和美 - みる会図書館


検索対象: こころ(下)
60件見つかりました。

1. こころ(下)

んだといわれたことは、やはり傷ついたことのない和美の自尊心を真向から叩きつぶしたらしかった。 「治子ちゃんが健康な普通の女の子なら、あたしはどんなにがんばってでも闘ってみせるわ。その自信 はあるわ。でも治子ちゃんとは闘えない。ああいう立場の人とどうして対等に闘うことが出来るの。あ んまりだわ」 和美はそれつきり、純二が何かいおうとすると、掌を振って、汚い物を払い落すような手つきをし て、ぐんぐん先に歩きだしたのだ。 ハス停に丁度止っていた・ハスを見つけると、和美は純二に合図もせず、いきなり駈けだして飛び乗っ てしまった。もう発車しかけていたバスは、和美の必死の駈けつぶりに、ちょっと息をいれて、和美の たどりつくのを待ってやった。和美の驅をすくいこんだとたん、バスは走りはじめた。 純二の歩いていくのに、く / スの中の人々は誰も気がっかないようだった。 その後、和美からは一度も便りがない。純二は母に手紙を出した日、和美にも書いた。 ことばが足りなかったから怒らせてしまったけれど、もっとよく話しあいたい。。 とんな理由からでも きみとの友情は失いたくないと書いた後、友情の文字に、また和美が怒るのではないかと思った。純二 は愛情と書いた方が和美に対する自分の気持にいちばんびったりすると思った。しかし、その愛情は治 子に対するものとはちがっていた。 どうしてわかってくれないのかなあ。和美ならわかってくれると思ったのに。純二は男が女に抱く愛 情に幾通りもあっていいのではないかと思う。 「和美ちゃんを怒らせてしまったままなのー 文子が純二に訊いた。 「うん、でも、あの人は聡明だし、根が素直だから、そのうち、ヒステリーがおさまればわかってくれ 3 巧潮騒

2. こころ(下)

と、麓の漁師たちが寺に来ていケのを聞き、今から自分の前途をきめられてしまうのが不安でやりき れないらしかった。 「だって、これだけのお寺、和美が後をつがないと、損だと思うけどー 「いやあね、おかあさんだって、お寺へなんか嫁入りするんじゃなかったって、しよっちゅういってた くせに、あんなこといってる」 そういわれると、啓子は返すことばもない。 まあ、まだ先のことだからと思っていたが、和美も今年は大学に入った。宏泰が遠くへ出したがらず 徳島の大学へいれようとしたが、和美はきかなかった。東京へゆきたいというのを、どうにかなだめ て、京都の大学をけさせた。 律儀な性質の上、宏泰似の頭のよさで、啓子は和美の受験で他の母親のように心配したことはない。 何でも、和美は自分でとりきめ、田舎だから、心配だといって、必死に勉強していた。 関西で三つ受けた大学を三つとも通ったから、啓子は文子から純二のことを聞かされた時、挨拶のし ようがなかった。幸いなことに、文子は自分の苦労に心を奪われていて、和美のことを忘れていた。啓 子はそれを好都合にして、和美のことはいいださなかったのだ。 京都の大学にきめ、室町の実家から通わせることにきめ、入学式にもついていって、啓子は一まずほ っとしたところなのだ。 和美の借りた部屋は、娘時代、啓子が使っていた離れで、啓子の頃とほとんど変っていなかった。啓江 子は和美をはじめて手許から離した淋しさも、あの部屋に眠っていると思えば、和美の夢の中まで想像 入 出来そうで、何か安堵があり慰められた。 純二の美しさや爽やかさを思い浮べると、今、和美に逢わせてやれないのが残念な気がする。しかし ふもと

3. こころ(下)

和美が休暇で帰郷しても、純二の部屋はそのままだった。和美も、家の誰も、その部屋が和美のもの だから純二に明け渡せとはいわない。 純二もそれを当然のようにして、使いつづけていた。 和美は、離れの普段使われていない茶室に客のように寝泊りしている。着るものは大方両親の寝てい る八畳の部屋の奥の納戸に運びだしてあった。 「ひまわりの家」は夏休みが来ても閑にはならなかった。むしろ、五体の健康な家族たちの夏休みのた め、預けつばなしにしておく方が多くなっている。 瑞泉寺でも、ア化 ( イトの石護人を増やしたくらいであった。 和美も帰った日から、ひまわりの家を手伝っていた。 「珍しいことね。和美はおとうさんのすることなら、たいてい反対して、『ひまわりの家』だって、見 むきもしなかったのに」 啓子は、和美が「ひまわりの家」の子供たちの洗濯物を干しているところに来て、手伝いながら話し かけた。 「純一一さんのいい影響かしら」 向日葵 220

4. こころ(下)

といいかけた言葉の途中で和美の唇は純二にふさがれていた。純二が唇を離した時も、和美はまだ目 を閉じ、唇を薄くあけていた。純二の腕が支えていなければ、和美はその場に崩れこむか、倒れてしま いそうに見えた。 和美には生れてはじめての接吻だった。いきなりだったので、頭に血が上り、全身はつめたくなり、 無我夢中だった。接吻の味が甘いなどというのは、よほど経験を経てからなのだろうか。 純二は事もなげに、 「じゃ、お休み」 とあっさりいって、和美の頭を一つ叩いてさっさと背を見せて去っていく。和美は入口の雨戸にもた れて、全身を支えていた。 純二がふりかえらないまま、見えなくなってしまうまで、和美はそうしていた。 雨戸のくぐり戸を押して入ると、奥にぼっと灯がっき、伯母のきみ子が顔を出した。出先からおそく なるといってあったので別にとがめだてもしない。家業をついだ伯父の許に嫁いできて以来もう三十余 年もたっというのに、まだ、万事に控えめで、大きな声で物もいわない。二人の息子は家業をきらっ て、一一人とも東京で所帯を持ち、長男はジャーナリストに、次男は弁護士事務所に勤めている。二人も 息子を産みながら家業のつぎ手がないのが、一層きみ子にとってはこの家の親類に対して肩身のせまい 想いがするらしい 娘を持たなかったきみ子は、和美を預かったことが嬉しいと見え、あれこれ世話を焼きたがる。和美 はきみ子に適当に甘えながら、時には何でも外の話を聞きたがる伯母をうるさく思うこともある。 今夜は伯母が話しかける前から逃げごしで、和美は機先を制していった。 「高校の友だちが来たの、ディスコで踊って、喋って、のんで疲れてしまった」 245 ひぐらし

5. こころ(下)

ていた。アイシャドーやアイラインをほとんど使わない顔は清潔で、女の目にも匂やかであった。祗園 ぽんと か先斗町の芸者だろうと、和美にもすぐ見当がついた。 「失礼ですけど : : : あのう : : : 瑞泉寺の和美さんやおへんどっしやろか」 女のことばは、和美には真似の出来ない、ゆったりとした柔かな京ことばだった。 「そうですけどー 和美は自分の姓を呼ばず、寺の名をあげる未知の女に目をみはった。 「あの、えろう厚かましいお願いどすけど、もし、お急ぎゃなかったら、一「三十分、お話させていた だけまへんやろか、うち : : : あの : : : 」 女は大きい目をふいに伏せた。音がしそうなほど濃い長いまっ毛が、女の頬にをつくった。 「お知りいひんかもわかりまへんけど、うちは由香里どす」 和美はあっと声が出そうになった。その表情を見て由香里は恥かしそうに首をかしげた。ちょっとし じようじよう た表情やしぐさのすべてが嫋々としていて、和美はその女らしさに圧倒された。 「知っています」 和美は自分の声がねばりつき、重くなるのを感じた。 和美の方が先に立って、喫茶店に入っていった。中二階のある喫茶店の、人の少ない隅の席に二人は 向いあって坐った。 「わたしと : : : 同い年だったかしら」 「へえ、うちの方が何カ月か上ですけど」 「悪いおやじね」 和美は軽くいってのけて笑った。幼い頃から、母の口からは聞かされなかったが、誰からともなく耳 227 向日葵

6. こころ(下)

その時だけ、もっと後を聞きたそうにした母に、和美はふんと、鼻を鳴らしただけで、さっさと座を 立ってしまった。 陽は見る見る沈んでゆき、座禅石から見下す海がタ映えで物狂おしいほど赫く染ってきた。 その赫い海を見つめていると、和美は心が次第に激してきて泣きだしたくなった。さっきから泣きた いのをこらえていたのだと自分で気づいた。 「ごめん、ごめん、待たせたね」 いきなり純二の声がした。 やまみち 額から汗をたらし、純二が息をあえがせている。山径を走ってきた若い男の汗の匂いが、和美の神経 に鋭くささった。 純二は和美の横に立っと、海に向ったままシャツをはぎとった。水泳パンツだけの純二が素裸になっ たように和美の目にはまぶしく、思わず視線をそらせた。 「凄いタ焼けだね」 純二は海に目をあてたままいう。 屈託のない声を聞くと、和美は今まで胸から咽喉もとまでつまっていたような固いものがすっととけ ていくのを感じた。 「さっき、何ですねてたの」 し 純二がふりかえり、和美の横に腰をおろし、当然のように腕をまわし肩を抱いた。 ら ぐ 和美は反射的にその手を払いのけ飛びすさって、純二が今、立っていた場所に立った。 ひ 「どうしたの、 いったい」 純一一が呆れたような声をだした。その声にはもう不機嫌な響きがあ 0 た。和美は敏感にそれを嗅ぎわ

7. こころ(下)

長い時間だった。はじめての時のように、全身をはげしく血が逆流するような想いの後にひたひたと 甘美な波が押しよせ、和美は自分の足が波にさらわれるように思った。その都度しつかりと純二の胴に まわした腕に力がこめられているのに気がっかなかった。 自分のロの中に入ってきた純二の舌を、皮をむいたマスカットのようだと感じるゆとりが生れてい た。マスカットの実はロ中に入ると急に堅く引きしまり、西洋梨のような感じで咽喉の奥まで入ってき た。息苦しくて首をのけぞらせると、またマスカットのような柔かさとなめらかさにもどり、ころころ とロ中をくまなくころがりくすぐってくる。純二は和美の胴を片腕で抱きよせ、もう一方の手で和美の 胸にふれてきた。和美の上体がまた逃げようとわずかに反りかえったが、それは一瞬で、かえって和美 の意志とは反対に上半身が純二の掌の上に慕いよっていく。 くちばし 純二の掌に自分の乳首が小鳥の嘴のようにとがり触れているのがわかる。ロ中にいつばいになった 唾液を和美は思いきってのみ下した。純二の唾をのんでしまったと思うと、和美は全身からカがぬけて いくように思った。乳首がいっそうとがり純二の指がそこにたわむれている。和美の後頭部に薄桃色の 靄が湧いてひろがっていく。足が萎えると思った時、純二の手が和美の胸から離れ、両腕に軽々とかか えあげた。いつのまに出ているのか、星が遠く、薄く開いた和美の目の中に映った。 和美の驅が座禅石の上にそっと倒された。爼の上に乗せられた魚のようだとちらと思った。 全身からカが抜け、和美は呪文をかけられたように手足が動かなくなった。触れられ、見捨てられた 乳首がうずいた。 純二の嶇がよりそって横たわりに来た。純二の嶇を木のように堅く感じた。 「好きだよ」 純二の声が耳の中に熱く流れてきた。と、ふいに耳朶に痛みを感じた。純二の歯が耳朶にくいいっ 255 ひぐらし

8. こころ(下)

「何も、かあさんとおやじの結婚生活を侮辱しているつもりじゃないよ。うちだけじゃないさ、ここだ ってそうだし、世間の夫婦って、大体、似たりよったりしゃないの。絵に描いたような模範的夫婦や、 家庭っていうのが、あり得ないんじゃないの、男と女が対等に人間としてぶつつかりあう場が結婚生活 なら、それはやつばり、修羅場だよ。今おれたちの世代は結婚にさほど童話的な夢を描いていないんだ 「治子さんと結婚するなんて発想が、わたしには童話的だと思えるけど」 「おれがあの子に同情して一緒になりたいと思っていると、かあさんも考えるのね」 文子はだまって、純二の横顔に目をあてていた。今まで気づかなかったが、純二の耳の形が、気味が 悪いほど夫に似ていた。 「和美ちゃんもそう思っているんだよ。そのことで凄いけんかになってしまった」 純二は和美の陽やけした顔色がすっと絵具を塗っていくように色を失っていくのを見つめていた。何 かいいかけて和美は乾いた唇をひくひく震わせただけだった。ことばより先にせいいつばい見開いたふ たつの目に、光るものが盛りあがっていた。口紅をつけていない和美の唇は薄い桃色をしてふくらみ、 に浅い皺が入っている。 純二はいつもその唇を官能的だと感じていた。 和美は心を静めるつもりか、その唇を無意識になめていた。濡れた唇はいっそう純二の心を刺激し た。和美が今、怒りのあまり言葉を見失ってあえいでいるのだとわかっていて、純二は和美を抱きしめ騒 接吻したくなった。 「純は、同情で結婚するつもりなのね。思い上りだわ、かえって相手を侮辱してるんじゃないの」 一たび言葉が出ると、和美の口調は火がついたように激しくなっていた。

9. こころ(下)

「どうしたの」 「おなかがへんだから、今夜断食する」 啓子は、何もいわず、卓上の梅干を和美の方へ押しやった。和美はそれを一粒つまみかけてやめた。 純二とのキスの味が梅干の酸つばさで消されては惜しい。啓子は気が抜けたような表情で、和美の背に 何もことばをかけて来なかった。 おかあさんのはじめてのキスは誰だったのかしら、おとうさんがはじめて抱かれた男だったのかし ら。和美はそんな話を母としたくなった。 もし、純一一があれ以上の愛戯を需めてきたら、自分は決してこばみもふせぎもしなかっただろうと和 美は思う。愛しあう若い男と女が情熱のおもむくままに抱きあい、唇をあわせ、セックスをするという ことは、自然で美しいことなのだと和美は今、納得した。なぜ純二が、自分の欲望をあそこでセープし て、立ち上ってしまったのか。和美は純二に呼びさまされた欲望の火が、まだ自分の体内で執念深くく すぶりつづけているのを感じてくる。 われにもなく洩らしたため息が熱くなま臭い。わたしはちっとも構わなかったのに。和美は熱い驅を うつ伏せにしてシーツに頬を押しつけた。純二の掌や指の触れていったあらゆる場所に蠍燭の灯を移す ように、和美の追体験しようという欲望が火をつけていく。 和美は情念の中で燃えっきて、やがてぐったりしてしまった。 空虚になった嶇の中に、純二の声だけがよみがえった。 好きだよ。 可愛いよ。 嶇を離してからの純二は、そんなことばを一言も口にしなかった。スポーツの後のようなさつばりし 258

10. こころ(下)

た表情をしていた。 男と女の生理のちがいというのを、これまで頭だけでは耳学問や週刊誌の知識で知っていたが、こう もちがうものかと、和美は、今はじめてうなずいた。 本当に話したいこと、聞きたかったことは、何一つ話もしなければ聞きもしなかったことに気づいて きた。 今となっては、し 、っそう、浜辺で見た治子と純二の姿に嫉妬が燃えてくる。あれは何をしていたの か。純二は背後から治子を抱いていた。あの時、純二の手は治子のどこにあたっていたのか。 和美は頭が燃えるようになってきた。まさか治子と純一一が恋愛関係とは考えられない 純二は治子に同情しているのだ。十歳くらいの女の子をあやすように治子をあやしていたのだ。 そう思いたい和美の目に、白い水着につつまれたのびやかでしなやかな治子の全裸のような感じの姿 が浮び上ってくる。治子があんな美しいとは気づかなか ? た。ただもう気の毒な少女とばかり思ってい たのだ。 と思った。 和美は世界中の美しい女はみんな消えてしまえばいい その時、はじめて和美は母の打ちひしがれた醜く歪んだ表情を思いだした。血のつながった子供の自 えんさ 分さえ、思わず目をそむけたかった嫉妬と怨嗟を丸だしの女の表情。あれが、愛を裏切られた女の顔な のだ。もし、今、純一一が他の女を自分よりも愛したとしたら : : : たとえば治子を : : : たとえば由香里を し ・ : たとえば自分の知らぬ少女たちの誰彼を ら 和美は、はじめて母を可哀そうだと思った。由香里母子のことを思っただけでも、まだ平常心を失うぐ 母の中の女に、和美は今、はじめて共感することが出来た。母にあやまりたいと思う気持が素直に湧き 上ってくる。