アメリカ - みる会図書館


検索対象: 勝海舟 : わが青春のポセイドン
7件見つかりました。

1. 勝海舟 : わが青春のポセイドン

たいへいようおうだん 太平洋横断 あんせい あかさかもとひかわさかしたいえうつ びんぼ、つはたもと 安政六 ( 一八五九 ) 年七月には、田町から赤坂元氷川坂下の家に移った。もう貧乏旗本な ぐんかんそうれんじよきようじゅかたとうどり やしきく どではない。軍艦操練所教授方頭取ともなれば、それにふさわしい屋敷で暮らすことにな ゆた かつけせいかっ いいなおすけどくさい あんこくじだい り、勝家の生活もすこしは豊かになったが、井伊直弼が独裁の権力をふるう暗黒時代はま だつづいている。 ちょうしゅうよしだしよういんしけい がっ たいごく 、かんけ・い 長州の吉田松陰が死刑になったのは十月二十七日だった。そんな大獄とは関係なく、そ げつご かいしゅ、つ じゅんび ぐんかんぎようみずのただのり めいれい の一カ月後に、海舟はアメリカに行く準備をするように、軍艦奉行の水野忠徳から命令さ れた。 にちぺいしゅうこうつうしようじようやく りよ、つじ」ういんちょういん 日米修好通商条約は、アメリカのハリス領事が強引に調印をせまり、国内の反対意見 むし いいなおすけ おう じようやくていけっそう を無視して井伊直弼がそれに応じたものだ。その条約締結の総しあげである「批准」は、 ほんごく アメリカ本国でおこなわれる。 ひじゅんた あ にほんしせつ ごう がっしゅうこくぐんかん 批准に立ち会うために渡航する日本の使節たちは、アメリカ合衆国の軍艦ポーハタン号 ねんがっ AJ ヤ」、つ たまち にち けんりよく こくない ひじゅん はんたいいけん 8 6

2. 勝海舟 : わが青春のポセイドン

ばくふ さこく じようしつ ちゃの 上質のお茶を飲むと眠れなくなるのにひっかけて ひとびとおそ せきじようきせんえど たった四隻の蒸気船に江戸の人々が恐れおののいて、 よるねむ 夜も眠れなかった くっ 幕府はペリ 1 の脅しに屈して、 だいと、つりよフしんしょ ついにアメリカ大統領の親書をうけとり、 にちぺいしゅ、つこうつうしようじようやくていけっ にちぺいわしんじようやく 日米和親条約、つづいて日米修好通商条約を締結する。 じよ、つやくか かっこく アメリカにつづいてョ 1 ロッパ各国ともおなじ条約を交わして、 ひやくすうねん 日本は二百数十年にわたり閉ざしていた 鎖国のとびらをひらいたのだ。 らいこ、つ かえい ペリ 1 が来航した嘉永六年の干支は癸丑 ( みすのとうし ) 。 にほん おど ねむ 0 ねんえと と きちゅう 9

3. 勝海舟 : わが青春のポセイドン

しながわけいびで 「あのときは土佐藩兵のひとりとして、品川の警備に出たので見ましたぜよ」 おも 「どう思った」 おも かたなやり 十十カ 「刀や槍で戦える相手ではないと思いましたよ」 「おいらはその後、咸臨丸でアメリカにも行ってきた。むこうのようすを見たときも、お じんちからし おも なじことを思ったよ。攘夷をとなえるまえに、まず自分の力を知ることだとね。そしてそ のために、やらなきゃならねえことが山ほどあるわさ」 「まさにそのとおりです」 やくにん力いこくおそ 「幕府の役人は外国を恐れるばかりで、おいらのいうことを聞いてくれぬ。幕府は、もう だめだねえ」 ちょうてい 「朝廷はどうですか」 ちょうてい 「その朝廷にしても、とにかく攘夷だろう。外国を打ち払えというだけでは、なんの解決 にもならない」 「なるほど」 「おい、 おまえさんたち、おいらを斬りにきたのじゃ、なかったのかい」 かっ おそ 「恐れ入りました。勝という人はオランダ語をやったり、アメリカに行ったりで、外国か ばくふ と は ご あいて かんりんまる じようい ひと じようい やま 力いこ / 、 はら み み ばくふ 力いこ / 、 かいけっ

4. 勝海舟 : わが青春のポセイドン

そうけんちく かんび せつび まち 層建築で、完備した設備はおどろくことばかりだ。アメリカ人に案内されて、町のすみず けんがく にほんさこく ぶんめい つうかん みまで見学した。い まさら日本が鎖国のために文明からとりの , 、されたことを痛感した。 しつこ、フ しゅうかんご がつみつか あんせいたいごくさいこうせきにんしゃ 一行がアメリカに上陸して一週間後の三月三日、印本では安政大獄の最高責任者・井伊 なおすけえどじようさくらだもんがい さつま あんさっ ばくふ 直弼が江戸城桜田門外で、水戸や薩摩の浪士に暗殺された。それを機に、幕府の権勢はす ばくまつどうらんき こしずつおとろえを見せはじめ、やがて幕末の動乱期にはいっていく。 かんりんまるしながわきこう がつむいか かいこくろんじよういろん力いこくはいげき こわだかさけ 咸臨丸が品月。 ーこ帰港したのは五月六日だった。開国論・攘夷論 ( 外国排撃 ) が声高に叫 ふおんせいきよく じゅうようにんむ かいしゅうま ばれる不穏な政局がひきつづくうちにも、新しく重要な任務が海舟を待っていた。 ねんがつよっか かいしゅうぐんかんそうれんじよとうどりめ、 、つる、つ がっ 文久二 ( 一八六一 D 年七月四日、海舟は軍艦操練所頭取をじられ、さらに閏八月十七日 ぐんかんぶぎようなみしようしん せんびようきゅう せんびようだか ひやっこくど には軍艦奉行並に昇進した。千俵を給される。千俵高といえば、およそ五百石取りの武士 びようししゆっせ である。とんとん拍子の出世といってよい かいしゅうかつやく 咸臨丸でのアメリカ渡航など、それまでの海舟の活躍からすれば、とうぜんともいえる いはんしゅまつだいらしゅんがく ゅ、つりよくしゃ が、福井藩主・松平春嶽という有力者のあとおしもあったからだろう。 まつだいらしゅんがくとくがわごさんきよう たやすけ しゆっしん せいじそ、つさいしよく 松平春嶽は徳川御三卿のひとっ田安家の出身で、この , 、ろは政治総裁職として、幕政に つよはっげんけんも しゅんがくじつがくし ひごはんし よこいしようなんこもん 強い発言権を持っていた。春嶽は実学で知られる肥後藩士・横井小楠を顧問にして新しい せいじ かたしんけんかんが 政治のあり方を真剣に考えていた。 かんりんまる ぶんきゅう じようりく み レ」」、つ みと ろうし あたら ア」ほ第ル じんあんない き けんせい ばくせい あたら にち 0

5. 勝海舟 : わが青春のポセイドン

ばくふ にほんぐんかんかんりんまるにもっ むか が迎えにきてくれるが、別に日本の軍艦咸臨丸も荷物その他を乗せていっしょに行くこと によっこ。 ヾこ、つ にいみぶぜんのかみがいこくぶぎようかながわぶぎよう せんひやく 二千四百十五トンのポーハタン号には、正使の新見豊前守 ( 外国奉行・神奈川奉行 ) ら やくにん 幕府の役人七十七人が乗る。 ごう かんりんまる 咸臨丸はポーハタン号にくらべたら、まるで小舟のような二百九十二トンの軍艦であ つうやく ふくざわゆきち ぐんかんぶぎようきむらせつつのかみかんちょうかっかいしゅう る。これには軍艦奉行の木村摂津守や艦長の勝海舟、また福沢諭吉や、通訳として中浜万 なんば そくりようせん にほん当」んかい じろう まんじろう にほんじんのりくみいん 次郎 ( ジョン万次郎 ) ら日本人乗組員のほかに、日本近海で難破したアメリカの測量船フェ どうじよう ごう せんちょうのりくみいんきこく ニモア・クー ノ ー号のプルック船長ら乗組員も帰国のため同乗したので九十六人となった。 にちしながわ がっかいげんまんえん かんりんまるあんせい 咸臨丸は安政七 ( 三月改元「万延」となる。一八六〇 ) 年一月十三日に品川を、十九日に えんようこうかいたびだ しゆっこう うらカ 浦賀を出航して、遠洋航海に旅立った。 れんじつみ おも とちゅうふねてんぶく 途中、船が転覆するのではないかと思われるようなあらしに連日見まわれ、ほとんどの せんちょう こ、ってん そうせん にほんじんふなよ 日本人は船酔いのためうごけず、荒天のときの操船はプルック船長らアメリカ人があたる にち にち ぶざま 。オオカ四十日ばかりをかけて二月二十六日、サンフランシスコ とい一つ無 ~ 様なことにまよっこゞ、 きねん にほんじんにほんふねたいへいようおうだん に着いた。それでもとにかく日本人が日本の船で太平洋を横断した記念すべき航海である。 ヤ」、つ だいりせきし サンフランシスコでは、まず泊まっているホテルにしても、床に大理石を敷きつめた高 にんの せいし こぶね ねんがっ た がっ の ゆか ひやく じん にん こ、つ力い ぐんかん なかはままん にち 6

6. 勝海舟 : わが青春のポセイドン

さくましようざん 佐久間象山 た 一け・んか′、 けんしゅぎよう 「剣の修業はこれでよいというときはない。そなたは剣客として身を立てるつもりはない よ一つだが、これからど一つする」 こた りんたろう しまだとらのすけ 島田虎之助にいわれて、麟太郎は答えた。 おも うみそと 「海の外のことを勉強したいと思います」 りんたろうけんじゅっぜんべんがく 麟太郎が剣術や禅や勉学にうちこんでいるうちに、世の中は大きくかわっていた。それ へんか にほんじんし 、力し力し にほんこくない は日本国内だけでなく、海外のようすも日本人が知らないあいだに、はげしく変化してい にほんじんひょうりゅうみん 天保八 ( 一八三七 ) 年には、アメリカ船モリソン号が、太平洋上で救った日本人漂流民 ばくふ つ、フしようもう 、つらカおき 七人を乗せて浦賀沖にあらわれ、印本との通商を申しこんできた。幕府はその年に発した ひょうりゅうみん かれ いこくせんうちはらいれい 「異国船打払令」によって、船をよせつけず、彼らがわざわざっれてきてくれた漂流民も ごうかごしまわんこう ま、一ノげ . き うけとらずに、撃して追い返した。モリソン号は鹿児島湾口にもあらわれたが、おなじ てんぼう にんの べんきよう ねん ふね かえ こほん せん たいへいよ、つじようすく なかおお み としはっ 2

7. 勝海舟 : わが青春のポセイドン

「だから見せるつもりで、持ってきたのだ」 にほ′ル つうしよ、つかいし おらんだふうせっしょ その『和蘭風説書』には、アメリカが日本との通商を開始するうごきをはじめており、 、カ ちかかんたい 近く艦隊を差しむけるらしいといったことが書かれている。 「ほんとうならたいへんですね」 こんきょ しようぐんにほん 「風説といっても、まったく根拠のないことではあるまい。オランダ国王が、将軍に日本 さこく しんげん しょ力いこく はもう鎖国をやめ、諸外国とのつきあいをはじめるべきときがきていると進言したらしい かんが もうそういう時代なのだ。しかし幕府は逃げることしか考えていない」 ばくふ やくにん じようせいし 「どだい役人がだめです。世界の情勢を知ろうとしない。幕府はだめですねえ」 おも 「そなたも、そう思うか」 じきよくろん かえ しようざんきんちょうかん ばくふ せいじ 象山は緊張感のない幕府の政治をなげきながら、麟太郎と大いに時局を論じて帰って行 へや き、それからときどきやってくるようになった。あるときは、「これを部屋にかかげなさい」 も かいしゅうしよおく へんがく といって、「海舟書屋」と書いた扁額を ( 横に長い額 ) を持ちこんできた。 りんたろう しようざん せい、か′、 いつもおしつけがましい性格をむき出しにする象山を、麟太郎はあまり好きになれない しんけんみみ つう かれはなし おし せかいじよ、っせい が、世界情勢に通じた彼の話。。 こよ教えられることが多く、真剣に耳をかたむけることにし き かいしゅうしよおく ていた。それに、こんど書いてくれた「海舟書屋」は気にいった。 ふうせつ み さ じだい も せかい ばくふ よこなが りんたろうおお おお 」くお、つ す