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検索対象: 勝海舟 : わが青春のポセイドン
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1. 勝海舟 : わが青春のポセイドン

ばくふ にほんぐんかんかんりんまるにもっ むか が迎えにきてくれるが、別に日本の軍艦咸臨丸も荷物その他を乗せていっしょに行くこと によっこ。 ヾこ、つ にいみぶぜんのかみがいこくぶぎようかながわぶぎよう せんひやく 二千四百十五トンのポーハタン号には、正使の新見豊前守 ( 外国奉行・神奈川奉行 ) ら やくにん 幕府の役人七十七人が乗る。 ごう かんりんまる 咸臨丸はポーハタン号にくらべたら、まるで小舟のような二百九十二トンの軍艦であ つうやく ふくざわゆきち ぐんかんぶぎようきむらせつつのかみかんちょうかっかいしゅう る。これには軍艦奉行の木村摂津守や艦長の勝海舟、また福沢諭吉や、通訳として中浜万 なんば そくりようせん にほん当」んかい じろう まんじろう にほんじんのりくみいん 次郎 ( ジョン万次郎 ) ら日本人乗組員のほかに、日本近海で難破したアメリカの測量船フェ どうじよう ごう せんちょうのりくみいんきこく ニモア・クー ノ ー号のプルック船長ら乗組員も帰国のため同乗したので九十六人となった。 にちしながわ がっかいげんまんえん かんりんまるあんせい 咸臨丸は安政七 ( 三月改元「万延」となる。一八六〇 ) 年一月十三日に品川を、十九日に えんようこうかいたびだ しゆっこう うらカ 浦賀を出航して、遠洋航海に旅立った。 れんじつみ おも とちゅうふねてんぶく 途中、船が転覆するのではないかと思われるようなあらしに連日見まわれ、ほとんどの せんちょう こ、ってん そうせん にほんじんふなよ 日本人は船酔いのためうごけず、荒天のときの操船はプルック船長らアメリカ人があたる にち にち ぶざま 。オオカ四十日ばかりをかけて二月二十六日、サンフランシスコ とい一つ無 ~ 様なことにまよっこゞ、 きねん にほんじんにほんふねたいへいようおうだん に着いた。それでもとにかく日本人が日本の船で太平洋を横断した記念すべき航海である。 ヤ」、つ だいりせきし サンフランシスコでは、まず泊まっているホテルにしても、床に大理石を敷きつめた高 にんの せいし こぶね ねんがっ た がっ の ゆか ひやく じん にん こ、つ力い ぐんかん なかはままん にち 6

2. 勝海舟 : わが青春のポセイドン

でよ」 かいしゅう りようまめい かんが 海舟はそんなことも竜馬に命じた。いずれは西郷とも協力しなければならないと考えて かいしゅう あいて じんぶつ いる海舟は、相手がどんな人物であるかも知っておきたかったのである。 りようま きようとで よくじっこうべかえ 京都に出かけていった竜馬は、翌日神戸に帰ってきた。 さいごうあ 「どうだったえ。西郷は会ってくれたかね」 かっせんせいもんか あ いちどあ 「勝先生の門下ならと、よろこんで会ってくれました。しかし一度会ったぐらいで正体を にんげん おも あらわす人間とも思われません」 「ほ一つ、」一つ力し」 り・こ、つ り・ ) 」、つ とほ、つ 「馬鹿でもその幅がどれほど大きいかわからんほどの大馬鹿、利ロなら途方もなく利ロな おとこみ ちい たま おお がね 男に見えました。小さくつけば小さくひびき、大きくつけば大きく鳴りひびく、つり鐘の にんげんみ ような人間に見えます : : : 」 りよう じんぶつひょう がねあ 「なるほど、なるほど竜さんの人物評はおもしろいねえ。おいらもぜひそのつり鐘に会っ てみてえよ」 かいしゅうさいごうあ かいしゅうさかもとりようまりようまさい′」う 海舟が西郷に会うのは、もっとあとになるが、このころ海舟と坂本竜馬、竜馬と西郷と であ れきし み の出会いが、歴史をうごかすほどの意味をもってくるのである。 おお し さい′フ おお おおばか きようりよく しようたい 2 8

3. 勝海舟 : わが青春のポセイドン

おも それでも ) しいと思ってるんだな。 ばくしんみちた それで幕臣の道が立っというのなら、まあ好きにおやりよ」 、カ とうせいだいそうとくふ おいらが、東征大総督府からの書きつけを見せてやると、 しあん えのもと かお 榎本はようやく思案する顔になった。 よしのぶこうえど 「おいら慶喜公を江戸に呼びもどして、 あたら とくがわけ おも 徳川家を新しいかたちで再興させたいと思ってるんだ」 「それこそ夢じゃありませんか」 かまじろうわら と、釜次郎は笑いだした。 えど ヾこゝそ、つ」′、さいツ」、つ よしのぶこう 「江戸の大総督や西郷は、慶喜公に百万石ぐらいは かんが のこしてもよいと考えているらしいのだ。 ひやくまんごくたの おれはせめて二百万石と頼んでみるつもりだ。 とくがわひやくまんごくはんぶん それなら徳川四百万石の半分だからな、 ゅめ さいこ、つ まんごく す み 180

4. 勝海舟 : わが青春のポセイドン

失脚 こうかん げんじがん ねんがっかいしゅうかいぐんぶぎようしようしん しょだいぶばくふ 元治元 ( 一八六四 ) 年五月、海舟は海軍奉行に昇進した。諸太夫 ( 幕府の高官 ) となる。 しゆっせ ろくだかせんごく また、いちだんの出世である。祿高二千石だ。 こじんてきごう かいしゅう たかち かつあわのかみ 海舟というのは個人的な号だが、高い地位にいる幕臣として、これからは勝安房守とと ゆる よ りやく かつあわ なえることを許された。略して勝安房と呼ばれた。 こうきようかいきよく こうべかいぐんそうれんじよじゅんちょうかつどうてんかい 神戸海軍操練所は順調に活動を展開していた。ひらかれた「公共の海局」という海舟の しゅぎ そうれんじよ ばくしん しょはん りようまなかま 主義によって、操練所には幕臣だけでなく、諸藩からあつまってきた。竜馬の仲間である とさろうし ざった みんわかもの しようらいにほんかいぐんゅめみ くんれんがくしゅう 土佐浪士もいる。雑多な身分の若者が、将来の日本海軍を夢見て訓練に学習にはげんでい ばくめい かいしゅうえど ところが、十月二十二日、とっぜん、海舟は江戸にもどってこいという幕命をうけとっ かいしゅうちょっかんてき た。それがどういうことかを、海舟は直観的にさとった。 おおめつけけんがいこくぶぎよう かんじようぶぎようしようしん おおくぼただひろ おも 大目付兼外国奉行から勘定奉行に昇進していた大久保忠寛は、「こんなときだから思っ しつきやく がっ にち ばくしん かいしゅう 8

5. 勝海舟 : わが青春のポセイドン

やこ ) じいん ししやらいほう お せいそ、つ 暁のころ、正装して大慈院にこいという使者の来訪で、海舟はたたき起こされた。夜明 しゆっぱっ かいしゅうひとめあ よしの けを待って水戸にむかう慶喜が、出発まぎわ海舟に一目会いたいとのことだった。 「山山かけるよ」 したく お民が大あわてで支度をととのえながら、 「何事でございましようね」 ふあん と、不安そうにいう。 くび だちん 「行きがけの駄賃で、語いおいらの首をおとそうというのかもしれないよ」 えんぎ 「まあ縁起でもない」 じようだん 「冗談だよ」 ふきつよかんきようちゅう せいえい かいしゅうわら と、海舟は笑ったが、馬を走らせているうちに、ふと不吉な予感が胸中をよぎる。精鋭・ えら えどらくじようひふんむね よしのぶみとおく ゅうげ・きしようかくたい 遊撃・彰義各隊から選ばれた二百人ばかりが、江戸落城の悲憤を胸に、慶喜の水戸送りを もの かいしゅうぞうお ごえい 護衛することになっている。なかには海舟に贈悪をむける者もいるにちがいないのだ。 よ あ くろもめんはおり こくらはかま よしのぶ だいじいんっ 大慈院に着いたころ、すっかり夜が明けた。黒木綿の羽織に小倉の袴をつけた慶喜が、 しようぐん さい」 たびじたく しよ、フぎこし かいしゅ、つま 床几に腰をかけて海舟を待っていた。それが「最後の将軍」の質素な旅支度である。 かみ やっかた かおいろしようすい しばらく見ないあいだに別人のような窶れ方で、顔色は憔庠し、髪はささらに乱れてい あかっき で なにごと ま たみおお みと み 、つまはし べつじん ひやくにん かいしゅう しっそ みだ よあ 168

6. 勝海舟 : わが青春のポセイドン

お城が燃える けいおう さかもとりようまあんさっ ト匱ゞま ) ってから、およそ一カ月後、慶応三 ( 一八六七 ) 坂本竜馬が暗殺されたという言幸力。し にちよる がっ 年十二月二十三日の夜である。 「たいへんだ、お城が燃えている」 こえ こゆき よぞら かいしゅう えどじようほ、つカく お けたたましい声でとび起きた海舟が、江戸城の方角をながめると、小雪まじりの夜空が ばおーっと紅くなっている。 とじよう かいしゅうおお まるぜんしよう 海舟が大いそぎで登城すると、どうやら消しとめられていたが、二の丸は全焼だった。 ほうか おくじよちゅうさつま つうぼう じよちゅうべや ひもと 女中部屋が火元らしく、薩摩藩士による放火だとか、奥女中が薩摩と通謀していたとかと りゅうげん まちひ 騒いでいる。やがて江戸の町は火の海にされるだろうという流言もとぶ始末である。 ろうし さつまはんてい ねじろ 略奪をはたらいている浪士が、三田の薩摩藩邸を根城にしていることは、もうつきとめ しゅちょう しゅ、つげ・き かんじようぶぎようおぐりこうずけのすけ られている。これを襲撃すべしと、かねてから主張していたのは、勘定奉行の小栗上野介 」っ一」 0 ねん さわ りやくだっ しろも あか しろも さつまはんし ふほ、つ みた うみ げつご しまっ 122

7. 勝海舟 : わが青春のポセイドン

けん 着く」 ろうじゅうしんげん ぐんかんじゅんどうまるしようぐん かいしゅうあたら 海舟は新しく幕府が購入した軍艦順動丸に将軍をお乗せしたいと老中に進言した。陸路 ふたん えんどうじんみん じかん うえひょう をとると時間がかかる上に費用がかさみ、沿道の人民にも大きな負担をかけるので、ひそ ふまんこえ かに不満の声があがっているのだ。 しゆっぱっ きゅ , つりくろ にちしようぐんじよ、つらくと へんこう ぜんにんとも 二月十三日、将軍は上洛の途についたが、急に陸路に変更、三千人の供ぞろいで出発し よ、つい かいしゅ、つかた じゅんどうまるしながわおきう た。順動丸を品川沖に浮かべて用意していた海舟は肩すかしをくってしまった。順動丸は しようにん カ てっせいがいりんせん イギリスの商人から買ったばかりの鉄製外輪船 ( 四〇五トン ) である。 おおさかいまおおさかてんぼうざんおきっ しゆっぱんよく かいしゅ、つしようぐんお 海舟は将軍を追って二十四日に出帆、翌二十六日には大坂 ( 今の大阪 ) 天保山沖に着いた。 しよ、つぐん きようとっ しゅうかん 将軍は三週間かかって三月四日に、やっと京都に着いている。 きよ、つと しようぐんいえもち せつかいおおさかわんじゅん につていお 、がつはつか おおさか 京都での日程を終えた将軍家茂は、四月二十日に大坂にやってきた。「摂海 ( 大阪湾 ) 巡 しゆっぱん じゅんどうまるしようぐんむか いえもちじしん 検」は、家茂自身がいいだしたことだという。順動丸は将軍を迎えて二十四日に出帆した。 しん わか たよ しようぐんおも いえもちびようじゃく 家茂は病弱で、年齢も若く、なんとなく頼りない将軍と思われているようだが、芯は、 ろ、つじゅ、つ ずいこ、フ ぐんかんおおゅ じんぶつ しつかりした人物だった。あらしのため軍艦が大揺れに揺れたとき、随行した老中などは と、つじよう いえもちがん きけんかん みなと かん 危険を感じて、港にたどりつくと艦からおりるようにいったが、家茂は頑として搭乗をつ わか しよ、つぐん けなヂ . かいしゅうかんどう づけた。その健気なようすに、海舟は感動した。そのときの将軍のすがたを「いまだお若 っ がっ ばくふ ねんれい 」、つにゆ、つ がつよっか か にち ゅ おお じゅんどうまる りくろ 9

8. 勝海舟 : わが青春のポセイドン

めいしゆす にほんあたら しゆっぱっ とくがわけ 徳川家はのこしておくべきで、日本が新しい国家として出発するための盟主に据える人物 みと ぜんしようぐんよしのぶこうさいてき としては、前将軍慶喜公が最適であることはだれもが認めるところです」 かいしゅうねつべん 海舟は熱弁をふるった。 むごんあつりよく もっかていしゆっちゅうたんがんしよしんせいふ そして目下提出中の嘆願書を新政府がうけいれるよう、イギリスが無一言の圧力をもって ちょうてい 朝廷にはたらきかけてもらいたいと頼んだのだ。 「できるだけのことはやりましよう」 よてい うなず かんたい 1 クスは、こころよく頷いた。また東インド艦隊は、近く出航する予定と聞いて、 ていはく せいふぐんにら 「政府軍に睨みをきかせてもらいたいので、もうしばらく停泊することはできませんか」 ちゅ、フじよ、つようせい と、ケッペル中将に要請した。 むり せき 「それは無理だが、一隻だけなら一カ月にかぎってのこすことにしよう」 ごう じまんこうてつかん やくそく かんたい そう約束してくれた。アイアンデューク号は、艦隊ご自慢の甲鉄艦である。 たの ひがし こっか ちかしゆっこう じんぶつ 163

9. 勝海舟 : わが青春のポセイドン

になったのである。 おも けっこん ヤ」」ろ ふたりは心をときめかせながら、たびたび会っているうちに、結婚しようと思いはじめ こしんぐみ なんもんだい 一ⅱ妙ししなか、り た。しかし、ひとっ難問題がある。身分がちがうということだ。小普請且と ) もとたつみげいしゃよめ ちょうにんむすめ はたもと かつけ 勝家はれつきとした旗本だ。町人の娘で、しかも元辰巳芸者を嫁としてむかえいれるわけ 。し力、なし りんたろう 「麟太郎がさがし出した嫁じゃないか。むずかしいことをいうにはおよばねえ。なあに身 ぶん 分なんてものは、どうにでもなる」 りんか たみこんい そうだん のぶせんぼうりようしん 」きち・ つま 小吉は、妻のお信や先方の両親とも相談して、お民を懇意にしている隣家の旗本千五百 だんど かつけ こくおかのまこいちろうようじよ 石・岡野孫一郎の養女として、勝家に嫁入りすることに段取りをととのえた。 こうか ( は りんたろう 麟太郎とお民が、晴れてむすばれたのは、弘化三 ( 一八四六 ) 年の一月である。ふたりは とし がっちょうじよう しんこんせいかっ いえか あかさかたまちちい 赤坂田町に小さな家を借りて、新婚生活をはじめた。その年の九月、長女が生まれた。麟 太郎はその子に「夢」と名づけた。 たろう こ たみ ゅめ よめ みぶん よめい ねん がっ はたもとせんひやっ み りん -4

10. 勝海舟 : わが青春のポセイドン

まゆ かいしゅうおも 海舟は思わず眉をひそめた。あれほど嫌いぬいた自分にむかって、憐れみを乞うような ちからっ よしのぶしようすい かおみ 慶喜の憔悴した顔を見ながら、海舟はしだいに身が震えてきた。この人のために力を尽く おも してみようと思ったのだ。 そんぞく かいしゅう とくがわけ ばくふ だが、海舟がやらなければならないことは、徳川家を存続させるという大仕事だ。幕府 はたもと ろくだか とくがわおん はつぶれても一向にかまわないが、わずかな祿高であるにしても、旗本として徳川の恩を はたら とくがわけ おも うけてきた身だ。およばずながら、徳川家のためにひと働きしようと思った。 きも うえさまぜったいきようじゅん 「上様、絶対恭順のお気持ち、かわりませぬか」 こころ かいしゅうふしんかん ねん よしのぶたい あらためて念をおすのも、慶喜に対する海舟の不信感が、心のどこかに巣をつくってい るからだ。 こうせん 「うむ。そのことは大坂を出るときから決めておった。抗戦などするつもりはなかったと さい」、つ った 西郷に伝えてくれい」 しろ きようじゅんひょうめい 「では、お城にいなすってはいけません。恭順を表明するには、さしあたり上野の寛永寺 あたりにおはいりになるのが、よろしゅうございましよう」 「そのようにいたす」 ねが おおくぼいちおうどのふくしよく 「ところでお願いの儀がございます。大久保一翁殿を復職させていただけましようや、難 み いっこ , っ おおさかで かいしゅう きら き み じぶん ふる と わ す おおしごと うえの かんえいじ なん 132