と、麓の漁師たちが寺に来ていケのを聞き、今から自分の前途をきめられてしまうのが不安でやりき れないらしかった。 「だって、これだけのお寺、和美が後をつがないと、損だと思うけどー 「いやあね、おかあさんだって、お寺へなんか嫁入りするんじゃなかったって、しよっちゅういってた くせに、あんなこといってる」 そういわれると、啓子は返すことばもない。 まあ、まだ先のことだからと思っていたが、和美も今年は大学に入った。宏泰が遠くへ出したがらず 徳島の大学へいれようとしたが、和美はきかなかった。東京へゆきたいというのを、どうにかなだめ て、京都の大学をけさせた。 律儀な性質の上、宏泰似の頭のよさで、啓子は和美の受験で他の母親のように心配したことはない。 何でも、和美は自分でとりきめ、田舎だから、心配だといって、必死に勉強していた。 関西で三つ受けた大学を三つとも通ったから、啓子は文子から純二のことを聞かされた時、挨拶のし ようがなかった。幸いなことに、文子は自分の苦労に心を奪われていて、和美のことを忘れていた。啓 子はそれを好都合にして、和美のことはいいださなかったのだ。 京都の大学にきめ、室町の実家から通わせることにきめ、入学式にもついていって、啓子は一まずほ っとしたところなのだ。 和美の借りた部屋は、娘時代、啓子が使っていた離れで、啓子の頃とほとんど変っていなかった。啓江 子は和美をはじめて手許から離した淋しさも、あの部屋に眠っていると思えば、和美の夢の中まで想像 入 出来そうで、何か安堵があり慰められた。 純二の美しさや爽やかさを思い浮べると、今、和美に逢わせてやれないのが残念な気がする。しかし ふもと
その子供たちのひとりなんか、特におれが居なければ生きていけないほどなついてしまってる。かあ さん、おれ、その女の子と結婚したいんだ。もちろん、今すぐじゃない。も少し、おれが自力で食って 彼女を養えるようになったらの話だけど、そしてその前に、出家して、僧侶になろうと思うの、学校も もちろん入るけれど、入学試験にもどる前に、僧侶になっておきたいんだ。普通は高校の時とか大学の ぎよういん 休みに、比叡山で行院に入るらしいけど、おれは先に行がやりたい。 比叡山の行院は、奥比叡の横川にある。この間、和美ちゃんとふたりで横川へ行ってきて、一層横川 の行院へ入りたくなってきた。 横川って、かあさん行ったことないでしよ。女子大の修学旅行に根本中堂へ入った話してたけど、横 川までは普通いかないものね。親鸞も、道元も、日蓮も、恵心もいたんだってよ。ここで修行して、自 分の独自の宗教をうちたてていったんだって。凄いところだね、そういう話を和美ちゃんから聞いた。 彼女はやはり寺の娘だけあって、いろんなこと知ってる。おれが感心したら、こんなことは何も寺の娘 であろうがなかろうが、一般常識だといって、おれの方をあわれみの眼でみつめていたよ。でも和美 ちゃんは鼻っ柱は強いけど、しんは素直ないい娘だ。 おれが出家するといったら、彼女は真向から反対した。そんなに似合わないと思うのかといったら、 似合いすぎて怖いというんだ。女は非論理的だから困るよ。 和美ちゃんは、寺に生れ、寺に育ったから、寺はつぎたくないという。絶対住職と結婚はしたくない というんだ。もしかしたら、和美ちゃんは、おれが坊主になって、あの寺をつぐはめになることを怖れ ているのじゃないかと思う。おれとは結婚したいけれど、寺をつぐのはいやだから、というとこかもし れない。 かあさん、あんまり急にいろんなこと、一ペんに聞かされて、頭がぐらぐらしてるでしよう。長く逢 298
に入って、由香里とその母の存在を和美は知っていた。そのことで、格別、父をどうこう思いもしない ほど和美は幸せに育ったので、小説の話でも聞いているようで、自分に血をわけた姉妹がいるというこ とは、実感として全くなかった。逢いたいとも思わなかった。中学生の頃、クラスに好きな男の子がい て、もし、自分の姉といわれる人が男で、あの子のようだったら、自分はどんなに嬉しいだろうと思っ たりした。 父親の仕事が転任の多い立場で、その少年は中学の一一年と三年だけ同じクラスにいて、高校は名古屋 に移ってしまった。 年賀状や暑中見舞もいつのまにかお互いにとだえ、東京の大学はどこへ入ったかももう知らないし、 興味もなくなっている。 和美は由香里を目の前にして、自分よりはるかに美しい相手が、まだ姉だという実感はわかなかっ た。美しさに嫉妬がおこらないのは、由香里が素人の娘ではないためなのだろうか。 「失礼だけど、祇園 ? 」 「へえ、ようおわかりやすなあ、由香いう名で出さしてもろてます」 「もうずっと前から」 「へえ、中学出てからすぐ舞妓で出てまして、こないだ衿替させてもらったばかりどす」 「衿替って」 「舞妓から芸者になることどす」 「ああ、そう」 和美はあわてて深くうなずいた。由香里は白いメッシュのハンドバッグからきやしゃな扇子をだし、 軽く使った。何という名の香水か、和美の知らない濃い甘い香水の匂いが扇子の風におくられて和美の
慰めが全身の皮膚からしみてくるようであった。 よくもこんなに気に入りの息子を手放していたものだと悔まれてくる。 「かあさんはこんなに小っちやかったかな、年をとるとちちんじゃうってほんとかな」 純二はひとりごとのようにいう。たった今、やせたといって喜ばしてくれたのに、今度はショックな ことをいってのけ平気でいる。 それも純二のことばと思えば腹が立たないから不思議だった。 啓子がタ飯の支度にとりかかっている間、文子は純二と久しぶりで向いあった。宏泰は文子に挨拶だ けしておいて、町の寄合とかで出かけていった。 「びつくりして来たのー 純二が東京ではまだ早くて手の出ない蜜柑をむきながらいう。 「当り前でしよう。いきなりだもの、心臓がつぶれそうだった。昨夜一晩泣いたから、まだ顔がはれて るでしよ」 「ふうん」 純二は鼻を鳴らして、視線を母からそらした。 . しー . し 「逢って聞かないと落着かないから、やってきたんだけど、 「だからさあ、書いた通りだよ。別に大騒ぎすることないんだよ」 「だって、まだ大学も決ってないのに」 「大学大学って、二言めにいわないでよ。れひがんじゃうよ」 別にひがんでもいなさそうなのどかな表情で純二はいう。 「何も今頃、出家まですることないと思うけど、おとうさんには逢うひまもなく、飛んできたから、お どういうことなの」 3 。 9 潮騷
「体質にもよるけど、結構今じや女の子に強いのもいますよ」 「へえ、女子学生がかい」 「学生とかぎらないけど : : : 十七、八から、女の子はみんなのむんじゃないですか」 「酒と煙草とどっちー 「酒の方が早く入るんじゃないですか」 「おいおい」 宏泰は愉快そうに台所で料理の数をふやしている啓子に声をかけた。 「聞いたか、うちの和美なんかも今頃、京都でのんでるんじゃないの」 純二の表情を見て宏泰がいった。 「うちの娘だ、今年から京都の学校へ入ってねー 大学というところを学校といいかえた宏泰に純二はいう。 「いいんですよ。ぼくのことなんか気をつかってくれなくて。。ほくは大学落っこちても、あんまりこた えてないんですから」 「そのようだな」 宏泰はビールを純二のコツ。フにつぎたした。 「ここに女の子のいること、・ほくすっかり忘れてたな」 「でも、目下、京都だもの、いないも同然さ」 「短大ですか」 「いや、四年だ」 「ふうん」 巧入江
純二はちょっと小馬鹿にしたように鼻の先で笑った。宏泰はそんな笑い方に、純二が照れているので 6 はなく、なめているんだという感じを受けとった。 「美人じゃないんですか」 宏泰はびつくりしてちょっとことばにつまった。 「いや、まあまあだ、そうだな、親馬鹿を承知でいえば、あれで十人並じゃないのかな」 「へええ」 純二はまた鼻の先で笑った。宏泰は明らかに苛々してきた。 自分で和美を魅力的だなど、一度も感じたことがなかったのに、この浪人の若者の娘への無関心ぶり や、軽蔑したような口調を聞かされると、苛々して腹が立ってきた。 「頭はいいんだよ」 純二は返事をしないで壁にもたれている。 「ここをつぐんでしよう、そのひと」 「まあね」 宏泰は曖昧にいった。 「きみは、大学はもう受けないのかい」 純二の遠慮のなさに挑発されて、宏泰も遠慮のない言葉で訊いた。 「まだ、はっきり決ってないんです。でも二度も落ちてみると、自分は大学に向いてないんじゃないか と思いますね。とにかく、もっと、よく自分を見てみたいって気がするんです。生きている時間はかぎ られてるのに、この上試験勉強で一年間また棒にふるのはたまらないそって思いだしたんです」 「特にやりたいことってあるのかい」
「えつ」 梓が、純二の顔を見直した。純二がその梓の顔を見て笑いだした。 「何だ、自分でいいだしておいて、たまげてら」 「だって、冗談から駒が出るってことだってあるじゃない。でも、嘘でしよう」 コ一人もう、立候補者がいるよ」 「ほんと ? 」 「嘘、嘘」 「怪しいな、何だか、その調子じゃ、また来年、落っこちるんじゃないかな」 「たぶん、大学受けないよ、おれ」 「それも冗談にしてほしいけど」 「も少し、考えが固まってから話そうと思ってたんだけど、たぶん、そうなると思う」 「大学出ないで一生後悔しないと思う ? 」 「そんなこと、わかるもんか。でも少くとも、今は、おれ、受験勉強は二度とやる気がないよ。こっち へ来て、おれ、どれくらい本読んだかしれない。その方がよっぽど自分のこやしになると思った。自分 がどんな人間で、何にむいてるのかなんて、考えたことなかったでしよう。今、それがぼんやりとだけ ど、何だかわかりかけてきた気分なんだ」 「純は感じがちがってきたのも、空港で逢った瞬間、感じたわ」 「椿岬は田舎だから、本屋に本がないんだよ。それで週一度の休みは、たいてい徳島へ出て本買ってる んだ。結構給料くれるから、本代はあるんだ。それに住職はほとんどっんどくだけだけど、本を買うの は、高尚な趣味だと思ってて、おれが徳島へ出る度、リストつくって、これ買って来いって渡すんだ 178
とうさんの意見は聞いていないけど、どういうかおよそ見当はついてるわ」 「おやじの方がわかってくれるよ。男どうしだもの」 「学校はどうするつもり」 「うるさいなあ」 純二の声がとがった。 しししゃよ、 オしか、人にはて 「かあさんは、おれが一流大学を出ないと、親類や友達に恥かしいの力し れぞれ考えがあったって。猫も杓子も受験勉強して、大学へ入って、後は麻雀ばかりやって、ところて んで出れば、 しいっていうのかい。おれは浪人何年もしてよかったと思ってるよ。ここへ来たのもよかっ たと思ってるよ。長い一生から見れば、今の一年や一一年何だっていうの。それより、今の一年や一一年の おれの感受性の方が大切だよ。今みたいな感受性や若さはすぐ錆ついてしまうんだよ。だから、おれは 今、得度しておきたいんだよ。その後で懐疑的になればなったで、またいいじゃないか、その時になっ て考えるよ。何かに一度自分をどかあんと預けてみたいんだよ。その相手が目や手で捕えられないって ところに、今のおれは魅力を感じてるんだ。 えん 二カ月この世から離れて暮すなんていいじゃないか。出来れば昔の役の行者みたいに、何年も山奥に こもってみたいよ。やらせてよ。かあさんに迷惑かけやしないよ。爆弾運ぶとか、暴走して人を殺すと かってことじゃないんだよ。得度ってのは、メタフィジックな出来事なんだよ」 純二の語気に押されて、文子は黙ってしまった。咽喉がからからになり、舌が舞い上ってしまったよ 、つに田 5 、つ 0 「少くとも日本人の生活の根や、思考の根に仏教はからみついてるんだよ。そのことをも少し知りたい ってことは、自分を知りたいってことにつながるんだよ。今、自分のおかれている現状が、どんなもの 310
馬鹿しいっていう若い人がうんとふえてるわよ。女房子供を養ってゆこうなんて、考える前に、好きな 相手と肌をあたためあって、心をよりそわせて愉しく暮そうっていう気持じゃないのかしら。昔のよう に男が遊びにいく場所がないから、好きな子と健康なセックスを持っことが当然になってきてるのよ」 「啓子さんから若者の結婚観の講義を聞くとは思わなかったわー 文子の皮肉を受けつけず、啓子は幸福そうにゆたかな微笑をたたえている。 「わたしは、どんなことがあっても、純二にお坊さんなんかになってもらいたくはないのよ」 文子は、仏像のように見える啓子の微笑に苛立って、しんねりした口調でいってしまった。啓子は白 いポリエチレンの湯入れの蓋につぎわけた黄色い茶を口に運びかけていたが、はじめてびつくりしたよ うな目をまともに文子に当てて生真面目な表情になった。 「まだあの子は海とも山ともわからない存在ですよ。大学は落ちてばっかりだけど、親馬鹿のせいか、 何か出来る子じゃないかという期待は捨てきってるわけじゃないのよ。やつばり、何とかして一応大学 へ入れて、自分の可能性に目ざめさせてやりたいのよ。お坊さんになるなんて、若い心の思いつくこと じゃない。絶対不自然よ、異常だと思うわ」 文子はそこまでいってようやく言葉をとめた。 自分のことばにうながされたように、涙が出てきた。ハンドバッグをあけようとする文子の膝へ啓子 が大ぶりの白いハンカチをさしだした。 「ごめんなさいね」 涙をふき終った文子に啓子がいった。 「あなたの気持が今よくわかったわ。久しぶりで逢えて、そのことの嬉しさにわたし、はしゃいでいた のね。どんな気持で文子さんがここへ駈けつけたか、思いやりがたりなかったわ。たしかにうちの人を
とい ) っ 0 文子は梓の手際のよさにあっけにとられるようだった。今は引越屋が、荷造りから、新しい部屋への 物の配置までやってくれるとは、噂には聞いていたが、文子はそれを目の当りにみてすっかり感心して しまった。 男たちは用がすむとさっさと引きあげてしまった。後には紙屑ひとつ、紐の切れはしひとっ残されて いず、きれいに掃除が出来ていた。 文子は茶の間にあったトルコ桔梗をカットグラスの花瓶ごと、梓の部屋に持ってきて、机の上に置い 何となく純二の部屋から梓の部屋に変った変り様がなごやかで心がうるおってくる。 純二が帰ったら、客用にとってある六畳を使わせてやろう。文子はとっさに考えて、自分でその日が もうすぐ来るように、心が弾んできた。 梓と純一一がもどってきたら、この家がまた明るく賑やかになるだろう。純二が大学がいやならいや で、それもいいように度胸が坐ってきている。 好きなことをやらせて、自分と、家族のロぐらい養えればそれでいいと思う。いわゆる世間的に出世 してくれても、人と争ったり、世の中に不正だと折紙つけられたりしてはやりきれないだろう。親は 親、子供は子供だ。子供に対する責任は、産んで成人になるまで見てやれば充分なのではあるまいか。 大学に向かない子供をむりやり受験強勉させたってはじまらない。職業に貴賤はないのだし、純二の なりたいものにならせ、進みたい道にすすませてみよう。改めてそう思えば、肩がすっと軽くなった。 梓も世間から見れば、嫁入り前に道ならぬ恋愛をし、ぐれた娘と折紙がつくだろう。それだっていい じゃないか。梓がそれで何か得たものがあるなら、結婚をし、平凡な家庭を守り、こっこっ金を貯め、 こ 0 ー螢川