「先達っていうのよ」 頬骨の出たセクシーな唇の少女が訂正した。 「ああ、そうなの」 のっぽの、やせた若者がグラスに残っていた氷を噛みくだいてからいった。 「そんなリーダーとか、先達とかって大げさなことないのよ。みんなで集って、どっかいこうかって話 してた時、巡礼って面白そうじゃないかっていいだしたの」 「チーコの持ってきたシャツからよ」 「そうそう、バタ臭い絵や横文字ばっかりの中に、めずらしいのがあったから、みんなでこれ、着よう よっていうことになったの、そしたら、じゃこれ着てどっか遠くへいこうじゃないかって話になって、 急にまとまったの」 「巡礼って、今はやってるのかしら」 「そうじゃないの、インド志向のつづきみたいなもんね」 度の強い近眼鏡の青年がいう。 「ヒッ。ヒーかってきいた人いたね」 「どんなとこが面白いの」 「やつばり、歩くのがいいのね。それに巡礼っていうと、この土地じやフリーパス持ってるみたいなも んでしよ。信じられないくらい親切よ」 「ほんと ? 」 梓は心から愕いた声を出した。 「そりや、昔はそうだったかもしれないけど、今の徳島の人が、昔のように巡礼を迎えるかしらー 1 異邦人
「お盆においでよ。かあさんもつれてきてやれよ」 「純は里心がついたんじゃないのー 「一向に。でも、親ってつまらない立場だね、今、そう思ったよ」 「なぜ」 「だって、子供産んでさ、苦労して育ててさ、結局、子供は親離れしてしまうんだもの。しつかりした やつほど親から早く離れるでしよ。とくにおふくろってのは気の毒だよね。年とれば、面白くないだろ うしさ」 「何を急こ、 冫しいだすの」 「あのね。『ひまわりの家』で、身体障害児の親を見てるとね。親って恐しい動物だなあって思うんだ よ。本人より、ずっと、親が苦しんでるよ。何だか、それを見てるとね、健康で五体満足な子供を持っ た親は、この苦労はしないかわり、こんな親子の密接な結びつきは決してないんじゃないかと思うの よ。考えてごらんよ。うちのおふくろだって、最後は結局ひとりだよ。子供たちはみんな家庭持ってし まうじゃない」 「純はもう家庭持っこと考えてるの」 「そんなこと考えないさ。でもいっかは結婚するだろう。いくら、おふくろを大切にしてくれる嫁さん もらおうと思ったって、そんなことわかんないよね。人間なんて、わかんないよ。暮してみなけりやー 「いろんなことを考えてるのね」 「前から考えてるさ。ただ、おれたち、姉弟といったって、じっくり話しあうことなんかないし、親子 だと、よけいないんじゃないの、健康ってやつは心の敵じゃないかと、おれこのごろ思うよ」 199 異邦人
通したり、逢ったりしている純二にだって、和美はまだ、自分の気持を恋だとは認めたがっていなかっ こ 0 「結婚すると、どうなるの」 自分の問いが、如何にも間がぬけていると思って、和美はまた赫くなった。 「貧乏なサラリー マンどすさかい、私も何かして働きます」 「相思相愛なのね」 「そないし 、うのどすかしらん」 由香里は如何にも幸福そうに笑った。笑顔から光りが降りこぼれるようだと和美は思った。 「スナックで知りおうて、まだ三月しかたってまへんのどっせ。まわりの人は、何でそんな阿呆なこと するいうて、叱ったり嘲うたりしやはります。そやけど、うち、おかあちゃんが日蔭の辛い思いしまし たさかい どんな貧しいてもええ、二号さんはいややと思うんどす。こんなこというて当てつけがまし いとおこらんといてちょうだい。これ、ほんまの気持どすねん。そやけど、生れてはじめての恋して、 結婚するいうのに、だあれにも祝福してもらえへんのかなあと思うと淋しいなってしもて : : : 」 「私が祝福するわ、心から。ほんとよ、おめでとう」 和美はいいながらテーブルの上に片手を出していた。由香里がその手を強く両手で握って、押しいた だくようにした。大きな由香里の目に涙が光りながら盛りあがってきた。 「うち : : : う、うれしいわ」 「嬉しくて泣くのおかしいわ」 和美も、咽喉がむず痒くなっていった。 「ほんとにありがとう。お逢いしたい思うたんは、こんな話さしてほしかったんどす。うちはおかあ わろ
「それでも、みんな一応お寺めぐりをしているからな。あそこへいってお寺の一軒ものぞかず帰る人間 っていうのはまあいないな、大原しかり、東山界隈しかりだ。こんな現象は何十年もなかったことだ よ。第一、寺の裁判沙汰が多いのだって、みんな金にからんでいるじゃないか、もうかってる証拠だ よ。仏教ルネッサンスだな、やつばり」 宏泰は声をあげて笑った。 若者が参禅したり、メディテーション教室というのに通ったり、写経会に出たりする姿がっとに多く なっていると聞かされても、啓子はびんと来ない。 瑞泉寺に集ってくる若い男女が必ずしも仏教に関心を寄せているとも考えられないのだ。しかし自分 の若い頃に比べたら、たしかに彼等は飽きもせず瑞泉寺の本堂に坐りこんだまま、本尊を見上げて何時 間も動かなかったり、縁側で膝を抱えたまま、ぼんやり半日も入江を見下してすごしていることが多 第一、あの狂熱としかいいようのないノートのつけ方は何であろう。 「仏さま、お願い、どうかアコの悩みを救って下さい」 そんな文章まで仏縁と呼ぶのかどうか。 娘の和美は、二ことめには、 「わたしはいやよ、お寺なんかもうこりごり、坊さんの養子でも何でももらって、この後ついでよ。わ たしは外へお嫁にいきたいわ。財産なんか、なんにもいらんから」 といいだす始末だ。 ひとりつ子なので、 「ゆくゆくは和美ちゃんに坊さんのお聟さんがいるね」 う」
「峯入りって、あなた、そんなに簡単なものじゃないわよ」 「でしよう、だから、何だか気味が悪くなって」 とにかく、瑞泉寺についたら、すぐ電話で知らせてくれといって文子との長い電話は切れた。純二が 瑞泉寺を思いだしたりしたのは、峯入りと無関係ではないように思う。 宏泰の意見によれば、この頃は一種の仏教のルネッサンスだというのだ。 「昭和のはじめに一度仏教のルネッサンスといわれた時期があったんだよ。それ以来じゃないのかな、 今度のは。あの頃は凄い不景気で大学卒業者の失業者があふれた時なんだ。今度もまあ、学士ルンペン のうようよしてきた時代だから似てないとはいえないがね」 「昭和のはじめより、今度の方が世紀末的現象が強いでしよう。そんなこともあるのかしら」 「ないとはいえないが、まあ、一種の風俗的流行だね」 「流行なら、飽けば、すぐすたってしまうでしよう」 「すたっても、飽かれてもいいさ。とにかく、波が一度うちよせてきていることは確かな手応えだから な。波に乗らなきや駄目だな、われわれの立場としては」 啓子は宏泰と話していると、つい話が現実的に処理されてしまうようで何となくひっかかるものがあ 「今度の波の現象として目立っているのは、若い者がこれまでにない関心を見せていることだな」 「そんなに若い人が関心をよせているかしら」 「この間、京都へ行った時、嵯峨野をのぞいてみたが、すごい人の列だった。それがみんな一一十歳前後 入 の女の子やその恋人といった風情なんだな、中年の男女というのはその四分の一にもたりない」 「そうですか、でもそれは週刊誌なんかで嵯峨野がいいと宣伝されて、。ヒクニックのつもりなんでしょ 9
いと思えてもくるよ・ 「男どうしでわかるものがあるのかしら」 「男どうしっていうんでもないけど、やつばりあいつはおれの子供だからな。お前の子でもあるけど半 分はおれの血が入っているんだもの、あいつの年の頃、おれの世代はいっ戦争へひつばっていかれて死 ぬかわからないって時期だったから、もっと、自分の将来について必死に考えていたともいえるし、 もっとあきらめが早くって迷いがなかったともいえるよ。おれは戦争で死にたくなかったから、何とか して戦争にいかない方法はないかって、あらゆることを考えてみたよ。今だからいうけど、こんなこと は誰にも話さない。でもおれの世代なら多かれ少なかれ、そんなことは考えたし、ひそかにいろいろ やっただろうと思うよ」 「お醤油をのむことなんか」 「そんなこともあったね。何とかして死なない程度の病気になりたがって苦心したもんだ。詮じつめて みれば、おれの場合は、なぜ戦争に行きたくないかという原因を問いつめていけば、人を殺すのが怖い ということなんだ。おれは臆病だから、けんかは嫌いだし、人を暴力でやつつけたり、まして殺したり は絶対出来ない。おれは誰か救世主が今こそ顕現して戦争をやめさせてくれないものかと必死に待った よ。人を殺すなという、キリスト教や仏教が黙っている筈はない。やつらが団結して戦争をやりたがっ ている人間に抵抗するだろうと期待した。あらゆる宗教で人を殺していいなんて認めているものはない からね。神父や牧師や坊主がスクラム組んで銃ロの前に立ちふさがるその日を、おれはどんな期待で思 い描いたかしれない。その時こそ、神や仏の声が空に鳴りひびき、大地はさけ、戦争をしたがってるや つらを一思いにのみこむんだと空想した」 風が出てきたのか、縁の外の直治の坪庭の竹の葉が、急に物狂おしい葉ずれの音をたてはじめた。
「文楽の頭を造る人がいるでしよう、ああいう人を人形師っていうんでしよう」 「そんなにいないわよ。今は、四国の橘富吉とか」 「そ、その人よ、富吉さんの息子さんだって」 「ほんと ? 橘朔郎くん ? 」 「まあ、知ってたの」 梓は急に顎をあげて、大きな口をあけて、あは、あは笑いだした。気どらないそのあけっぴろげな笑 い方は、肉親にしか見せないものだ。文子は自分の頬が熱くなっているのを感じた。 「いやだわ、何だか、わたしの方がどきん、どきんしてきたわ」 「どういうことなの、こんなのってあるう ? 朔郎さんとは、インドでいっしょだったのよ」 「へえつ、そうなの、縁があるのかしら」 「いやね。すぐそういうふうに短絡してしまう。全く偶然よ。でも奇遇ね」 「どんな人 ? 」 「とってもいい人、ぬうぼうっとしていて、すてきよ」 「ぬう・ほうとしてるのがすてきなの」 「うん、何かサムシングのある男ね。それにやさしい人よ」 「そんなに気にいってるなら : : : 」 、いい人だということと、見合い結婚とは関係ないじゃないの、結婚の対象なんて、全く考え 「ばかね ないで旅行してるんだもの、向うだってそうよ。団体旅行なんて、そりやさばさばしたものよ。夫婦だ って、かえって他人みたいになってたわ。そういうものなのよ。仲間意識は生れるんだけど、個人的な 情緒なんて、生れるゆとりがないのかしらね」
波踊りのそめきにそっくりでないで」 「へええ、ほんま」 「ほんまの話。おかしいぞ、インドのこんな田舎で阿波踊りの音楽が聞えるとは思わなんだなあと、み なで話しおうて、・ハスを進めていたら、急に、向うの道の方にその一行が姿をあらわしたんじゃ」 「へえ、どんな」 「インド人で真黒の顔して、目えばっかりぎよろぎよろしとる。腰にごちやごちゃした色の派手な腰巻 や、みのみたいなもん巻きつけて、上半身は何やら絵具いつばい塗りたくって、頭にはインデアンみた いな飾りつけとった。その連中が十人くらいいたかな、年寄から子供まで、男ばっかりやったけど、踊 り踊りもって、こっちへ来るでないで」 「へええ、踊りながら歩くの、ほな、阿波踊りとそっくりゃないの」 「そうよ、ほの上、音楽が阿波踊りのそめきそっくりよ、踊り方も、男踊りと同じで勝手に手をふって 腰をおとして、おどけて、ひょっとこみたいな顔したりして見物を喜ばしとる」 「へええ、そんなことってあるのかしらん。ほんまに」 「ほんまやって、何でわしがほんなこと嘘いわんならんのや。あんまりびつくりしてバスとめてもろて 見てるうち、こっちまで浮いてきてしもてな、おっちょこちょいのわしのことや、。ハスからとびおり て、その踊りの連中へ踊りこんでいたんや」 「ほんまに」 「もちろん、こっちは阿波踊りや、ほたら向うの連中、びつくりしたような顔しとったけんど、すぐに おもっしょ こにこして、いっしょにこっちと同じように踊りよる。まわりのインド人の見物が面白がって、みるみ る人だかりが増してきた。バスの連中も、そのうちみなむずむずしてきて、次々バスから降りてきて踊 ー 68
をおとしいれようとするけど、親切なんかじゃないわよ」 「そうかな」 「ね、わたし、どうしたらいいと思う」 笑子はそういいながら、運ばれてきたばかりのえびのてんぶらをたべた。 梓は自分でビールをつぎたした。 「どうって、やつばり、赤ちゃんのおとうさんに相談すべきでしようね」 「だめよ、あの男は」 「知ってるんでしよ」 「もちろんよ」 「どういうの」 「そんなこと、始末もしていなかったのかって、恋を愉しむなら、そんな用意は女の方でするのが常識 だっていうのよ。だって、そんなこと、考えてる閑もない間に、そうなっちゃったんでしよう。ずいぶ ん勝手と思わない ? 」 梓は黙ってビールをのみつづけた。志村との性愛のすべての場面が、ゆっくりと目の前を通りすぎて いく。相手の女は自分とも見え、笑子とも見えた。 「会社の人だから具合が悪いのよ、上役でしよう。会社じゃ、つんとしてるしね」 どうやって志村との仲が始まったのか、ことこまかく聞きたい好奇心がつのったが、それは嫉妬の裏頁 がえしだと思うと、梓はそれを聞きたがる自分が許せなかった。 青 「そんなに信用出来ない人なの」 「頼りになる人だと思ったんだけど、だって私より十六も年上なのよ。最初、誘われた時、まるでおじ
「男っていうものは、やつばり、家庭では一番気がゆるんでるのよね。少くとも情事の対象の前では気 どってなきゃならないんじゃないの、思いきって大きなおならなんてしないんじゃないかしら」 「そうかなあ、二年もっきあえば、男にとっては女房も情婦も同じようになるんじゃないの」 「少くとも世の中の女房というのは、亭主の一番みつともないところを握っているという自信だけはあ るんじゃないの。とにかく、亭主というのはつまらないところでしつ。ほをだすものよ。女といったレス トランの受取りをポケットにくしやくしやにつつこんでいて、汚れたハンカチといっしょに出して女房 に渡したり、買ってくれたこともないプローチを、あれ、つけないのかとロ走ってみたり」 「おとうさんがそんなまぬけだとは知らなかった」 「おとうさんじゃないのよ、一般の亭主族の話よ」 「女房のカンっていうのを、よく婦人雑誌なんかで力説してるじゃないの、外でなにしてきた時と、そ うでない時は、玄関に出迎えたとたん、ばっとわかるとか」 「負けおしみじゃないの、そりや、何ともいえないもやっとした霧のようなものは感じるけど、そんな に百発百中、カンが当るなら、世の中もっと平和でしようよ」 「裏切られた時、妻って人種は自分も裏切ってやろうとは思わないの」 「それほど馬鹿はそんなにいないんじゃないの、何の得があって、そんなことして」 51 水脈