武田 - みる会図書館


検索対象: 吉川英治全集 別巻 第1巻 神州天馬侠
133件見つかりました。

1. 吉川英治全集 別巻 第1巻 神州天馬侠

るまいな』 そのいわれのある古戦場で、その信玄の孫が、わずか二人の ぶ筆よう じゅうしゃ さびがたな 『じゅうぶん、ご奉行とともに、お打ち合せをいたしますつも従者とともに、錆刀で首を落とされるとは、なんと、あわれに いんねん もまた皮肉な因縁よ ! ・一うみ、つ あざみかわぶし と、気の毒がるささやきもあれば、心地よげに嘲む三河武士 『矢来、高札、送り駕、また警固の人数など、そのほうは ? 』 もある 『いちいち、手配ずみでございます』 りようみん とにかく、春もくれかかる東海道の辻には、そのうわさが、 『またその日はうわさを聞きおよんで、あまたの領民があつま こうがぐみ なにかしら、人に無情を思わせた。 るにちがいない。甲賀組、伊賀組の者、残りなく狩りだして、 はな あやしい者の見張りに放ちおくように』 へんそうぐみ 『変装組百人ばかり、もう今日のうちに、ご領内へ散らしてお きました』 たけだいなまるかがみにんけんこがくれりゅう 『ウム、ではもう牢内の、武田伊那丸、加賀見忍剣、木隠童 たろう 太郎、その三人を都田川にひきだして首を洗って斬るばかり 、よい 『御意。もはや、裾野の雲は晴れました』 か うれい 『甲斐ざかいの憂惧がされば、これで心を安らかにして、旗を ちゅうげん 中原にこころざすことができるというもの。家康にとって、伊 ふえね がん ゆくすえ すんだ笛の音がながれてくる。 那丸はおそろしい癌であった。幼少ながら、かれの行末は浜松 のろ あまひこ かん かいじ 城の呪いであった。それを捕らえ得たのは近ごろの快事、いず鬼一管とか天彦とかいう名箝の音のようだ。なんともいえな 、、り げつめい ざんけい おんしよう かいちょうよいん い諧調と余韻がある。ことに、笛の音は、霧のない月明の夜ほ れも斬刑のすみしだいに、恩賞におよぶであろうが、その日の ど音がとおるものだ。ちょうど今夜もそんな晩。 くるまでは、かならず油断せまいそ。よいか、半助』 しらかば 人 る そこは、白樺の林であった。 さては、家康のごきげんなわけは、伊那丸が捕らえられたこ あんうん さらぬだに白い斑のある樺の木に、一本一本、あおじろい月 擲とであるか。と一同はうなすいて、徳川家のため、暗雲の晴れた を 心地がした。そして、城を退ったものは、このうわさを城下に光が横から射している。 首 れいき のったえて、その日のくるのを、心待ちにしていた。そしてかっ 笛がとぎれた時の、シーンとした静寂と冷気とは、まるで深 いくさがみしんげん きようゆう のて軍神の信玄が、甲山の兵をあげて、梟雄家康へ、乾坤一擲の海の底のようだ。けれど、事実はおそろしい高地なのだ。 4 わけっせん みかたはら こたろうんちゅうふくじんば 血戦をいどんだ三方ガ原。 小太郎山の中腹、陣馬ガ恥の高原つづき。 ろうない すその がぐみ けんこんてき 0 おのれの首を投げる人 くびな めいてき は しじま ひと - 一うち 引 7

2. 吉川英治全集 別巻 第1巻 神州天馬侠

じじっ 『じゃ、話してやるから、それがすんだら、すぐに火焔独楽を事実だ。伊那丸の遭難はまことであ「た。ああ、大事はつい まわすのじゃそ』 馬 天『ええ、まわしますとも、まわしますとも』 『ウウム、も、つこ、つしてはおられない ! 』 州『その武田伊那丸は、まえからほうばうへ手配をしていたが、 と竹童の眼はわれを知らずかッと燃えた しんけん 神なかなか捕まえることができなか「た。するとこんど、桑名の その真剣な気ぶりに、万千代や小姓たちが、少しあとへさが わだるそんべえ みっそ ほうから、和田呂宋兵衛という者が密訴をしてきた。その者の 0 たのをしおとして、かれはまた、ふたたびにとりかかるよ せきしょ ことばで、伊那丸のとおる道がわか 0 たから、関所に兵を伏せうな身構えをキッと取り、 ちくぶじましんでんま 1 一ま ておいて、苦もなくしばりあげたのじゃ。だから、あさっての 『では ! 竹生島神伝の魔独楽 ! 』 みやこだがわけいじよう 太刀取りは呂宋兵衛が役をおおせつかって、都田川の刑場で、 と、こえ高らかに叫んで つるはわた その三人の首を斬ることになっている』 『ーーー小手しらべは剣の刃渡りッ かたて はんにやまるわき早 - し 『ああ、そうですか。いや、それでよくわかりました』 片手に独楽ーーまわすと見せて、一方の手に、般若丸の脇差 と、さり気なく聞いていたものの、竹童の胸は早鐘をついてを抜きはな 0 たかと思うと、杉の根元につながれている、クロ しる の綱をさッと斬った。 おおわし しでん 「そして、この大鷲は、どうしてまた、あなたがたのお手に入・紫電のおどろきに、鷲は地をう「てユラリ と、空に足を りましたか。浜松にも、めったにこんな大鷲は飛ばないでしょちぢめた。 ふたたび帰らぬ高き上に。 くわな 『この鷲か これもその呂宋兵衛が、桑名から浜松へくる 『あ、あ、あッ きくちはんすけ とちゅうで捕まえたのを、菊池半助のところへ土産に持ってき と、不意をくったとんば組の小姓たちは、旋風にまかれた木 たのじゃ。それを万千代さまが、おねだりして、こうしてとんの葉のように、睥する大鷲の腹の下で、こけつ、まろびつ、 ひめい ば組で飼っているのじゃ。だから、めッたな者にはかさない 悲鳴をあげて、 じようずこま が、おまえが上手に独楽をまわせば、万千代さまもかしてやろ『逃がすな』 かえんごま うとおっしやる。サ、はやくまわしてみせい、はやく火焔独楽『いまの独楽まわし きよくまわ の曲廻しをやってみせい』 『あッちへいった ! 』 こままわ もうす 0 かり、竹童を旅の独楽廻しと思「ているので小姓た『鷲も逃げた ! 』 ちは、城内で聞きかじっていたことを、みんなべラベラしゃべ 『それ』 ってしまった。 『そらッ』 たちと 0 みやげ はやがね かえんごま みがま そうなん ッ つむじ 374

3. 吉川英治全集 別巻 第1巻 神州天馬侠

りすう るぜ。だがまだいまのうちなら、タ陽がキラキラしているから 字路の方角や里数をおしえてくれている。 『ど , つもありがとうございました』 ししはやく、いそいでゆくことにしねえ』 馬 クルリとふり向くと、さきの者とは、だいぶ距離ができたの 天竹童はその道しるべより、肩にかついでいる高札のことを、 くりよ 州なんとかして聞きほじりたいがと苦慮したが、いきなりたずねにびつくりして、足軽の男は、急にいそぎ足に別れかけた。 『あ、おじさん。もしもし』 神だすのもさきの疑いを買うであろうと、わざと空とばけて、 「それでよく道はわかりました。ですけれど、おじさん、この竹童は、あわててそれを呼びかえしたが、・ へつに、どういう こうじっ ーしったいなんという所なんでしようね』 広い原ッまま、、 口実もないので、とっさの機智を口からでまかせに、 こしてぬぐい 『おまえは、それも知らずに歩いているのか。子供ってえもの『腰の手拭が落ちますよ』といった。 しんげん、えやす 『ありがと , っ』 はたわいのねえものだ。ここはおまえ、甲斐の信玄と家康さま しの みかたはら と、さきの男が、うつかり釣りこまれている間に、かれは、 とが、鎬をけずった有名な戦場で、 ほれ、三方ガ原という ところだ』 すかさず、矢つぎ早にさぐりを入れた , 、じよう みかたはら 『あ、ここが、三方ガ原でございますか。 なるほど広いも 『あの、いまおじさんがいった刑場で、いったいだれがいっ斬 んだなあ。そして、おじさんたちは、やつばり徳川さまのご家られることになるんです』 来ですか』 『よくいろんなことをききたがるな。子供のおまえにそんなこ はままつじようあしがるぐみ とを話してもしかたがねえが、男は一度は見ておくものだそう 『そうよ、おれたちは、浜松城の足軽組だ』 みやこだがわたけやらい たいまっ だから、あさっての夕方、都田川の竹矢来のそとへ見にきね 「いまごろから、あんな青竹や松明をたくさん車につんで、い っこい、どこへおいでになりますので ? 』 え。この高札に書いてある通り、こんど徳川さまの手でつかま 『おれたちか : : 』足軽は、ちょッといやな顔をして、 った、武田伊那丸とその他二人の者が・ハッサリとやられるのだ よあ みやこだがわ から』 『これから都田川の手まえまでいって、夜明かしで、人の死に も , つ、、つるさいと思ったか、こんどはそっけなくいし。オ 場所をこしらえにかかるんだよ』 『へえ、人の死に場所を』 た。肩の高札を持ちかえると、ふり向きもせずにタッタとさき けいじよう 『うむ。つまり、刑場のしたくにゆくんだ』 の人数を追いかけていった。 『ああ、それで、矢にする竹や丸太や、獄門台をつくる道具 五 をかついで、みんながさっき向こうへいったんだな』 あしがる はんちょう 「そうだ、おまえも、こんなこわい話を聞いてしまうと、ただ ゆき別れた足軽のすがたが半町ばかり遠ざかると、生ける色 みかたはら さえさびしい三方ガ原が、よけいにさびしくなって歩けなくな もなく、そこに取りのこされた竹童は、 ごくもんだい ・一うさっ ほか っ きより 308

4. 吉川英治全集 別巻 第1巻 神州天馬侠

白き衣をつけた居士のすがたとみえたのは、はからざりき一 まする』 たんちょう かしん - 一じ 『なんという。では、果心居士先生が、この近くにおいである羽の丹頂 ! まっ白な翼をハタハタとひろげて、四人の上に輪 ありあ 馬 をえがいて舞いめぐり、あれよと見るまに有明けの月のかげを 天のかオオ、ちょうどよいおり、ぜひお目にかか「ておこう』 かすめて、いずこともなく飛んでしまった。 と伊那丸はにわかに立ちあがった。 かしん - 一じ りゅうたろう 神竜太郎や忍剣も、居士のすがたを拝さぬこと久しいので、先しかし、四人はまだ、なお岩の上に、果心居士がいるような だれ たき たいまっ の松明をふりかざし、竹童を案内にして、雷神の滝の断崖をよ心地がして、その上まで登ってみた。そこには誰もいなかっ じ登っていくと、やがて竹童。 ただ残っているのは一本の刀。 『みなさま、ごらんなさいませ。あのいちばん高い岩の上に、 たいまっ つぼ ししよう お師匠さまが立っておられます。そしてこちらの松明が、近づ滝壺のなかに落としたとばかり思っていた、竹童の愛刀般若 丸は、水にもぬれずにおいてある。 いていくのを待っておいでなされます』 『や、まだなにやらここに : 指さすかたをみると、なるほど、滝の水明りと、ほのかな たいまっ - 一ろも - 一がん と、伊那丸は松明の光をよんで足もとをみつめた。 星影の光をあびて、孤岩の上に立っている白い道士の衣がみえ すう - よう る。 見ると、岩をけず 0 て、数行の文字が小柄でりのこされて ある。それは、うたがう余地もなく、果心居士らしい枯淡な筆 『おお、老先生ーーー』 せきで、 竜太郎は、はるかに見てさえ、なっかしさにたえぬように、 声をあげた。 おうとっ 父子の邂逅はむなしく 熊笹にせばめられた道、凹凸のはげしい坂、息をあえぎあえ とりで 小太郎山の砦はあやうし ぎ、その岩の根元までいそいできた四人は、そこへくると同時 に、岩の上をふりあおぎ、声もひとつによびかけた。 - よ、つ とただ二行の文字であった。 『果心先生 ! 果心先生 ! 』 よげん - 一がん しかし、この二行にすぎぬ文字の予言は、武田伊那丸にとっ するとーーーおうという声はなく、ふいに、孤岩の上の道士の て、否、その帷幕の人すべてにとって、なんと絶望的な、そし すがたが、ふわりと宙へ舞いあがったので、四人のひとみも、 と空へ吊られていった。 て戦慄すべき予言ではあるまいか その時ーー・ ありあけ 夜はまだ明けぬが有明の月、かすかに雲の膜をやぶって黒い 鞍馬の山の端にかかっていた。 くま早、 * 、 っ ちゅう まる せんりつ っ第はみ、 25

5. 吉川英治全集 別巻 第1巻 神州天馬侠

かしんこ らくのあいだ、一党の人に影もすがたも見せないでいた果心居ちこま、 冫。いよいよ邪計の萌しがみえる。ーー武田の残党を憎む こぶんじ 士が、こっぜんと、そこに立ったのであるから、小文治もばう 馬 ことが、いぜんよりもはなはだしい。そして、秀吉と覇をあら いなまるみ 天ぜんとして、思わず、腰をついてしまった。 そううえにも、つねに背後の気がかりになる伊那丸君やそれに かたん ぎせい 州『きようはえらいさわぎだったな』 加担のものを、どんな犠牲を払「ても、根絶やしにしなければ したく 神居士はいつもかわりのない童顔に明るい微笑を波のようにた ならぬと、ひそかに支度をしつつあるのだから』 わかわか せんみ たえて、 老骨とは思われない若々しい居士の語韻のうちに、仙味とい どうおん 「わしも、すこしあんじられたので、きようは早くからあれにおうか、童音といおうか、おのずからの気禀があるので、小文 腰をすえて見物していたのじゃ』 とりい 治はつつしんで聞いていたが、話がとぎれると、遠駆け試合の けっしよう と、鳥居の上を指さした。 決勝が気にかか 0 て、じッと落ち着いてはいられない気がする。 かしんこじ 『えツ、では、先生には、あの鳥居の上から御岳の試合をなが 『もし、果心居士先生』 めておいであそばしたので』 たまらなくなって、腰を浮かしかけた。 くらま かも 『よく見える。あたかも鞍馬の上から加茂の競を見るように 『なんじゃ』 はなしちゅう 『せつかく、お話中ではございますが、ご承知のとおり、わ とおが 『して、いっこの武州へ』 たしはいま遠駆けのとちゅう、この矢をもっていっこくも早く 『ゅうべ、なにげなくれいの亀ドの易をこころみたところが、試合場へもどりませぬと : けめん どうもはなはだおもしろくない卦面のしらせじゃ。そこでにわ『ウムぞんじておる』 おお かに思い立って、きようぶらりとやってきたが、はたしてこの 『でも、ただいまも仰せられたとおり、まんいち不覚をとりま さくや - 一 さわぎ : すと咲耶子の身を』 わん 小文治は居士の話にいろいろな疑念をはさんだ。亀ドの易と 『それもわかっている。まあよい』 きようくらまやま ぶしゅう はなにか ? また京の鞍馬山から武州まで、きようぶらりとや わかっていると、 しいながら、小文治のワクワクしている胸の むく ってきたというのも、自分の聞きちがいのような気がした。 うちもさっしなく、居士はゆうぜんと椋の木の根に腰をすえ はんがん けれど、かれがそんなことに頭をそらしているうちに、居士て、目を半眼にとじ、頤の銀髯をやわらかになでている。 はずんずんとさきの話をいいつづけていて、 四 『で、なによりあんじられたのは、万が一にも、咲耶子の身を 徳川家のほう〈とられると、おそらく、ふたたび助けだすこと気が気ではないのに、居士はまだことばを切らないで、 みだ ができまいということであった。なぜといえば、家康の心のう 『わしがみるところでは、世はいよいよ乱れるだろう、 ぶしゅう とう とりし みたけ き ! くえき ろうこっ じやけい きぎ ふかく んとう は

6. 吉川英治全集 別巻 第1巻 神州天馬侠

そうりよ 『そうでもなければ、お前さんは、あんな小さな者のために、 よ。あの三人の僧侶のうちのひとりがたしかに武田勝頼、あと はんにやまる てんもくん のふたりは家来であろう。うまく姿をかえて天目山からのがれ般若丸のためし斬りにされていたろうよ』 わし ばばあ 『まったく ! あいつは鷲乗りの名人だとは思ったが、剣道ま 天てはきたが、もうこの婆の目にとま 0 たからには、運のつき るそん・ヘえ : すこしも早く、呂宋兵衛さまへ、このことを知らさなけれで、アア上手だとは夢にも気がっかなかった』 『なアに竹童は剣術なんて、ちっとも知っていやしないのだけ 神ばならぬが、め 0 たにここをはなれて、また抜けだされたら えんさく いったいどこへれど、おまえのほうが弱過ぎるのさ。だがまア、そんなことは 蜂とらずじゃ、ええ、あの半間の燕作のやっ、 えんさく もうどうでもいいや、燕作さんや、一大事が起ったよ』 いってしまったのだろう』 くちこごと 『え ? またいそがしくなるのかい』 ブップッロ小言をいいながら、濠のまわりをいきつもどりつ していると、向こうから足をはやめてきた男が、ひょいと木を『用をたのみもしないうちから、いやな顔をおしでないよ。お あるじ るそんべえ しゅび , ミいにこれが首尾よくいけば、呂宋兵衛さまも一国一城の主 楯にとって、 となり、わたしや、おまえも秀吉さまからウンとご褒美にあり 『だれだ ! そこにいるなあ ? 』 つけるんじゃないか、しつかりしなくッちゃいけないよ』 と、油断のない目を光らした。 がってん えんさく 『合点合点。ところでなんだい、その一大事とは』 『おや、おまえは燕作じゃないか』 「それはね : : : 』 『なアんだ、婆さん、おめえだったのか』 えんさく ばばあ 婆はギョロリと館のほうへ目をくばってから、燕作のそばへ と、声に安心して、早足の燕作、木のそばをはなれて蚕婆 すりよって、その耳ヘロをつけてなにやらひそひそとささやき のほうへのそのそと寄ってきた。 はんま 『どうしたんだい、半間にもほどがあるじゃないか』 えんさく しばらく、目を白黒させて聞いていた燕作、 と婆は燕作を息子のように叱りつけて、 たびそう たびそう ちくどう 僧には斬りまくられ、旅僧に睨らまれればす『えツ、じやさっきの旅僧が、天目山からのがれてきた勝頼だ 『竹童みたいな小 ったのか』 ぐに逃げだすなんて、いくら町人にしても、あまり度胸がなさ し すぎるね』 すとんきよう えんさく 『婆さん婆さん、そ、つガミガミと いいなさんな。あれでも燕作 その素頓狂な声をおさえつけて、 るそんべ にしてみりや、精いつばいにやったつもりなんだが、なにしろ『わたしはここで見張っているから、はやくこのことを呂宋兵 え ちくどう めんく 竹童のやつが必死に食ってかかってきたので、すこし面食らっ衛さまに知らせてきておくれ。こんな役目はおまえさんにかぎ たというものさ。だが、お前が木の上にかくれていて、れいのるのだから』 「よしきた ! おれの足なら一足とびだ』 針をふいてくれたので大助かりだッたぜ』 たて はんま かいこばばあ やかた えんさく えんさく 226

7. 吉川英治全集 別巻 第1巻 神州天馬侠

おうー 『 4 、つ 1 ー し』 かけつつ馬上の将は何者をか呼びもとめた。それにつづい 天て、陣笠の兵たちも、かわるがわる、声をからして、おー つなみ おーいと海嘯のように鬨の声を張りあげた。 神 夢かとばかり思わせた。 『ゃあ、やあ、若君はご無事でおわすか、その余のかたがたもわ こがくれりゅうたろう 聞かれよ、すぐる日、小太郎山へむかった木隠童太郎、ただ今 これへ立ち帰ったり ! 童太郎これへ立ちかえったり ! 』 ちじく と、地軸をゆるがす歓喜の声。 こつわん 地から湧いたように、忽然と、人無村をつきぬけて、ここへ と、ふたたびあがる乱軍のなかの熱狂。しばしは、鳴りもや かけつけてきた軍勢は、そもいずれの国、いずれの大名に属す みかわぜい はたさしもの きばたいしよう ものか、あきらかな旗指物はないし、それと知らるる騎馬大将まず、三河勢はその勢いと、新手の精鋭のために、さんざんに もなかには見えない。ふしぎといえばふしぎな軍勢。 なって敗走した。 - 一うや ふなゅうれい 海に船幽霊のあるように、広野の古戦場にも、また時とし木隠童太郎は、やはり愛すべき武士であった。彼はついに むしゃゅうれい て、武者幽霊のまばろしが、野末を夜もすがらかけめぐって、主君の危急に間にあった。 らっ き - 一くしゅうしゅう それにしても、彼はどうして、小太郎山から、四百の兵を拉 草木も霊あるもののごとく、鬼哭啾々のそよぎをなし、陣馬 さとびと の音をよみがえらせて、里人の夢をおどろかすことが、ままあしてきたのであろう。それは、彼についてきた兵士たちのいで るという古記も見える たちを見ればわかる。 それではないか ? 陣笠も具足も、昼のあかりで見れば、それは一夜づくりの紙 この軍勢も、その武者幽霊の影ではないか、いかにも、まばごしらえであろう、兵はみな、小太郎山の、とりでの工事には てんびよう じんそく かじ ろしの魔軍のごとく、天颱のごとく、迅速な足なみだ。 たらいていた石切りや、鍛冶や、大工や、山崩しの土工なので たくわ 『 4 わ、つ 1 ー おうー し』 ある。武器だけは、砦をつくるまえに、ひそかに、蓄えてあっ うしお 魔軍はまた、潮のように呼んでいる たので不足がなかった。 せいさん 時しもあれ この成算があったので、童太郎は四日のあいだに、四百の兵 きち かめいむさしのかみ せいかん ほど遠からぬところにあって、亀井武蔵守の、精悍なる三河を引きうけた。そして、その機智が、意外に大きな功をそうし 武士二、三百人に取りまかれていた武田伊那丸の矢さけびを聞た くや、魔軍は忽然と、三段に備えをわかって、わッとばかり斬しかし、一同は、ほッとする間もなかった。ひとたび兵をひ かめいむさしのかみ ないとうきよなり りこんだ。 いた亀井武蔵守は、ふたたび、内藤清成の兵と合して、堂々 くきよう ときに、矢来の声があって、伊那丸をはじめ苦境の味方を、 と、再戦をいどんできた。 まぐん わ こつねん 0 とき とりで かんき

8. 吉川英治全集 別巻 第1巻 神州天馬侠

『、民部やある』 四 としきりに呼ぶ。 しょたいめん 『まッ 初対面のあいさつや、陣中の見舞いなどをのべおわっての おく 、とりいそいで、幕のなかへ姿をいれた小幡民部は、ふたたびち、八風斎は、れいの秘図をとりだし、主人勝家からの贈り物 しつか そこへ立ちもどってきて、 として、うやうやしく、伊那丸の膝下にささげた。 りようしょ 『よろこばれよご両所、にわかに若君が、八風斎に会ってやろ が、なぜか、伊那丸は、よろこぶ色はおろか、さらに見向き よい うとおおせだされた。御意のかわらぬうち、いそいで、彼をこ もしないで、にべなくそれをつツかえした。 こへ』 『ご好意はかたじけないが、さようなものは自分にとって欲し みやげ ゅうもない。持ちかえって、柴田どのへお土産となさるがまし です』 間もなく、上部八風斎はあなたの仮屋から、忍剣と小文治に ともなわれてそこへきた。迎えにたった民部は、そも、・どんな 『は、心得ぬ仰せをうけたまわります。主人勝家こそは、はる ようばう おんぞうし 人物かとかれを見るに、鼻かけ斎の名にそむかず、容貌こ かに御曹子のお身上をあんじている、無二のお味方、人穴城を ほくえっきようゆう そ、いたって醜いが、さすが北越の梟雄鬼柴田の腹心であり、 お手にいれたあかっきは、およばずながらよしみをつうじて、 かんろく うしろだて . よ かっ、攻城学の泰斗という貫禄が、どこかに光っている。 御若年のお行末を、後援したいとまで申しております。 じゅのう 『八風斎どの、それへおひかえなさい』 にとそ、おうたがいなくご受納のほどを』 制止の声とどうじに、く ノラ・ハラと陣屋のかげからあらわれた 『だまれ、八風斎 ! 』 槍組のさむらい、左右二列にわかれて立ちならぶ。 はツたと睨んだ伊那丸は、にわかにりんとなって、かれの胸 とーー武田菱のを打 0 たまえの陣幕が、キリリと、上〈しをすくませた。 なんじ あまて ばりあげられた。 いかに、汝が、懸河の弁をふるうとも、なんでそんな廿手に しよう、 見れば、正面の床几に、気だかさと、美しい成容をもった伊のろうぞ。この伊那丸に恩義を売りつけ、柴田が配下に立たせ なまる やまがたったのすけさくやこ はか 岳那丸、左右には、山県蔦之助と咲耶子が、やや頭をさげてひか よ , つ計りごとか、または、・後日に、人穴城を、フばお、つとい、つ汝 かんさく じゃくねん 雨えている。 らの奸策、この伊那丸は若年でも、そのくらいなことは、あき た『これは・ らかに読めている』 お と、槍ぶすまにもひるまぬ八風斎も、うたれたように平伏し うめきだした八風斎の顔は、見るまにまッさおになって、じ 死 まな - 一 っと、伊那丸を睨みかえして、眼もあやしく血走ってくる。 かんべ かりや 】か・つ、 - い へいふく ごじゃくねん おお けんがべん

9. 吉川英治全集 別巻 第1巻 神州天馬侠

がじろう 『蛾・次郎・さんの宀豕はどこだい ? 』 くわばたけ すその おりかどむら 『おれか、おれは裾野の折角村だ、だが今あの村には桑畑の ひとなしむら 馬 かいこばばあ 天蚕婆と、おれの親方だけしか住んでいないから人無村という 州 - - は、つ、が一は′ルレ」、つ 4 / 』 神『親方っていう人は、あの村でなにをしているんだい』 『知らねえのかおめえは、おれの親方は、鼻かけト斎っていう なんばんてつ やじりかじ 有名な鏃鍛冶だよ。おれの親方の鍛った矢の根は南蛮鉄でも射 抜いてしまうってんで、ほうばうの大名から何万ていう仕事が えんさく - 一がくれ ひぞうでし 木隠童太郎のために、河原へ投げつけられた燕作は、気をう きているんだ。おれはそこの秘蔵弟子だ』 ようさん しなってたおれていたが、ふと誰かに介抱されて正気づくと、 『偉いなあーーー』竹童はわざと仰山に感心して、 たいまっ 『じゃ、蛾次郎さんとこには、松明なんか腐るはどあるだろう鳥刺し姿の男が、 『ど、つだ、」がついたカ』 あずち とそばの岩に腰かけている。見れば、つい四、五日前に安土 『あるとも、あんな物なら薪にするほどあらあ』 ふくしままさのり 城で、自分の手から密書をわたした福島正則の家来可児才蔵で 『おいらに二十本ばかりそっとくれないか』 おれ ある 『やってもしし冫 、、ナれど、そのかわり俺になにをくれる』 燕作はあっけにとられて、 と蛾次郎はずるい目を光らした。 とうわく いつのまにこんなところへ』 竹童は当惑した。お金もない。刀もない。なんにもない。 思わず目をみはった。 持っているのは相変らずの棒切れ一本だ。そこで、 わし 『お礼には、鷲に乗せて遊ばしてやら。ね、鷲にのって天を翔『しツ、大きな声をいたすな、じつは、秀吉公の密命をうけ て、武田伊那丸との戦のもようを見にまいったのだ、ところ けるんだぜ。こんな面白いことはない』 にわしようせん で、さっそく丹羽昌仙に会いたしが、そのほう、これより人穴 あんない 『ほんとうかい、おい ! 』蛾次郎は、目の玉をグルグルさせ城のなかへ案内いたせ』 『とてもむずかしゅうございます。敵は小人数ながら、小幡民 げんじゅう たいまっ 『うそなんかいうものか、松明さえ持ってきてくれれば乗せて部という軍配のきくやつがいて、蟻ものがさぬほど厳重に見張 っているところですから』 やる。そのかわり夜でなくッちゃいけよ、 かんどう 『どこの城にも、秘密の間道はかならず一カ所はあるべきは そしてお前はどこに待ってい 『おれも夜の方がつごうがいし まき る ? 』 しらはた 『白旗の宮の森で待ってら、まちがいなくくるかい』 たいまっ いくとも ! じや今夜、松明を二十本持っていったら、きっ わし と鷲に乗せてくれるだろうな、うそをいうと承知しないぜ、お おれは切れる刀を差しているんだから』 と、またあゆび巻の山刀を自慢した。 0 あり こばたみん 726

10. 吉川英治全集 別巻 第1巻 神州天馬侠

ぼっぜん わざふきばり けんそうななた これこそ、剣、槍、薙刀の武術のほかのかくし技、吹針の術と、勃然と、竹童もはんばっした。 ちくどう なりこそ小さいが、必死の力をだすと、大人もおよばぬくら ということを、竹童も、話には聞いていたが、であったのは、 い、ねじつけられている体をもがいて、男の鼻と唇へ指をつッ 今日はじめてである。 こみ、鷲のように爪を立てた 『その時に、目に気をつけろ、敵の目をとるのが吹針の極意』 と、かねて聞いていたので、竹童は ~ ッとして、とっさに顔を『あっッ』 これにはさすがの男も、ややたじたじとしたらしい。ゆだん そむけて飛びのいた。 を見すまし、竹童は腕のゆるみをふりほどくが早いか一目散 五 『おまえみたいな下っ端に、からかってなんかいられるもんか その時だった。 かいこばばあ 竹童と蚕婆の問答をよそに、土べッついの火にむかって煙 すてぜりふ おもて きやはん 草をくゆらしていた脚絆わらじの男が、ふいに戸外へ飛びだし捨科白をいって、あとをも見ずに逃げだした。 『・ハカ野郎』 てきた。 ふとうで 男は割合に落ちついて見送っている。 男は、やにわに、竹童の首ッ玉へ、うしろから太腕を引っか 『そうだそうだ。もッと十町でも二十町でも先に逃げてゆけ、 けて、かんぬきしばりに、しめあげた。 えんさく くらま はばかりながら、てめえなんかに追いつくにや、この燕作さま しところであった ! 』 『鞍馬山のト僧、、、 にはひと飛びなんだ』 のど この男こそ、早足の燕作だった。さてこそ、竹童を伊那丸の 竹童は喉をひツかけられて声がでない。顔ばかりを、まッ赤 のどくび 手先と見て、組みついたはず。 にし、喉首の手を、無茶苦茶にひツかいた にわしようせん しゅび 彼は、首尾よく、丹羽昌仙の密書をとどけて、ここまで帰っ 『ちツ、畜生。今日ばかりはのがしやしねえ』 どうもん てきたものの、人穴城の洞門はかたく閉められ、そこここには 『誰オ ぶんざい 『ざまあみやがれ。小つばけな分際をしやがって、よくも武田伊那丸の一党が見張っているので、山寨へも帰るに帰られず、 かいこばばあ かしら なまるちょうじゃ 婆伊那丸の諜者にな「て、人穴へ飛びこみ、お頭領はじめ、多く蚕婆の家に隠れていたものらしい るそんべえ へんばう 『あの竹童のやつをひっ捕らえていったら、さだめし呂宋兵衛 蚕の者をたぶらかしゃあがったな。その返報だ、こうしてやるー しゆっせ さまもお喜びになるだろうし、おれにとってもいい出世仕事 のこうしてやる』 、、づか だ。どれ、一つ追いついて、ふん捕まえてくれようか』 と、なぐりつけた。 つぶて 吹 , フかと思、つまに、も、つ燕乍は、礫のとんでいくよ、つに走っ 『くそウ ! おいらだって、こうなりや鞍馬山の竹童だ』 たば わし し 727