三蘿第当 ①朝日の逆光に光るアカデミア橋と向かいの屋根 がアカデミア美術館②「バール・アカデミア・ フォスカリーニ」のテーブルから見たアカデミア橋 0 広々と明るいザッテレ河岸はウエネッィア市 民の憩いの場所 橋のからの ハノラマ アカデミア橋は円世紀のオー ストリア支配下にあった時にイ ギリスの建築家ネヴィルにより 設計された橋で、当初は鉄製の 橋だったが第次世界大戦の 時に破壊されたため、 1934 年に木製の橋が架けられた 1985 年に新しく架けなおす 計画があり国際的なコンペティ ションとなったが、結局は元の木 製の橋と同じデザインで架けな おされた。右岸にサルーテ教会 と海の税関のシンポル、黄金の球 か光り、左にはカヴァッリ・フラ ンケッティ館、バルバーロ館など 世紀から世紀の豪華な館群 が並び、典型的なヴェネッィア風 景が展開する ザッテレ河岸の 気持ちょいひととき 橋を渡ってアカデミア美術館 107 ゑグなな / ク
サン・リアン教会 Go Start ー 0i0 CaIle d ・ Fig トさ「 . お Sal サン・マルコ広場 スキアヴォー一一河岸 アルセナーレ アンティカ・ヴィーニヤ サン・ジョヴァンニ・イン・ブラーゴラ教会 ②アル・コーヴォ ? アチュゲータ サン・マルコ広場 5 0 ( co c 、 0 「 0 ルコ寺院 、一 Bgsi 0 di サン・マルコ広場、 5.- Mg 代。 Piazza 5. Ma 代 溜息の橋 、、ウカーレ P. を e. d. 宮殿。 505Pi 「 i P . Du ( 0 Pi zz 廿 0 み 0 ーカロの紹介は - START GOAL .00 , 00 サン・マルコ広場からサン・ジョルショ・マッショー レ教会を望む②溜息の橋 0 スキアヴォーニ河岸 で朝日を待つ 0 ウイウアルディが音楽指導をしてい たピエタ教会 0 船舶博物館前の大きな錨 0 アル セナーレのビエンナーレ会場 100E 恰 Biennale di venezia の大型ガレー船の模型や羅針盤 など船舶と航海に関する模型や 資料が保管され展一小されている アルセナーレから 裏路地へ 博物館を出て運河沿いに歩け ば、途中にレンガ造りの倉庫の ような建物が並んでいる世界 的な芸術の祭典、ビエンナーレは もっと先にあるジャル一アイーノと このレンガ造りの建物のアルセ ナーレ会場の 2 カ所で開催され る。そして、運河に架かる木橋の 向こうに巨大な海の門柱が見え るのが、世紀頃から建設が始 まったとされる造船所だ。ここは 現在でも海軍の管理するところ で立ち入り禁止区域になってい る部分もある。木の橋を渡り広 場に立っと眼に入るのは、Ⅳ世紀 末にバロック様式の門が造られた ときにギリシアから運はれたと いう、ちょっと滑稽なほど情けな い顔をした 4 頭のライオンの石
ヒ。アツツアという親方を中心に 4 人の アシスタントで 5 人一組となって大作を 作るムラーノ島の名門のガラス工房、 バロヴィーエル・トーゾ② 1291 年に ヴェネッィア中のガラス工房が集約さ れたムラーノ島 015 世紀の名工ア ンジェロ・バロヴィエールが娘の成婚 祝いに作ったバロヴィエール杯 t は職 フォンダメンタ・ヌオーウェか ら、ガラスの島ムラーノやレース 編みとカラフルな家々か楽しい プラーノ島へ渡ろう ガラスはシリアなどオリエン トから伝えられた。ムラーノ 島がガラスの島となったのは、 12 91 年にヴェネッィア本島 の随所にあったガラス工房の火 災やガラス製法の秘密を保護す るために、ガラス工房をすべてム ラーノ島に移転させた時からで ある世紀の名工、アンジェロ・ バロヴィエールが無色透明なクリ スタルガラスの製造に成功する と、それまで天然水品から作ら れていたメガネや望遠鏡のレン スなどもガラスで作れるように なった。凵 55 1 世紀にはヨーロッ ハ各国の貴族たちにもてはやさ れ、ヴェネッィアの重要な輸出産 業のひとつであった。 ムラーノ島で ガラスの魅力を再発見 125
ポツツオとは ヴェネッィアを歩いて目に付くものと言えば、まず、橋、次 に井戸 ( ポツツォ pozzo) ではないか。井戸と言うと地面に 穴を掘って地下水を汲み上げるものを想像するが、潟を埋め 立てて町を築いたヴェネッィアでは穴を掘って出るのは塩水ば かリである。実はヴェネッィア人は雨水を利用してきた。この 井戸の造りはなかなか複雑である。地上に見えている井戸の 蓋を開けて水を汲み上げるのたが、深さは 5m ほどある。そ して、雨が降ってこの井戸に溜まった水を汲むのではなく、水 は井戸の周囲に作られた取水口から地面の下にある管を通し て井戸に溜まる。この地下に埋め込まれた取水口と井戸は水 を通しにくいプールの中に埋められ周囲を砂で覆われているの で、雨水はこの砂の層によってろ過され井戸に溜まる。地中の 井戸はレンガを積み上げ粘土で周囲を固められ、底と地表部 分は水に強いイストリア石で補強されている。すなわち、地 表に見えている井戸の部分より地下にははるかに広面積で手 間をかけた工事がなされているのである。砂を使ってろ過をす るという知恵は素晴らしい。 ゴルドーニの家で見られるように井戸は基本的には個人の所 有であることが多く中庭には必ずある。また、公のものとして 広場にもほとんど必ずひとつはある。年代によってデザインが 変化するので、いろいろなところで井戸を注意して観察して ニがおいしい店、「アイ・ルステーも みよう。バニ があるコルテ ( 中庭 ) にある井戸は 8 世紀頃 か、またカンピエッロ・デル・レメール の井戸などは 12 世紀頃と思われる。 Ss. ・ジョヴァンニ・エ・バオロ広 場の井戸の周囲にはエンシェ ルのレリーフが美しく、これ は 14 世紀頃であろう。ア カデミア橋のところにあるフ ランケッティ館にある井戸は 15 世紀頃だろうか、その蓋に まで美しい装飾が施されてい るが、これは 19 世紀の館の改 修に合わせて造られたものだろ う。現在は本土から水道が引か れているので井戸の水を使うことはない。待ち合わせや休憩 の場所として井戸の周囲にはいつも人が集まる。また、近くに バーカロなどがあればテーブル代わリにちょっとワイングラス や小皿を置いたりしている。このように井戸は本来の機能は果 たさなくなっているが、現在もヴェネッイア人やウエネッイアを 訪れる人々に役立っているのである。 今では井戸として使われなくなった が、存在感はしつかリとあリ、ヴェネ ツィアっ子の心の潤いを溜めている いフ 1 ム イ・ 0 真夏にうつかリ触ると火傷しそうに熱い 蓋。若者たちが熱い気持ちを込めて、恋 人の名前を書いカりしている 56
①「ジャンニ・カヴァリエール工房」で 黙々と仕事をするマエストロ、ジャンニ WWW. cavalierven ice.com シャン ・カヴァリエールの見事な木彫作品の 工ンジェル 0 サント・ステフアノ広場と サン・ヴィダル教会。この教会の右手に カヴァリエール工房がある 、い 11 ものがいろいろとある 橋を渡り、サン・ゾべニゴ教会 の橋のたもとにもチャーミングな オリジナルのバッグや帽子などの プティック「マルジェリー朧 ) 」 がある 店を出てまた先へ進むとサン・ マウリツイオ教会の広場に出る この教会ではしばしば古楽器の 展示や音楽会などが開かれる また教会を正面に見て広場の右 側にある建物には 2 つの石碑が はめ込まれているが、ここにはⅣ 世紀の放蕩詩人、ジョルジョ・バッ フォや円世紀文学の名乍『 づけ』で知られる、アレッサンド ロ・マンゾーニが住んでいた家が ある。右手の小路をさらに先へ進 むと、次なる広場がサント・ス テフアノ広場である。左に行けば アカデミア橋に至るがその手前 広場の北の一角に木彫の名人の ジャンニ・カヴァリエールの工房 がある サント・ステフアノ教会は美し
利用していたので、ワインは水代 わりの飲料としてヴェネッィア人 の生活には欠かせないものであ り、この辺りには酒屋、居酒屋か 古い時代から繁盛し、リアルト 界隈は現在でも居酒屋の密度が 最も高い 長いアーチ形の建物 ファップリケ 世紀の中ごろ、サン・ジャコ モ教会前の広場の右側には大運 河に沿ってファップリケという建 物が建てられ、倉庫や両替所、 画ラ 0 コナ 商店などが軒を並べていた スる レコペ 現在もその隅には裁判所の建 フ引並 頃広レ 物があり、中ほどにはかっての両 替所「バンコ・ジーロ」という名 沿カ 前のオステリアが数年前に開店 川大した。これにならって近年、新た 天の」キ 三一のエロの に数軒がほぼ同時に開店し、今 ケ 'h では連日、ヴェネッィアっ子や観 ア、ハの 光客を集め昼夜を問わず賑わっ トブ ルンア ている。いずれも世紀のファッ リフザ ノ々プリケの構造をそのまま活かし、 ①② ・ / 20
①ヴェネッィア本島の 外れ、静寂な時が流れ ② るチェレスティア 19 世紀の印刷機を使っ て活版印刷を続ける ジャンニ・バッソ 0 シャンニ・バッソの工 房。手漉きの紙を一枚 すっ印刷機にかけて刷 る名刺やカードがウイ ンドーに並んでいる ( : A L L E I)EL FUM() 4 島からの帰り道の 散策に・ フォンダメンタ・ヌオーヴェ からの帰り道にあるオステリア 「ラ・フラスカ図」は、ヴェネ ツィアでも古い店で 105 年の 歴史がある。先代に代わって現 在は「アル・マスカロン ( ) 」 でカメリエーレをやっていたマリ オの店になった。あごひげがヘミ ングウェイを思わせる風貌にたが わぬ人間味に溢れたいい男だ また、フォンダメンタ・ヌオー ヴェの河岸から Calle del Fumo という路地に入ると、円世紀の 印刷機を使い活版印刷でカード などを印刷している職人ジャン ニ・バッソがいるインクの匂い が立ち込め、古色蒼然とした彼 の工房はいっ訪ねても楽しい彼 に名刺を注文している日本人も 少なくないというウエネッィア へ行った機会にひとっ名刺を作っ てもらうのもよいたろう 128
1 ミ OL ミ ~ 橋の話 ヴェネッィアは 100 余リの小さな島を結ぶ 400 を 超える橋があると言われている。最も古く有名なの はリアルト橋で、次に溜息の橋だろう。溜息の橋は ドウカーレ宮殿で裁判にかけられ罪人となった者 か牢獄に送られる時に渡る橋で、橋を渡るとき に垣間見えるサン・ジョルジョ・マッショーレ教 会やカナル・グランデ ( 大運河 ) の風景を見て 罪人の溜息かもれるという話から「溜息の橋」 と呼ばれるようになった。 もうひとつ面白い話があるのはサン・バル ナバ運河に架かるプーニ橋で、かってこの橋 には欄干がなく、 16 世紀から 18 世紀にかけ てこの橋の上で敵対する党派同士の決闘が 行われていたそうである。初めは武器も使 用されたが、やかて素手の闘いになった。 1705 年になリ禁止令が出てようやくなく なった。今の橋には欄干が付けられてい るが、この乱闘か行われた歴史を伝える 足の跡が橋の上に残されている。欄干 のない橋は、今ではトルチェッロ島に ある悪魔の橋とヴェネッィア本島のサン・ フェリーチェ運河に架かる橋の 2 つしか現存しない。 また、サンタ・マリア・フォルモーザ教会の裏にある、クエリー ・スタン / ヾリア財団の館と小広場を結ぶために 20 世紀の建 サン・バルナバ ? プーニ橋。橋のたも 築家、カルロ・スカルバが設計したモダンなデザインの橋もあ とにはいつも水の八百屋が出ている る。この橋と並んでいくつかの橋が架けられているが、夜間に ライト・アップされた橋の欄干のデサインが橋の上に美しい影 模様を作る。なお、昨年からローマ広場とサンタ・ルチア駅 の間を結ぶために新しい橋の架橋工事か進められている。こ の橋の設計者はスへイン人の建築家、カラトラーヴァでステン レスとカラスを材料とした現代的なデザインになっている。 リアルトのペカリエ広場の近くには双剣の橋かある。小さな 橋たか、この橋の上でふたりの騎士がひとリの女性をめぐって 決闘をしたという話から名づけられたそうた。 クエリーニ・スタン一 バリア財団の館に 架かるスカルバが デザインしたモダン ヴェネッィア本島 に唯一残る欄干の ない橋。サン・フェ リーチェ運河 い明引←″ーにし - ー月リー“よ・ 1 95
に 0 鴕覦 00R 0 ・辭 p [ G 創習 N ー ①「アル・ヴォルト」があるカヴァリ小路を抜ける と大運河に出る②経営が代わリ、料理やワイン の質が向上した「アル・ヴォルト」 0 巧みなバー ナーワークでガラスのイルカを作った「アルティ ジャナート・ダルテ」のマウロ なり傾いたサンタンジェロ教会と 広場がある広場の右手中ほど にある小路に入ると最初に四つ 辻があり、その次の字路の右 側にバーナーワークでガラス細 工を作っている店「アルティジャ ナート・ダルテ ( Ⅲ ) 」がある さて、ここらでちょっと飲み物 が欲しくなる頃だ。どうせ飲む ならば美味しいプロセッコがい 少々歩くがマニン広場を横 一切り、大運河の方に繋がるカヴァ 丿ト路に「アル・ヴォルト図」か ある大きなグラスにたつぶりと 注がれた旨いプロセッコか全身に 行き渡ったのか、心地よい足取り い装飾が施された船底形の天井で大運河まで出ると、右手にリ で知られる創建は世紀末でアルト橋が真昼の太陽の下で白 世紀初頭に大幅な改築がされく輝いている たがこの天井だけは変わらない 広々と奥行きのある空間で休憩 がてら、しばし心静かな時を過 ごすのもよい サント・ステフアノ教会の北 側には、運河を挟んで鐘楼がか
庶民的な生活感が漂うカ ンナレージョ地区の路地 サンタ・丿チア駅発② ムーア人を訪ねて 99 歴史を探訪しながら歩く散歩道。 フを見ながらユダヤ人の悲劇の歴史を学び、遡って 12 世紀のアラブ商人を思う。 ゲットー広場からモーリ広場に寄り、フォンダメンタ・ヌオーヴェまで行こう。レリー