しよ、つ 「うむ、よろしく頼むぞ」 いえよしまんぞく 。こ、つかく よくじっ りんたろうわかぎみはつのしんこ 家慶は満足そうに頷 いた。これでどうやら合格だ。翌日から、麟太郎は若君初之進の小 はつのしん しゅうじべんがく 姓ということで、お城づとめとなる。習字や勉学も初之進といっしょだった。子ども同士 しろ なかよ あいて たちまち仲良しになる。よい相手が見つかったとよろこばれながら、そのお城づとめは、 ねんかん 二年間つづいた。 いちおうやくめ お 一応の役目が終わり、城からひきさがる麟太郎に、 あ 「また、かならず会おうぞ」 はつのしん と、初之進はいってくれた。 わかさま あ 若様、わたしもお会いしとうございます」 りんたろうえどじようさ 心をのこして、麟太郎は江戸城を去る。 かっこきち いえかえ りんたろう 勝小吉は、家に帰ってきた麟太郎をむかえて、上機嫌だ。 わかとの あ むすこ 「ほう、若殿がまた会いたいと仰せられたのか。さすがは、おいらの息子だ。これはたい いとぐち しゆっせ した出世の糸口だぜ」 ちちうえ しろ かたくる こえだ べんがく おも 「父上、お城のなかはめつばう堅苦しゅうございます。大きな声も出せず、勉学も思うよ うにはできません」 こころ たの うなず しろ しろ おお りんたろう じようきげん おお こ どうし 0 2
そうぞう かいしゅ、ついえかえ さい′」う それをドングリまなこでながめている西郷のすがたを想像しながら海舟が家に帰ると、 きやくたず その夜、めずらしい客が訪ねてきた。 いときみ ア 1 ネスト・サトウがあらわれたのだ。異人の客ははじめてなので、お民やお糸は気味 はな ことば わる かげで「こちらの言葉が話せるのだわねえ」などとささやきあっている。 悪そうに、 つうやくかん えいこくこうし ぜんぐんかんかい そのころサトウは英国公使パークスのそばについて、通訳官をしていた。前、軍艦開 あ つうやく かいしゅうよこはまこうしかん ようがいじんきようかん 陽の外人教官の , 、とで、海舟が横浜の公使館でパ 1 クスと会ったおりに通訳したのがサト ウで、それ以来のつきあいである。 なまえ よ あおめ 「佐藤」とも読める日本人のような名前だが、れつきとした碧い目のイギリス人だ。国に しんにちか さっちょう べんきよう いるときから日本の , 、とを勉強していたというから、よほどの親日家である。いまは薩長 した とうしゅんすけいのうえもんた たちばちょうしゅうびいき おうえん を応援するイギリスの立場で長州贔屓だ。伊藤俊輔や井上聞多らとは、はやくから親しく しているらしい 」、つし つうやくかん かれ ずれは公使にでもなろうというのだから、なかなかの切 彼はただの通訳官ではなく、い さくし はけん どうらんにほん かれうえ もの れ者だった。しかしパ 1 クスも彼の上をいく策士だ。動乱の日本にはるばる派遣されてく よる たず 力いこくししん る外国使臣は、みんなひとくせある男たちである。それにしても夜こっそり訪ねてくるサ トウの用件とはなんだろう。 さとう よ ようけん にほん にほんじん おとこ じんきやく たみ じん き 158
ぐんかんぶぎよう 軍艦奉行なんかやめた ! おおさかきちゃく 大坂に帰着したのは九月十日だった。 みち かいしゅう あしじよ、つきよう ばくふがわ てつべい 海舟はすぐその足で上京した。やはり幕府側から撤兵して和解の道をさぐるしかあるま にじようじようい こうしようけいか おも よしのぶ いといった意見を添えて、交渉の経過を報告しようと思いながら慶喜のいる二条城に行く。 ろうじゅう しなんおも しせんこうしようやくめ 至難と思われていた止戦交渉の役目だけは、なんとか果たしたつもりでいたのだが、老中 くろ、つ こえ ほ , っこくき たちは報告を聞こうとしないばかりか、ご苦労だったという声もかけようとしない。 たいど み しゆっぱっ たよ よしのぶ 慶喜にしてからが、出発のときはおまえひとりが頼りだといった態度を見せておきなが かいしゅうあ ばくふちょうしゅうりようぐんてつべいじゅんちょう ぶじかえ ら、無事帰ってきた海舟に会おうともしないのだった。幕府・長州両軍の撤兵が順調に ちょうていて ちょうしゅう しせんしようちよくこうそう は ,. びはじめたのは、朝廷に手をまわして長州にあたえてもらった止戦の詔勅が効を奏し かいしゅう よしのぶ おも たものと思ったのだろう。海舟のことはケロリとわすれている。慶喜さん、それはないよ といってやりたかった。 じひょう ひろしま おおさか かえ むいかご 広島から大坂に帰ってきてから六日後の九月十六日、海舟は、辞表をたたきつけ、復職 いけんそ がっとおか がっ にちかいしゅ、つ わかい ふくしよく 113
お おいらは馬をとばして逃げるやつらを追い、 ふ しった 踏みとどまれと叱咤するのだが、 」しだ れんちゅう なにしろ浮き腰立ってる連中だからね。 とくがわしん りつば 「おのしら、徳川の臣として立派な死に方はしたくねえのか うえさまえど 上様は江戸にいなさるんだぜ。 さい」 最後までおそばにいて、 みちた 武士の道を立てようという者はいねえのかい」 けんめい おう せっとく 懸命の説得に応じる者もいれば、 みみ ぞうひょう 耳をかそうともしない雑兵づらも、すくなくはないのだよ。 とんしゅう さわ 学 / . し学 / 、し 。はんちょ一つへいたし せんにん 三番町に兵隊が二大隊、千人ばかりが屯集して騒いでいる。 十 / し子′し そうと知ってかけつけ、大隊だけはしすまらせたが、 ひやくにんとうそう もう一大隊のほうは二百人が逃走、 し 、つま もの もん し 。カた 144
「だから見せるつもりで、持ってきたのだ」 にほ′ル つうしよ、つかいし おらんだふうせっしょ その『和蘭風説書』には、アメリカが日本との通商を開始するうごきをはじめており、 、カ ちかかんたい 近く艦隊を差しむけるらしいといったことが書かれている。 「ほんとうならたいへんですね」 こんきょ しようぐんにほん 「風説といっても、まったく根拠のないことではあるまい。オランダ国王が、将軍に日本 さこく しんげん しょ力いこく はもう鎖国をやめ、諸外国とのつきあいをはじめるべきときがきていると進言したらしい かんが もうそういう時代なのだ。しかし幕府は逃げることしか考えていない」 ばくふ やくにん じようせいし 「どだい役人がだめです。世界の情勢を知ろうとしない。幕府はだめですねえ」 おも 「そなたも、そう思うか」 じきよくろん かえ しようざんきんちょうかん ばくふ せいじ 象山は緊張感のない幕府の政治をなげきながら、麟太郎と大いに時局を論じて帰って行 へや き、それからときどきやってくるようになった。あるときは、「これを部屋にかかげなさい」 も かいしゅうしよおく へんがく といって、「海舟書屋」と書いた扁額を ( 横に長い額 ) を持ちこんできた。 りんたろう しようざん せい、か′、 いつもおしつけがましい性格をむき出しにする象山を、麟太郎はあまり好きになれない しんけんみみ つう かれはなし おし せかいじよ、っせい が、世界情勢に通じた彼の話。。 こよ教えられることが多く、真剣に耳をかたむけることにし き かいしゅうしよおく ていた。それに、こんど書いてくれた「海舟書屋」は気にいった。 ふうせつ み さ じだい も せかい ばくふ よこなが りんたろうおお おお 」くお、つ す
しゅん きよ、フかんふか かれはなしき かいしゅ、つしょ , つなん しゅんがくしようかい 春嶽に紹介されて、海舟も小楠にしばしば会い、彼の話を聞き、共感を深めていた。春 ただひろようがく おおくぼただひろいちおう がくしゅうへん 嶽の周辺にはもうひとり、すぐれた人物がいる。大久保忠寛 ( 一翁 ) である。忠寛は洋学を ただひろ かいしゅ、フもんか じゅうしん まな かいしゅう 海舟から学んでいる。幕府の重臣ではあるが、いわば海舟の門下だ。このころ忠寛は、大 しゅんがくしんらいえ めつけけんがいこくぎよう 目付兼外国奉行をつとめており、春嶽の信頼を得ている。 かんがかたいっち よこいしようなんおおくぼただひろかっかいしゅう まつだいらしゅんがくちゅうしん 松平春嶽を中心とした横井小楠・大久保忠寛・勝海舟の四人は、考え方も一致してお とし だいしようぐんいえもち かれ 当よ、つりよくじんみやくこ、っせい り、強力な人脈を構成していた。彼らはその年まだ十七歳の十四代将軍家茂を、ささえな ばくせいかいカくすす がら幕政改革を進めようとしていた。 ヤ」と′」と ろうじゅう ふるばくふたいせい おも それをこころよく思っていないのは、古い幕府体制を大事にする老中である。事毎に意 ひとつばし ひと ひとつばしよしのぶ けんたいりつ きゅ、っせいりよく 見が対立する。その旧勢力とむすんでいるのは、一橋慶喜だった。水戸家の人だが、一橋 しようぐんこうけんしよく いえもちあらそ ようし だいしようぐんざ いちど の養子として一度は十四代将軍の座を家茂と争った。いまは将軍後見職となっている。 ばっ たいごく うんどう いいなおすけてきたい よしのぶしようぐん 春嶽は、かって慶喜を将軍にしようと運動して井伊直弼に敵対し、大獄のときは罰せら いけん よしのぶ じようきようへんか なおすけあんさっ れたりもしたが、直弼が暗殺されたのち、情況の変化とともに、慶喜とは意見があわなく たいりつ せいじそうさいしよくしようぐんこうけんしよくわか なり、仲がよくない。政治総裁職と将軍後見職に別れて、対立していた。 みぶんたか じじよ、つ よしのぶかいしゅうした 慶喜と海舟が親しくなれなかった事情は、そのようなことからである。相手が身分の高 けいえん かいしゅう えんりよ おも い人であろうと遠慮せず、思ったことをずけずけいう海舟は、老中らから敬遠され嫌われ しゅんがく ひと なか ばくふ じんぶつ さい にん ろうじゅ、つ みとけ きら おお
しゆっぺいきょひ せいちょうはんたい 「征長反対は幕府内にもありました。薩摩にしても出兵を拒否したのですから、そのよう なことにはならないでしよう」 ちょうしゅうしょち こうろんふ カり・ 「仮にそうだとしても長州の処置は公論に付して決めるので、そのまえに撤兵せよとは理 ふじんもう 不尽な申されようではありませぬか」 ちが 「まあ、とにかく戦をやめて、たがいの行き違いをざっくばらんに話しあいたいというの どうほうあいあらそ ほんい が本意です。いまは外国がこぞって、わが国をうかがっております。同胞相争うときでは ありません」 「仰せられることは尤もですが。そのためには、まず幕府が誠意をしめさなければ、和平 じっげん へいはん しせんしようちよく は実現いたしませぬ。止戦の詔勅はすでに弊藩にとどいておりますが : しせんしようちよく 「止戦の詔勅が ? 」 はんもん おも 海舟はびつくりして、思わず反問した。 ヾこぞん 「そのこと御存じありませぬか」 ひろさわけげんかお 広沢は怪訝な顔をした。 し どうよ、つしゅし しようちよくちょうてい 「いや、知っております。詔勅は朝廷よりのもの、わたしは、幕府の側から同様の趣旨で 参ったのです」 おお かいしゅ、つ ばくふない いくさ 力し」′、 もっと さつま き ばくふ ばくふ がわ てつべい 110
ろうじゅうじゅうだい すおうのかみ さっちょうれんごうせいりつ 周防守はそんなこともいう。薩長連合が成立したという事実を、この老中は重大なこと と、うけとっていないらしい なんだい 「これは難題ですねえ」 きつぼうま 「吉報を待っておる」 ほんき 本気で期待しているんだから、まったくあきれたものだな。大身の老中なんて、み んなこのとおりのとんちきぞろいだよ。 当、よ、つと かいしゅうどく 海舟は毒づきながら、京都にむかった。 ちか じぶん あいづがわこうしよう あいづ まず会津側と交渉する。会津は自分たちから手出しはすまいと誓ってくれたので、まず やくめ さつま しゆっぺいきょひ まず役目は果たしたが、薩摩の出兵拒否をひっこめさせることについては、もうどうなる ものでもなかった。 ぎき かっ 「いかに勝どんであろうとも、この儀聞きいれることはできもさず。薩摩が幕府の私戦に どうり 兵を差しむける道理はごわはん」 と、相手にしない。そうですかと、ひきあげてきた。子どもの使いといわれても仕方がな さいしょ それも最初からわかっていたことだ。 あいて きたい てだ こ じじっ つか たいしんろうじゅう さつま ばくふ しかた しせん
ヤ」、つい 行為に出てきたのである。 ぐんかん ぐんかんぶぎよう かいしゅ、ついカ 海舟は怒りに身を震わせながら、ただちに軍艦奉行たる自分に幕府の軍艦をあずけてく いたくらすおうのかみもう かんしゅ かれ れ、かなわないまでも艦首をそろえて彼らのまえに立ちふさがりたいと板倉周防守に申し ちまよ 出たのだが、血迷ったかと、相手にされなかった。 ぼうえい ひとつばしよしのぶ やく ろうじゅうおのの せつつぼうぎよしき 老中は戦くばかりだ。摂津防禦指揮という役をあずかっている一橋慶喜にしても、防衛 こえで めいれいた たいせい 態勢をととのえる命令を出そうとしない。だれもすくみあがって声も出ないというありさ にほん」くきよ、つは / 、 けいおうカん かんたいひょうごおきせい 日本国を脅迫する艦隊が兵庫沖に勢ぞろいしたのは慶応元 ( 一八六五 ) 年九月十六日。と ちょ、っていちょっきょ よ、つきゅ、つ ばくふ ひょう′」かいこう っぜんの要求にうろたえた幕府は、ひとまず兵庫開港にふみきることにし、朝廷に勅許を そうせい 奏請する , 、とにした。 き うえけっ ちょうていかんカカた しようぐんいえもち 力い ) 」くさと はじめ将軍家茂は「外国を諭して艦隊を退去させ、朝廷の考え方を聞いた上で決すべ いけん びよう けっせん がいじんぐんたい きようとおおさか きで、もし外人が軍隊を京都や大坂にむけるなら、決戦あるのみだ」との意見だった。病 かいしゅうかんしん しよう けっ ひそうかく」 床にある身で、まなじりを決した悲壮な覚悟を、見あげたものだと海舟は感心していた。 し ほうしんさだ しよ、つぐん かい」、つ むし かって よしのぶ しかし慶喜をはじめ老中らは将軍の意思を無視して、勝手に開港の方針を定めてしまっ しようぐんしよくよしのぶ いえもち た。それで家茂は「おまえたちが好きなようにやれ。わたしは将軍職を慶喜にゆずり、江 で で み み ふる ろうじゅう す かんたいたいきょ み じぶんばくふ ねんがっ にち え 9 9
とじよう まつだいらしゅんがくっ はん」、つ 反抗する意思はまったくない」と、登城してきた松平春嶽に告げて、老中板倉勝静らとと おおさかじよううつ そうだんうえきよ、つとで も相談の上、京都を出て大坂城に移ることにした。 にじようじよう、つらもん よるよしのぶ その日の夜、慶喜は「大坂で、やることがある」といいのこし、二条城の裏門からぬけ にしゆっきよう とくがわよしかったく ちょうてい じよ、っそうぶん 出した。朝廷への上奏文は、徳川慶勝に託すという夜逃げにも似た出京である。 もとひかわやしき じしよく むやく かいしゅう 海舟はそのころ江戸にいた。辞職して無役になっているのだから、元氷川の屋敷でぶら みまも きよ、つと とお じようほ、つ ぶらしているが、情報だけはあつめている。遠くから京都のようすを見守っていた。 せんりやく おおさか よしのぶこうどう 慶喜の行動も、「大坂で、やることがある」というのだから、なんかの戦略だろうと、海 しゅうおも 舟は思っていた。 よしのぶ せいりよく と、つ D ばくぐんすうまん おおさかちゅうしん 当時、大坂を中心とする幕軍は数万にのばり、意外な勢力となっていた。おそらく慶喜 じきゅうさく せいりよくばんかい おおさかじよ、つ は、大坂城にたて , 、もって持久策をとり、勢力挽回をはかるつもりにちがいない。そのう かいしゅ、つおも よしのぶせんりやく さつま こりつ ちょうてい ち朝廷にはたらきかけて薩摩を孤立させようという慶喜の戦略かとも、海舟は思っていた。 しはん さつまはんてい くわなはんべい ・け・き、」、つ はたもとあいづ だんぜんさつま そんなとき、断然薩摩を討つべしと激昻した旗本・会津・桑名藩兵が、薩摩藩邸と支藩 さどはらはんてい 佐土原藩邸を襲って焼き払った。江戸もたいへんなことになった。 たたか ふしみ じゅうこうひ 待ってましたとばかり薩摩の銃ロも火をふき、鳥羽・伏見の戦いがはじまったのは年が せんきよう としがっかいげんめいじがんねん けいおうねん あ この年九月改元、明治元年ーー一月三日だ。戦況は、はじ 明けた慶応四年 ( 一八六八 ) おそ おおさか はら さつま し。力し がつみつか ろうじゅういたくらかっきょ とし 、力し 125