文子 - みる会図書館


検索対象: こころ(下)
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1. こころ(下)

おや、と文子は箸のかたまりを見た。何組かの赤い塗りの客箸の中に、象牙の二組の箸がまざってい た。長くて太い一組と、それより短くてやや細い一一本。明らかにそれは夫婦箸だった。 文子は四本の箸をつまみあげ、目をそそいだ。象牙は使いこまれてやや飴色になっている。先の方が 少し黒い。それは使われた歳月を無言で物語っていた。 文子はその姿勢のまま、ため息をついた。 箸をもとの場所におさめ、つくりつけの食器戸棚の白い扉をあけてみた。一つ一つが選びぬかれた見 るからに梓好みの食器がきちんと並んでいた。 赤絵の小鉢など、文子はもらっていきたいほど気にいった。平皿も取皿も、そう高価ではなさそうだ が、文子がデパート でいそいで買ってくるようなものではなかった。ガラス類も虹色に光ったのや、ロ 1 ズ色にすきとおったのなど、如何にも若い娘の夢がそこに盛られるのにふさわしい色や形をしてい る。 文子は探していたものを次の戸棚にみつけた。夫婦茶碗と夫婦湯のみが並んでいる。二つは揃いでな く、別々に買ったものらしい。茶碗の方は麦わら模様のあたたかな陶器で、湯のみの方は、九谷だっ た。牡丹の模様が鮮やかで、相当値がはっただろうと、文子は主婦らしい目つきでそれを手にとった。 文子はすべての戸をしめ、引きだしを押しこみ、最後に冷蔵庫をあけた。まだ珍しい小さな西瓜がひ とっ冷してあった。ビールも冷えているし、白葡萄酒が一本入っていた。 ハンもきちんとラップされて入っていた。 文子はまたひとっため息をついた。 薬かんをガスにかけ、その場に立ったまま、湯の沸くのを待っていた。赤い炎の輪が薬かんの底をな めるのを見ていた。何か考えごとをする時、文子はよくこうして台所でガスの炎をみつめている。

2. こころ(下)

文子はうなずいて胸を叩いてみせた。 「送っていくわ」 帰り支度をする文子に、梓がいう。 外へ出ると、満天に星がきらめいていた。 ふたりは肩を並べて星を仰いた。どこかから新緑の甘いような匂いがただよってくる。 の隣りに大きな塀をめぐらせた邸があり、その庭に高い樹が聳え、星空を支えてい 見廻すとア。ハート 梓が腕をのばし、文子の腕へ廻してきた。子供がするような腕組みの姿勢が、文子を内心照れさせた : 、梓は頓着なく、その腕をひきしめてくる。 梓の体の温さが文子には服を通してほのぼのと伝ってきた。 自分の血と肉をわけた娘が、実りのない恋愛で苦しんでいることが、ふいに自分の痛みのように、心 がしぼられるように切なくなってきた。 暗い道の、ところどころに、軒灯の光りがあわく滲みでている。 梓はバス通りへ行く道の手前ですっと横町の方へ文子をひつばっていった。 行手に丈の高い木立ちに囲まれた小さな児童公園があらわれた。 梓はその公園の中へ文子をつれこみ、文子の腕をはなしていった。 「・フランコに乗らない」 一つだけ灯がついている公園に藤の花の匂いがする。すべり台や、砂場や、ジムが、藤棚の向こうに 立っている灯柱からさすとぼしい光の輪の中にぼんやり影を浮べている。藤棚の左隣にブランコが二台 下っていた。 こ 0 そび 67 新樹

3. こころ(下)

文子はそうも考えた。もし直治がここに来たら、どんなに喜ぶだろう。あのインド風のカーテンだっ て、小さいけれど池田満寿夫のらしい版画だって、古染付の一輪ざしだって、どんなに直治は目尻をさ げてながめまわすだろう。 ふと文子は何気なくしいていた自分の膝の下の座蒲団をとりだし眺めてみた。紫色が実にくすんだ、 何ともいえないつむぎに、白色の糸で麻の葉が刺してある。わざわざ座蒲団のために刺した刺し子らし いその蒲団は、さすがに一枚しかなかった。 「高かっただろうねえ」 文子はそれを裏がえしたり、掌で何度も押して、綿の弾力をためしたりした後でつぶやいた。 ブザーが鳴っこ。 あわてて文子は立ち上った。 「どなたでしよう」 「ポビーです」 「出前お届けに来ました」 「ああ、どうも」 文子はあわてて内側からドアを引いた。白いコック帽を高々とかぶった若い男が立っていた。 ステンレスで出来ていても岡持というのであろうか。コック帽の男は、ステンレスの運び箱の中から脈 手品師のような手つきで、つぎつぎ料理をとりだして文子に手渡す。文子はその度、何故かお辞儀をし 水 ながらそれを受け取っていた。 「これスープです。ちょっとあたためて下さい。容器は後で一緒にいただきにきますから結構です」 おかもち

4. こころ(下)

「そんな大きなこといったって、いきなり、赤ん坊でもつれて帰られてごらんなさい。どうしたらいい んですかそんな時」 「仕方がないじゃないか。梓の子ならおれたちの孫だ。孫の父親がどうであろうと、梓の子にちがいな いなら、おれたちの分身だ。引きとってやるしかないだろう」 「でも、そんなことはないと思うけど : : : 」 文子はそうはいいながらも、何故か不安で落ちつかなかった。 その夜、文子は久しぶりで夫の床に入っていった。 「暑苦しい ? 」 「いいよ」 直治は自分の寝床の端に嘔をずらせてやった。 文子はなぜ自分が興奮しているのかわからなかった。近いうちに梓が帰ってきて、この家に夫婦だけ でなくなるということが、妙な高ぶりをよびさましてくるのだ。 「久しぶりね、覚えてる ? この前がいつだか」 「忘れたよ」 直治は文子のおしゃべりをうるさそうに口をふさいできた。文子は自分を直治の誘いの流れの中に、 早く漂わせようとしてあせった。目を閉じ、何か熱いものを全身に呼びさまそうとしたが、神経の末端 は妙にぎらぎら冴えているのに、驅の芯のあたりに沼のようによどんだものがあって、そこに厚い濁っ た靄のようなものがたちこめ、文子の官能のなめらかな流れがさまたげられてくる。 かなぶんぶんが電気スタンドの笠に当ってうるさい。文子は思わず腕をのばして、それを払いたく なって、はっと気をとり直し、直治に急いでくれというようにあわてて腕に力をこめていった。 138

5. こころ(下)

ふたりの胸の間で汗が鳴った。動きが激しいわりに、文子は取り残された物足りなさで全身がまだ何 か澱んでいた。 直治の方はすませたつもりで、さっさと文子から離れ、風呂場へゆき、シャワーを浴びている。 文子は何故か目尻に涙がったわってきた。 つい今しがた、心をあわせたように嶇を重ねあい、同じリズムに乗ろうとして動きつづけていた自分 たちの姿が、気恥かしいような物哀しい感傷を伴って思い出されてきた。 自分が終れば、妻もまた終ったものと思い定めているような直治の冷淡さに、何かつつかかりたい気 持がかきたてられてくる。 昔の直治は思いやりがあって、しつこいほど、こちらの気持をいたわり、感度をいたわってくれたと 思いだす。 あんまりくわしく訊かれると、そんなことわからないのかと文子の方があきれたくらいだった。 今になってみれば、直治がああまでしつこく自分の気分や感度を気にしてくれたのは、自分への愛が あったからだと思い当ってきた。今のようではなかったという苛だたしさが、文子の気持をかき乱して くる。 直治は、シャワーを浴びたついでに、ビールを一本とってきて、枕元に置いた。 「いるか」 直治がまだぼんやり天井を見上げている文子に訊いた。 文子は面倒そうに首を振った。昔の直治なら、いるかなど訊かず、はじめから二つのコツ。フにビール をついだし、二つコツ。フがあっても、自分の口からのませようとしたものだった。官能の糸という糸が ばらばらにひきちぎられたような虚脱感と解放感は、文子の細胞から水分を一気に脱しさっていて、文 リ 9 蛍川

6. こころ(下)

しかけるのがためらわれるような冷い感じがした。 梓の部屋の前で鍵を廻してから、斜めに驅をひいて、片手をちょっと前に出し、 「どうぞ」 という。文子は大きなレストランでポーイ長にさあ、どうそといわれたような感じがして、思わず背 筋をのばし、顎をひいた。 「すみません。御面倒かけました。ルーズな子で、何かと御迷惑をかけていると思います」 文子がそういって頭を下げると、男ははじめて口元だけをゆるめた。動かない片目が光った。目も義 眼だったのかと文子は気がついた。 「いや、きちんとしていられます」 男はそれだけいい、特徴のある靴音をひきずって階段を下りていった。 文子は梓の部屋に入った。一度だけちょっと立ちょったことがあるが、用のある時は梓の方が来る し、二人とも働いているので、文子が娘の部屋を訪れるということはほとんどなかった。 部屋の中はきちんと片づいていた。 ふだんはひきちらかすのに、時々、あきれるほど念入りに掃除をするのが梓の子供時代からの癖だっ た。今日はよほど丁寧に掃除をしたらしい形跡が見える。 文子は二つの部屋をざっと歩き、台所へ行ってみた。台所の流しも調理台も磨きあけられていた。鍋 の底も光っている。 まな板も乾いて何の匂いもついていない。 文子は手当り次第、引きだしをあけてみた。スプーンも箸もきちんと整理箱のしきりの中におさまっ ている。 ウ水脈

7. こころ(下)

くなっていた。 幼い純一一があの時の自分の苦しみを感じとっていたということは、今日の今まで全く知らなかった。 ふと、気がついた時、純二が押しよせた波にのみこまれ、両腕をあげたまま、横倒しになり、たちまち 波の中に姿をかき消すのを見た。文子はその情景が夢の中の出来事のようで、一瞬、心が空白になっ 後は夢中だった。文子の悲鳴に見知らぬ漁師がどこからか現れて、文子より早く波打際にむけて走 り、波の中から純二をかかえあげてくれた。純二は波にまきこまれた直後気を失ったと見え、水はあま りのんでいなかった。ぐったり仮死状態になった純一一を男が胸にかかえあげて歩いてきた時、文子は自 分もその場に気を失いそうになった。 あの子は、二度死にかけたのだ。生れる前と、あの時と。その二度ともが、直治の情事に関わりがあ ったことに文子は今更のように考えこんでしまった。 歳月とは何なのだろう。あれだけの苦しみも憎悪も呪いも、いつのまにか歳月が風化させてしまって 直治との間であれからも繰りかえされている数えきれない夫婦の性愛。心に許さないものを持ちなが ら、驅は開ける女の生理とは何であっただろう。文子は純二の手紙を両手ではさみ、熱い吐息をはい こ 0 梓の現在の情人にも、純二は逢ってしまったらしい。それも文子を狼狽させた。やはり純二には梓の脈 そういう姿は見せたくなかった。純二でさえ不安がる男なら、梓が幸せになっているとは思えない。梓 水 が干渉させないといい条、これまであまりに放任しすぎてきたことは自分の責任だと、文子は自分を責 めた。 こ 0 、 0

8. こころ(下)

「あれくらいの年頃って、気持がゆらぐのよ。こんな手紙書いてみたものの、今日あたり、けろりとし ているかもしれない」 文子は、しかし直感的な勘で、そんな生易しいことではないと思っていた。 「それじゃ、逢ってくればいいじゃないの」 梓がいった時、文子は飛び上るように思った。 「そうだわ。どうしてそれに気がっかなかったんだろう。すぐ発つわ」 「何いってるのよ。一番早い明日の飛行機でゆきなさい。キップも買ってきてあげるし、送っていく わ。今、羽田はすっかり様子が変っていて、まごまごするわよ」 梓にそういわれて、洋うやく落着き、梓にすすめられて、ウイスキーをお湯でわったものをのまされ て、とにかく文子は眠らされたのだ。 起きてみると、梓が出発の用意をすべて整えてくれてあった。文子の服もアクセサリーも選び、ポス トン・ハッグの横にだしてある。 文子はそれで満足せず、純二の冬物のセーターやシャツや、啓子に土産にするのりの罐などをつめこ み、荷物をみるみる大きくしてしまった。直治には置手紙をして、出てきてしまったのだ。 「ずいぶん久しぶりね、春の同窓会以来でしよう」 啓子がなっかしそうにいう。 「文子さん肥ったわね」 文子は啓子に先を越されて、おやおやと思った。自分の肥ったことは認めたくなかった。 この頃鏡の中の自分の顔がふつくらして若々しく見えると思っていたのは肥ったということなのを認 めたがらず、コルセットがきつくなったのは、コルセットの方が洗いちちんだのだと解釈したがってい 301 潮騒

9. こころ(下)

潮騒 文子が徳島の空港に下りたった時、出迎え人の中からいち早く啓子が手を挙げていた。あずけた手荷 物がなかなかとれなくて、文子はいらいらしながら、荷物の出るのを待っていた。 ようやく荷物を受けとって出ると、啓子がすぐそれを奪うようにとりあげた。しばらく逢わない間に 啓子が肥ったと文子の目に映った。 空港の建物の外にタクシーが待たせてあった。 「うちの車でくればいいんだけど、丁度うちの人と純ちゃんとで高知へ行ってるのよ。あなたが昨夜電 話くれた時、もう出かけていたの。でも今夜、帰ってくるから、同じことだと思って、電話では留守の こといわなかったの」 それで純二の顔が見えなかったのかと、文子は納得した。一時間でも早く、純二の顔を見て、その実 在をたしかめなければ落着かないものが、文子の心にざわめいている。 「純ちゃんのことについて、本人のいないところで少し予備知識を得ておいた方がいいでしよう」 それはそうだと文子もうなずいた。ここへ来るまで機中でも、何ひとっ考えがまとまらなかったこと に気づいた。 昨夜、梓は純二の手紙を読み終っても、まだ、半分信じかねる口調だった。 300

10. こころ(下)

しいですか」 「大阪から。連絡船の待合室にいます。そちらへ、行きたいんだけど、 「ええ、ええ、そりや、もう」 啓子は、ついこの間、文子からの手紙で、今年も純一一が受験に失敗したことを知っていた。 小松島からの道順を教えて、電話を切ってから、すぐ受話器を取り直し、啓子は東京の文子へ電話を した。 「たった今、純二さんから電話があったのよ」 とこから」 「ええつ、純二からですって、いったい、、 文子の声があんまり愕いたので、啓子の方が緊張した。 「大阪からですって、明日こっちへ見えるっていうの」 文子は、声が出ないふうで、大きなため息が伝ってきた。 「何を考えてるんだか、さつばりわからないわ。もう予備校へゆく気がないみたいで、自分で何とかや るなんて大きな口きいて、ほとんど家によりつかなくなってしまったの」 「でも、とてものんびりした口調だったわよ」 「だから、困るのよ、うちはあの通りのんきでしよう、梓は私が甘やかしたからだって責めるし、立瀬 : ないの」 文子の口調は、学生口調にもどって啓子に訴える。 「でも、そちらのことなんか、ほとんどうちであの子との話題に出なかったのに : : : 変ねえ」 文子はひとりごとのようにいった後でつけ加えた。 「この間、国東半島の峯入りしてきたなんていうのよ、嘘じゃないらしく、写真なんかも撮ってきたの