言 よう はたして、その日の午後になると、この部落へ、様な落 人穴城の火が、枯野へ燃えひろがって、一面の火ですよ、その かっこ かっせん ために、徳川勢と武田方の合戦は、両陣ひき分けになったかと武者の一隊がそろぞろとはいってきた。各戸の防ぎを蹴破っ するが 聞きましたが、人穴城から焼けだされた野武士は、駿河のほうて、 く、もの 『ありったけの食物をだせ』 へは逃げられないので、多分、こっちへ押しなだれてきましょ とし、ムり 『女老人は森へあつまれ、そして飯をたくんだ』 『えツ、野武士の焼けだされが、こっちへ逃げてきますって ? 』『村から逃げだすやつは、たたツ斬るそ』 うち じんや しよくりよう 『家はしばらくの間、われわれの陣屋とする』 『ほかに逃げ道もなし、食糧のあるところもありませんか ら、きっとここへやってくるにそういありません。ところでみ好き勝手なことをいって、財宝をうばい、衣類食物を取りあ げ、部落の男どもを一人のこらずしばりあげて、その家々へ、 なさん、わたしがここを通ったことは、その仲間がきても、 おおかみ 決していわないでくださいまし、では、先をいそぎますから飢えた狼のごとき野武士が、わがもの顔して、なだれこん おおかみ と、可児才蔵はほどよくいって、いっさんに、部落をかけだ 焼けだされた狼は、わずか三、四十人の隊伍であったが、な にせよ、武器をもっている命知らずだからたまらない。なかに かいこばばあ えんさく にわしようせん - 一うしん おいわけ るそんべえ そして、甲信両国の追分に立ったとき、右手の道を、いそい は、呂宋兵衛をはじめ、丹羽昌仙、早足の燕作、吹針の蚕婆 までがまじっていた。 でいく男のかげが先に見えた。 えんしようばくはぐれん あの夜、殿堂へ、煙硝爆破の紅蓮がかぶさったときには、さ 『ははあ、彼奴は、柴田の廻し者上部八風斎だな、これから北 しよう ノ庄へかえるのだろうが、とても、勝家の腕ではここまで手がすがの昌仙も、手のつけようがなく、わずかに、呂宋兵衛その かんどう 伸びまい。やれやれご苦労さまな : 他のものとともに、例の間道から人無村へ逃げ、からくも危急 しなの 苦笑を送ってつぶやいたが、自分は、それとは反対な、信濃を脱したのであるが、多くの手下は、城内で焼け死んだり、の とら 早 - 力い たいまん 堺の道へむかって、足をはやめた。 がれた者も、大半は、徳川勢や伊那丸の手におちて、捕われて しまった。 城をうしない、裾野の勢力をうしなった呂宋兵衛は、たちま 叱 とき ほうしの ひる やとう ほんしよう 法師野の部落は、それから一刻ともたたないうちに、昼ながち、野盗の本性にかえって、落ちてきながら、通りがけの部落 の きト - じよう しん きようばう 士ら、森としてしまった。たださえ兇暴な野武士が焼けだされてをかたつばしから荒らしてきた。そしてこれから、秀吉の居城 ざんぎやく あずち 心きた日には、どんな残虐をほしいままにするかも知れないと、 安土へのばって、助けを借りようという虫のよい考え。 おおかみれん きようふ 家を閉ざして、村中恐怖におののいている ころが、一しょにおちてきた可児才蔵は、こんな狼連につき と か きやっ かれの かんべ ぶうイ、い 0 きた すその ざいほう たい 1 一
しかし、やがて時たつほど、むらがり立って、新手新手と入『さては、またぞろ民部の策にのせられたか』 りかわる城兵におしくずされ、伊那丸がたは、どっと二、三町と、又八は色をうしなって、にわかに道をひき返してくる 馬 と、こはいかに、すでに逃げみちを断って、ふいに、目の前に 天ばかり退けいろになる。 州「それ、この機をはずすな』 あらわれた一手の人数。 神 とみずから、八角の鉄棒をりゅうりゅうと持って、まッ先に そのなかから、ひときわ高い声があって、 げんざん 『武田伊那丸これにあり、又八に見参 ! 』 立った又八、 とどろきしようかく - くや - 一 「追いつぶせ、追いつぶせ、どこまでも追って、伊那丸一味を『めずらしゃ轟、小角の娘、咲耶子なるそ』 みなごろしにしてしまえ』 「われこそは加賀見忍剣、いで、素ッ首を申しうけた』 と、千鳥を追いたつ大測のように、逃げるに乗 0 て、とうと と、耳をつんざいた。 すその う、裾野の平までくりだした。 轟又八は、田 5 わず、ぶるぶると身の毛をよだてた。腹心の剛 りきあらきだごへえ 力、荒木田五兵衛は、忍剣に跳びかかって、ただ一討ちとな る。 手下の野武士は、敵の三倍四倍もあるけれど、こう浮足たっ てしまっては、どうする術もなかった。彼はやけ半分の眼をい からして、 『おう、山舞第一の強者、轟又八の鉄棒をくら 0 ておけ』 ぜんじよう と、忍剣の禅杖にわたりあった。 りゅう 童うそぶき虎哮えるありさま、ややしばらく、人まぜもせ せつか ず、石火の秘術をつくし合ったが、隙をみて、走りよった伊那 せん 丸が、陣刀一閃、又八の片腕サッと斬りおとす。 なぎなた よろめくところを、咲耶子の薙刀、みごとに、足をはらっ な て、どうと、薙ぎたおした。 又八が討たれたと見て、もう、たれ一人踏みとどまる敵はな 、道もえらばず、闇のなかをわれがちに、人穴城へ、逃げも どってゆく。 じぶん 時分はよしと、にわかに踏みとどまった小幡民部。 突然、采配をちぎれるばかりにふって、 『止まれッ ! 』 つ、 ) 0 と、 さん きびす 算をみだして、逃げてきた足なみは、びたりと踵をかえし すずめ て、稲むらにおりた雀のように、ばたばたと槍もろともに身を ふせる。 とどろき 『かかれツ、轟又八をのがすな』 『お , っッ』 こちょうじん たちまちおこる胡蝶の陣、かけくる敵の足もとをはらって、 らんり な 乱離、四面に薙ぎたおす。 やまがたったのすけたつみこぶんじ なかにも目ざましいのは、山県蔦之助と巽小文治のはたら おにめんとっこっさいなみきりうげんた き。見るまに、鬼面突骨斎、浪切右源太を乱軍のなかにたお じゅうおうむじん し、縦横無尽とあばれまわった。 ひ こばたみんぶ あらて つわもの すき た ふ わイ
がんこう しゅ は五段にわかれ、雁行の形となって、闇の裾野から、人穴城のに見きりをつけ、主をすて、友をすて去ったであろうか。 かざかみ まん前へ、わき目もふらず攻めかけた。 とすれば、童太郎もまた、武士の風上におけない人物といわね 馬 ばならぬ。 州にわかにあがる閧の声。 神『かかれかかれ、命をすてい』 いまそ花の散りどころと、伊那丸は、あぶみを踏んばり、鞍『いよいよ攻めてまいりましたそ』 しゅじゅう つばをたたいて叫びながら、自分も、まっさきに陣刀をぬい 『なに、大したことはない。主従あわせても、せいぜい八十人 ほんば て、城門まぢかく、奔馬を飛ばしてゆく。 か九十人の小勢です』 せいじん と見て、幗幕の旗本は、 「小勢ながら、正陣の法をとって、大手へかかってきたようす 『それ、若君に一番乗りをとられるな』 、よ、よ決死の意気、うつかりすると、手を焼きますそ』 ちじよく 『おん大将に死におくれたと聞えては、弓矢の恥辱、天下の笑『おう、そういえば、天をつくような閧の声』 われもの』 『伊那丸は、たしかに、命をすてて、かかってきた : 『死ねゃいまこそ、死ねやわが友』 まっ暗な、空の上での話し声だ。 ひとあなじようばうろう 『おお、死のうぞ方々』 そこは、人穴城の望楼であった。つくねんと、高きところの かんむり るそんべえかにさいぞう たがいに、いただく死の冠。 闇に立っているのは、呂宋兵衛と可児才蔵である。 にんけんみんぶ しようせんものがしらとどろきまたはち えいや、えいや、かけつづく面々には、忍剣、民部、蔦之呂宋兵衛は、い ましがた、軍師昌仙と物頭の轟又八が、す すけ み、くや - 一 すじがね はちまき 助、そして、女ながらも、咲耶子までが、筋金入りの鉢巻に、 べての手くばりをした様子なので、ゆうゆう、安心しきってい 鎖襦をルにきて、手ごろの薙刀をこわきにかいこみ、父、根るていだ「た。 ・ - ろしようかく 来小角のあだを、一太刀なりと恨もうものと、猛者のあいだ が、可児才蔵はかんがえた。 に入りまじっていく姿は、勇ましくもあり、また、涙ぐまし『待てよ、こいつは見くびったものじゃない : にちぼっ そして日没から、伊那丸の陣地を見わたしていると、小勢な しつぶう ただ、今宵のいくさに、一点のうらみは、ここに、かんじんがら、守ること林のごとく、攻むること疾風のようだ。 こがくれりゅうたろう した かなめな、木隠童太郎のすがたを見ないことである。 彼は、、いのうちで、ひそかに舌をまいた。 かんむり とよとみとくがわまうじようしばた 上は大将伊那丸から、下は雑兵にいたるまで、死の冠をい 『いま、天下のものは豊臣、徳川、北条、柴田のともがらある たけだびし ただいてのこの戦に、大事なかれのいあわせないのは、かえすを知って、武田菱の旗じるしを、とうの昔にわすれているが かん ぜんと がえすも遺憾である。ああ童太郎、彼はついに、伊那丸の前途 いや自分もそうだったが こいつは大きな見当ちがい、 かたがた とき めんめん すその ったの 0 わ 2
て、突きまくってくる。 わず、ほろりと小袖をぬらす。 あわや、竹童あやうしーーーと見えたせつなである。にわか兵は、わすかに七十人。 めんしよく じんとつぶう みな、生きてかえる戦とは思わないので、張りつめた面色で 大地をめくり返すような一陣の突風 ! と同時に、パッと しゆく きんどう ある。決死のひとみ、ものいわぬ口を、かたくむすんで、粛 翼をひろげた金瞳の黒鷲は、ひとりを片つばさではねとばし、 しゆく あなよというまに、あとのひとりの肩先へとび乗って、銀の爪粛、歩をそろえた。 とばり ぼんてんだい ちゅうてん まもなく、梵天台の平へくる。夜の帳はふかくおりて徳川方 をいかり立ッて、かれの顔を、ばりッとかいて宙天へつるしあ の陣地はすでに見えなくなったが、すぐ前面の人穴城には、魔 は早一ま ひ じゅう 獣の目のような、狭間の灯が、チラチラ見わたされた。その まないたいわ と、大地へおちてきたのをみれば、目も鼻も口もわからな時、やおら、爼岩の上につっ立った軍師民部は、人穴城をゆ びさして、 。満顔ただぐないの一箇の首。 るそん・ヘえ 『こよいの敵は呂宋兵衛、うしろに、徳川勢があるとて、怯む 高らかに、全軍の気をひきしめて、さてまた、 たたかゆみや まん 「味方は小勢なれども、正義の戦い。弓矢八幡のご加勢がある そ。われと思わんものは、人穴城の一番乗りをせよや』 じんとう 同時に、きッと、馬首を陣頭にたてた伊那丸は、彼の言葉を すぐうけついで、 めんめんいくさ 『やよ、面々、戦の勝ちは電光石火じゃ、今こそ、この武田伊 なまる 那丸に、そちたちの命をくれよ』 う′一う こそで ゅうし くろかわどうまるぐそく りんりん さても伊那丸は、小袖のうえに、黒皮の胴丸具足をつけ、そ凛々たる勇姿、あたりをはらった。さしも、烏合の野武士た てき ぐそく こてすねあて じんがさ 一滴の涙を、具足にぬらさぬものはな まつな籠手脛当、黒の陣笠をまぶかにかぶって、いま、馬上しちも、このけなげさに、 あまたけ 来ずかに、雨ガ岳をくだってくる。 再世にめぐまれたときの君なれば、鍬がたの兜に、八幡座の星『おう、この君のためならば、命をすててもおしくはない』 よろいこがねたち と、骨鳴り、肉おどらせて、勇気は、日ごろに十倍する。 のをかざし、緋おどしの鎧、黄金の太刀はなやかにかざるお身で みんぶ にんけん 玄 あるものを・ : ・ : と、つきしたがう、民部をはじめ、忍剣も小文たちまち、進軍の合図。 すよう - 信 ったのすけ 、、くや - 一 みんぶ さッと、民部の手から二行にきれた采配の鳴りとともに、陣 治も蔦之助も、また咲耶子も、ともに、馬をすすめながら、思 つば物、 まんがん しんげん 信玄の再来 くろわし きみ かぶと まんざ きみ こそで くみ - でんこうせつか ひる ま わ 1
ひょうろう よそ ( ない。すでに兵倦み、兵糧もとばしく、もとより譜代の臣でも 、はいよいよ予測すべからざるものとなった。 ゆみと けれど、それは人と人とのこと、弓取りと弓取りのこと。晩ない野武士の部下は、日のたつほど、ひとり去りふたりにげ、 うずらもず この陣地をすて去るにちがいない 天秋の千草を庭としてあそぶ、鶉や百舌や、野うさぎの世界は、 うらや 『軍師、軍師、小幡民部どの ! 』 羨ましいほど、平和そのものである。 もと ふいに、耳元でこうよぶ声。 神ちょうど、それとおなじように、のんきの洒アな顔をして、 ・かじ′ ) う あれやこれ、思いしずんでいた民部が、ふと、見あげると、 またそろ、裾野へ舞いもどってきた泣虫の蛾次郎は、ばかにい にんけん い身分になったような顔をして、あっちこっちを、のこのこと巽小文治と加賀見忍剣が連れ立ってそこにある 『オ。これはご両所、なんぞご用で』 歩いていた おととい あなた 『一昨日から彼方にあって、待ちわびている者が、もう一度こ れを最後として、若君へお取次ぎを願って見てくれいと申し こがくれしゆったっ 『木隠が出立してから、今日で、はや四日目。ー・・ー彼のことて、いツかなきかぬ。ー・ = ・軍師から伊那丸さまへ、もういちど だ。よも、裏切りもすまいが、なんの沙汰もないのは、どうしお言葉ぞえねがわれまいか』 かんべはつぶうさい たのか。おいとしや、若君のご武運も、いまは神も見はなし給『おお、上部八風斎のことですか、その儀は、拙者からも再三 よ、 あ 若君のお耳へいれたが、断じて会わんという御のほか、一 , しまっ と しようイ、 床儿によって、まなこを閉じながら、こうつぶやいた小幡民うお取上げにならぬ始末。事情をいうて、追いかえされたがよ ろしかろう』 部。 じんや ここは、陣屋というもわびしい、武田伊那丸のいる雨ガ岳の おもてとうわく かりや 、の・つ としたが、二人の面は当惑の色にくもった。 仮屋である。軍師民部は、昨日から幕のそとに床儿をだして、 どくだん 自分たちが独断で、八風斎を本陣へつれてきたのがわるかっ ジッと裾野をみつめたまま、童太郎のかえりを、いまかいまか たいめん たか伊那丸は対面無用といったまま、耳もかさないのであ と待ちかねていた。 がーーー竜太郎のすがたは今日もまだ見えない。四日のあいだる。また、八風斎のほうでも、あくまで、会わぬうちは、この けしき には、かならず兵三百を狩りあつめて、帰陣すると誓ってで雨ガ岳をくだらぬといい張って、うごく気色もなかった。 忍剣と小文治は、なかに立って板ばさみとなった。八風斎は た木隠竜太郎。ああ、かれの影はまだどこからも見えてこな だだ 駄々をこねるし、伊那丸は機嫌がわるい。これでは立っ瀬がな いと、いまも民部に、苦しい立場をうちあけていると、ふい いよいよ、絶望とすれば、ふたたび、人穴城を攻めこころみ とばり みち に、帳のかげから伊那丸の声で、 て、散るか咲くかの、さいごの一戦 ! それよりほかは途が すその さた しゃ こばたみん たつみ きげん 0 せ
よわ ぐんりつ に、あるいは、軍律を破って、夜半の眠りをむさばっていたのがたで、 『あははははは、床下から戸まどいしてござったのは、さてこ ではないかとさえうたぐった。 ちん ばっか 『なぜ、かがり火を焚いておらぬ、この暗さで、いざとある場そ、伊那丸が幕下のおかたでござるな。なんにせよ、深夜の珍 きやく ふらちもの 客どの、お話もござりますゆえ、まずそれへおすわりくださ 合になんといたす。不埓者めが。はやく灯をつけい』 し』 『はい、ただ今すぐに明かるくいたします』 やじりかじ ようばう こわね へん いう声がらも容貌も、それは、まぎれもあらぬ鏃鍛冶の鼻か と答える者があったが、すこし声音が変である。調子がおか しわが 小文治は、部下の者のなかにこんな皺嗄れた声はなかったは ずと思って、きッとなりながら、 意外なおもいにうたれた忍剣と小文治の目は、つぎに部屋の 『何者だツ、そこにいるのは ! 』 なが なかを眺めまわした。 と、声あらく、どなりつけてみた。 いろいろやじりかたずめん ここは斎の書斎とみえて、兵書、武器、種々な鏃の型図面 にもかかわらず、相手は平気で、まだカチカチと闇のなか ちょうたねがしま ざった ひうちいしす などが雑多にちらかっており、なかにも一挺の種子島が、いま で、火打石を磨っている。 ひなわ 使ったばかりのように、火繩をそえて、彼のそばにおいてあっ 『名を申さんと突きころすぞツ、敵か、味方か ! 』 あかえ ビラリツーーー朱柄の槍の穂先がうごいて、闇のなかにねらい あまたけ すいさっ 『いかにもご推察のとおり、われわれはいま雨ガ岳を本陣とし すまされた。と、その槍先から、ポーツとうす明かるい灯がと はたもと ている、武田伊那丸さまの旗本でござるが、して、そこもとは もった。 なんびと 『わしは敵でもなければ味方でもない。そう申すおまえがたこ何人 ? またここは一体いずこでござりますか ? 』 しの ややあって、忍剣が、こうしたたした そ、深夜に床下から忍びこんできて、ひとの家へなにしにき すその 『ここは、やはり裾野の村、お二人が間道へはいられた蚕婆の やじりかじ かいこばばあ 家から、さよう、ざっと五、六町はなれた鏃鍛冶の小屋でござ 『やや、ここは蚕婆の家ではなかったのか あるじばくさい ばうぜん 客忍剣も小文治も、あまりのことに茫然としながら、そこに立る。すなわち、手前は主のト斎と申す者』 かぎよう やじりかじ 『ではそちも、鏃鍛冶とは世をあざむく稼業で、まことは蚕婆 珍った一人の人物を、そも何者かと、みつめなおした。 あんどん の いま灯した行燈を前にだして、しずかに席についたその男とおなじように、人穴城の目付をいたしておるのであろう どうふく 夜 は、するどい両眼に片鼻のそげた顔をもち、熊の毛皮の胴服 あざわら ざや 深 小文治が、グッと急所を押すと、ド斎は、ひややかに嘲笑っ に、刻み鞘の小太刀を前挾みとなし、どこかに、凄味のあるす きイ - すごみ 739
たいまっ いのりの支度をととのえさせた。 『うろたえていすとかがり火を消せ、はやく松明をすててしま コンタッコンタッ 『念珠を念珠を、これへ え、敵方の目じるしになるぞ』 馬 るそんべえ なんばん・あいのこキリシタン あんめい あたりはたちまち暗瞑の地獄。 天呂宋兵衛は、前にもいったとおり、南蛮の混血児で切支丹の きとう 妖法を修する者であるから、層雲くずれの祈蒋も、自分が信じ ただ、燃えいぶった煙と、ののしる声と、太刀や槍の音ばか ま 神るの式でゆくつもりらしい りが、ものすごく増していった。 コンタッ くび 手下の者から、念珠をうけとった彼は、それを頸へかけ も、つ、どこかで斬りあいがはじまったらしい。 だん 胸へ、白金の十字架をたらして、しずしずと壇の前へすすん星明りをすかしてみると、敵か味方か入りみだれてよくわか はくばくろかげ らないが、白馬黒鹿毛をかけまわしている七人の影は、たしか よ しわぶき 護衛する野武士たちは、咳もせず、いっせいに槍の穂さきに襲せてきた七勇士。それに斬りまわされて、呂宋兵衛の手下 あ を立てならべた。なかにはきよう味方についた穴山の残党、足どもは、 すけもんどのしよう 助主水正、佐分利五郎次、その他の者もここにまじっている。 『駄目だ、足を斬られた』 せきろう だん きんめいすい んめいすいじようすい 壇にむかって、七つの赤蝋をともし、金明水、銀明水の浄水『敵は案外てごわいぞ、もう大変な手負いがでた』 をささげて、そこにぬかずいた呂宋兵衛は、なにか訳のわから『殿堂へ逃げろ ! 』 つぶや ぬいのりのことばを呟きながら、一 心に空の星を祈りだした。 『人穴へ引きあげろ ! 』 ほそみちくも すると、どこからともなく、ザッ、サッ、・ザッ、ザッと草を と声をなだれあわせて、思いおもいな草の細径へ蜘蛛の子の なでてくるような風音。つづいて、地を打ってくる蹄のひびちるように逃げくすれた。 それらの、雑兵や手下には目もくれず、さきはどから馬上り んりんとかけまわっていた伊那丸は、 、、くや - 一 彼はぎよっと、頭をあげて、 『咲耶子はいすれにある。咲耶子、咲耶子』 ゆだん 『あの物音は ? あのひびきは ? おお馬だツ、 人声だ。汕断と、しきりに呼びつづけていた するな ! 』 『おお伊那丸さま、わたくしはここでござります』 あられ いでたち 叫ぶまもなく、ビュッ、 ビュッと、風をきってくる霰のよう近よってきた白鹿毛の上には、 力しがいしい装束をした彼女 かんせい ほそみな一なた な征矢。ーー早くも、四面の闇からワワーツという喊声が聞えのすがたが、細身の薙刀を小脇に持って、につこりとしてい 『さては武田伊那丸がきたか』 『咲耶子、呂宋兵衛めは、いずれへ姿をかくしたのであろう。 さくや・一 にんけんりゅうたろう 『いやいや咲耶子が仕返しにまいったのだろう』 忍剣も童太郎も、いまだに討ったと声をあげぬが』 0 やみ こ 0 だめ - 一わき てお ノ 02
とう 「木ッ葉武者はどうでもよいが、当の敵たる穴山入道を討ちものびる。いまはいやも応もあらばこそ、みにくい姿をズルズル きやっ と伊那丸の前へ引きだされてきた。 っこ、彼奴はど らしたのは、かえすがえすも残念であった。いオし , 馬 民部は、その襟がみをつかんで、 こにうせたか』 天 せっしゃ . し子 / 『入道ツ、面をあげろ』と、 川『たしかにここで拙者が一太刀くれたと思いましたが』 『むウ : : : ム、残念だッ』 神と小幡民部も、無念なていに見えたけれど、伊翆丸はあえ ここまでの間 穴山梅雪は眉間を一太刀割られているうえに、 て、もとめよといわず、かえって、みなが気のつかぬところに くらつば ー幾度となく投げられたり鞍壺にひッつるされたりしてきた 注意をあたえた。 『それはとにかく童太郎のすがたが、このなかに見えぬようでので、この世の者とも見えぬ顔色になっていた。 いたで あるが、どこそで、傷手でもうけているのではあるまいか』 『お、いかにも竜太郎どのが見えぬ』 てあら 『まて民部、手荒なことをいたすまい』 一同は入りみだれて、にわかにあたりをたずねだした。する もっともうらみ多きはずの伊那丸が、意外にもこういったの と、咲耶子は耳ざとく駒の蹄を聞きつけて、 「みなさまみなさま。あなたからくるおかたこそ童太郎さまにで、民部も忍剣も、意外な顔をした。 等 - 早 - まし そうい 相違ござりませぬ。オオ、なにやら鞍わきにひッつるして、み伊那丸はしずかに、階段からおりて、梅雪入道の手をとり、 いたえん るみるうちにこれへまいります』 宮の板縁へ迎えあげて、礼儀ただしてこういった。 『や ! ひッさげたるは、たしかに人』 『、かに梅雪、今こそ迷夢がさめたであろう、わしのような少 かいげんじ 『穴山梅雪 ? 』 年ですら、甲斐源氏を興さんものと、ひたすら心をくだいてい るのこ、、、 し力にとはいえ、二十四将の一人に数えられ、武田家 『オオ、梅雪をつるしてきた』 そ - 一もと の血統でもある共許が、あかざる慾のためにこのみにくき末路 『童太郎どの大手柄じゃ、でかしたり、さすがは木隠」 はなにごと。それでも甲州武士かと思えば情けなさに涙がこば 口々にさけびながら彼のすがたを迎えさわぐなかにも、忍剣 わらべ このうえはいさぎよく自害して、せめて最期を は、ほとんど児童のように狂喜して、あおぐように手をふりなれる。いさ , まつだいみれん がらおどりあがっているーーーと見るまに、それにもどってきた清うし、末代未練の名を残さぬようにいたすがよい』 『ええうるさいッ』梅雪はもの狂わしげに首をふって、 童太郎は、どんと一同のなかへ梅雪をほうりやって、手綱さば 『余に自害せいとぬかすか、・ハ力なことを ! 』 きもあざやかに鞍の上から飛びおりた。 『それッ』 『なんと、もがこうが、すでに天運のつきたるいま、のがれる ことはなるまいか』 待ちかまえていた一同の腕は、期せずして、梅雪のからだに おおてがら くら こまひづめ - 一がくれ たづな ちすじ おもて みけん えり まつろ
しげ ろよろとした。 スポーンと紅葉の茂りへおちた梅雪のからだは、物のごとく お くまギ - 、がけ ころがりだして、土とともに、ゴロゴロと熊笹の崖をころがっ 『老いばれ』 えり すかさずその襟がみをムズとっかんだ武芸者は、その時ガサてきた。童太郎は、、い得たりと引ッつかんで、さらに上なる人 ガサと止の下からかけあがってくる木隠童太郎の姿をみとめをあおぎながら、 『山県蔦之助どのとやら、まことに忝のうござった。そもい ひきで みうち かなるお人か存じませぬが、おことばに甘えて初見参のお引出 『あいや、それへおいであるのは、武田伊那丸君のお身内でご ざらぬか』 もの、たしかにちょうだいっかまつった。お礼は伊那丸さまの ぜん 『オオ ! 』 ご前にまいったうえにて』 びつくりして、高き岩頭をふりあおいだ童太郎は、見なれぬ『拙者もすぐ後よりつづきますゆえ、なにぶん、君へのお引合 わせを』 武芸者のことばをあやしみながら、 も・び - と 『細承知、はや、まいられい ! 』 『いかにも、伊那丸さまのお傅人、木隠童太郎という者でござ へトになった梅雪を小脇にかかえた童太郎は、さっき乗 るが、もしや、貴殿は、このなかへ逃げこんだ血まみれなる法 しむしゃ 師武者のすがたをお見かけではなかったか』 りすててきた駒のところへと、一散にかけおりていった。 「その入道なれば、わざわざこれまでお登りなさるまでもない と、同時に、上からも身軽にヒラリヒラリと飛びおりてきた ) と』 山県蔦之助。 くらつば 『や ! では、そこにおさえているやつが ? 』 童太郎は、黒鹿毛にまたがって、鞍壺のわきへ、梅雪をひッ むち やまがたったのすけ ういけんざん 『オオ、山県蔦之助が伊那丸君へ、初見参のご挨拶がわりに、 つるし、一鞭くれて走りだすと、山県蔦之助も、遅れじもの と、つづいていく。 ただいまそれへおとどけもうすでござろう』 ろうどう いうかと思えば、若き武芸者ーーそれはかの近江の住人山県 一方、白旗の宮の前では、穴山の郎党たちは、すでに一人と にんけん もろ ゅんで 蔦之助ーーカラリと左手の弓を投げすてて、梅雪入道の体に双して影を見せなか 0 た。そこにはをあげた忍剣、小文治、 きイ、はし 手をかけ、なんの苦もなくゆらッとばかり目の上にさしあげ民部、咲耶子などが、あらためて、伊那丸を宮の階段に腰かけ させ、無事をよろこんでほッと一息ついていた。人々のすがた ちしお もみじ 末「それ、お受けあれや童太郎どの ! 』声と一しょに梅雪の体はみな、紅葉を浴びたように、点々の血汐を染めていた。勇壮 せいび といわんか凄美といわんか、あらわすべきことばもない 道を、丘の下へ、投げとばしてきた。 しやくしやく 入 なかでも忍剣は、疲れたさまもなく、なお、綽々たる余裕 ぜんじよう を神杖に見せながら、 て いなまるぎみ おうみ あいさっ み、くや - 一 もみじ - 一わき まり よゅう
ひきあげる手くばりせい』 城地は、いやでも加増するであろう。その暁には、そのほう 『十 6 ツ、、 力しこまりました』 も充分に取りたて得さす』 ろうどう 民部はいさみ立ったさまをみせて、郎党たちを八方へ走らせ『かたじけのう存じます。しかし、お望みの物が手にはいっこ み一と・ひと た。まもなく、地理にあかるい土着の里人が、何十人となく からは、一刻もご猶予は無用、この場で伊那丸を首にいたし、 くさりか′一 ここへ召集されてきた。そして、狩りだされてきた里人や郎党あの鎖駕籠へは宝物のほうを入れかえにして、寸時もはやく家 かづな は、多くの小船に乗りわかれて、湖水の底へ鈎綱をおろしなが康公へおとどけあるが上分別とこころえます』 『おお、きようのような吉日はまたとない。いかにもこの場で ら、あちらこちらと漕ぎまわった。 せいば、 かいしやく きやつを成敗いたそう、その介錯もそちに命じる ! ぬかる ばいせつ 陸のほうでは、穴山梅雪入道が白旗の宮のまえに床几をす『はツ、心してっとめます』 ゅうぜん 梅雪の目くばせに、きっとなって立ちあがった民部はすばや え、四天王の面々を左右にしたがえて悠然と見ていた。 たすき どんよくそう - 一う 、げお と、彼の貪慾な相好がニャニヤ笑みくずれてきた。 湖く下緒を取って襷となし、刀のつかにしめりをくれた。そのま えもの 水の中、いでは、、 しましも鈎にかかった獲物があったらしい。多まに、一「三人の郎党は、小船の板子を四、五枚はずしてき くの小船は、たちまちそこに集って鈎をおろし、エイヤェイヤて、武田伊那丸の死の座をもうけた。 『これこれ、せんこくの小娘もことのついでじゃ。そこへなら の声をあわせて、だんだんと浅瀬のほうへひきずってくるよう すだ。 べて、民蔵の腕だめしにさせい。旅の一興に見物いたすもよか いなまるにんけんちえ 伊那丸と忍剣が智慧をしばって世の中からかくしておいた宝ろうではないか』 * 、くや・一 宮の根もとにくくりつけられていた咲耶子は、罪人のように 物も、こうして、苦もなく発見されてしまった。まもなく梅雪 しよう みずごけ 入道の床几の前へ運ばれてきたものは、真青に水苔さびたその追ったてられて、板子のならべてある隣りへすえられた。彼 がみ いしびつ 女は、もうすっかり覚悟を決めてしまったか、ほっれ髪もおの 石櫃。 しらゆり 「殿さま、ご苦心のかいあって、いよいよご開運の秘宝もめでのかせず、白百合の花そのままな顔をしずかにうつむけてい しゅうちゃく る。 く手に入りました。祝着にぞんじまする』 よろい 里人たちに恩賞をやって追いかえしたのち、民部はそばから 一方では、鎧の音をさせて、ずかずかと迫っていった四天王 祝いのことばをのべた。 の面々が、例の鎖駕籠のまわりへ集り、乗物の上からかぶせて てがら 言そのほうの手柄は忘れはおかぬそ。この宝物に伊那丸の首をある鉄の網をザラザラとはすしはじめた。 そえて差しだせば、、かにけちな家康でも、一万石や二万石の長い道中のあいだ日のめを見ることなく、乗物のうちにゆら おか 力い - っ・ル しよう ゅうよ とな あかっき すんじ