( 権お当 4
香港ホカレ & レストラン事情 波多野須美 中国料理研究家・日本ペンクラプ会員・旅行作家協会会員 すーっと遠い先のことだと田 5 っていた い店はあったが、いい レストランの数は七〇年代に入ると、大丸のそばの「暹 香港返還の日が、もうそこまで迫ってい さほど多くなかった。その頃の香港のレ羅燕萵酒家」と九龍の「国際酒店」を出 る ストランには、同郷の人々が集まる例発点に州料理が台頭してきた。それが その香港とのおっきあいもいっしか三 えば上海料理の店は、コックからマネー「酔紅酒家」から「金島」「潮州城」へと野 十年にもなってしまった。、、、 カ最近、香港ジャー、レジ、ポーイに至るまで上海人 で現地の人と話すとき、あいさつは「変で固め、聞こえるのは上海語のみ、大陸 好多了」 ( ずいぶん変わったわね ) とつい からけてきた人々は、故郷の上海料理 口にする。香港の変化には目を見張る を食べながら、同郷の人々との交流を深 住んでいた頃また来る日があると思わめた。 なかった香港に、その後は毎年一一一回、四九龍の大衆的な「大上海飯店」、総菜屋 回と訪れるようになった。気がつけば、 も兼ねた「一品香」、「天香樓杭菜舘」は「熊 百回近くも通ったろの掌」や「乞食の鶏」を出した。香港島火のような勢いで広がり、八〇年代にな うかその魅力は「食」の銅鑼湾の「老正興」は、ハッピーバレ って最盛期を迎えた。 につ」る ーの自宅から近くで本格的な上海の味の香港の人たちは、他の地方の料理は味 香港のその年の一 おいしい店だった。上海蟹の季節には、 が濃くて食べられないが沖邦料理なら毎 番おいしい店で最高上海人で賑わうこの店に毎週のようにお日でも食べられる、という。一一世、三世 のメニューを一卓十客様を案内し上海の味を覚えた。北京料の時代になると親の出身地とかかわりな 一名で味わうという、理は香港島の「東興樓」「豪華樓」、広東料 増えるのは広東料理と潮州料理ばか 自分の楽しみで始め理のフカヒレは「新同楽」、 り。八〇年代半ばに最高級 たグルメッアーの方飲茶は「金冠」という具合 の乾物を壷に閉じ込めた贅 も、早や一十年以上 に、私どもも中国人も、そ 沢な具とスープ、仏さまも になるそして「食」のみならす、香港れぞれ自分の贔屓の店を数 この香りで塀を飛び越えて の現在の繁栄に至るまでのドラマもつぶ軒は持っていた。コックが 食べにくるという福建の「仏 さに目にしてきた。レストランの激しい変わって味が変わるのを恐 跳」が流行った。 栄枯盛衰。世界に例をみないほどの一流れ、人を招くとき安心して 黄河流域から山間の僻地 ホテルの台頭とすばらしいダイニング 行ける行きつけの店に通う に追われた人たち「客家」 香港人の驚くべき食の変化。たくましい ことになるそのころ香港 の料理も細々ながら人気を 香港人の活力。 島に古くからある小さな店 保ち、秋から冬にかけ中国 「鏞記酒家」がアメリカのフォーチュン誌版ジビエ〃野味。を扱う「北園野味海鮮 食は香港に在り に世界一の味と書かれて一躍脚光を浴び酒家」が名乗りをあげた。材料は果物だ クオーヅリー 一九六〇年代からの約三十年間をふり たその話題の鵞鳥の手羽先を早速味見けを食べるたぬき「果子狸」、シルクロー ウオンケン かえってみてみると、六〇年代はおいしに行っご。 ドからくる鹿「黄倞」、陝西省の野牛
シムサイマーメイ 八〇年代から九〇年代に入ると、私のったり、台所を改造したりしている昔 「陝西馬尾」などを生きたまま香港に運ぶ これらを薄切りにしてミル目 ( 、伊勢ェビグルメ旅行もホテル内の料理を組み入れは、子供たちはやせて青い顔をしていた るよ - フになった。 豊かになった香港では が、今は丸々太って、子供らしい顔にな とともにシャプシャプで味わう贅沢さ 広東飲茶は以前は店の数も限られて、広いガラス窓越しに港の眺めを取り入れ、り、服装もよくなった。 あれほど生ものをきらっていた香港の 夜はネオンを水に映し、さ 押しかける客は食事中の他 人のテープルを囲んで席が ざ波の光が流れる中で上質人たちが今では生がき、サーモン、マグ 空くのをじっと眺めて待つ、 の料理を出しはじめたからロなどを平気で食べる。ベトナム、タイ、 という光景が長く続いた。 ご。リージェントホテル、 インドネシア、日本などの料理も、今は ことけこんで庶民の味にな それが海外からの団体客が 定宿にしていたペニンシュすっかり香港 ( ラホテル、九一一年にオープ ドッと増えて、アッという ンしたグランドハイアット 間にすべてのホテル内と街 オカってアバ 中のレストランが昼は飲茶 を出すようになって、今は ディーンで生きた魚料理を ウェイティングの人々は、 食べた人は陸上で同じもの レジの脇でおとなしく店側の案内を待つを要求し、今は味だけでなく、絨毯を敷 ようになった。以前は日本からのお客様き、シャンデリアの輝く個室でエンジョ に「ホテルで食事をします」などと言わイするように変わっていった。中国各地 れたら仰天して車を飛ばして迎えにゆき、をめぐる食の旅以外に、ヨーロッパ、ア 昼は飲茶、夜は有名中国料理店に案内しメリカを旅行して、宿が一流ホテルなら せつかく香港にみえたからにホテルの食事をする、チャイナタウンに は、ぜひおいしい中国料理を召し出て食事をするなどしたが、世界の中で あがってほしいと田 5 つご。 オ今と違はやはり「食在香港」だと気がついた 一つの言葉だが私には って私たちが香港に住んでいた頃この短いたった の日本からのお客様にとっては、十年近い旅の経験から自分で「食在香港」っているが、九〇年代になると、本格的 なイタリア、フランス、アメリカなどの 生に一度の香港旅行かも知れなと名づけたのだ いと思ったからだ。そうはいって香港の経済発展は、「食」にお金に糸目料理も根付き始めた。それを目がけてョ もマンダリンホテルやヒルトンホをつけぬ人々を生み出した。 ーロッパ各地から腕のよいシェフが集ま テルでの、昼はビュッフェ、夜は り、ここでも世界的にみてきわめて質の 天井知らすのハイレベル 音楽を聞きながらの洋食の食も 高い料理を作り出し、香港は洋食のレベ ( ものではなかった。 一方貧しかった人々も、前よりはすっルも天井知らずに上り続けている。デザ ートも素晴らしく、伝統的なヨーロッパ この頃から、一流ホテルが最高の料理と豊かになった。市場で働いている人も を出しはじめた。 懸命 に価いてお金をため、小さな家を買のケーキも登場。香港は今、注目の街だ
Mr. JosefF. Budde S P E C I A L I N T E R V I E W グランドハイアット香港エグゼクテイプシェフ ョセフ・ブデ氏。グランドハイ アット香港総料理長。ドイツ人。 四十六歳。「シェフ・ブデ」という名を言 うと、このホテルで働く人々の顔が思わ すほほ笑む。プデさんは多くの人々に慕 われる優しさをもっている私は、香港 ではホテ ~ 関係の人とのお「きあいは多 " ( カフデさんのような人はめったに、 ない。ホテ レにとって 貴重よ人オ オオプラックタイ、女性はロングドレス。香 港の九月、十月はまだ暑いのに毛皮のコ そのブデ ートをはおって、ロールスロイスで乗り さんに話をつけ、車には縁起のよい番号をつけて、 聞いた。、フショーオフをやる客もいる」とカ デさんは香 いま香港人の会話でもっとも多い質間 港に来るま 「一九九七年以後はどうなさる ? 」 でヨーロッ と聞くと「私は何もむ配してい、ません アメリ 北京からくるお客さんは、とてもリッチ 力、アジアで自分たちの宴会では、一番高いワイン の各国で料 など注文しますし、お客様がわからない 理人としてことは私どもがノウハウをお教えするな 幅広い経験どの協力関係で、これからますます香港 を持ち、シは栄えるでしよう」 ンガポールやケルンのハイアットリージ 一番お好きなものはと聞くと、「チョコ エンシーの総料理長を務めた。現在はホレートとクッキー」と、ちょっとはこ、 テル内で働く百五十人以上のコックたちんで答えるプデさん、家には中国人の奥 を統率する。ホテルではさまざまなテー 様と五歳の女の子、一歳の男の子という マのパーティのメニュー作りから、プレ可愛いさかりのお子様がいなから、早朝 センテーションを受け持つ。宴会は結婚から深夜に及ぶ勤務のため「子供たちの 式も含めて、予約は来年まですでに一杯。顔を見るのは、日曜日だけですよ」と、 プデさんによると「ホテルでは男陸はホテルを支える大黒柱の顔をのぞかせた 田 4
香港 3 つの顔 波多野宏ー 日中協会評議員・元朝日新聞香港支局長・論説委員 いまは世界の脚光を浴びる香港もその 香港は三つの顔をもっている。ひとっ都の約半分というちつばけさながら、世 はいうまでもなく観光地としてのそれ。界貿易では何と第十位という活力あふれ生い立ちは、近代中国が十九世紀の帝国 いく、みじめな象徴 リオデジャネイロ、ナポリと並んで世界る経済都市だ。このパワーが他方では観主義に組み込まれて でもあった。 光地としての顔を支えている 三大美港に数えられる港のたたずまい 三つ目は、実は一番重要な、イギリス香港は、第一一次世界大戦の開始ととも とりわけその夜景の素晴らしさ。なかで も、息を飲むような静寂そのものを感じの直轄植民地としての顔である。私たちに一九四一年十一一月から四五年八月まで させる仲秋の宵のひととき今は繁栄のが普通、香港と呼んでいるところは、香の約三年八カ月、日本が占領した時期が 代償ー騒音にかき消されてしまったが、港島とビクトリア海峡をはさんで北側のあったが、日本の敗戦とともに再びュニ 下町の銅鑼湾あたりまでセント・ジョー九龍地区、新界 ( ニューテリトリ ) とか ンズ教会の鐘の音が島の山肌、街並みをらなる。いずれも英国が第一次、第一一次 縫うように流れたクリスマスの夜も、忘アヘン戦争の戦利品として、また弱みに れ隹い。 つけ込んで、中国 ( 清朝 ) から三段階に ショッピング、グわけてもぎとり植民地化したもので、当 にごっご。香港 ルメの天国を抜きに時はいずれも広東省の一立ロオオ して観光地・香港をで広東語が幅をきかせているのはそのゆ 語れまい香港は、 自山港制度を活かし 返還までの生い立ち て世界の有名プラン ドのショッピングセ香港島は、第一次アヘン戦争の結果、 八四一一年の南京条約で、九龍地区は第 ンターのようご。そ して「食は香港に在一一次アヘン戦争の北京条約 ( 一八六〇年 ) り」とうたわれる多彩、華麗な中国料理。で、新界と一一百一一一十五の島々は、日清戦 中国各地の伝統的な名菜の味は、大陸よ争での清朝の敗北などに乗じて結ばせた りも香港でより磨きあげられている。九九十九年間の新界租借条約 ( 一八九八年 ) 五年、香港への観光客は約千一一十万人、で、大英帝国の王冠にちりばめられた宝オン・ジャックの旗の下に戻った。 うち日本人は約百六十九万人にものばっ石の一つのようになってしまった。事実、香港の最高責任者は総督。イギリス女 た。単純に詈ロ算しても年間約百四十億香イギリス人は「プリティッシュ・クラウ王の香港における全権代表で、駐留英軍 港ドル ( 一ドルⅡ約十四円 ) ものカン・コロニー・ホンコン」と誇らしげにの総司令官も兼ねている だが、香港を実際に動かしてきたのは ネを日本人は香港ではたいている ( 香港呼んだ。新界と中国側との境界線は、海 峡にいる英砲艦からの艦砲射撃が届く範英系資本、特に「ジャーディン・マセソ 観光協会調べ ) 。 一一つ目の顔は、アジア屈指の繁栄ぶり囲で線引きした、とある英歴史家は書きン商会」「スワイヤーパシフィック」や「香 港上海銀行」などだ。いずれも香港島中 だ。人口約六百一一一十万人、面積では東京残している
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九龍 レストラン KOWLOON 品第物 - し貪まを ツ朝い 0 0 に ・福満樓・龍華酒店 ・福臨門酒家・雪園飯店 ・周家荘・金島燕窩潮州酒樓 ・映月樓・九記 ( 百利 ) 燒脂海鮮酒家