よしのぶついとうれい 慶喜追討令 よしのぶこうくび とにかく慶喜公の首はつながったが、 だいもんだい とくがわけ 徳川家をどうするかという大問題がのこっている。 きようとせいふ それは京都の政府が決めることだが、 こっちも手をこまぬいて見ていたわけじゃあない おいらとしては肚をくくって、 さい」 最後の勝負に出るつもりだったのさ。 にち けいおうねんがっ ーー慶応四年四月十一日。 よしのぶこ、つ えどかいじようひ 江戸開城の日の早朝、やつれたすがたで慶喜公は、 しようぶで て そ、っちょ、つ はら き み 172
しま まも かんりんまるいっこうでむか さつまはんしゅしまづなりあきら やまがわこう 山川港では薩摩藩主の島津斉彬が、咸臨丸一行を出迎えた。斉彬を乗せて咸臨丸は鹿児 ひみつ け・んカ′、 じよ、つりく さつまはん へいきこうじよ一つほうだい 島にまわり、上陸して薩摩藩がほこる兵器工場や砲台を見学した。海舟としては、秘密を はんしゅなりあきら もくてき 守ってきた薩摩のようすを見ることも目的だったが、名君といわれる藩主斉彬とのつきあ いもこれからはじまった。 ぐんかんちょうようまる ねんがつばくふ かいしゅうあんせい かいぐんでんしゅうお ながさき 長崎での海軍伝習が終わって、海舟は安政六 ( 一八五九 ) 年一月、幕府の軍艦「朝陽丸」 で、江戸にもどった。三年四カ月ぶりである。 ぐんかんそうれんじよきようじゅかたとうどりめ、 かえ 江戸に帰るとすぐ軍艦操練所教授方頭取をじられる。幕府は幕臣およびその子どもた ようしきかいぐんぎじゅっおし ちに洋式の海軍技術を教えようとしていた。 しょはんもの ぐんかんそうれん くにまも 「国を守るための軍艦操練なら、幕臣だけでなく諸藩の者にも教えたらよいではないか」 しんげん かいしゅう 海舟はそのことを進言したが、まったくとりあげられなかった。 くん ちよくご がつながさきかいぐんでんしゅうじよへいさ えど 海舟らが江戸にひきあげた直後の二月、長崎の海軍伝習所が閉鎖されたのは、そこで訓 しょはん れん 練にはげんでいる若者たちが諸藩からもあつまってきているという理由がかくされている。 、かん。か、カた きよ、つい′、 ばくふ 幕府に敵対する気配のある者までを教育する必要はないという考え方を、老中たちはいだ いているようだった。 ひと あの人たちは、幕府の , 、としか頭にないようだねえ。 えど かいしゅ、つ てきたい さつま わかもの ばくふ ねん もの ばくしん あたま ひつよう めいくん ばくふ なりあきらの おし ばくしん かいしゅう りゆ , っ ろうじゅう かんりんまるか・こ こ 6
さつまはんてい ひてい と、益満休之助はむきになって否定する。 あや 「そうかいしかし怪しいもんだ」 ひょっとして西郷がうしろで糸をひいていたとしても、 それなりな理由はあるというものだ。 たいせいほうかんせいけんてんのう 大政奉還 ( 政権を天皇に返す ) を名目として けんりよく ばくふ おんぞん 幕府の権力をうまく温存しようとする こうぎせいたいろん 公議政体論などというものは、 りよくと、つはくさけさい」、つ 武力倒幕を叫ぶ西郷らにとって許せるものではない。 すす さかもとりよ、つま しかもそれを推し進めているのが、坂本竜馬だからな。 そんざい りよ》つまじゃま A っ、は′、は 討幕派としては、すでに竜馬を邪魔な存在と見ていたのだよ。 いっそいなくなってくれれば手間がはぶけるわけだ。 ねじろえど 薩摩藩邸を根城に江戸の市中で斬り盗り、放火をやりまくらせ、 ますみつきゅうのすけ り・ゅ , っ さいこ、つ お かえ しちゅうき てま ゆる めいもく A 」 ほ、つか み 120
」くし すうみつこもんかん とくめいぜんけんしんこくちゅうさったいし 特命全権清国駐箚大使、枢密顧間官とくるからね。 かれ まあ彼らにくらべれは、 しようぎたい あまのはちろう 彰義隊をひきいて勇ましく戦った天野八郎などは、 うえの おとわごこくじ 上野で敗れたあと音羽護国寺にのがれ、 ほんじよほうしようすみやぶんじろう 再起を期して本所の砲匠、炭屋文次郎の家に潜伏中を捕らえられ、 獄死した。 いのち この男などはたとい命をまっとうして出獄したとしても、 しゆっし こ , ついこ , つかん しんせいふ 新政府に出仕して、高位高官にありつこうとはしないのではないか。 かんえいじ はちろうあ 寛永寺に行き、はじめて八郎に会ったときは、 いややろう おも 嫌な野郎だなと思ったものだが、 なっ いまとなってみれば懐かしいよ。 さいき おとこ き ゃぶ いさ た。たカ しゆっごく いえせんぶくちゅうと 197
みやこわんきしゅうちよくぜんあらしみ さらに宮古湾の奇襲直前、嵐に見まわれた 力いよ、つ もんこ、がたほ、つもんと、つさい 」型砲八門を搭載、 開陽などは大砲二十六卩 / すうせんばつほうだんっ 数千発の砲弾を積んだまま かいせん これといった海戦もしないまま ほっかい もくず 北海の藻屑となってしまった。 かんらく かまじろ , っえぞきょ一つわこく 」りよ、つかく 五稜郭が陥落し、釜次郎の蝦夷共和国はまばろしとなったが、 おいらにいわせれは、そのあとがいけねえ。 かまじろう やがて新政府にひろわれた。 釜次郎はいったん捕らえられたが、 えのもとたけあきりつば 榎本武揚と立派な名のりをあげて、 がいむしようとうしゆっしがいむたゆうすうみつこもんかん 外務省一一等出仕、外務大輔、枢密顧間官・ : みち ときらびやかな道をたどった。 たいほう と しんせいふ 195
かれ よ だろう。彼がいまどのように肚を決めているのか、どうもそこまでは読めない かいしゅうさい′」うし さかもとりようま せけんばなし かいだん 海舟と西郷は死んだ坂本竜馬のことや、ほかにさりげない世間話をして、その日の会談 おも あいて さい′」う あんしん を終わった。大筋では呑みこんでくれているように思えたが、相手は西郷だから安心はで きない。 とじよう いちおう そうこうげ・きえんき けっていっ あんしん かいしゅうたいしゆっ 登城して一翁らに総攻撃延期の決定を告げ、ひとまず安心させて海舟は退出した。これ しようねんば さい′」う おおた からが正念場である。西郷らをむこうにまわし、ひとりで大立ち回りすることになるのだ。 りよう こうなれば異人の力をうまく利用するほかはない。 がっ にちかいしゅう よこはま ひ あ かんたいしれいちょうかん 三月二十六日、海舟はその日、横浜でパークスと会った。東インド艦隊司令長官ケッペ ちゅうじよ、つどうせき ル中将も同席した。 きでんとくがわよしのぶ いのち しめ かんが 「貴殿が徳川慶喜の命をたすけたいのは、幕臣としての使ムと考えているからですか」 力いこ、ついちばん ークスは開口一番そんなことを聞いてきた。 きら よしのぶこう ぎり かん 「私は慶喜公から嫌われつばなしで、個人としてはなんの義理も感じておりません」 「ではなぜです」 り・ゅ、つ せいふぐんきようじゅんたいど よしのぶこうくびう 「理由はふたつ。第一に政府軍が恭順の態度をとっている慶喜公の首を打てば、幕臣たち ほ、つ、 えど は怒り狂って蜂起するでしよう。江戸はおろか国内を戦乱にまきこむことになる。第二に お くる じんちから おおすじ の はら * 、 き こじん ばくしん ヤ」′トない せんらん ロ卩い ひがし まわ ばくしん 162
ひつようじんぶつかんが 関をおしきるに、必要な人物と考えます」 「よかろ一つ」 かいしゅうかいぐんぶぎようなみ 、力しーし ) て、つ ~ ごし かんたん いちおう まことに簡単だ。それからすぐに一翁は会計総裁に任じられ、海舟は海軍奉行並となり、 りくぐんそうさい よ ごようべや まつだいらすおうのかみ っ がっ 次いで一月二十三日には御用部屋に呼び出され、松平周防守から若年寄に任じ、陸軍総裁 めい わた を命ずるといい渡された。 かつば 「あたしは海軍で飯を食ってきた者でんすよ。陸軍では陸にあがった河童みたいなもの。 わかどしより おことわりいたします。それに若年寄なんてとんでもない」 かつりくぐん かいぐんそうさい のぞ 「海軍総裁を望みたいところだろうが、海軍には榎本らがいる。勝は陸軍でもよいと、こ うえさま こえ じたい れは上様のお声がかりだ。辞退できない」 りくぐんそ、つさい わかどしより かいしゅうかんが それを聞いて海舟も考えなおし、若年寄だけは断じて拒絶したが、陸軍総裁はひきうけ たいとうわた かんじようぶぎようおぐりこうずけのすけえのもとかまじろう る , 、とにした。これで勘定奉行の小栗上野介や榎本釜次郎らと対等に渡りあえるというも のだった。 ヤ」、つし しんこう れきにん 力いこくぶぎよ , っ 外国奉行などを歴任した小栗は、フランス公使ロッシュと親交があり、このさいフラン AJ にちおぐり えんじよえ しんせいふぐんたたか スの援助を得て新政府軍と戦うなどと息まいていた。十八日に小栗がロッシュをつれて登 かいしゅうおも よしのぶみみ はなし 城した。例の話をもちこんできたのだろうが、慶喜が耳をかすはずはないと海舟は思って かん じよう き かいぐんめしく にち おぐり もん かいぐん りくぐん えのもと にん おか きょぜっ わかどしより にん 133
ほんやくしょ すべてをあつめる。また近来、世に出まわっている翻訳書にはまぎらわしいものが多いの かんこ、つ ヾこカくりよく がくしやほんやく で、語学力のある学者に翻訳させ、幕府の手で刊行する。 けんきゅう てんもんがく きようれんがっこう へいカくちりカくちくじようカくき力しカく また教練学校では、天文学・兵学・地理学・築城学・器械学などを研究させるが、教官 と、つよ、つ しょはんじんぎい ふそく ばくしん が不足すれば幕臣だけでなく諸藩の人材を登用すればよいといったことも述べている。 たいけいてきの するどかんさっしきけん らんがくしゃ 蘭学者としてだけでなく、時世に対する鋭い観察と識見によって、体系的に述べられた さいゅ、フしゅうないよ、つ かいしゅう かいぼういけんしょ 海舟の『海防意見書』は、このとき幕府に差し出されたもののなかでは、最優秀の内容で ろうじゅうしゅざあべまさひろちゅもく あり、老中首座・阿部正弘の注目をひかずにはおかなかった。 物は、つえきかいし じんぎいとうようたいせんけんぞうきよか あべろうじゅ、つばくせいかいカく まもなく阿部老中が幕政改革としてうちだした人材登用・大船建造の許可・貿易開始の ゝナんしょ さいよう 力ししゅ、つし冫 じゅんびへいせいかいかく こうぶしょようがくしよかいせつ 準備・兵制改革・講武所・洋学所の開設などは、すべて海舟の意見書から採用されている。 むやくびんぼうはたもとかつりんたろう いこくおうせつがかりてづけらんしよほんやくごよう 無役の貧乏旗本勝麟太郎が、「異国応接掛手附蘭書翻訳御用」を命じられたのは、一一年後 にち ひやくあし あんせい の安政二 ( 一八五五 ) 年一月十八日だった。これが飛躍の足がかりとなる。このとき海舟は えいけつかっかいしゅう 。け・きい」、つ 。はくまつにほんふ、つ , つんはいけい さいせかいし 三十三歳。世界史のうねりに巻きこまれて激動する幕末日本の風雲を背景に、英傑勝海舟 とうじよう の登場である。 ま りん 「麟さん、やったねえ。待ってたよ」 こころ じまんむすこ ちちおやかっこきち と、あの世にいる父親の勝小吉は、自漫の息子の門出を、心からよろ , 、んだにちがいない。 よ ねんがっ きんらい ま じせい よ ばくふ ばくふ で さ て だ かどで の おお ねんご かいしゅう きよ、つかん 6
がっちょうしゅうせいばっ げんじがんねん 元治元年十一月の長州征伐は、 ちょうしゅうはんばくふ さいつさくど , っ 薩摩の西郷の策動で、長州藩が幕府に詫びをいれ、 戦争にならずに無事おさまった。 さつまちょうしゅうはんたたか 薩摩は長州藩と戦いたくなかったのだ。 あいそ 西郷はもう幕府に愛想づかしさ。 「とてもやってられない」 きも そんな気持ちだろう。 ちょうしゅうたかすぎしんさくきょへい ところが長州で高杉晋作が挙兵したと聞いて、 ばくふ ちょうしゅうせいばっ 幕府はまた長州征伐をするという。 しょはんしゆっぺいめいれい 諸藩に出兵を命令したが、だれも腰が重い ぜんおわりはんしゆとくがわよしかっ せいばつぐんそうしきかんめい 征伐軍の総指揮官を命じられた前尾張藩主・徳川慶勝も、 さつま せんそう さいこう ばくふ こしおも わ き 9-
あんせい 安政の大獄 めい でんしゅうせい ねんがっかいしゅうかいぐんでんしゅうかいぐんまな あんせい 安政二 ( 一八五五 ) 年七月、海舟は海軍伝習 ( 海軍を学ぶこと ) を命じられ、伝習生たち さつまちょうしゅうちく しゆっぱっ ながさき でんしゅうせいばくしん とともに九月一日に江戸を出発し、長崎にむかった。伝習生は幕臣のほか薩摩・長州・筑 さんか かいぐんかん ぜんひぜんふくやまかけがわ 前・肥前・福山・掛川など各藩からも参加した。オランダ人教官から海軍に関する学科や なら こうかいじゅっ ぐんかん じっさいに軍艦をうごかす航海術などを習うのである。 けんぞうちゅうもん きようかん みと かいしゅ、つ オランダ語ができる海舟は、たちまち教官から認められ、幕府がオランダに建造を注文 ぐんかんかんりんまる かんちょうにんめい ねんでんしゅうじよはいぞく あんせい し、安政四年に伝習所に配属となった軍艦「咸臨丸」の艦長に任命された。 っしま ながさき かんりんまるれんしゅうこうかいで あんせい ねんがっ 安政五年二月には、咸臨丸で練習航海に出かけ、五島・対馬をまわり長崎にもどった。 がっ ひらど しゆっこう ひらど しものせきかいきよう しものせき 三月には平戸にむかって出航し、平戸から下関海峡にはいった。下関からさらに薩摩を訪 もん ほ、つよかいきよ、つ やまがわこうていはく ていあん かいしゅう 問しようと提案したのは、海舟である。豊予海峡をへて山川港に停泊した。 じんきようかんしどう にんにほんじんでんしゅうせいそうせん もちろんオランダ人教官の指導によるのだが、およそ九十人の日本人伝習生が操船にあ じしん 力いよ、つこ、つかし たり、外洋を航海する自信をつけた。 がつついたちえど ご たいごく か′、はん ′」とう じんきようかん ばくふ さつま がっか 6