ぐんかんぶぎよう 軍艦奉行なんかやめた ! おおさかきちゃく 大坂に帰着したのは九月十日だった。 みち かいしゅう あしじよ、つきよう ばくふがわ てつべい 海舟はすぐその足で上京した。やはり幕府側から撤兵して和解の道をさぐるしかあるま にじようじようい こうしようけいか おも よしのぶ いといった意見を添えて、交渉の経過を報告しようと思いながら慶喜のいる二条城に行く。 ろうじゅう しなんおも しせんこうしようやくめ 至難と思われていた止戦交渉の役目だけは、なんとか果たしたつもりでいたのだが、老中 くろ、つ こえ ほ , っこくき たちは報告を聞こうとしないばかりか、ご苦労だったという声もかけようとしない。 たいど み しゆっぱっ たよ よしのぶ 慶喜にしてからが、出発のときはおまえひとりが頼りだといった態度を見せておきなが かいしゅうあ ばくふちょうしゅうりようぐんてつべいじゅんちょう ぶじかえ ら、無事帰ってきた海舟に会おうともしないのだった。幕府・長州両軍の撤兵が順調に ちょうていて ちょうしゅう しせんしようちよくこうそう は ,. びはじめたのは、朝廷に手をまわして長州にあたえてもらった止戦の詔勅が効を奏し かいしゅう よしのぶ おも たものと思ったのだろう。海舟のことはケロリとわすれている。慶喜さん、それはないよ といってやりたかった。 じひょう ひろしま おおさか かえ むいかご 広島から大坂に帰ってきてから六日後の九月十六日、海舟は、辞表をたたきつけ、復職 いけんそ がっとおか がっ にちかいしゅ、つ わかい ふくしよく 113
失脚 こうかん げんじがん ねんがっかいしゅうかいぐんぶぎようしようしん しょだいぶばくふ 元治元 ( 一八六四 ) 年五月、海舟は海軍奉行に昇進した。諸太夫 ( 幕府の高官 ) となる。 しゆっせ ろくだかせんごく また、いちだんの出世である。祿高二千石だ。 こじんてきごう かいしゅう たかち かつあわのかみ 海舟というのは個人的な号だが、高い地位にいる幕臣として、これからは勝安房守とと ゆる よ りやく かつあわ なえることを許された。略して勝安房と呼ばれた。 こうきようかいきよく こうべかいぐんそうれんじよじゅんちょうかつどうてんかい 神戸海軍操練所は順調に活動を展開していた。ひらかれた「公共の海局」という海舟の しゅぎ そうれんじよ ばくしん しょはん りようまなかま 主義によって、操練所には幕臣だけでなく、諸藩からあつまってきた。竜馬の仲間である とさろうし ざった みんわかもの しようらいにほんかいぐんゅめみ くんれんがくしゅう 土佐浪士もいる。雑多な身分の若者が、将来の日本海軍を夢見て訓練に学習にはげんでい ばくめい かいしゅうえど ところが、十月二十二日、とっぜん、海舟は江戸にもどってこいという幕命をうけとっ かいしゅうちょっかんてき た。それがどういうことかを、海舟は直観的にさとった。 おおめつけけんがいこくぶぎよう かんじようぶぎようしようしん おおくぼただひろ おも 大目付兼外国奉行から勘定奉行に昇進していた大久保忠寛は、「こんなときだから思っ しつきやく がっ にち ばくしん かいしゅう 8
ほんやくしょ すべてをあつめる。また近来、世に出まわっている翻訳書にはまぎらわしいものが多いの かんこ、つ ヾこカくりよく がくしやほんやく で、語学力のある学者に翻訳させ、幕府の手で刊行する。 けんきゅう てんもんがく きようれんがっこう へいカくちりカくちくじようカくき力しカく また教練学校では、天文学・兵学・地理学・築城学・器械学などを研究させるが、教官 と、つよ、つ しょはんじんぎい ふそく ばくしん が不足すれば幕臣だけでなく諸藩の人材を登用すればよいといったことも述べている。 たいけいてきの するどかんさっしきけん らんがくしゃ 蘭学者としてだけでなく、時世に対する鋭い観察と識見によって、体系的に述べられた さいゅ、フしゅうないよ、つ かいしゅう かいぼういけんしょ 海舟の『海防意見書』は、このとき幕府に差し出されたもののなかでは、最優秀の内容で ろうじゅうしゅざあべまさひろちゅもく あり、老中首座・阿部正弘の注目をひかずにはおかなかった。 物は、つえきかいし じんぎいとうようたいせんけんぞうきよか あべろうじゅ、つばくせいかいカく まもなく阿部老中が幕政改革としてうちだした人材登用・大船建造の許可・貿易開始の ゝナんしょ さいよう 力ししゅ、つし冫 じゅんびへいせいかいかく こうぶしょようがくしよかいせつ 準備・兵制改革・講武所・洋学所の開設などは、すべて海舟の意見書から採用されている。 むやくびんぼうはたもとかつりんたろう いこくおうせつがかりてづけらんしよほんやくごよう 無役の貧乏旗本勝麟太郎が、「異国応接掛手附蘭書翻訳御用」を命じられたのは、一一年後 にち ひやくあし あんせい の安政二 ( 一八五五 ) 年一月十八日だった。これが飛躍の足がかりとなる。このとき海舟は えいけつかっかいしゅう 。け・きい」、つ 。はくまつにほんふ、つ , つんはいけい さいせかいし 三十三歳。世界史のうねりに巻きこまれて激動する幕末日本の風雲を背景に、英傑勝海舟 とうじよう の登場である。 ま りん 「麟さん、やったねえ。待ってたよ」 こころ じまんむすこ ちちおやかっこきち と、あの世にいる父親の勝小吉は、自漫の息子の門出を、心からよろ , 、んだにちがいない。 よ ねんがっ きんらい ま じせい よ ばくふ ばくふ で さ て だ かどで の おお ねんご かいしゅう きよ、つかん 6
ちくじ しようぎたいとうばっ しゅうけっ く終結した黄昏の , 、ろ、各藩の兵は逐次それぞれの陣営に凱旋した。彰義隊討伐は、一日 でかたづけたわけだ。 お 「 , 、れで終わったねえ」 たやすけ ひとま かいしゅうおおくぼいちおうはな と、田安家の一間でふたりきりになったとき、海舟が大久保一翁に話しかけると、 ノ、ろ、つ 「勝さん、ご苦労でした」 こえ いちおう 一翁はしみじみとした声でいった。 おおくぼ 「大久保さん、あんたとふたりであくせくはたらいたが、すべてむだだった。あたしはど さと ものごと うやら悟ったよ。物事をおこなうに方針なるものはあまり役に立たないということだね。 ほうしんさだ 方針を定めてどうするのだ。およそ天下のことは、あらかじめはかり知ることができない。 りくっ 理屈はあとでどうにでもつけられる」 「まったく勝さんのいうとおりだよ」 いちおう かおうなず と、一翁はまじめな顔で頷いた。 ′」よう もとひかわ そうしていると元氷川の家からの使いが海舟のところにやってきて、御用のすみしだい りゅう かえ しようぎたい けったく とりあえず帰ってきてくれという。彰義隊と結託している勝を取り調べるという理由で、 やしきかんぐんあ 屋敷が官軍に荒らされたという。 かっ たそがれ かっ かくはんへい ほうしん てんか つか 力いしゅう じんえい がいせん かっと しら し にち 189
けん 着く」 ろうじゅうしんげん ぐんかんじゅんどうまるしようぐん かいしゅうあたら 海舟は新しく幕府が購入した軍艦順動丸に将軍をお乗せしたいと老中に進言した。陸路 ふたん えんどうじんみん じかん うえひょう をとると時間がかかる上に費用がかさみ、沿道の人民にも大きな負担をかけるので、ひそ ふまんこえ かに不満の声があがっているのだ。 しゆっぱっ きゅ , つりくろ にちしようぐんじよ、つらくと へんこう ぜんにんとも 二月十三日、将軍は上洛の途についたが、急に陸路に変更、三千人の供ぞろいで出発し よ、つい かいしゅ、つかた じゅんどうまるしながわおきう た。順動丸を品川沖に浮かべて用意していた海舟は肩すかしをくってしまった。順動丸は しようにん カ てっせいがいりんせん イギリスの商人から買ったばかりの鉄製外輪船 ( 四〇五トン ) である。 おおさかいまおおさかてんぼうざんおきっ しゆっぱんよく かいしゅ、つしようぐんお 海舟は将軍を追って二十四日に出帆、翌二十六日には大坂 ( 今の大阪 ) 天保山沖に着いた。 しよ、つぐん きようとっ しゅうかん 将軍は三週間かかって三月四日に、やっと京都に着いている。 きよ、つと しようぐんいえもち せつかいおおさかわんじゅん につていお 、がつはつか おおさか 京都での日程を終えた将軍家茂は、四月二十日に大坂にやってきた。「摂海 ( 大阪湾 ) 巡 しゆっぱん じゅんどうまるしようぐんむか いえもちじしん 検」は、家茂自身がいいだしたことだという。順動丸は将軍を迎えて二十四日に出帆した。 しん わか たよ しようぐんおも いえもちびようじゃく 家茂は病弱で、年齢も若く、なんとなく頼りない将軍と思われているようだが、芯は、 ろ、つじゅ、つ ずいこ、フ ぐんかんおおゅ じんぶつ しつかりした人物だった。あらしのため軍艦が大揺れに揺れたとき、随行した老中などは と、つじよう いえもちがん きけんかん みなと かん 危険を感じて、港にたどりつくと艦からおりるようにいったが、家茂は頑として搭乗をつ わか しよ、つぐん けなヂ . かいしゅうかんどう づけた。その健気なようすに、海舟は感動した。そのときの将軍のすがたを「いまだお若 っ がっ ばくふ ねんれい 」、つにゆ、つ がつよっか か にち ゅ おお じゅんどうまる りくろ 9
かいしゅうじひょうだ かたカき ぐんかんぶぎよう した軍艦奉行の肩書を、四カ月で投げ出すことにしたのである。海舟が辞表を出したのを よしのぶかんこく まつだいらしゅんがく かっとうよ、つ 知った松平春嶽が、勝を登用したらどうかと慶喜に勧告したというので、ひょっとしたら、 こえ おも おおさかさ また声がかかるのではないかと思い、すぐには大坂を去らずにいた。 はらた よしのぶし じひょう おれは腹を立てているぜということを慶喜に知らせるための辞表でもあったのだが、じ いよくも かいしゅう つのところ、海舟にしてもここでひと働きしたいというひそかな意欲は燃やしていたのだ。 しゅんがく さっ れんちゅう 連中にまかせてはおけぬといった気持ちもある。春嶽もそのことを察してくれたのだろう。 かいしゅうきら おとさた よしのぶ その後も慶喜から音沙汰がないところをみると、いぜんとして海舟を嫌っているようだ。 かえ ろうじゅうかいしゅうぐんかんそうれんせんむ もう見むきもしない。老中は海舟を軍艦操練専務とかの閑職につけて、江戸へ帰れと命じ やっかい てきた。ていよく厄介ばらいされたのは、十月一日だった。 だんばん みやじまちょうしゅうはんかんぶ かんが ちよくせつき 宮島で長州藩の幹部と談判し、むこうがなにを考えているかを、直接聞きだしてきたの ばくふがわかいしゅう は、幕府側で海舟ただひとりである。どんなことを話しあってきたのか、知ろうともしな いのである。 「これは、 ) しよいよだめだねえ」 はらた かんじよう かれ あほう 彼らの阿呆さかげんに腹を立てるというより、あきれかえってしまうのだが、感情にお おも ばれて、ふてくされるのもいけないと思いなおした。 し み げつな だ はたら がつついたち かんしよく し 114
はなしとお 「そんなところでは、話が遠すぎる。こちらにおはいりなさい」 こし かいしゅう どうせきおそ 海舟がさそっても、「ご同席は恐れ入る」と腰をあげようとしない。 かいしゅうびしよう 儀さというものかと、海舟は微笑しながら、 「それでは、わたしがそっちに行きましよう」 で ろうか かれ わらごえ と、すたすた廊下に出ようとした。はじめて彼らが笑い声をあげ、それはいけませぬと、 だんばん ぎしき 一同ようやく座敷にあがってきた。ただちに談判がはじまる。 」、つきよしきょ そ、フけ・ そ、つぞく しよ、フぐんけ ひとつばしこう 「一橋公におかれては、将軍家が薨去 ( 死去 ) されたので宗家を相続されましたが、まず関 さいしょこうきようと ばんばんこうろんふ 西諸侯を京都にあつめて、万般公論に付し、幕政を改革されようとしておられます。もち ちょうしゅう しとうしょち ろん長州についても至当の処置を : : : 」 しとうしょち ひとつばしこうごけんめい 「一橋公が御賢明にいらせられることは、われらも承知いたしておりますが、至当の処置 とはいかなることですか」 ばんばんこうろんふ 「それを万般公論に付してということですよ」 せいちょうぎ ばんばんこうろんふ へいはん 「万般公論に付して、弊藩 ( わたしたちの藩 ) に非ありということになれば、征長の儀は ちょうしゅうはんちょうばっ まちがっておらなかったとして、あくまでも長州藩を懲罰するわけですな」 いんぎん ひろさわしず こえっ 広沢が静かな声で突っこんでくる。さきほどの慇懃さとは、うってかわった鋭い舌鋒だ。 いち・と、つ はん ばくせい ひ かい。か′、 しようち これが長州人の律 ちょうしゅうじんりち するどぜっぽう かん 109
かれ よ だろう。彼がいまどのように肚を決めているのか、どうもそこまでは読めない かいしゅうさい′」うし さかもとりようま せけんばなし かいだん 海舟と西郷は死んだ坂本竜馬のことや、ほかにさりげない世間話をして、その日の会談 おも あいて さい′」う あんしん を終わった。大筋では呑みこんでくれているように思えたが、相手は西郷だから安心はで きない。 とじよう いちおう そうこうげ・きえんき けっていっ あんしん かいしゅうたいしゆっ 登城して一翁らに総攻撃延期の決定を告げ、ひとまず安心させて海舟は退出した。これ しようねんば さい′」う おおた からが正念場である。西郷らをむこうにまわし、ひとりで大立ち回りすることになるのだ。 りよう こうなれば異人の力をうまく利用するほかはない。 がっ にちかいしゅう よこはま ひ あ かんたいしれいちょうかん 三月二十六日、海舟はその日、横浜でパークスと会った。東インド艦隊司令長官ケッペ ちゅうじよ、つどうせき ル中将も同席した。 きでんとくがわよしのぶ いのち しめ かんが 「貴殿が徳川慶喜の命をたすけたいのは、幕臣としての使ムと考えているからですか」 力いこ、ついちばん ークスは開口一番そんなことを聞いてきた。 きら よしのぶこう ぎり かん 「私は慶喜公から嫌われつばなしで、個人としてはなんの義理も感じておりません」 「ではなぜです」 り・ゅ、つ せいふぐんきようじゅんたいど よしのぶこうくびう 「理由はふたつ。第一に政府軍が恭順の態度をとっている慶喜公の首を打てば、幕臣たち ほ、つ、 えど は怒り狂って蜂起するでしよう。江戸はおろか国内を戦乱にまきこむことになる。第二に お くる じんちから おおすじ の はら * 、 き こじん ばくしん ヤ」′トない せんらん ロ卩い ひがし まわ ばくしん 162
おおくぼいちおう かお 力いしゅう ところが一月の末になって、大久保一翁がしぶい顔をつくりながら海舟にいった。 よしのぶこう 「慶喜公のようすがおかしい。城を出ようとされない」 「あやしいねえ。 っしょに一丁きましょ一つ」 かいしゅういちおう よしのぶめんかい 海舟と一翁はそれから慶喜に面会した。 たいぎ こえ げんき 「大儀」と、ずいぶん元気な声だ。 かんえいじ 「寛永寺にはいつお移りになります」 かんが 「すこし考えるところがあって、しばらく , 、のままでいることにした。ロッシュが軍艦 ぐんしきんえんじよ 武器・軍資金を援助するというのだ」 「たわけたことを ! 」 かいしゅういっかっ 海舟は一喝した。 、もよ、つ 「いまの国内の模様をいかが見ておられます」 いちおうよしのぶにら と、一翁は慶喜を睨みつけた。 じき ないらんがいこくぐんかいにゆう 「このような時期、内乱に外国軍を介入させて、国家を破滅にみちびくおつもりですか」 かいしゅう よしのぶ 海舟たちにつめよられて慶喜は、黙りこんだ。 ぶき 」く - ない がっすえ うつ み しろで こっか はめつ ぐんかん 134
あいづ 「薩摩と会津のあいだがぎくしやくしておる」 なか あいづ 「ほほう。薩摩と会津が仲たがいですか」 おどろ はじめて聞くように海舟はいったが、やはりそういうことになるのだろうと、さほど驚 きはしなかった。 なかだ 「仲立ちしてくれぬか」 さつま さいごうきちのすけおおくぼいちぞうこんい おも ふくしよく 薩摩の西郷吉之助や大久保一蔵と懇意にしている海舟のことを思いだし、にわかに復職 ちゅうかいろう ぐんかんぶぎよう べつぐんかん させて仲介の労をとらせようというのだ。軍艦奉行とは名ばかりで、別に軍艦をあずけよ うというのではなかった。 どうちょう きょひ じせいちょう しゆっぺいめいれいさつま 第二次征長への出兵命令を薩摩は拒否してきた。これまで幕府に同調してきた薩摩が、 せ くるりと背をむけたことで、あわてふためいているのだった。 かつば かんが 陸にあがった河童みたいな者になにができると考えてやがるんだ。 どく と、腹のなかで毒づきながら、 さつまちょうしゅうみつやく 「薩摩が長州と密約をむすんだのを、ご存じでしようね」 海舟はたずねた。 「知っておる」 だい かいしゅう さつま し はら おか さつま き かいしゅう もの ぞん かいしゅう な ばくふ さつま -4 9-